2月 2018 のアーカイブ

 赤羽飛行機製作所と日本飛行機製作所

2018年2月22日

赤羽飛行機製作所創立披露と将来の計――川上中尉の帝国義勇飛行会と馬詰氏の中央飛行学校――中島機関大尉予備役編入と「退職の辞」――川西清兵衛氏と提携、合資会社設立――佐藤氏の高度記録――第三次練     習生に飯沼、後藤、田中三氏――沢柳主事の退職――フランス戦線で山中忠雄氏殉職――航空関係出版物の沈滞

 

赤羽飛行機製作所では、工場内に埼玉県大宮の氷川神社から猿田彦命の御影を勧請して赤羽神社を建立し、岸博士自ら衣冠束帯で奉仕してした。

職員には井上武三郎中尉が操縦主任に、宗里悦太郎氏が機体工場長に、佐々木利吉氏が機械工場長に、それから原愛次郎氏は技師長に、また時事新報社員で飛行記者倶楽部の古老だった知覧健彦氏が庶務主任として新たに入って来た。

飛行機はさきに巡回飛行に飛んだ一三年型モ式と今春完成の一四年型モ式のほかに、昨秋失敗の牽引式複葉機を改造した翼幅一三㍍、翼弦一㍍五〇、全長九㍍の複座機があり、いずれも同工場製のルノー式七〇馬力が装備されていた。

岸博士は飛行場と工場施設の一段落を待って十月二十八日、ついに明治四十二年以来の刀圭界引退の披露宴を帝国ホテルに張り、内務大臣後藤新平子爵、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲少路廉、田中館、横田両博士らを初め、朝野多数の来賓を前に将来民間航空工業にたずさわる決意を披歴(ひれき)し、博士得意の剣山から産出のモリブデンで造った小刀を記念品として来賓に贈った。その小刀の鞘(さや)は全部梨地で柄には飛行機と発動機を金蒔絵(きんまきえ)し、身鞘には聴診器を描いた六寸五分のものだった。

越えて十二月一日、飛行場開場式をあげ、この日も多数参列者を擁して井上中尉はモ式一四年型で飛行場附近を縦横に飛んだあと、東京にあしをのばして赤羽飛行場開設披露のビラをまいて帰り、更に五日にも原氏同乗で東京に飛び出したが、発動機の故障で洲崎埋立地に不時着し、修理の上、翌日正午、帰還した。

完成した同飛行場のおもな施設は四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎など各一棟である。

開場式当日、岸博士は「飛行場設立の主意は兵器、武器の研究、すなわち飛行機、発動機、進んでは潜航艇の研究製作にある。そしてかかる研究事業は決して営利ということと両立しない。私の如き算盤珠(そろばんだま)に縁の遠い人間に最も適当した仕事である」とあいさつして抱負の一端を述べた。

近く少年を主にした飛行学校を開設し、飛行機操縦、自動車運転練習生五〇名くらいを収容して修業期間を一年半と予定しているが、練習費はガソリン代だけの実費にするか、それとも外国の例を参考にするか考究中である。

一方に、日本飛行学校で指導の任を頼まれていた川上親孝中尉は早くも九月末、同校を去って帝国義勇飛行会を発起し、事業として飛行学校を創立する計画で大森池上の本門寺附近に事務所をかまえて寄附金募集を開始していた。学校は自動車の運転からはじめ、飛行機は軍隊式に養成する方針を発表し、校長に吉井幸蔵伯爵をかつぐ奔走をしていたが、結局義勇飛行会も学校も実現を見るに至らずして挫折してしまった。

またフランス帰りの徳島県人馬詰駿太郎氏は代々木練兵場近くに寓居(ぐうきよ)をかまえたが、これも中央飛行学校の設立をもくろみ、数寄屋橋附近の某ビルディングにある某氏の事務所を借りて足場とし、退役海軍大尉鳥山嵯峨吉、前記の元陸軍技手河本清一、小林末吉氏らを語らつて飛行機と自動車練習所開設運動を始めて見たが資金が続かず、これまた画餅(がへい)に帰した。

前にも記したが、馬詰氏はなかなかぶ弁舌家で、時には侃々諤々(かんかんがくがく)の議論を吐いて傾聴させることもあったが、フランスに従軍中の経歴も自称するほどにはつまびらかでないところから、次第に誰いうとなく「口で飛ばす飛行家」として有名になり、本人も別にそれに対して異議を申し立てず、よく向つ腹をたてる性癖でいながら.この陰口には本気で腹も立てなかつたようだが、わが軍民航空界に対する不平を絶えず口にのぼせ、感情家だけに昴(こう)じて来ると聞くにたえぬ罵詈(ばり)雑言を弄んで、ひとり快しと

している風があった。

さて待命中の中島機関大尉は十月末、願いの通り予備役に編入されたが、これより先き同氏の飛行機製作会社設立企図を聞いて、大沢の小山荘一郎氏がわが事のように駆けまわり、神戸の雑穀商石川茂兵衛、同茂という兄弟を見つけ出して、これを中島氏に結びつけ、数万円程度の出資契約が成立した。そこで大尉は郷里群馬県太田町の呑竜神社裏、東武鉄道会社所有の元博物館の建物を買収して工場兼事務所、製図室とし、同時に新田郡尾島町と埼玉県大里郡男沼村地先の利根川べり官有地河原二五万坪に目をつけて飛行場敷地の運動を開始していた。

大尉と小山氏の関係は先年、アットウオーター氏が関西で飛んだ時に見学のため出張した折、知己となり、その後、故幾原氏の飛行に際し、大尉は陸軍の故重松中尉と一しよに命令をうけて、その飛行機の整備点検を指導援助した当時、ともに肝胆相砕いた間がらで、今度の斡旋(あっせん)も民間に人のない時、この有為の技術家を守り立たせることの必要を痛感した小山氏の義侠(ぎきよう)と成功でもあった。

しかしわずか五万円そこそこの資本では立ちどころに行きずまり、石川氏兄弟の紹介で新たに川西清兵衛氏の長場となって、はじめて合資会社日本飛行機製作所の設立を見るに至り、また尾島の飛行場は飛行協会借用の名義で埼玉、群馬両県から使用許可を得る段取を作るなど、大尉は一介の武弁や技術家ではなく、なかなかの政治的手腕を蔵していた。

