2月 2015 のアーカイブ

北長瀬駅新ステージ

2015年2月25日

北長瀬駅より新市民病院に通じる橋上橋(我々の提案の1ツ)の準備が進んでいる。そのため駐輪場がすでにオ-プンが連絡通路のためエベーターが南に移設となったともに眺望のよい3階程度のステージが登場した。
市民病院前の岡山操車場跡の碑には「日本国内の貨物輸送は、今日のように道路や自動車が発達する以前は、鉄道の貨物列車 に依存していた。当地は、大正10年貨物輸送を行うため、貨物列車の編成や貨物の入換を行う貨物操車場が設置された。
日あたり貨物取扱数量5,000両・従業員数490名の全国屈指の操車場として、太平洋戦争の軍需貨物の輸送、貨物の入換作業は非常に危険で、開業以来入換作業中に多数の職員が殉職した。
昭和62年国鉄が民営化され、鉄道の貨物輸送は近代的なコンテナ輸送方式に転換され、その業務は日本貨物輸送株式会社「西岡山駅」に引き継がれることとなり、岡山操車場は廃止されるに至った。
廃止に伴い、当地が日本の貨物輸送の拠点操車場であったことを後世に伝えるため、此処に記念碑を建立する。」
と書いてあった。
この操車場跡地は公園用地となっているが未だに計画案段階だ。
ロスアンゼルスのセルトス市の総合公園は軍施設の跡地利用として広大な芝生公園と運動公園となっている。砂漠の都市公園とはいえ公園都市を宣言することはある。
操車場跡地は規模からいってもとても比較にならないが日本特有の箱庭公園の誕生が待たれるところだ。
所で北長瀬駅北口方面は如何になるのであろうか。
歴史遺産として保存されるであろうか。

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伊賀の鉄砲隊

2015年2月16日

伊賀氏の力の源は鉄砲隊であった。
そのもとになる経済力は、地下資源にあったようだ・宇甘、上加茂に鉄が生産され、虎倉城には三納谷の銀の生産が書かれ、三代実録では笹目の銅山について書かれている。その地方には採掘しだ坑道が今も随所に見られる・硝石などもひそかに得られたのではないかと思われる。
(備前虎倉城 円成 伊賀八朗著)
天文12年8月25日 (旧暦)(1543年9月23日種子島島主である種子島恵時・時尭親子がそのうち2挺を購入して研究を重ね、刀鍛冶の八板金兵衛に命じて複製を研究させる。形状についてはうまく複製できたものの、発射の衝撃に耐えるには強度が足りず、「八板家系図」によると、異人の一人に娘若狭を嫁がせることで、「銃床をネジでふさぐ」という方法を教えてもらうことができた。
日本を含めて東洋では、ねじ構造自体を独自に発見・発明することができなかった。村松貞次郎は『無ねじ文化史』で江戸の工業製品にはねじの使用例はなく、徳川幕府の江戸時代とは「ねじの無い文化」の時代であるとした。結局ねじ製作のための、優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作るという事が「大変困難な仕事である」ということがその理由である。和時計も特殊なねじがわずかにあるだけで、ほとんどがくさびで作られている。ねじがほとんど無いため、日本ではドアが発達しなかった。火縄銃にはねじが必須であったが、江戸時代では火縄銃のほとんどは新たに作るのではなく、以前の火縄銃の銃口を広げたりして作り替えていたという。
日本では、1857年にモーズレー由来でウィットウォースが改良したねじ切り用旋盤が輸入された。P1040587-2

富山城主詮家は伊賀忍者?

