赤羽飛行機製作所創立披露と将来の計――川上中尉の帝国義勇飛行会と馬詰氏の中央飛行学校――中島機関大尉予備役編入と「退職の辞」――川西清兵衛氏と提携、合資会社設立――佐藤氏の高度記録――第三次練 習生に飯沼、後藤、田中三氏――沢柳主事の退職――フランス戦線で山中忠雄氏殉職――航空関係出版物の沈滞
赤羽飛行機製作所では、工場内に埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸博士自ら衣冠束帯で奉仕してした。
職員には井上武三郎中尉が操縦主任に、宗里悦太郎氏が機体工場長に、佐々木利吉氏が機械工場長に、それから原愛次郎氏は技師長に、また時事新報社員で飛行記者倶楽部の古老だった知覧健彦氏が庶務主任として新たに入って来た。
飛行機はさきに巡回飛行に飛んだ一三年型モ式と今春完成の一四年型モ式のほかに、昨秋失敗の牽引式複葉機を改造した翼幅一三㍍、翼弦一㍍五〇、全長九㍍の複座機があり、いずれも同工場製のルノー式七〇馬力が装備されていた。
岸博士は飛行場と工場施設の一段落を待って十月二十八日、ついに明治四十二年以来の刀圭界引退の披露宴を帝国ホテルに張り、内務大臣後藤新平子爵、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲少路廉、田中館、横田両博士らを初め、朝野多数の来賓を前に将来民間航空工業にたずさわる決意を披歴(ひれき)し、博士得意の剣山から産出のモリブデンで造った小刀を記念品として来賓に贈った。その小刀の鞘(さや)は全部梨地で柄には飛行機と発動機を金蒔絵(きんまきえ)し、身鞘には聴診器を描いた六寸五分のものだった。
越えて十二月一日、飛行場開場式をあげ、この日も多数参列者を擁して井上中尉はモ式一四年型で飛行場附近を縦横に飛んだあと、東京にあしをのばして赤羽飛行場開設披露のビラをまいて帰り、更に五日にも原氏同乗で東京に飛び出したが、発動機の故障で洲崎埋立地に不時着し、修理の上、翌日正午、帰還した。
完成した同飛行場のおもな施設は四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎など各一棟である。
開場式当日、岸博士は「飛行場設立の主意は兵器、武器の研究、すなわち飛行機、発動機、進んでは潜航艇の研究製作にある。そしてかかる研究事業は決して営利ということと両立しない。私の如き算盤珠(そろばんだま)に縁の遠い人間に最も適当した仕事である」とあいさつして抱負の一端を述べた。
近く少年を主にした飛行学校を開設し、飛行機操縦、自動車運転練習生五〇名くらいを収容して修業期間を一年半と予定しているが、練習費はガソリン代だけの実費にするか、それとも外国の例を参考にするか考究中である。
一方に、日本飛行学校で指導の任を頼まれていた川上親孝中尉は早くも九月末、同校を去って帝国義勇飛行会を発起し、事業として飛行学校を創立する計画で大森池上の本門寺附近に事務所をかまえて寄附金募集を開始していた。学校は自動車の運転からはじめ、飛行機は軍隊式に養成する方針を発表し、校長に吉井幸蔵伯爵をかつぐ奔走をしていたが、結局義勇飛行会も学校も実現を見るに至らずして挫折してしまった。
またフランス帰りの徳島県人馬詰駿太郎氏は代々木練兵場近くに寓居(ぐうきよ)をかまえたが、これも中央飛行学校の設立をもくろみ、数寄屋橋附近の某ビルディングにある某氏の事務所を借りて足場とし、退役海軍大尉鳥山嵯峨吉、前記の元陸軍技手河本清一、小林末吉氏らを語らつて飛行機と自動車練習所開設運動を始めて見たが資金が続かず、これまた画餅(がへい)に帰した。
前にも記したが、馬詰氏はなかなかぶ弁舌家で、時には侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を吐いて傾聴させることもあったが、フランスに従軍中の経歴も自称するほどにはつまびらかでないところから、次第に誰いうとなく「口で飛ばす飛行家」として有名になり、本人も別にそれに対して異議を申し立てず、よく向つ腹をたてる性癖でいながら.この陰口には本気で腹も立てなかつたようだが、わが軍民航空界に対する不平を絶えず口にのぼせ、感情家だけに昴(こう)じて来ると聞くにたえぬ罵詈(ばり)雑言を弄んで、ひとり快しと
している風があった。
さて待命中の中島機関大尉は十月末、願いの通り予備役に編入されたが、これより先き同氏の飛行機製作会社設立企図を聞いて、大沢の小山荘一郎氏がわが事のように駆けまわり、神戸の雑穀商石川茂兵衛、同茂という兄弟を見つけ出して、これを中島氏に結びつけ、数万円程度の出資契約が成立した。そこで大尉は郷里群馬県太田町の呑竜神社裏、東武鉄道会社所有の元博物館の建物を買収して工場兼事務所、製図室とし、同時に新田郡尾島町と埼玉県大里郡男沼村地先の利根川べり官有地河原二五万坪に目をつけて飛行場敷地の運動を開始していた。
大尉と小山氏の関係は先年、アットウオーター氏が関西で飛んだ時に見学のため出張した折、知己となり、その後、故幾原氏の飛行に際し、大尉は陸軍の故重松中尉と一しよに命令をうけて、その飛行機の整備点検を指導援助した当時、ともに肝胆相砕いた間がらで、今度の斡旋(あっせん)も民間に人のない時、この有為の技術家を守り立たせることの必要を痛感した小山氏の義侠(ぎきよう)と成功でもあった。