そして十二月二日附、先見の明と洞察を名文卓説に披歴して「退職の辞」を印刷に附し、先輩、同瞭、関係知己の間にくばった。

「宇内の大勢を察するに地上の物資は人類の生活に対し余裕少なく、各国家は互に利の打算に急にして今や、利害のためには国際間に道義なるものを存せず、紙上の盟契、条約の如き殆ど信頼の価値なき事例は欧洲大戦に於て公然と実証せられっっあって、国交は恰も豺狼(さいろう)と伍するが如し。故に国防の機関にして完全ならざらんには国家は累卵(るいらん)の危盤に坐するが如し。而して国防の要義は国家が亨有する能力の利用によって国家を保護するにありて、其の主幹は武力ならざるべからず、故に戦策なるものは其の国情に照らして劃立するを要す。強大なる資力を有し、富に於て優越点を把握せる国家又は四囲の関係より富力を基礎として国防を成立し得る国家は全富力を傾注し得る戦策、即ち富力単位の戦策を採るを最も安全有利とす。されど富力を以て対抗し得ざる貧小なる国家は之と正反対の地位に立つ。即ち富力戦策は必減の策にして危険この上なし。翻て帝国の国情や如何ん。究竟するに我が対手国は欧米の富強にして我が帝国は貧小を以て偉大なる富力に対す。故に富力を傾注し得る戦策に依りて抗せんか、勝敗の決既に瞭(あきら)かにして危険これより大なるはなし。然るに現時海国国防の主幹として各国家が負担を惜まず、其の張勢に努力しつつある大艦戦策は実に無限に富力を吸収するものにして、所詮富力単位の戦策に外ならず、是れにして永続せられんか、皇国の前途は慄然寒心に堪えざるなり。惟うに外敵に対し、皇国安定の途は富力を傾注し得ざる新武器を基礎とする戦策発見の一あるのみ。而して現代に於て、この理想に添う所のものは実に飛行機にして、これが発展によりては能く現行戦策を根底より覆(くつがえ)し、小資をもって国家を泰山の安きに置くことを得べし。夫れ、金剛級戦艦一隻の費を以てせば優に三千の飛行機を製作し得べく、一艦隊の費を以てせば能く数万台を得べし。彼に飛行機相互の間隔を最小限五百米となすも、五万台の単縦陣は一万五千哩の長きに達す。この地球の直径も尚、八千哩に過ぎざるの事実に想倒せば、人類の能力及び現代の通信機関を以てしては斯かる多数の飛行機隊を同時に指揮操作し得べしとは思われず、況んや一局地に限らるべき戦線に使用し得べき両軍の飛行機数は自然、大ならざる制限の下に立たざるべからず。

即ち飛行機に集注し得る資力には大ならざる限度あり、この点に於て国防上の強弱には貧富の差なきを得べし。而して三千の飛行機は特種兵器(魚雪)を携行することにより、その力遥かに金剛に優れり。斯くの如く飛行機発達の如何は国家の存亡を支配す。故に欧米飛行界の進況如何に拘らず、我が帝国は独特の進歩発達を企図せざるべからず。然るに事実は大に之に反し、我が飛行界の現状は其の進歩遅々として欧米の進勢に比すべくもあらず、常に数段の隔おり、随って飛行隊の如きも微々として振わず、実質に於て存在の価値だになし。是れ実に国家を挙げて最大恨事たらざるべからず。而して我が飛行界不振の原因は種々多岐に亘ると雖も、その主因は製作工業が官営たるの一事に坐す。進歩激烈にして具の製作短時日に成る工業を、初年度の計画が議会の協賛か待ち、翌年度に於て初めて実施時期に入るが如き政府事業を以てするは、既に根本に於て不適と云わざるべからず。斯かるものは其の実施に関する諸般の行使が縦横自在なる機関に委し、始めて其の目的を達し得べきなり。実に飛行機は完備せる工場に於てせば計画製造まで一ヶ月の日子を以て完成するを得、故に民営をもって行う時は一ヶ年に十二回の改革を行い得るか、官営にては正式に云えば僅かに一回のみ。故に官営の進歩は民営の十二分の一たるの理なり。欧米の先進諸国が飛行機製作を官営兵器廠にて行わず、専ら民営に委ね居るの事実は一にこの理に存す。斯く帝国の飛行機工業は今や官営をもって欧米先進の民営に対す。既に根本に於て大なる間隔あり。今にして民営を企立し、これが根因を改めずんば竟(つい)に国家の運命を如何にかせん。実に飛行機工業民営企立は国家最大最高の急務にして、国民たるもの皆、これに向って奮然、最善0努力を傾注するの義務あると共に、この高尚なる義務の遂行に一身を捧ぐるは是れ人生最高の栄誉たらざるべからず。

不肖爰に大に決するところあり、一世の誹毀を顧みず、海軍に於ける自己の既得並に将来の地位名望を捨て野に下り、飛行機工業民営起立を劃し、以てこれが進歩回忌に尽し、官民協力国防の本義を完うし、天恩に報ぜんことを期す。今や、海軍を退くにあたり、多年の厚誼を壊い、胸中感慨禁じ難きものあり。然しながら目標は1貫国防の完成にありて、野に下ると雖も官に在ると真の意義に於て何等変るところなし。吾人が国家のた  め最善の努力を振い、諸兄の友情恩誼に応え得るの日は寧ろ今日以後にあり。ここに更めて徒前の如く厚き指導誘腋を賜らんことを希い、併て満腔の敬意を表す」

 

剣号と国民飛行会提携の巡回飛行

2018年2月14日

岸博士の剣号完成と発動機製作経過談――国民飛行会と提携――山陰、四国、九州各地飛行――町田鉄之助氏のヤマト・メタル――牽引式複葉の剣号新造――磯部氏と滋野男爵の音信――在米飛行家の動静――大植松太郎氏の殉難