2015年2月11日

P1040525 P1040527 P1040534 P1040535 P1040536昨年大河ドラマ「軍師管兵衛」の放映に伴って備前軍記を追っかけると高松城水攻め前浮田左京亮詮家(坂崎出羽守)がクローズアップされてきた。
そして、その母が虎倉城主伊賀久隆の妹であることがわかり「浮田詮家誕生秘話」としてまとめた。
ところが、その生涯が謎だらけでシックリしないのが残っていた。所が16歳まで伊賀忍者として育てられたとすると光明が見えてきた。
そもそも詮家誕生の時代は、戦国時代の永禄6年(1563年)、 宣教師ルイス・フロイスが来日・伊勢神宮外宮の遷宮(せんぐう)挙行 。
10月3日 織田信長が京の御所で相撲を開催・毛利元就が朝廷と幕府に石見銀山(いわみぎんざん)の所有権を献上。
叔父直家は永禄12年(1569年)、織田信長や西播磨の赤松政秀と結び主君・浦上宗景を倒すべく反旗を翻す。しかしながら赤松政秀が青山・土器山の戦いで黒田職隆・孝高親子に敗北し、信長から派遣された池田勝正・別所安治なども織田軍の越前侵攻の為に戻されると逆に宗景は弱った赤松政秀の龍野城を攻め降伏させてしまう。これによって一切の味方が居なくなった直家は完全に孤立した為に独力での抗戦は不可能と判断し宗景への降伏を余儀なくされた。この時は特別に助命され帰参を許されている。
宇喜多詮家(初名)→坂崎直盛 のみならず、別名として知家、直行、重長、信顕、 正親、正勝、貞盛、成正、成政などの名が記録されている。その業上は不明である。さらに、キリスト教信者としてパウロとして海外に紹介されている。
この名前の多さは進出記没の正に忍者として活動した証ではなかろうか。
また、備前軍記で直家の命により三星城合戦の大将として行ったとされているが総大将は父の浮田忠家であり浮田政家とされている。元服して参戦し攻略に当たったとすると説明がつく。その後の辛川合戦、八浜合戦、冠山城合戦、高松城水攻め、関ケ原合戦、大坂城冬夏の陣に浮田忠家、戸川親子の陰で活躍した詮家がいなければ説明がつかない事件が多い。
吉備高原は蒜山高原より高く岡山で最高峰の山岳地帯である。伊賀久隆の虎倉城より吉備高原・賀陽・北房一帯は伊賀一族の征服地帯であった。その証拠は、各地の山城の城主の名前に刻まれている。さらに天台宗円城・清水寺の再建、吉川八幡宮の振興と記録が残る。
しかも宇喜多直家の妻お福が勝山城主三浦貞勝の妻でのちに円融院と称する女性は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。円融院は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。直家がお福と会ったとされる土井家の屋敷跡は、伊賀一族各家系譜に登場する。
田土 神原家 阿曾 仁熊家 野原 伊賀家 西大寺 掛野家
高倉 新山家 円城 伊賀家 野原分家 伊賀家 備前市 小橋家
井原 土井家 弓削 河原家  一色 伊賀家 建部 松崎家
下土井 福島家 湯山 神原家 畑ヶ鳴 伊賀家 笠岡  伊賀家
竹荘 仁熊家 古来路 神原家 吉川 伊賀家
平山 仁熊家 仁熊  神原家 小森 近藤家
詮家の母が伊賀久隆の妹と云うのもただならぬ縁に思われて来る。

