町内会旅行で姫路城に行った。
皆、天守閣に登ったが、西の丸の千姫の化粧櫓を訪ねた。
千姫(せんひめ)は、慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
元和2年(1616年)、本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎出羽守が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった。
千姫が21歳の時に本多忠刻20歳と結婚した。秀頼との政略結婚でなく一目ぼれによる恋と言われる。 坂崎出羽守は53歳のおじさん。千姫を江戸に送る際、桑名の渡しなどでの作り話は多い。
姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。忠刻には千姫の化粧料(嫁入りの持参金)として10万石が与えられ、その化粧料で姫路城に化粧櫓や御殿を建てたとされます。義父の本多忠政が5万石を加増されて15万石になり姫路城城主になったことを考えれば、10万石は破格だった。
(1石はおよそ1両と同じくらいだといわれ、この時代の1両は現在の貨幣価値でおよそ10万円くらいだ。つまり10万石とはおよそ100億円!?)。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)。
勝姫は、寛永9年8月18日(1632年10月1日)、光政と共に備前国に入国した。また水害などで財政的に危機に見舞われ、母・天樹院(千姫)に頼み、黄金5万枚、銀2万枚を光政に寄付した。その金で、百間川など治水対策に当たり光政の善政が語り継がれている。と下電のバスガイドは話した。
百間廊下の長い廊下を通り、途中の階段は滑って上がり難かったが化粧櫓にたどり着いた。楽しみにしていた千姫のカルタ人形は無かった。
この日岡山では、RSK歴史トーク「戦乱に運命を駆けた城主たち」の講演会があり磯田道史氏のトークもあった。
写真 姫路城西の丸より
千姫
化粧櫓内の千姫人形