 丹精こめた自作発動機が小畑氏の機体に装備されて、ものの役に立ったことは岸博士に大きな感激と勇気を与え、築地明石町の病院構内に新たに工場を建てて機体の製作にも着手したのが今年二月ごろだった。
 機体は旧型のモーリス・ファルマン式で、国産材料を集めて宗里悦太郎氏が主任で工作にあたり、発動機も落選の懸賞発動機を分解取捨し、既成の部分品を装着してわずか一ヵ月で同型の二号発動機を完備して新機体に取り附け、「剣(つるぎ)号」と命名して試験飛行のため東京洲崎埋立地に運び出した。
 剣号の名は博士をして、ここに躍進せしめたモリブデンの発祥地剣ケ嶽に由来したもので機体、発動機ともに国産品をもって全く一人の手に成ったわが民間最初の飛行機である。
 七月一日、井上武三郎中尉が前後二回の飛行に成功したので、翌二日は飛行記者倶楽部員その他を招待して披露飛行し、正味一時間一二分を見事にやってのけて国産機に輝かしい記録を樹立した。
 その席で、博士はここに至るまでの経過を語った。
   「幸か不幸か、私には一つの癖がある。他が為し得ない至難のものがあれば進んでやって見たくなり、それを完成しないうちは如何なる犠牲を払っても中止することが出来ない。物によっては馬鹿を見ることもあり、よくない癖だとも思っている。発動機に手を出したのも全くこの癖からで、ちようど欧洲大戦の始まった頃だった。機体は日本でも造り得るが発動機はまだ完全に造られるようにはなっておらぬ。もちろん、技術が幼稚だからである。技術の幼稚なのは早晩進歩するが製作材料の総てを日本で求められないのでは困る。こんなことでは戦争その他のことで発動機輸入の道が途絶えたり、輸入が出来てもその数が需要に充たなかったりしたら戦時武器として欠くべからざる要具の不足を告げ、作戦上に重要な欠陥を来すことは必然の成行きである。わが国の今の状態が改まらなければ、きっと左  様なことが実現するに違いない。この憂いなからしむるには大急ぎで欠陥を充たさねばならない。そこで私は例の癖が出て、よし、それなら自分が完全な発動機を造って見せようと思し立ったのである。それには国内で産出する物ばかりで出来るようにしなければならぬ。これを試みるには根本的に発明、すなわち創造するには及ばない。まず日本に産する材料をもって既に実用に供せられている外国製発動機の形式をもって、同じような力と生命のあるものを造って見るのが肝要で、これに成功したなら次いで自分のものを創造して本来のものよりも優秀なものに努力するのが順序であると考へたから、とりあえず陸軍省の井上工兵課長に頼んでルノー式の廃品を所沢から貸してもらって早速製図にとりかかった訳である。飛行機体を作った理由は、飛行協会の検定試験くらいでは実際の力をためすには不
  適当であるから、自分の試作した発動機の実力を実験するためにやったことである。ところが発動機も飛行機体も完全であることが確認されたから、これからはいわゆる自己の創意によるものを製作し、機体も改良するつもりで着々準備を進めている」
 そしてモリブデンと鋼鉄を合金して造ったものを、かつて自動車用発動機の要部に応用して効果をあげた例があるので、今度の第二号発動機のシリンダーを初めピストン、クランクシャフト、ペダル、ギアなどにも使った。ただしクラックケースと冷却装置にはアルミニウムを用い、マグネトはボッシュ、ボールベアリングも外国の既成品を使ったと説明した。
 それからアルミニウムは九州の某山で産出することを発見、マグネトはモリブデンをもってモリブデン・マグネト・スチールを製作して、これを自動車の発動機にとりつうけて好結果を得ている。ボールベアリングにも成案があるから結局、外国の力をかりなくても国内でりっぱに製作出来る訳であると結んだ。
 そこで博士は飛行機剣号を無為(むい)に遊ばしておくのも知恵のない話だと無償提供を条件に国民飛行会と握手し、国民飛行会でも渡りに舟と新たに実物講演部を設けて巡回飛行を実施することになったのである。
 ちようど飛行協会でも同じ型式の飛行機で各地を飛行中だったので。ここに期せずしておのずから競走の形となり、画期性のある実践運動となって従来の興行飛行をはるかに超越した純正な普及法であった。しかし国民飛行会側は途中から主催者を求め、会費と称して入場料を徴集するようになったのは民間飛行会と同類視される危険があった。
 すなわち同会では山陰方面から順次九州、四国を巡回すべく理事久能司(後に帝国飛行協会総務理事)中将総指揮のもとに八月十六日、ます松江市外古志原練兵場で最初の出発にっいたが滑走中、草叢にっまずいて小破し、二十二日あらためて第一日を開き、午前二回、午後一回にわたり、七分間乃至二六分間の飛行で、最後には松江市を訪問した。
 ここでは松江飛行後援会が結成され、松陽新報社は号外を発行して二十二日の再飛行を周知せしめる程の協力ぶりだったが、はじめて飛行機を見る地方民の純朴さはここにも表われて、関係者を感激させる奇篤な志しを発見した。それは飛行終了後、久能中将と井上中尉が同市山代神社に参詣の際である。ふと腰のまがった一老婆が社前に願がけの一心不乱なおまいりをしているのを見かけた。
 初めのうちはさして気にもとめなかったが、聞けばこの老婆は近在の農家佐野福太郎氏のお母さんで七六歳の老体だが、きのう井上中尉の飛行をきいて、その無事成就を山代神社に祈念し、半日かかって千度まいりをしたから、今日はその願解きのお礼に千度を踏んでいるのだと分って、久能、井上両氏はしばし言葉もなく、お婆さんの顔を見っめたまま感無量のものがあったという。
 松江をあとにして鳥取県に戻り、米子の皆生灘海浜で二十七日午前、午後の二回、一一分間ないし二六分間を飛び、美保湾の碧海に機影をうつしてはじめての飛行に土地の人気たかぶり、陸と海との観栄二万余を数え、村民有志が数尾の鯉(こい)を大たらいに入れて井上中尉に贈って来だ。今だったら帰りがけに積んで来てしまうところだが、その時は何ともしようがなく宿屋の庭の池に放してやった。
 九月五日、歩兵第二一連隊衛戌地の島根県浜田町練兵場で飛び、午前、午後の二回、浜甲甲学校と劇場で久能中将、井上中尉の講演を行い、翌六日も高等女学校で熟弁をふるって山陰道のプログムを終り、山口県下に入った。
 同県は長岡中将の出身地とて中ッッ上将も一行に加わって山口町の国学院中学、高等女学校、高等商業学校、劇場山口座、小郡町の小学校、防府町の中学校などで得意の講演会を開き、飛行は一七日、桜昌練兵場で十時半から開始、旧藩主毛利家に対する表敬飛行として亀山公園を訪問し、当主の毛利元道公爵も防府町から来場して記念の銀盃二個を寄贈した。
 次いで二十三日は秋町の予定だつだが連日の雨で二十五日に延び、菊力浜海岸で十一時四十分から飛び出し、去来する残雲を縫って遠く越カ浜方面まで二二分間を飛び、午後も二時五十分から第二回の飛行を行って閉会したが、長岡久能両中将及び井上中尉は小、中学校その他で講演会を開き、老体両中将はっいにのどをつぶしてしまうという奮闘ぶりだった。
 萩町から柳井町にうつり、十月一日午前十一時四十七分、宮本浜で飛行したが今度の巡回飛行中、一番の人出といわれる三万余の観衆がつめがけた。
 午後も三時四十分から飛び、はじめて見る飛行機の姿に観衆はただけげんの目をみはるのみだった。
 ここでも学校や劇場を借りて講演会を開き、一ヵ月余の長旅にさすが疲れた久能中将は一行に別れてひとり先に帰京し、長岡中将と岸博士の東京自動車製作所技師の久間九郎氏が臨時に国民飛行会実物講演部主事に嘱託されて後陣を担任することになり、一行は九州に入った。
 そこではまず大分県の宇佐八幡宮司宮成男爵の後援で宇佐参官鉄道会社と在郷軍人分会の共同主催で高田町海岸で十日午前、午後二回飛行し、午後には長州町を訪問して高厦一、〇〇〇㍍、二三分間を飛んで約束をはたしたが閉会後、主催者間にごたごたが起って結局、後援名目の宮成男爵が一、○OO余円の自腹をきったという紛擾があった。
 次ぎは小倉のはずだったが、同地は悪疫が蔓延(まんえん)しているので後日にまわして四国に渡り、松山市に入った。
 二十二日午前、午後二回、同市練兵場で飛び、その前後に長岡中将の講演があり、再び九州に戻って戸畑町に行ったが会場にあてられた競馬場が狭く、幅一三間の滑走路を忍んで離着陸し、要塞地帯のゆえをもって高度二〇〇㍍に制限されて、降りみ降らずみの陰欝な中を飛んだ。
 ここでは下関、関門両新聞社及び報知新聞社支局主催で二日間だったが、二日目の十一月一日も午前、午後にわたって観衆少なく、入場料をとって入れていた主催者側は一、〇〇〇余円の損害だったという。
 それもあしたは佐賀、福岡両県下にまたがって展開される陸軍特別大演習に参加の四機が所沢から豊橋、姫路、広島を経由してはるばる関門海峡を越え、このあたり上空を久留米へ行くという際だったから、一つには天気のせいもあったが土地柄に似ず、観衆の集りが悪かっだのは無理もないことだった。
 一行は早々に引上げて再び四国に立ち寄り、愛媛県今治町で十一月七日、さきの松山市と同じ主催者井上虎之助氏が土地の和田繁一氏と協力して内海新聞社の後援で開催し、午前十時半から二〇分間を飛び、午後は二時半から二三分間を飛行して、次第に円熟した井上中尉の操縦ぶりもあざやかに観衆を満足せしめた。

