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日本民間航空通史 航空機の黎明期

2018年1月20日

は じ め
江戸で蘭学塾(のちの慶応義塾)を開設、日本で初めて英語の学問を修めた福沢諭吉(一八三五-一九〇一年)は、三度幕府遣外使節に随行して欧米を視察したが、咸臨丸という船で、横浜からワシントンまで実に三か月の歳月を要した。
 それから百年後の今日では、成田からワシントンまで飛行機でわずか一三時間で行けるようになった。
 人間が空を飛びたいという願いは相当昔からあったが、それはあくまでも夢物語りであった。日本では、江戸時代の戯作者・発明家として有名な平賀源内(一七二八-一七八〇年)が翼をつけて屋根から飛んだが失敗したという逸話もある。
 明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのライト兄弟が、初めて動力飛行に成功してからヨーロッパで飛行熱が高まり、明治の終り頃にはドイツやフランスで飛行機や飛行船が飛び回ってその性能を競い合い、続々と新機種が生まれ、それと共に操縦技術を教える飛行学校ができるようになった。
 その情報に刺激を受けた日本では、遅ればせながら、軍用として飛行機・飛行船を使うことを目的に明治四二年(一九〇九)八月、内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足、明治四三年(一九一〇)四月、外国から飛行機・飛行船を購入することと、その製作、操縦技術を習得させることを目的として、日野熊蔵、徳川好敏両陸軍大尉をヨーロッパに派遣した。
 両氏が帰国して日本での初飛行は明治四三年こ一月一九日であった。その日、代々木練兵場(現・代々木公園)で徳川好敏工兵大尉の操縦するアンーフォルマン機での飛行距離は3㎞、高度70mであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年たった。
 その後、「臨時軍用気球研究会」の委員であった奈良原三次海軍大技士(海軍大尉待遇)が臨時軍用気球研究会を辞めて、自分で設計製作した飛行機にノーム50馬力のエンジンをつけて明治四四年(一九一二五月五日、所沢飛行場で自ら操縦して高度5m、距離60mを飛行したが、これが純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行機であった。
 これに続いて民間の飛行家が続出して手製の飛行機で自由勝手に空を飛び廻るようになったので、これを野放しにしてもおけず陸軍省の外局に「航空局」を設け、操縦士の資格が国家試験となると同時に航空局直轄の乗員養成が始まった。
 特に戦時中は民間航空機操縦士の大量養成を行ったが、民間機のパイロットになった者はごくわずかで、ほとんどが軍に駆り出され多くの民間パイロットが特攻で、あるいは空中戦で戦死した。
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の敗戦を境に、日本人が日本の空を自山に飛べない日が六年余りも続いたが、昭和二六年(一九五一)九月八日、対日平和条約が調印されたのを機に、同年八川一目、日本航空㈱が設立され、ようやく日本人が日本の空を自由に飛べる時代が来たのだった。
佐 藤 一  一
第一章航空機の黎明期
第一節 空を飛びたいという人間の夢
 背中に羽のはえた天使や、羽衣を身にまとって空を飛石天女などは「空を飛んでみたい」と願っていた人間の夢であり想像の世界であった。
 今から二百数十年前に、偉大な芸術家であり科学者でもあったイタリアのレオナルドーダービンチは、鳥の飛ぶのを観察して、羽ばたき飛行機やヘリコプターの設計図を書いていたがこれは実現するには至らなかった。
  それを実現させ、実際に人間が空に上ったのは、二百年以上も前、フランスのモンゴルフィエ兄弟であった。彼らは熱気球を作り、温めた空気を気球の中にためて、大勢の人の見守る中で、ふわっと空中に浮かび上ったのだった。その後、空気より軽い水素を入れることを考えたが、それは「飛ぶ」というより「浮かぶ」と云った方が正しいものであった。それは前に進むことができなかったからである。
  その後、ドイツのリリエンタールが明治二六年(一八九三)に、大きな翼を背中につけ、小高い丘の上がら飛んで滑空に成功した。最近、スポーツとして盛んになってきたバングーグライダーの元祖というべきものである。しかし、気球もグライダーも、空気(風)を利用して短い時問、ゆっくり空を飛ぶだけで、本格的な飛行機というものではなかったのである。

