11月 2016 のアーカイブ

お伊勢まいり2016

2016年11月27日

平成28年11月19・20日に北長瀬本町農家組合が久しぶりに伊勢神宮参拝と英虜湾クルーズの旅に出かけた。紅葉のシ-ズンで車窓の景色も最高で、バスガイドの心地よい案内に揺られて、伊勢神宮で昼食後、内宮参拝とおかげ横丁・おはらい町など散策した。賢島のサッミットの行われた宝生苑に泊り温泉に入浴、宴会も盛り上がった。
賢島湾の英虜クルーズを楽しみ、二見ケ浦の夫婦岩を見物し、帰路信楽でタヌキの焼き物を見た。

井原探訪

2016年11月17日

瀬戸内市の熊山の会の案内で井原方面を探訪した。

総社で 江崎古墳 石棺を見学〔井原の波形石を使った石棺〕
井原 まほろば館 見学 
興譲館 校門  [中国の大学と云う本の中に「一家譲に興れば一国譲に興る」とある。 「譲」とは「譲る」気持ち。
高越城跡(お昼弁当)。北条早雲(伊勢新九郎盛時)の城。
途中 マリア観音像黒木の高札場 金魚岩 
浪形石(子安観音)ここの石が石棺に
千手院 (巨大千手観音様) 浪形石群
明治池ほとりで巨岩「天狗岩」⇒道祖渓を歩いて見学
永祥寺
諏訪神社の石鳥居(那須与一の弟小太郎宗晴の末裔が建立)
 讃岐松田の会長夫妻が同行した。
小田原北条時代松田氏筆頭家老として活躍する
 明応4年(1495)北条早雲が大森氏を破り小田原城に入った時、一番早く駆けつけたのが松田氏一族だった。
 そして小田原北条5代約95年間、松田氏は北条の家老として任え、特に北条氏康の時代、松田憲秀は筆頭家老として権力を握っていた。
 永禄2年(1559)の「小田原所領役帳」では松田憲秀は現在の南足柄市を中心に、旱雲の息子幻庵に次ぎ土地を所領していた。尚、松田惣領分は遠山直景(江戸城代)、松田庶子分は北条幻庵、庶子西分(松田城付近か)は憲秀の弟で松田城主の松田康隆が所領していた。
 この時の松田氏の本拠地は松田憲秀の所領していた狩野との説がある。
 北条は豊臣秀吉に破れるが、北条氏直は助命され高野山へ追放されるが、松田憲秀の子直秀は、北条家臣30人の筆頭として雑兵300人とともに氏直に従った。氏直死後関白秀次に任えたが、秀次も亡くなりその後加賀の前田家に任え御普請奉行までになったとのことです。
写真 高越城跡
   浪形石(子安観音)
   千手院 (巨大千手観音様)dsc_0257

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美し国三重・津歴研大会

2016年11月14日

https://www.youtube.com/watch?v=nODVdouWXNM
第一日目 式典・
記念講演・倭姫命の伊勢巡幸 皇學館大学文学部教授 岡田 登
伊勢商人のルーツを探る -三井高利と越後屋商法- 門 暉代司
祝宴
第二日目 見学会①伊勢別街道を巡る=津城跡・関宿・高田本山専修寺・県総合博物館など
第三日目 見学会②伊勢街道を巡る=宝塚古墳・松阪市文化財センター・松坂城・伊勢商人の町など
安濃津城は坂崎出羽守すなわち浮田詮家の妹が嫁いだ富田信高の城として知られている。この会で知り合た「歴史研究家 川口素生」の記事によると
『関ヶ原合戦当時の女武者 富田信高の正室
慶長五年(一六〇〇)九月十五日、美濃関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で徳川家康率いる徳川方と、石田三成、宇喜多秀家らの豊臣方とが激突する関ヶ原合戦が繰り広げられました。さて、この関ヶ原合戦の前哨戦ともいうべき伊勢安濃津城(津城/三重県津市) の攻防戦や、豊臣方の敗北が確定した後の残党狩りの段階では女武者が活躍しています。
まず、八月二十三日頃からの安濃津城攻防織では、城主・富田信高に討死の危機が迫った際、甲冑を着込み、槍を手にした正室が駆けつけて夫の窮地を救いました。
前後しましたが、籠城していた徳川方は信高、客將・分部光嘉ら千七百人であったのに対して、攻め寄せた豊臣方は毛利秀元ら三万人という大軍でした。それでも、信高さは機を捉えて出撃し、敵方に打撃を与えていましたが、城への退路を塞がれます。
湯浅常山(備前岡山城士)の『常山紀談』によると、その絶体絶命の場面で、城中から、 「容顔美しさ武者緋威の物具中二段黒革にて威したるを著、鑓を提げて駆けつけ、「富田が矢面に立ちふさがり支え戦」い、中川清左衛門ら敵兵五、六人を倒したので、信高や光嘉は窮地を脱しました。ただし、宮川尚古(忍斎/軍学者)の『関原軍記大成』には容顔美しき武者でなく、人見伊右衛門(古田重聘の家臣)が清左衛門を討ち取ったと記されています。その容顔美しき武者は紅色か、緋色の革(もしくは紐)で威した(=結び合わせた)鏝を着込んでいたようです。ところで、光嘉の譚(実名)を政寿とする説(『集成分部家系譜』等)もあり、真田増誉(軍学者)の『明良洪範』には、「信高、政寿に問ふ、『彼若武者は貴兄の近習の者か』。政寿云、『彼は女武者と見へたり』信高、馳寄て見るに夫人也。大に驚く。夫人涙を流し、『君既に戦死し給ふと聞、妾も共に死を同じくせんと思ひしに、不゛計今幸に御つゝが無きを見奉る嬉しさよ』と悦ぶ事限りなし」 と記されています。
ところで、正室の活躍で危機を脱した信高らでしたが、兵力の差は如何ともしがたく、やむなく高僧木食応其の勧告を容れて二十六日に安濃津城を開城します。幸いにも、信高は剃髪して高野山へ登ることで助命されました。やがて、関ヶ原合戦で徳川方が大勝したことから、信高と正室は安濃津城へ復帰することが出来、のちに信高は伊予宇和島藩(愛媛県宇和島市)主に栄転しています。なお、名前は伝えられていないようですが、正室は備前(岡山県南東部)生まれで、宇喜多忠家(安心/秀家の叔父)の娘でした。』
写真
一身田高田山専修寺
古墳出土埴輪
斎王