 次いで同じ井上氏主催、徳島日日新聞社後援で十九日、徳島市の番だったところ、飛行機を今治から船で送ったため風浪に遅れて二十三日に延期された。
 モ式は無蓋貨車でもトンネルを通過する線では積み切れぬ場合かあり、賃金も高いので場所によっては船の方が便利で費用も比較的かからぬところから、今度の巡回中も米子から浜田町へは海路運搬し、ことに各地の飛行はほとんど一日だけたので飛行機の解体組立、運搬には最も苦心し、また労力を費し、時間的にもむだな日数を要し、せめて近距離だけでも空中輸送の必要を痛感したのである。
 さて徳島市では午前十一時、第一回の飛行を行い、午後は三時から小松島を訪問して故幾原氏を弔い、前後一時間に近い飛行に二万余の観衆は熱狂してよろこび、入場料を払ったうえに国民飛行会の会員申込みも少くなかった。
 引続き高知、高松両市とも予約していたが既に機体にも損傷が出て来て大修繕を要する時期に迫っていだので、いったん東京へ引き上げることになり、徳島市を最後に一行は大成功裡にひとまず帰京した。
 この間、岸博士も行をともにしたが、剣号の成績にいよいよ確信を得て将来の方針をかため、二号機の製作に志したのは既に、この夏であった。しかし宗里、久間氏らは旧式の一三年型モ式にあきたらず、牽引式複葉機の設計製作をはじめ、発動機も結局ルノー型七〇馬力だったが長沼豊丸工学士専任で新造されつつあった。
 この岸博士の発動機には第一号機の造り始めから、背後にはやはり元医師の減摩令金研究家町田鉄之助氏がいて、同氏は月島に工場をもち、京橋区三十間堀にヤマト商会を経営していたが、その製造にかかるヤマト・メタルという軸承合金が億万な性能を発揮して岸式発動機に寄与したことは隠れたる功績であった。町田氏は明治二十九年以来、この合金研究に没頭して来たという篤志家である。
 そこで巡回先きから帰京した井上中尉は、ちようど出来あがった新造機を稲毛海岸に運ばせて十二月十二日、岸博士も立ち会って試験飛行に着手した。
 同機は全幅一二㍍五〇で鋭い後退角をもち、全長八㍍五五、V字型脚と前方に予備車輪がもって国産機としては新鋭の感があり、性能は一〇五㌔の速力と一三時間の航続力で宙返りも可能とされ、一見きわめて堅牢であった。
 井上中尉は牽引力を調べたうえ、地上滑走試験を開始したが、著しく左に傾く癖があり、タイヤを破損したので交換して再び滑走を始め、午後一時、慎重に離陸して二〇㍍も行ったところまた左に傾き、極力舵をひねったが回復せざるのみか、よけいに傾斜角度がついてついに左翼を接地し、次いで機尾が落ちて左下翼と尾部支柱を大破、新造機の期待は一瞬にして葬り去られたのである宗里氏はじめ立ち会いの関係者は首をひねりひねり解体して、工場に持ち帰り、同型二号機の設計し直しにとりかかった。