しかしわずか五万円そこそこの資本では立ちどころに行きずまり、石川氏兄弟の紹介で新たに川西清兵衛氏の長場となって、はじめて合資会社日本飛行機製作所の設立を見るに至り、また尾島の飛行場は飛行協会借用の名義で埼玉、群馬両県から使用許可を得る段取を作るなど、大尉は一介の武弁や技術家ではなく、なかなかの政治的手腕を蔵していた。
そして十二月二日附、先見の明と洞察を名文卓説に披歴して「退職の辞」を印刷に附し、先輩、同瞭、関係知己の間にくばった。
「宇内の大勢を察するに地上の物資は人類の生活に対し余裕少なく、各国家は互に利の打算に急にして今や、利害のためには国際間に道義なるものを存せず、紙上の盟契、条約の如き殆ど信頼の価値なき事例は欧洲大戦に於て公然と実証せられっっあって、国交は恰も豺狼(さいろう)と伍するが如し。故に国防の機関にして完全ならざらんには国家は累卵(るいらん)の危盤に坐するが如し。而して国防の要義は国家が亨有する能力の利用によって国家を保護するにありて、其の主幹は武力ならざるべからず、故に戦策なるものは其の国情に照らして劃立するを要す。強大なる資力を有し、富に於て優越点を把握せる国家又は四囲の関係より富力を基礎として国防を成立し得る国家は全富力を傾注し得る戦策、即ち富力単位の戦策を採るを最も安全有利とす。されど富力を以て対抗し得ざる貧小なる国家は之と正反対の地位に立つ。即ち富力戦策は必減の策にして危険この上なし。翻て帝国の国情や如何ん。究竟するに我が対手国は欧米の富強にして我が帝国は貧小を以て偉大なる富力に対す。故に富力を傾注し得る戦策に依りて抗せんか、勝敗の決既に瞭(あきら)かにして危険これより大なるはなし。然るに現時海国国防の主幹として各国家が負担を惜まず、其の張勢に努力しつつある大艦戦策は実に無限に富力を吸収するものにして、所詮富力単位の戦策に外ならず、是れにして永続せられんか、皇国の前途は慄然寒心に堪えざるなり。惟うに外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新武器を基礎とする戦策発見の一あるのみ。而して現代に於て、この理想に添う所のものは実に飛行機にして、これが発展によりては能く現行戦策を根底より覆(くつがえ)し、小資をもって国家を泰山の安きに置くことを得べし。夫れ、金剛級戦艦一隻の費を以てせば優に三千の飛行機を製作し得べく、一艦隊の費を以てせば能く数万台を得べし。彼に飛行機相互の間隔を最小限五百米となすも、五万台の単縦陣は一万五千哩の長きに達す。この地球の直径も尚、八千哩に過ぎざるの事実に想倒せば、人類の能力及び現代の通信機関を以てしては斯かる多数の飛行機隊を同時に指揮操作し得べしとは思われず、況んや一局地に限らるべき戦線に使用し得べき両軍の飛行機数は自然、大ならざる制限の下に立たざるべからず。
即ち飛行機に集注し得る資力には大ならざる限度あり、この点に於て国防上の強弱には貧富の差なきを得べし。而して三千の飛行機は特種兵器(魚雪)を携行することにより、その力遥かに金剛に優れり。斯くの如く飛行機発達の如何は国家の存亡を支配す。故に欧米飛行界の進況如何に拘らず、我が帝国は独特の進歩発達を企図せざるべからず。然るに事実は大に之に反し、我が飛行界の現状は其の進歩遅々として欧米の進勢に比すべくもあらず、常に数段の隔おり、随って飛行隊の如きも微々として振わず、実質に於て存在の価値だになし。是れ実に国家を挙げて最大恨事たらざるべからず。而して我が飛行界不振の原因は種々多岐に亘ると雖も、その主因は製作工業が官営たるの一事に坐す。進歩激烈にして具の製作短時日に成る工業を、初年度の計画が議会の協賛か待ち、翌年度に於て初めて実施時期に入るが如き政府事業を以てするは、既に根本に於て不適と云わざるべからず。斯かるものは其の実施に関する諸般の行使が縦横自在なる機関に委し、始めて其の目的を達し得べきなり。実に飛行機は完備せる工場に於てせば計画製造まで一ヶ月の日子を以て完成するを得、故に民営をもって行う時は一ヶ年に十二回の改革を行い得るか、官営にては正式に云えば僅かに一回のみ。故に官営の進歩は民営の十二分の一たるの理なり。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器廠にて行わず、専ら民営に委ね居るの事実は一にこの理に存す。斯く帝国の飛行機工業は今や官営をもって欧米先進の民営に対す。既に根本に於て大なる間隔あり。今にして民営を企立し、これが根因を改めずんば竟(つい)に国家の運命を如何にかせん。実に飛行機工業民営企立は国家最大最高の急務にして、国民たるもの皆、これに向って奮然、最善0努力を傾注するの義務あると共に、この高尚なる義務の遂行に一身を捧ぐるは是れ人生最高の栄誉たらざるべからず。
不肖爰に大に決するところあり、一世の誹毀を顧みず、海軍に於ける自己の既得並に将来の地位名望を捨て野に下り、飛行機工業民営起立を劃し、以てこれが進歩回忌に尽し、官民協力国防の本義を完うし、天恩に報ぜんことを期す。今や、海軍を退くにあたり、多年の厚誼を壊い、胸中感慨禁じ難きものあり。然しながら目標は1貫国防の完成にありて、野に下ると雖も官に在ると真の意義に於て何等変るところなし。吾人が国家のた め最善の努力を振い、諸兄の友情恩誼に応え得るの日は寧ろ今日以後にあり。ここに更めて徒前の如く厚き指導誘腋を賜らんことを希い、併て満腔の敬意を表す」