5月 2017 のアーカイブ

姫路城 西の丸 化粧櫓

2017年5月31日

町内会旅行で姫路城に行った。
皆、天守閣に登ったが、西の丸の千姫の化粧櫓を訪ねた。
千姫(せんひめ)は、慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
元和2年(1616年)、本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎出羽守が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった。
千姫が21歳の時に本多忠刻20歳と結婚した。秀頼との政略結婚でなく一目ぼれによる恋と言われる。 坂崎出羽守は53歳のおじさん。千姫を江戸に送る際、桑名の渡しなどでの作り話は多い。
姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。忠刻には千姫の化粧料(嫁入りの持参金)として10万石が与えられ、その化粧料で姫路城に化粧櫓や御殿を建てたとされます。義父の本多忠政が5万石を加増されて15万石になり姫路城城主になったことを考えれば、10万石は破格だった。
(1石はおよそ1両と同じくらいだといわれ、この時代の1両は現在の貨幣価値でおよそ10万円くらいだ。つまり10万石とはおよそ100億円!?)。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)。
勝姫は、寛永9年8月18日(1632年10月1日)、光政と共に備前国に入国した。また水害などで財政的に危機に見舞われ、母・天樹院(千姫)に頼み、黄金5万枚、銀2万枚を光政に寄付した。その金で、百間川など治水対策に当たり光政の善政が語り継がれている。と下電のバスガイドは話した。
百間廊下の長い廊下を通り、途中の階段は滑って上がり難かったが化粧櫓にたどり着いた。楽しみにしていた千姫のカルタ人形は無かった。
この日岡山では、RSK歴史トーク「戦乱に運命を駆けた城主たち」の講演会があり磯田道史氏のトークもあった。
写真 姫路城西の丸より


千姫
化粧櫓内の千姫人形

富山城跡考

2017年5月17日

富山城跡の史跡指定の必要性について考える。
日本で初めて発掘調査がされた城跡として日本城郭史に記録されている。岡山市はその点でも高く評価されている。
所が、岡山の産業と云えば藺草の生産と万成石の生産しかなかった実情がある。
ウィキペディアによると万成石(まんなりいし)とは、岡山県岡山市北区の万成または矢坂地域]から産出される角閃石黒雲母花崗岩である。日本の銘石のひとつとして東日本の本小松石、西日本の庵治石と共にブランド化された万成石は、桜色の美しさから、昔も今も多くの人々に愛され、近年も需要は非常に高い国産の石材である。
万成石は万成地区が掘り尽くされ富山城跡の1/3が採掘され始めたため調査が始まったのが実情のようだ。所が産業・生活のため史跡指定を阻み、城跡の危機にある。無くても良いとの意見すらある。
すでに、風化が進み城跡が崩れた部分がある。今では土石流による危険地帯となっている。
岡山市は採石業者の保護のため、この危険地帯を災害危険地帯の指定すらされておらず地元住民は危険にさらされている。
ここでもう一度富山城跡の史跡指定の重要性について考えてみよう。
その歴史については既に多く語られている。
豊臣秀吉の高松城水攻めにより毛利と和睦が成立した。その前線の城が富山城であり宇喜多秀家のいとこの浮田詮家、後の坂崎出羽守が20年間城主を務めた城と云える。
この坂崎の名前は徳川家康により浮田の名前より変えるよう言われたとなっているが、坂崎なる名前の由来が今一つ不明だ。
家康の孫の千姫を大阪城夏の陣の天守閣が燃え落ちる中を救出したのが坂崎出羽守との説があるが定かでない。
本多忠政との婚姻を良しとせず屋敷に立てこもったことが誤解となり津和野藩が断絶となった。所が熊本藩に坂崎家が家老職として抱えられていて柳生家家臣が調査した記録が残っている。
津和野町に坂崎家が幕末まで熊本藩で続き、東京におられるとの情報がある。
岡山より津和野に行った家臣団の外に坂崎を名乗る家臣が坂崎勘兵衛、坂崎内匠、五郎左衛門、大学、七郎左衛門がいた。
浮田詮家と異母兄弟の弟がいて、その母が坂崎家よりの方で名乗る切っ掛けとなった可能性が高い。その当たりを示す公文書は全くない。
「柳生新陰流」記録
宝暦八戌寅年、臣(信之)細川家ノ士鳥糧市兵衛ニ合シ、坂崎氏ノ話ニヲヨフ。今同家中肥後国熊本ニ士大将坂崎兵庫某、禄三千石、是則羽州成政ノ弟ノ家ニシテ、元和ノ初年、仕干ニ国主云云。臣按、成政自記ニ載ル同苗坂崎内匠・同織部・同五郎左衛門・同大学・同七郎左衛門是也。右肥後ニ在処此曹ノ中カ、将平四郎ノ事力、可ニ追号。右自記ノ中家老ハ衣笠若狭守。吉見備前守也。何茂子孫興廃ヲ不詳。坂崎氏ノ家紋ハ二階笠四目結也。
松田是尋記日、享保年中、浅草海禅寺ニ到リ、成政ノ墳墓ヲ捜尋ス。文字不分明ニ云。臣(信之)宝暦元辛末十月、再依ニ君命到ニ彼寺尋求ス。其墳不審故過去帳ヲ求テ閲ス。法号年月顕然トアリ。
下ニ酒井出羽守殿・坂崎出羽守殿也卜記アリ。数回及問其審寺僧云、此寺元神田ニアリ、寛永年中此地ニ遷、其後無ニ施主墳墓頗退転紅スト云。故金二百匹ヲ呈シ茶湯ス。今茲宝暦七丁丑十一月武州品川東海寺中妙解院ハ、法徳寺開山伯叔ノ派系ヲ以、累代懇篤、故二其事ヲ談シ別院少林ニ成政ノ神主ヲ納玉フ。同十二月二三日、為ニ正使臣(信之)副使留守居鈴木三太夫誉就、香火記幵文ヲ寄付シ玉ヒ、法会執行アリ。当住ハ大川和尚也。記文左ニ写。
最後に、矢坂山は古代は吉備の中海の岩井島として万葉集に松も歌われ、桃太郎伝説の地でもあり、江戸時代には備前軍記を書いた土居常平と著名人が多く出た。山桜は勿論コバノヤマツツジを忘れてはならない。
さらに、大野村誌に書かれている岸一太は医師としてばかりでなく、大正時代に登頂可能となった黒部の剣岳でモリブデン鉱山を見つけ日本初の飛行機製造や、赤羽飛行場をつくった。
今NHKの歴史研究家として活躍している磯田道史氏も大安寺高校の出身で校歌にも矢坂山が歌われている。
今後も史跡を大切に保存せねばなるまい。