懸賞発動機の製作応募申込

2018年2月11日

飛行協会が発表した製作奨励の飛行機用発動機の応募申込は予想以上に好成績で、わずか五ヶ月足らずの期間たったが、旧暦末日の締切までに一八件二二種の多数に達し、時期尚早論を破って協会当局者をほくそ笑ましたのだった。
 実物の言否はとにかくとして、この時代にこれだけのまじめな応募者があったことに、大いいに意を強くするところであり、次表最上欄の番号は申込書類の到着順である。
 こらで見ると大阪の島津楢蔵氏が既製のルノー式改造型と、ル・ローン式を計画し、東京の岸医学博士も既に試作済みのルノー式をもって成功を期している。
 (備考)(一)直径及び行程欄中、*印はミリメートルか示す。(二)第七号発動機は回動式にして、火薬若しくはガソリソを用う。笛に相当するもの一個にして特殊の構造のものなり。
 その他、都築鉄三郎氏が某工業家と提携して進出し、浦賀船渠株式会社の町川豊千代氏、大沢の発動機製作所などの人物があり、また東京麻部布に小さな鉄工所を経営する新進の友野直二氏(後に東京都会議員)も、この時から航空界に注目される人となった。
 飛行協会ではかねて栖原工学士に委嘱して、この申込書類の整理を煩わしていたが、いよいよ近く検定委員を編成して本格的の検定準備を闘始することになり、まず新春一月二十五日、交詢社に技術委員会を開いて製作規定細則について協議を進めた。
 一方、所沢では尾崎、扇野両練習生のために体を設計し、前述の園田武彦氏からグリーン式六〇馬力の譲渡を図ったが、まとまらなかったのと、ルムプラー式の応召で急に模様替えとなり、あらためて理事会や技術委員会を経てイギリスのオホストロー・ダイムラー水冷式九〇馬力一基を買うことになって、三井物産会社の手で注文した。そして磯部技師は設計し直しの機体を製作しながら発動機の到着を待っていたが旧臘十一日、積み出され、一月末もしくは二月上句、横浜着の予報か入った。
 それと同時に初歩練習用として一三年型モーリスーフアルマン式も二台分の機休製作を進め、発動機に研究会の斡旋で東京砲兵工廠製のルノー式七○馬力を譲ってもらうことに決定していた。砲兵工廠では既に同式発動機の製作に一応は成功し、検討改善を加えつつ徐々に生産が行われいたのである。
 それについて協会には木工の熟連者を、気球研究会からまわしてもらっていたが、発励機の技術者がいないので、かねて海軍当局にその幹旋を頼んでおいたところ、ちようど追浜を満期除隊の機関兵曹鳥海正次郎氏が山内四郎大佐から紹介されて来て、技手の石で所沢飛行場に勤務することになった。
 同氏は千葉県君津郡出身の寡黙諜厳、温厚篤実な人格者で、追浜の航空術研究委員の下で発動機整備を専門に勤め、短期間だったが第二次出動部隊に選ばれて青島にも出征し、信頼性の厚い優秀な技術者だった。
 さて飛行協会では出征両航空部隊の光栄ある帰還も終了したので、一夕の歓迎察を催す手はずだったが、両部隊の郡合が照らし合わされたので二月七日夕、帝国ホテルを会場にして歓迎晩餐会を催し、その労苦と戦功をねぎらつた。
 所沢側からは隊長有川鷹一中佐、中柴末純、弘中暁両少佐、石本祥吉、益田済、伊藤赳、福井重記各大尉、佐波求己、沢田秀、中田武実、阪元守吉、真壁祐松、深山成人、武田次郎各中尉の一四氏、追浜側からは隊長山内四郎大佐、河野三古少佐、井上二三雄、大崎教信両大尉、武部鷹雄、難波即岨、馬越喜七各中尉及び和宮丸艦長猪山綱太郎大佐の八氏で、陸軍から徳川、長沢、海軍から・令子、山田、和田、飯介ら、武勲赫々の士公寂務の都合で見えなかったのに残念であった。
 協会からは阪谷副会長、日疋、倉知両常務理事、井上大佐、小川、須旧、末延、田中館、横田両博士、また会員のおもな人は警視総監伊沢多喜男、広沢金次郎伯爵、岸一太博士及び都下新聞記者団ら七一名の盛会だった。
 大広間で一竜斎貞山の講談「赤垣源蔵」の一席を聞いてから立堂を闘き、陸海軍両将校入りまじって居ならび、デザートーコースに入ると阪谷副会長が立って祝辞を述べた。
  (前略)「今回の戦略におきまして、両航空隊が奮戦努力ぜられ、少しの損害もなく最後まで任務を完全に遂行せられたことは実に特筆すべき勲功であって慶賀に堪えない次第であります。これひつよう航空隊の技術の優秀と、その勇武とを遺憾なく証明せられたものであると信じます。ことに私どもの最も欣喜おく能わざるゆえんのものは、日本陸軍海軍あって以来初めての航空戦において、かようなりっばな成積をあげられたことでありまして、これは実に帝国あらん限り、陸海車に対する偉勲であると信じております。
   すべて物には、その出発当初において少しでも磋趺するか、もしくは過失がある場合、それは実に末代までも瑕瑠(かきん)として残るのみならず、その瑕瑾はますます大となるのであります。しかもわが航空戦の第一頁を飾るべき青島戦において、最も満足なる教訓を与えられましたのはひとり現在においてのみならず、将来に向って大いに感謝すべき次第であると申さねばたりません」「下略」
 これに対して。山内大佐が両航空隊を代表して答礼の挨拶を述べ、終って有川中佐の発声で飛行協会の万歳が三唱された。

岸一太の関西での報道

2018年2月3日

 大正期に岸一太はつるぎ号で東京より大阪に四時間で飛んだことが東京で報道されている。
これについて、関西での報道がどのようであったか大阪府立図書館に調査をお願いした。
・『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)p 231 に、「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・フアルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して、試運転を行った」旨の記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年10月19日朝刊5頁6段の「弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験」の記事中に「目下『つるぎ号』を携へて関西各地に巡回飛行会を開催中なる・‥」との記載があります。
・『朝日新聞』(東京版)1916年12月29日朝刊6頁2段の「本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事」にて、「岸博士の其の製造業に罹るルノー型七十馬力発動機を装置した剣号が前飛行将校井上中尉の操縦に依り処女飛行に成功し、長岡中将の設立した国民飛行会と提携して関西各地に実物巡回公演を開催し、…」との記載があります。
・『日本航空史 明治・大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)のp 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」に記された、詳細な巡回の場所や日付を確認しますと、剣号の巡回地は、山陰、四国、九州の各地となっており、大阪の記述は見当たりません。