第二節 ライト兄弟が動力飛行に初成功
 明治一五年(一八八二)にロシアのモシヤイスキーが初飛行に成功したとか、明治三〇年(一八九七)にフランスのクレマンーアデールが吐界で初めて動力飛行に成功したという説もあるが、記録も証拠も見つかっていない。
 今、肝界的に認知されているのは、明治三六年(一九〇三)一二月一七日、アメリカのノースカロナイナ州キティホークで、兄のライトと弟のオービル兄弟が複葉機を完成して、前後四回飛行して人類初の動力飛行に成功したことである。
 最初の飛行は、わずか12秒、に取高の滞空時間59秒、飛行距離はミ六〇メートルというものだった。

第三節 日本で「臨時軍用気球研究会」発足
 アメリカのライト兄弟が、肝一界初の動力飛行に成功したというニュースに刺激を受けたヨーロッパでは、長年夢であった「人間が鳥のように空を飛べる」という事実に、アメリカよりも飛行熱が高まった。そして明治の終り頃には、ドイツやフランスで続々と新機種が生まれ、飛行機や飛行船が盛んに飛び回ってその性能を競い合い、さらには操縦術を教える飛行学校までができるようになったのである。
 それに刺激を受けた日本でも、軍用としで飛行機・飛行船を使用することとなり、明治四二年(八月、内閣直属の「臨時車用気球研究会」が発足した.
 最初の研究会委員には
  〔陸軍から〕
 会長 長岡外史中将(当時の軍務局長)
 幹事 井上仁郎大佐(当時の工兵課長)
 委員 有川鷹一少佐(砲工学校教官)
 同  徳永熊雄少佐(気球隊長)
 同  徳川好敏大尉(気球隊付)
 同  日野熊蔵大尉(砲兵工廠付)等
  〔海軍から〕
 委員 山屋他人大佐
 同  牛奥励三  (造船小監)
 同  相原四郎大尉
 同  小浜方彦大尉
 同  奈良原三次 (造兵中技士)等
  〔学識経験者から〕
 委員 田中館愛橘 (理学博士)
 同  井口在屋  (工学博士)
同  中村精男 (理学博士)
同  横田成平 (工学博士)
等が就任した。

 第四節 臨時軍用気球研究会の仕事とは

 さて、こうして発足した研究会では、差しあたり次の仕事に取りかかることとなった。
 第一は、日本国内で、日本製の飛行機や飛行船を試作することであった。
 飛行船の方は徳永、徳川、小浜の諸委員を中心に、当時気球隊付であった伊藤赳工兵中尉、岩本周平(東大教授、当時気球隊付陸軍技士)が設計試作員として設計に当った。
 一方、飛行機の方は、日野、奈良原委員が、それぞれの考案を各自の助手を使って設計製図に当ることになった。
 第二は、各委員が設計のために実験したり、実物を.工作したりするための実験雫、.L場、飛行船に必要な水素ガスエ場、飛行機、飛行船の格納庫等の建設であった。
 第三は、飛行機、飛行船の性能テスト、実用試験をするために必要な飛行場の設定、建設であった。
 これは徳永少佐と、岩元周平が担当することになり、地質・地勢・水利・常習風向・土地の価格調査等に自転車で踏査し、埼玉県所沢巾の平坦な、いも畑約八万坪(一反歩=三〇〇坪=百円)を適当地として買収することに内定したのだった。しかし、日本では初めての飛行場建設であるから、果してこの面積でこと足りるのか不安もあって、急拠田中館博士(昭和一九年文化勲章受章)をヨーロッパに派遣した。田中館博士にヨーロッパ各国の飛行場を視察した結果、敷地の広さや施設など所沢の計画で支障なしと判断し、その結果、電報でその旨を報告しました。この報告を受けた臨時軍用気球研究会では、早速十地の買収に着手し、地ならし、建築と矢継ぎ早やに計画に移した。
 第四は、外国ですでに完成している飛行機、飛行船を購入し、これを研究すると共に試験をすること、そして操縦の技術を習得することであった。
 そこで日野熊蔵陸軍歩兵大尉と、徳川好敏陸軍工兵大尉の一一人が選ばれた。二人は明治四三年(一九一〇)四月、シベリア鉄道で渡欧し、徳川大尉はフランスで、アンリー・フォルマン式複葉一機(八、三六三円)、ブレリオ式単葉一機を購入して、操縦術の訓練もわずか二週間で卒業して帰国した。
 日野大尉は、ドイツでグラーデ式単葉一機(五二九六円)と、ドイツ製ライト複葉一機を購入して帰国したが、同年中に着いたのは徳川大尉の購入したフォルマン機と、日野大尉が購入したグラーデ機で、あとの二機は翌四四年三月に到着した。