給率100%を目指す 西粟倉村

2016年11月10日

 岡山県の東北部に位置する西粟倉村は、中国地方で唯一の「環境モデル都市(持続可能な低炭素社会の実現に向け高い目標を掲げて先駆的な取組にチャレンジする都市)」です。
村は森林面積が95%、そのうち84%が人工林という環境にあり、約50年間育った人工林をあと50年管理、立派な100年の森にしようと「100年の森林構想」を掲げ、村ぐるみで取り組んでいます。
その中から出てきた木材を商品化し、流通ルートを確保したり間伐材を燃料とした薪ボイラーの導入を進めるなどし
ています。また、豊かな水資源を使った小水力発電所も設置し、発電をしています。さらに近い将来には村の中心部で「地域熱供給システム」も導入する予定です。
このようにして、村はエネルギーを自給し、美しい森林を守り、限りある自然の恵みを大切な人だちと分かち合える上質な田舎づくりを目指しています。西粟倉村の取り組みを見学し、私たちの周りで取り組めることを一緒に考えていきましょう。

8時    :岡西公民館出発
10時30分 :西粟倉村 到着 あわくら会館にて村の取り組みレクチャー
11時40分 :昼食のため「あわくらんど」へ
11時50分~12時50分:昼食
13時~13時15分:薪割り工場
13時25分~13時45分:黄金泉薪ボイラー
13時50分~].4時:にしあわくらおひさま発電所(コンベンションホール)
14時05分~14時25分:小水力発電Fめぐみ」
14時30分~14時55分:エーゼロ(株)(旧森の学校ホールディングス)鰻養殖
~LV(ジビエ・帽子・酒など)
15時~15時20分:あわくらんどで買い物、トイレ休憩
17時45分:岡西公民館到着

岡西公民館ツアーパンフレットより

芋堀

2016年11月10日

秋晴れとなった今日、畑で芋掘りを行った。水田に山土を入れ、安納芋と金時芋を植えた。全く肥をやらないつもりだったが途中で若干化成を撒いた。
取入れ時期となり、孫たちにも手伝ってもらい、収穫した。
夜、ゴマ豆乳鍋を囲み楽しんだ。
最後にハプニングと云うか最大のイベントは、孫3人が今日収穫したサツマイモを使いスイートポテトケーキを作ってくれたことであった。

河掃除2016

2016年11月3日

最近朝の散歩は雨のため鴨田こ線橋の階段を南に渡り、市民病院の駐車場を5階屋上まで車道の端を上がり、7時までは院内はクロ-ズのため外の歩道を歩き、北長瀬駅のこ線橋を渡って帰る。雨にたいして当たらず5000歩ほど歩ける。
昨日は久しぶりに曇りのため駐車場内をやめ中仙道から白鬚宮を回って帰った。北長瀬駅北は老人会が花を手入れして今はコスモスが咲き始めている。
イチジクを取りに行くと2ヶも蟻にやられてしまっていた。
夏祭りの翌日に行ていた町内掃除特に河掃除の藻引きを行った。北長瀬駅に北は川舟で藻を引き上げておいたが既に繁り始めっていた。
引き上げた藻を軽トラで集積場所に集めるのも大変な作業だ。倉敷市始め地方自治体では藻引上げ船が新造され稼働を始めている。
金魚草と言われる松藻が群生しそれにゴミが絡んでいる。ヘドロまで一緒に上がり大変な重量となる。根がヘドロ中に残りまたソコより生えてくる。