剣号の処女飛行成功 今朝も七時から
・1916年7月3日東京/朝刊5頁2段
剣号再飛行 一時間の航空 又もや好成績/民間飛行界の誇り 成功した発動機
・1916年9月14日東京/朝刊5頁1段
島津氏二万円を貰ふ 飛行協会懸賞一等発動機 昨日賞金授与式を行ふ/一万円を貰ひ損った友野氏 次に気の毒な岸博士
・1916年10月19日東京/朝刊5頁6段
弓より思付きし飛行機用材 岸博士新型飛行機を製作し 来月早々洲崎埋立地にて試験丿916年11月26日東京/朝刊5頁5段
岸博士の新飛行機<写>
・1916年12月13日東京/朝刊5頁3段
新剣号の破壊 搭乗者の負傷
・1916年12月29日東京/朝刊6頁2段
本年の航空界(下) 所謂試験時代 悲しき出来事
・1917年10月29日東京/朝刊5頁8段記事
岸博士の引退 昨日披露会
・1917年12月2日東京/朝刊5頁6段
岸博士経営の飛行場 昨日赤羽に 盛な開場式
・1919年3月15日東京/朝刊5頁3段
赤羽飛行場に出来る 飛行幼年学校 少年飛行家を養成して 卒業後は軍隊に入営 世界最初の試み
り919年10月14日東京/朝刊5頁2段
民間飛行界覚醒の為め 大々的改造運動 磯部沢柳両少佐等が主となり同志を糾合して会合 飛行協会に対し非難のあるも無理はない と井上中将は語る
・1920年9月16日東京/朝刊5頁9段
職工給不払から赤羽飛行場の動揺 岸場長出張中に勃興 閉鎖説等流布さるるも 事務所主任は断然否認
・1915.01.10飛行発動機披露 岸博士の発明製作 朝刊技術7面
・1915.01.13岸博士の発動機 総て内地産の材料で大成功▽披露会を催▽威力を発揮 ほか朝刊技術7面
・1916.07.02つるぎ号飛ぶ 民間飛行の新威力 岸博士和製新発動機の成功 朝刊サービス
5面
・1916.07.03剣号飛翔一時間 大煙突を掠めて前日同様好成績 朝刊サービス5面
・1916.12.12剣号飛ばん 朝刊サービス5面
・1916.12.13新つるぎ号の墜落 機体多くは破壊 搭乗中尉は無事 朝刊軍事5面
・1917.02.11剣号の飛行 朝刊サービス5面
 (1-3)毎日新聞のデータベース「毎索」では、大正期の新聞についても収録されていますが、キーワード検索対象は昭和62(1987)年1月以降の記事本文のみとなっているため、今回のご質問では使用しませんでした。
(1-4)神戸大学附属図書館新聞記事文庫(神戸大学)
大正期の記事が部分的ではありますが収録されているため検索しましたが、「岸一太」や「赤羽飛行」でヒットはありましたが、岸一太の飛行機関連事業についての記事の収録は見当たりませんでした。
※日付指定のない新聞本紙の調査依頼には、合理的な方法がないため、対応しておりません。
ご来館いただき、閲覧・調査いただくことが可能です。
大正期の『朝日新聞(大阪版)』は大阪府立中央図書館・中之島図書館で、大正7年までの『大阪時事新報』と大正期の『毎日新聞(大阪版)』は中之島図書館で、マイクロ資料として所蔵しています
 (2)図書資料
下記の資料に岸一太の飛行機関係の事業について記載があります。
(2-1)『歴史のなかの中島飛行機』(桂木洋二/著、グランプリ出版、2002.4)
・p70-79の「岸の赤羽飛行機製作所と初期の国産エンジン開発」
2-2)『日本航空史 明治一大正編』(日本航空協会/編集 日本航空協会 1956)
・p 184-187 「懸賞発動機の応募二二種」「陸海軍帰還将校の歓迎と講演」
・p 231 「京都伏見の小畑常次郎氏のモーリス・ファルマン式に、岸博士製作の発動機を整備して.試運転を行った」旨の記述
・p 274-279 「剣号と国民飛行会提携の巡回飛行」
・p334-335「赤羽飛行機製作所創設披露と将来の計」

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 道路(03-072)
国民新聞 1922.12.20 (大正11)

路面改良の変更に市正会は根本的変更意見
東京市会の市正会は十八日夜尾張町松本楼に曇に鮮満地方視察を遂げたる三木武吉、木下常松両氏の歓迎やら忘年会を兼ねて総会を開いた出席は十数名で来る二十二日の市会議案は当日午後に市会議事堂内で総会を開いて改めて協議することにし目下問題となって居る路面改良事業が国庫補助金の予定した二分ノーが十二分ノ五となり又だ大正十七年迄に交付を受くるのが二十七年度迄に内定したり府税の交付金が十二年度に受けることが出来な<又事業繰延が約五万円近くあるを大正十三年から十五年度迄の竣工期迄に割当る等の関係から公債計画を立て工事費三千九百五十万円口外に利子等に於て約三千万円の増額を余儀なくされたに付いて医学博士岸一太氏及米国の道路を視察して先頃帰った永江技師の出席を求めて道路政策に関する説明を聴取した上で協議したが大体に於て原案の路面改良事業の変更は従来の舗装計画に立脚して予算の変更を求めたのであるけれど該計画たる部分的には完全なる基礎工事を施すが為め下水管を初め水道瓦斯電線等の地下埋設物に対しては掘馨を繰返さねばならぬ関係上下水其の他の埋設物整理せざる限り完全なる舗装は困難なれば成るべくコンクリート杯の廉価なもので広<舗装するが焦眉の急であるし埋設物の整理が十分出来て居らぬ現在の実況から見ても穏当である
故十九日に開く道路評議会では自派選出の小森七兵衛、森脇源三郎両氏が舗装の根本計画から変更した提案を要望する趣旨の下に原案の否決を提唱することにして九時過散会した

データ作成:2002.3神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫蚕糸業(05-009)
時事新報1914.4.5(大正3)
岸式人造絹糸
桑口の繊維素より紡出
権利仏人に帰せんとす
人造絹糸は織物界多年の問題にして其成否は帝国産業上に影響する所少からざるが医学博士岸三太氏は苦心研究の結果其一製法を完成し仏国工業株式会社理事バーレー氏は仏国ダブルレーダーシンジケートを代表し去年中旬同博士より二十万円にて権利引受けの約を結び売買委任状を携えて帰国したる由今同博士より其発明の経路を聞くに 発明の動機は一昨年夏同博士が東洋パナマの研究をなしたる節各種樹木チエルローゼ(繊維素)よりそれぞれ異種のセルロイドを生ずるを発見し桑食せる蚕より繭の生ずるは桑のチェルローゼの特異性に起因せずやと思考せしに始まれり爾来博士は多大の経費と苦心とを以て研究に従事し桑等の繊維素を漂白して之を硝化しエーテル、アルコール等に溶解したる後一定量の蜻油を加えて紡出し終に完全なる人造絹糸を製出するに至り昨月六月特許を出願し両三日中に認可状下附せらるる筈なりと
 岸式人造絹の特異点は強度著しく三デニール以上随意に紡出し得る上光沢良く従来の人造絹糸の大欠点たる湿潤煮沸洗篠に耐え感触亦絹糸と異ならざるにあり同博士は信州より織布職工を雇入れ自宅研究室にて織布に従事せしめつつあるが之亦真正絹布と相違なきに近し唯真正絹の異る点は蚕繭固有の窒素を含有せざる点なりしも是亦昨今研究の結果進捗して自然絹と類似するに至れりと而して其製産費は一千キロの装置費に約一千五百円を要するのみにしてーキロに付総製産費三円見当なれば在来の絹糸の市価に比較すれば五分の一の廉価に当る若し製造者に於てエーテルの醸造をも兼ぬる時は生産費は更に減少すべく其経済的価値は著しきものあるべしと云う
 内地事業家の交渉此の如く岸式人造絹糸は在来多種の製品と異なり其実用上の経済的価値少からざるもの存するが如くにして果して然らんには正に帝国織物界に大革命を来すべきものなれば富士紡の和田豊治氏鈴木商店の金子直吉氏等は此発明の権利のむざむざ外人の手に帰するを遺憾とし目下岸博士と交渉中の由にて同博士に於ても若し真実吾国の事業家にして引受るの誠意だにあらば仏国シンジケートに対する契約は如何にしても之を破談すべく金銭上の犠牲の如きは敢て解する所に非ずと明言せり

