平成28年11月19・20日に北長瀬本町農家組合が久しぶりに伊勢神宮参拝と英虜湾クルーズの旅に出かけた。紅葉のシ-ズンで車窓の景色も最高で、バスガイドの心地よい案内に揺られて、伊勢神宮で昼食後、内宮参拝とおかげ横丁・おはらい町など散策した。賢島のサッミットの行われた宝生苑に泊り温泉に入浴、宴会も盛り上がった。
賢島湾の英虜クルーズを楽しみ、二見ケ浦の夫婦岩を見物し、帰路信楽でタヌキの焼き物を見た。
瀬戸内市の熊山の会の案内で井原方面を探訪した。
総社で 江崎古墳 石棺を見学〔井原の波形石を使った石棺〕
井原 まほろば館 見学
興譲館 校門 [中国の大学と云う本の中に「一家譲に興れば一国譲に興る」とある。 「譲」とは「譲る」気持ち。
高越城跡(お昼弁当)。北条早雲(伊勢新九郎盛時)の城。
途中 マリア観音像黒木の高札場 金魚岩
浪形石(子安観音)ここの石が石棺に
千手院 (巨大千手観音様) 浪形石群
明治池ほとりで巨岩「天狗岩」⇒道祖渓を歩いて見学
永祥寺
諏訪神社の石鳥居(那須与一の弟小太郎宗晴の末裔が建立)
讃岐松田の会長夫妻が同行した。
小田原北条時代松田氏筆頭家老として活躍する
明応4年(1495)北条早雲が大森氏を破り小田原城に入った時、一番早く駆けつけたのが松田氏一族だった。
そして小田原北条5代約95年間、松田氏は北条の家老として任え、特に北条氏康の時代、松田憲秀は筆頭家老として権力を握っていた。
永禄2年(1559)の「小田原所領役帳」では松田憲秀は現在の南足柄市を中心に、旱雲の息子幻庵に次ぎ土地を所領していた。尚、松田惣領分は遠山直景(江戸城代)、松田庶子分は北条幻庵、庶子西分(松田城付近か)は憲秀の弟で松田城主の松田康隆が所領していた。
この時の松田氏の本拠地は松田憲秀の所領していた狩野との説がある。
北条は豊臣秀吉に破れるが、北条氏直は助命され高野山へ追放されるが、松田憲秀の子直秀は、北条家臣30人の筆頭として雑兵300人とともに氏直に従った。氏直死後関白秀次に任えたが、秀次も亡くなりその後加賀の前田家に任え御普請奉行までになったとのことです。
写真 高越城跡
浪形石(子安観音)
千手院 (巨大千手観音様)
8時 :岡西公民館出発
10時30分 :西粟倉村 到着 あわくら会館にて村の取り組みレクチャー
11時40分 :昼食のため「あわくらんど」へ
11時50分~12時50分:昼食
13時~13時15分:薪割り工場
13時25分~13時45分:黄金泉薪ボイラー
13時50分~].4時:にしあわくらおひさま発電所(コンベンションホール)
14時05分~14時25分:小水力発電Fめぐみ」
14時30分~14時55分:エーゼロ(株)(旧森の学校ホールディングス)鰻養殖
~LV(ジビエ・帽子・酒など)
15時~15時20分:あわくらんどで買い物、トイレ休憩
17時45分:岡西公民館到着
岡西公民館ツアーパンフレットより
最近朝の散歩は雨のため鴨田こ線橋の階段を南に渡り、市民病院の駐車場を5階屋上まで車道の端を上がり、7時までは院内はクロ-ズのため外の歩道を歩き、北長瀬駅のこ線橋を渡って帰る。雨にたいして当たらず5000歩ほど歩ける。
昨日は久しぶりに曇りのため駐車場内をやめ中仙道から白鬚宮を回って帰った。北長瀬駅北は老人会が花を手入れして今はコスモスが咲き始めている。
イチジクを取りに行くと2ヶも蟻にやられてしまっていた。
夏祭りの翌日に行ていた町内掃除特に河掃除の藻引きを行った。北長瀬駅に北は川舟で藻を引き上げておいたが既に繁り始めっていた。
引き上げた藻を軽トラで集積場所に集めるのも大変な作業だ。倉敷市始め地方自治体では藻引上げ船が新造され稼働を始めている。
金魚草と言われる松藻が群生しそれにゴミが絡んでいる。ヘドロまで一緒に上がり大変な重量となる。根がヘドロ中に残りまたソコより生えてくる。