山田方谷の人間像

2017年5月10日

平成29年度岡山歴史研究会は新大田弘之会長体制スタートした。高梁出身だ。講演は方谷直系5代目の山田敦氏が行われた。2016年5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせ、教育相会合が倉敷市で開催。
発端は、6月7日(日)「岡山方谷まつり2015特別フォーラム」のシンポジュウムの中で、下村博文文部科学大臣から伊原木隆太岡山県知事に提案があった。
7月3日、山田方谷が縁で、倉敷市で開催決定。(16年5月14、15日)
2017年1月、山田方谷像がJR備中高梁駅前ロータリーに完成。
誕生 JR伯備線方谷駅。
文化2年(1805)備中松山藩一現在の高梁市中井町西方に生まれた。
父五郎吉重美。母梶。
幼少期 4歳で母から字を習う。
作州木野山神社(落合)に額字を奉納。
5歳で新見藩儒丸川松陰の塾に入る。
丸川塾で神童と称される。
父母の死 14歳の時、母が40歳で亡くなる。直後「述懐」の詩を作る。
次の年15歳の時に父親が亡くなる。
家業の農業と製油業を継がざるを得なくなった。
19歳、すこぶる家業にくわしく、毎日マスを手にして農民や商人とまじわる。
藩士登用遊学時代 21歳の時、2人扶持を支給される。
23歳から29歳の間に、3回京都に遊学した。
25歳で藩主より苗字帯刀を許され、8人扶持、藩校有終館会頭を命ぜられる。
30歳から32歳まで江戸に遊学し、佐藤一斎の塾で2年9ヶ月学んだ。
佐藤一斎は後に昌平學儒官(総長)博学で陽明学にも明るい。
佐藤-斎の塾で塾長を務めた。
佐久間像山(洋学)と夜な夜な論争をした。
江戸遊学から帰った年、32歳で有終館学頭(校長)になる。
勝静に講義藩主板倉勝職(かつつね)に跡継ぎがなく、
桑名藩主松平定永の第8子、勝静(かつきよ)を養子にした。
勝静(かつきよ)は寛政の改革をなした松平定信の孫に当たる。
勝静に講義をしたことが、方谷が藩政改革を任されるきっかけとなった。
この時、方谷40歳、勝静22歳。
砲術研究43歳の時、津山藩に行き、津山藩士天野直人に洋式の大砲及び銃陣
について学ぶ。1か月余りに及ぶ。
藩政改革 方谷45歳の時、勝静か藩主となり、方谷を元締役・吟味役に抜擢する。
45歳~53歳の間、7年半で改革を成し遂げる。
57歳~63歳の間、江戸や京阪の地で、勝静を補佐する。
方谷は多策家で、―つのことについて必ず、上策・中策・下策を示した。
大政奉還の原稿を書いたとされる。
無血開城 備中松山城を征討軍に開城する。
教育活動 維新後は長瀬塾で教育に専念。
66歳、小阪部(おさかべ)に塾を移した。
69歳、閑谷(しずたに)学校が再興されるに当たり、招かれて講義をする。
72歳、7月最後の閑谷での講義をした。
終焉 73歳、明治10年6月26日没、家人に命じて枕元に、
勝静から賜った短刀と小銃と王陽明全集を置かせた。