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(05-083)
大阪朝日新聞1920.10.15(大正9)
製鉄自給と砂鉄
団鉱の製法完成
陸軍省にては軍事上製鉄原料自給策に就き焦慮しつつありし際医学博士岸一太氏より曇に帝国内に豊富なる砂鉄を圧搾熔結して団鉱を造り普通鉄鉱に代用するを鉄原料自給の良策とすとの提言あり従来の調査に依れば砂鉄の存在区域は広汎にして就中北海道噴火湾沿岸、青森県下北郡、岩手県九戸郡には多大の砂鉄を見鉱量

のらしい、社長の性格は何時もそんな時には誰にも語らずに独り考えて好いとなると突然のように実行する人であるから此計画も早晩実現されることだろうが、兎も角事柄が大きいし、日本としては初めての試みだけに経費の点や使用する飛行機の構造、又愈々実現さすにしても何ういう方法でやるかなどに就ても充分研究を要することは無論で、目下飛行機に関して造詣の深い吉島法学士が社長の顧問のようになって専心其方面の研究中である、それに飛行協会の阪谷男なども社長に対して色々意見を述べて居られるようである、又飛行協会も一日も早く其実現を期待して居るとの話であるから或は飛行協会に該事業を一任するか、社長が単独でやるか将だ又他の実業家の協力を得てやるかは問題であろう」と語って居た単独経営は先ず困難政府の補助が必要と戸田氏は語る
次で飛行協会を訪うと戸田理事は「協会としてはまだ何等の交渉を受けて居ぬが吉島氏が研究資料蒐集の為め度々協会の技術者徳永大佐に会って相談をして居ることは聞いて居る、協会としては勿論之が実現を歓迎して居る訳であるが協会自身が此計画やら経営を引受けることは性質上出来ぬことと思う、浅野さんにしても之れを独りで始めようとすると却々困難な事業であることは既に航空輸送を実現して居る欧洲諸国の実例が明白に示しで居る、之にはどうしても政府の援助を仰がねばなるまい、其は恰度日本の海運事業が政府の補助によって始めて今日の隆盛を来らしたようなものである、日本の飛行機でも最早充分空中輸送の確信は出来て居る、唯だ金が無いのである、愈々実現されるとなれば現在の飛行機でも優に五十里の道を僅々二十分の時間で荷物を輸送することになって日本運輸界に一大革新を与えることとなろう」と語った

データ作成:2002.7神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫繊維工業(06-183)
中外商業新報1936.10.30(昭和11)
ウルトラヤーンからステープルファイバー
製造に成功

浜松一木下技師の苦心
浜松電話=浜松市砂山町日本飛行機塗料会社技師長工学士木下善寿氏は今回ウルトラヤーン(紫外光線糸)及びトーク(飛行機翼布塗料)からステープル・ファイバー糸の製造に成功した、同氏の発明になるウルトラヤーンは白ボロを晒して液体としたものを○・○一ニミリの孔から噴出したものを伸長防糸してつくるもので耐震動、耐油、耐水性等が充分であるのみならず難燃性、弾力性に富み、光沢も頗るよく目方も人絹糸の比重一・五であるのに対し生糸同様一一三である、更にこれを有機酸で処理すればステーブルーファイバーの代用品となりそれによって出来たものは弾力性もあり強度の点て生糸にやや劣っているが、その他の点では生糸より卓越して居り極めて理想的の繊維である、これによって織布されたものは紫外光線を完全に透明することが出来るので着用すれば直接日光光線に当っているのと同様の効果があり、製造原価は人絹よりやや高くなるが、紫外線の透明を利用し得ること、原糸から織布まで一貫作業をなし得るようになついる、右につき木下氏は語るかつて岸―太博士が硝化綿を溶かして人絹糸の製造を始めたが、これは可燃性のものであるため学界から黙殺されそのまま宿題となっているが、今度のものは飛行機の塗料からつくる難燃性のものであって岸博士のやったものよりはその点だけでも勝っていると思う

データ作成:2000.5神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫製鉄業(06-094)
大阪朝日新聞1922.1.2(大正11)

春風は何処に吹く
此処に吹くは冷たい風
寂れ行く鉄鉱業
寒流砕け散る津軽の海にそそり立ち其の腹には二億噸からの鉱量を呑むと伝えらるる青森県下北半島の岸壁に化学的の方法で砂鉄の採掘を試みて居た岸゜太博士や藤田組の企てはその後どうなっているであろう?
さなきだに戦後の暴落に起つべがらざる打撃を受けた日本鉄鉱業は更に軍縮問題の将来から暗潅たる呪咀を投げられた、戦時三四百円台にも上った銑鉄が六十円内外にまで下落したばかりか生産費が当時の二三倍に騰っている昨今では鉄鉱山の寂れ方は想像の外である日本最大の鉄山と云われる宮城県釜石が九年度六万噸内外、好況時代の半位で十年末には更に減った、年額五千噸の仙人鉄山(巌手県)四百噸の九里木鉄山(巌手県)などは問題外である、関西では昨年の春頃奈良県大峰山麓の大峰鉄山が休山を宣して職工全部を解雇した、戦時中鳥取、島根、岡山の諸地方で次から次と採掘を願い出た砂鉄採取場は最近に至ってばたばたと休山の貼紙を出し現在事業を継続しているものは当時の幾割にも当らない試みに大阪鉱務署管内二府十六県の砂鉱採取の出願件数を此の数年来の統計に見れば
大正十年二二八件
同七年五三三件
同八年七六件
同九年三三件
で大正十年に入ってば二十件になるやならずである、大正七年には五万人からいた男女鉄山就業員が九年後には二万人内外となり十年末にはそれ以下に減少した右に就て同署柏木鉱政課長を訪えば浮かぬ面持で語る『今のところ日本の鉱業界は殆ど行き詰まりの形で殊に鉄の場合は甚しい、生産費は高く鉄価は廉く日に日に寂びて行く鉄山の前途は涙なしでは見られない、唯僅に不幸中の幸は当署管内の就業坑夫は半農的な人が多いので失業問題で騒ぐことなどは斟いのですがそれにしても軍縮の結果が新しい工業の勃興となって表れるのは何時のことでしょう』