妹尾フナ飯

2015年2月5日

今年も250食限定のフナ飯にありつけました。
前売り券200食は早々に無くなり、50食の当日券に並びました。妹尾の各種団体が総出で大なべで炊き上げ公民館の2階に運び上げご飯に搔け、お盆で配るのは学生でしょうか。女性グループのフナ飯の歌のコーラスがありました。野殿のフナ飯の歌もあるそうです。
「妹尾・箕島を語る会」によると妹尾は吉備の玄関で日本の始まりと言っても過言ではない吉備平野の中心地。吉備。 その吉備の勢力が瀬戸内海に出るための玄関それが「妹尾」である。そのような江戸時代まであったでしょう。
同前峰雄著 風土記 児島湾「鮒めしはいかが」によると、寒い冬の夕まぐれ、木枯らしが音高く吹き渡る。貧乏漁師が肩を寄せ合う町・妹尾の圧しひしゃげた家並みの遠ち近ちから、まな板を軽やかに叩く音が、たそがれどきを速めるようにコンコン・トントンと調子よく響いてきます。もしも乾いた西空に上弦の月が凍てついていようものなら、裏長屋の退職先生がアゴヒゲを撫でながらのたまうことでしょう。
「まさに、長安一片の月、万戸、衣ヲ打ツノ声、じゃ。」と。
家々の夕餉に冷えた五体を暖める寒中の精力料理「ふなめし」の用意をする風景なのです。‥‥・何十年も昔の妹尾、なつかしい思い出の風物詩でもありましたに 由来、児島湾北岸の備南穀物地帯は地味豊饒、従って、田野を縦横に走る潅漑溝は、いや、自然流路でなくて人為のクリークなのですが、これが全国有数の淡水。魚生息圏であり、特に「ふな」の大量生産を謳われ、まして妹尾に集荷する寒中の「寒鮒」に至っては、直ちに遠くの金沢・浜松・名古屋・岐阜、大津方面へ輸送され、知る人ぞ知る、高い市場評価を保ち続けているのです。
やはり「鮒飯」は男の料理・・・・・
例えば、漁休みの若衆が数人、火鉢を囲んでの娘詮議にも飽いて、いっちょ鮒飯でも、と誰かが発議するや、たちどころに衆議が一決、 「おい、漁上手なオマエとオマエは、長屋の網と追い棒を持ち出せ。この家のオマエさんは飯炊きの用意。ワシは裏から牛蒡と人参を抜いてくる。残るオマエは、里芋と葱と油揚げ、具の調達じゃ。さツかかれツ」
と、すぐさま実力行使となります。
・  ・・・・米一升、磨いで釜へ移すのももどかしく、水加減を計ってカマドにかけ、煙に咽びながら槙雑棒を投げ込む。
‥・・調進方も忙しい。牛蒡は素早くササ掻きにしてアク抜き。小芋は輪切り、人参と油揚げは短冊に、葱も適宜な長さ。もうひとつ、醤油と香辛の薬味があれば、充分。
・ ・・・・そのうち、遊び漁師が戻ってきて、いよいよ正念場です。魚籠の底から脂の乗った荒鮒を五、六枚。鱗を削り、腹を割いて臓腑を捨て、鰭をはね、頭鰓を落とし、綺麗に洗って俎に乗せる。出刃包丁の刃で、胴体の端から骨ぐるみに縦横無尽、トントコと弾みをつけて、繰り返し叩きなぐる。骨が舌に感じぬ程度になるまで、微塵に砕き、砕いては刻む。いわゆるトントコ料理。
・ ・・・・ころはよし! 焼けた鉄鍋に油を敷き、ジュジュッと音が散る中ヘピンク色  の魚肉ミンチを転がし、灰白く変色するまでカラ炊きする。魚臭を抜くのです。そこ・へ適量の湯を注ぎ、やがて煮えたぎる汁の中へ用意の具種を投げ入れ、醤油で味付けすれば、さあこれで、いっちょう出来上がり!
飯は釜から椀へ行儀悪く直取りです。お櫃へ移せば、それだけ冷めるのが惜しい。また、そんな上品な行儀作法は不必要。底冷えの寒中、ただ熱いのが御馳走。湯気が立ち上る盛り飯へ、煮えたぎる汁を、飯粒が隠れてしまうほど大量にぶっかけ、息を吹き吹き喰いつけば、熱い汗が額に淮み、滴となり、鼻柱から滴り落ちる。お替り自在、満腹、哄笑
「土用の小魚、根がつく」また「川魚は五体に精をつける」
ともいわれます。鰻、鰌、鯰の類を思い合わせれば、あるいは、そうかもしれません。
瀬戸内海の沿岸では、ゲタをミンチにかけ、砕いて汁かけにする「トントコ飯」の食習俗が古くからあります。妹尾地方の「ふなめし」については、発祥の年代、由緒など、誰も知ろうとせず、別に勿体ぶった風俗史のあろうはずもなく、詮索するだけ野暮です。零細な川魚漁労者が耐乏生活の智慧を絞った挙げ句、平素は見向きもされない低級雑魚の鮒に着目し、単純素朴に創意工夫した果ての「土俗味の溢れる季節料理」なのでしょうか。
現在では、寒鮒のしゅんに入ると、チョッパーにかけてけずったミンチ「鮒飯の素」を売る川魚店もあります。が、やはり、冬の寒い夕暮れにトントコ、トントン、包丁の刃音を響かせて調理してこそ、郷土食の風味や風土食の色彩があろうというもの。
「左様、でエいち、俎の味がしみこんどらにや、本当の鮒飯じゃねえ。」とその道のツウは、ほざくのです。

(1部略)

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アズキナシの実

2015年2月4日

今年は雨の多い年で気が滅入る。
先だって地球温暖化のセミナーがあり出席した。
急速に温暖が進み、著しい気候変動が予測されている。平均気温は約1.14℃で上昇して行く。猛暑日と豪雨日数が増ええてきている。特に西日本で、その傾向は著しい。2.5~3.0℃上昇。冬~春は降水量が増加。
温暖化の影響のようだ。
矢坂山に久氏ぶりに登った。下草を刈って綺麗にしたあるので安心した。
一番奥の北の丸が見えるところまで行くとアズキナシが落葉して、その上に赤い実が落ちているのに気が付き拾って帰った。
バラ科アズキナシ属の落葉高木でナナカマド属に分類されることもある。5月頃の白い花は見たことがあったが、実が付いているのは未だ見てない。
街路樹にもなる木のため種を撒き増やしてみる。

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