と方谷の一生の話があった。
さらに、別所龍芳氏の「対人問備中」の朗々たる詩吟が演じられた。
写真 別所龍芳氏 山田敦氏  大田弘之会長

ヒヨッコ

2017年5月9日

NHK朝ドラ「ヒヨッコ」を毎朝見ている。
彼女は、茨木より集団就職で上京する。
当時、仲間も岡山より京浜コンビナートの大手石油会社に就職し寮住まいしていた。
正にオリンピックの前の年であった。何故かと云うと、横浜スタジアムに寮の仲間と女子バレーボ-ルのチケットを取るため数日前より徹夜で並んだ思い出がある。結局、何人か前で売り切れとなった。
幸運にも?現役で入学した。先日50年ぶりに東京都足立区の先輩にメールした。
「さて、この度、岸一太の伝記を書いていまして、K先輩の事務所が赤羽飛行場の直ぐ北にあることに気付きました。北区は東京都の一番北と思う田舎者です。
北区飛鳥山博物館で資料を頂いています。
大正時代の岸氏が撮影した映像フィルムが川口NHKアーカイブスに問い合わしたところ2分映像を20~30万円よこせいと云われ困っています。
最近、新橋の日本航空協会にその件で問い合わせたところ、ビデオがあり見せられるよう準備して頂いています。」
回答は「お元気で、「岸一太」の伝記をまとめていること、お慶び申し上げなす。小生「岸一太」のことは全く知りませんでした。100ページに亘る貴論文を後で読ませていただきます。
「赤羽飛行場は、聞いたことがありません。拙宅は、隣の区ですが、交通の便が悪く、赤羽に行くには、山手線まで行かなければならないくらいです。東京の交通網は山手線から放射状に出ていて、横の連絡が非常に悪い都市です。
もしかしたら、隅田川と荒川放水路(現荒川)に挟まれた所かも。荒川は、大正初期?に隅田川の氾濫防止に掘削されました。」
先輩は、物理化学研究部の部長をされていて東京都化学科連合会(通称都化連)の楽しい会に入らせてもらった。
「岸一太物語200頁A4冊子の追加資料分を申し訳ありませんでした。
講演用PDFでも容量がオーバーします。
東京都の交通網の違いと赤羽飛行場が意外と知られていないのですね。岡山では国宝の備前刀が多く米軍により没収された場所として新聞で話題となります。」
未だに交流のある同級生は先日岡山に来てくれた時、山形より東芝に就職し、再度入学し、卒業後就職し、また、東京電機大学の修士、博士を取り、神奈川県工業技術センター長を務めたことを知りました。彼は航空業界では全日空会長の大橋氏が日刊工業新聞に「私の履歴書」の4月に連載しているとの情報を頂いた。大橋会長は山田方谷の署名運動の東京代表だ。岡崎嘉平太も全日空の会長で田中角栄の中国交流立役者だ。岡山には表具師浮田幸吉の世界で初めて飛ぼうとした鳥人の理想が流れているのかもしれない。
岸一太は明治35年に台湾の総督府医院医長及び医学校教授、更に明治40年に関東軍督府技師兼満鉄大連病院長を務めロシア勲章をもらっている。
そして、大正2年に東京都築地明石町の聖路加病院付近に耳鼻咽喉科を開業する。大正4年には黒部剣岳のモリブデン鉱山を発見し、病院の裏で300回も航空機用発動機のシリンダーの試作を繰り返し成功した。数十分だっだたのを4時間の航続できるつるぎ号2号機まで東大工学部技師4年とともに、そこで作った。
大正6年には赤羽に飛行機製作所及び飛行場と一貫工場を作った。このため医師として蓄えた支那骨董品など蓄財を全て売った。
地図 この辺りは、トトねいちゃんで日本製袋工場があった。
赤羽飛行場 面積165,000㎡ 直線距離1500m
岸一太撮影フィルム 岸氏3女(武蔵野市木村花子さん保存)

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