第五節 日本での初飛行
 日本で「臨時軍用気球研究会」が発足した頃、フランス海軍中尉ルプリェルが、田中館博上の指導で、帝大(東京大学)構内で滑空機(グライダーを組立て、不忍池畔で試験飛行を行なった。自動車で滑空機を引かせて滑走し、高さ一五・六メートル位飛び上ったところで綱をはずし、無事に滑空で着陸し一応成あって、ルプリェル中尉の飛んだあと、同機に搭乗して一応飛び上ったが、綱の片方がはずれて横すべりして池の泥のなかに落ちて失敗した。
 しかし、これは当時見物していた日本人に「人間も空を飛ぶことができるんだ。」という証拠を見せた最初のことであった。
 本格的な日本での動力初飛行は、明治四三年(一九一〇)一二月一九日、代々木練兵場(現・代々木公園)で行われた。
 ドイツーフランスから飛行機を買付け、操縦技術を学んできた徳川・日野両人尉によるものだった。
 徳川好敏工兵大尉がフランスで購入したアンリー・フォルマン式複便機で、距離三キロメートル、高度七○メートル、飛行時間五分というものであった。ライト兄弟の初飛行より遅れること七年目のことである。
 今、この地に「所沢航空発祥記念館」が設けられている。(平成五年三月二七日開館)
 しかし実際には、これより五日前のて一月一四日、日野熊蔵陸軍歩兵大尉がドイツから購入してきたドイツ製(ンスーグラーデ式単葉機で二メートルの高さで一OOメートルの距離の初飛行に成功していたが、「公式飛揚」ではないので、日本航空史では一二月一九日が、日本における初飛行と記録されているのである。

第六節 臨時軍用気球研究会の廃止
 その後、明治四四年(一九一一)一〇月、徳川大尉はアンリー・フォルマン式に気球研究会で改良した国産第一号機を操縦して高度八五メートル、距離千六百メートルを飛行した。
 一方、飛行船の方は、明治四四年にドイツのパルセバール式飛行船を購入することになり、その製造・整備・監督と、取扱い操縦練習のため、石本工兵大尉が総合事務を、益田工兵人尉が取扱い操縦を、山下海軍機関人尉が機関と整備を、岩本周平が製造取扱いをそれぞれ学ぶ目的でドイツに派遣され、P13号(日本では、パ式航空船と命名)の竣工検査に立ち合い、明治四五年(一九一二)六月、シベリア鉄道で帰国した。
  この留守中、明治四四年一0月、伊藤中尉を船長に、中島知久平海軍機関中尉(のち中島飛行機会社を興し、鉄道相、軍需相となる)を機関長として「イ号飛行船」の初飛行が行われ、百メートルほど上昇してエンジンをかけ、ゆっくり飛行場の周辺を飛び廻った。
 これが「イ号気球」と命名された目本で初めて製作された国産飛行船で飛んだ記録第一号である。
 その後、航空機・飛行船の発達ぶりを貴族院議員(現在の参議院議員)や衆議院議員を招いて見てもらおうと大正二年(一九二三)三月二八日、青山練兵場(現・明治神宮外苑)で航空祭を催した。所沢から飛び立った飛行機や飛行船を青山練兵場に着陸させ、更に離陸して所沢に還るという計画であった。ところが飛行船のクセを卜分克服していない操縦未熟の為に、事故をおこしてしまったのである。
 今も香川県仲多度郡仲南町の二宮公園内には京都から分社した「飛行神社」(口絵2頁)が設けられ、忠八翁の銅像が聳え建ち、忠八太鼓が響き渡っている。   