データ作成:200口神戸大学附属図書館
神戸大学経済経営研究所新聞記事文庫政治(30-111)
大阪毎日新聞1923.831(大正12)
人選中の山本伯犬養毅氏等と会見して内
閣組織の諒解を求む
新内閣組織の第一歩として政界各方面の諒解を求める山本伯の会見は三十日も前日に引続き水交社で行われた、伯は午前八時四十五分早くも自邸を出でて同九時五分水交社に入りそれより先き同社に詰め掛けていた山之内、樺山、浅井諸氏等と協議に耽った、同十時五十五分研究会の青木、黒田両子の来訪あり会談約二時間に亘り両子は辞去したがその間俵孫一氏、高山公通中将等の往来あり午前十時問題の人犬養毅氏が玄関先に其の精悍無比の顔を現し次で十一時半有力な新閣組織の幕僚安楽兼道氏も来り犬養氏は青木、黒田両子が山本伯と会談する間次の間で樺山資英氏と会見新内閣組織の計画を仔細に聴取する所あり研究会の両子爵が辞去した後山本伯と午餐を共にして懇談した(東京電話)
研究会幹部暗に入閣拒絶再度の会見に於いて研究会の青木信光、黒田清輝両子は三十日午前十時山本伯を築地水交社に訪問し前日山本伯から後継内閣組織について諒解を求められたるに対して一応の挨拶をなすべく青木、黒田両子から
青木、黒田両子昨日の閣下の御意見は早速同僚にも伝えておいた、しかし研究会は如何なる内閣に対しても是を是とし非を非として居るので閣下の内閣に対してもこの驀絆を脱することは出来ないと思う、この点は同僚間に意見の一致したところである
とて暗に会内から入閣することの不可能なるをほのめかしたので山本伯は山本伯世間では山本が圧制的の政治をやるだろうと云うて居るそうだが自分は決して左様な意志はない、昨日も申述べた通り現下の内治外交を一瞥するに幾多の重要案件が殺到して居る状態であるが此等は内閣の成立以後慎重審議を遂げ決定するつもりである
と政策問題については其片鱗をも洩らす所な<又研究会側において主張するが如き挙国一致内閣なるものが結局両院の多数勢力を無視したものであって決して政治を円満に運行するの途でないという事については更に弁駁もせず考慮の余地も示さなかったそうである、故に折角再度の会見が行われたにも拘らず研究会が積極的援助を与え延いては会内よりの入閣を実現すると云う段取に至らずして両子は午後零時十五分辞去した(東京電話)
幸三派は傍観各派総会の意見一致
貴族院の公正、茶話、同成三派は何れも三十日午前十時幸倶楽部に臨時総会を開き公正会では宇佐川一正男、茶話会では大島健一氏、同成会では伊沢多喜男、谷森真男両氏から夫れ夫れと後継内閣組織に関する山本伯の意見を紹介しこれが対策について協議したが各派とも山本伯の内閣組織に関する誠意は認めるが果して如何なる政策を以って局面を展開せんとするか暫くこれが推移を傍観し其の政策の決定を待って態度を決すべきものであると云う意見に一致し何れも正午散会した田中大将山本伯の招電で急濾上京
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝山本伯からの招電に接し急濾午前九時三十一分東海道線三島駅発列車で東上した、同駅から同乗した記者に対し田中男は語る
 後継の山本内閣問題については何等語る事はない、政界の事は更に知らぬが今朝山本伯から至急逢いたいと云う知らせがあったから帰るのだ、伯と会って見ないうちはどんな用事か、それも知れぬ、僕が陸軍大臣に推薦されて居ると云うのも新聞で見た位の事である、今回の政変については東京日日新聞は最も詳しくよく書いてあると語り同紙二面欄にある薩派奏効の記事を読みつづけて笑いを洩していた(御殿場来電)
後藤子邸訪客
伊豆修善寺温泉菊屋旅館に潜在中の田中義一大将は三十日朝本伯からの招電三十日後藤子邸の訪問者は左の通りである
 松木幹一郎氏、望月小太郎氏、永田秀次郎氏、長尾半平氏、安場末禧男、中村是公氏、岸一太氏
山本内閣に対しては友好関係絶無高橋総裁の態度は大出来危機に際会した政友会
政友会の山本内閣に対する態度については二十九日の幹部顧問連合会では内閣の実質も未だ不明であり政策も不明である今日急いで決定すべさ問題ではないというに一致したが高橋総裁に対する山本伯の交渉が既報の通りの如きものであった為め高橋総裁が即座に交渉を拒絶したことを以て総裁近来の上出来となし山本内閣に対して一戦の覚悟をきめたものも少くないようである、即ち往年寺内内閣に対して好意的中立の態度をとった際には両者の間に相当了解があったに反し今回の山本内閣とは未だ何等了解がないばかりか或は可なり手強い政敵として迎えねばならぬようになるかも知れぬ情勢となったので党員中には一種の緊張を示し久しく順境に馴れた
政友会にとって頗る重大な局面に際会したものと見ている、加うるに党内には幹部がこの時局に際して我党内閣一本槍の旗を樹てて最後まで楽観を続けたことに対し幹部の不明を責める声もあり横田総務が延長内閣計画に与ったとの世評に関して同総務の態度に多少批難すべき点ありとなすものもあり政友会としては頗る警戒を要する時期と見られて居る、併し一方には党内における責任問題の有無如何に拘らず外に対しては益々結束を固うし一致協力して敵に当らねばならぬとなす説も有力である、
此論者は所謂政友会の伝統的愛党心に信頼して必ずしも党の将来を悲観しては居ないようである。斯<て山本内閣に対する党内の輿論も目下の所少くとも友好関係の絶無を示しているが幹部は何れ山本内閣の実質その政策及びこれに対する党内の輿論の熟するのを見た上で党の態度を決定する筈であると(東京電話)