 第三章民間航空の先覚者たち
          第一節 民間航空の第一人者奈良原三次男爵

 日本民間航空の先駆者を語るとすれば、奈良原三次(後男爵・口絵1頁)を置いてほかにあるまい。
 奈良原家は、明治維新のころまでは薩摩(鹿児島県)の島津家の家老の家柄であった。先祖の奈良原助八は、十一代薩摩藩主島津忠昌公が病身のため乱れた領内を平定できないことを恥じて切腹して果てた。助八は、その忠昌公の葬列が菩提寺に入るのを見届けると、その門前でみごとに追腹を切って殉死した。島津家七百年の歴史の中で初めてで最後の殉死者であった。こうして奈良原家には代々熱血漢が生まれた。
 明治維新の生麦事件(文久二年〈一八六二〉薩摩藩の島津久光一行が江戸からの帰途、横浜生麦村にさしかかった際、騎馬のまま行列を横切った英国人四人を殺傷した事件。↓薩英戦争)の発頭人奈良原喜左衛門は三次の叔父にあたる。
 また、京都の寺田屋事件(文久二年〈一八六二〉尊王攘夷派の薩摩藩士有馬新七らが、関白九条尚忠・所司代酒井忠義の殺害を企て京都伏見の舟宿寺田屋に結集したのを、島津久光が家臣を遣わして襲い、殺害した事件、(寺田屋騒動。)で名高い奈良原繁(のち沖縄県知事。男爵)は、三次の父君であった。 
 三次は次男だったが、長兄がドイツ留学中客死したので、三次が奈良原家の世継となったのである。
 三次は岡山第六高等学校から東京帝国大学(現・東大)工学部造兵科に学び、卒業後海軍に入って明治四二年(一九〇二)内閣直属の「臨時軍用気球研究会」が発足するや、委員(当時造兵中技士=中尉待遇)に選ばれて、飛行機の設計、製作にあたった。

手製の飛行機を造り初飛行
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同こ一月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技L大尉待遇)で海車を退官した余良原ミ次はで史にフランスから購人したブーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2リ機」を完成した。明治四四年(。九い川)斤八几目、ミ次はこの「余良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.aメートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後べ次が自ら操 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

会社を興して失敗する

 三次が再び操縦稈を握ることがなくなってから中野の気球隊で徳川好敏大尉の部下だった白戸栄之助軍曽が除隊したので、三次の製作した飛行機で白戸が練習飛行することになった。
 その頃三次は、「束京飛行機製作所」という会社を興し「臨時軍用気球研究会」の御用として、ライト式やグラデー式の飛行機の修理、研究用のプロペラ製作などを商っていた。その会社に住吉貞次郎という男を支配人格で採用し、三次はこの住吉をすっかり信用して一切の仕事をまかせ、実印まで預けていた。ところが住吉は信用されていることを良いことに、三次名儀で高利貸しから借りられるだけの金を借りて使っていたのである。住吉は自分で勝手に借金をしておきながら、今度は債権者側に寝返って、壮子(政党に雇われた川心棒)上りの子分数名をひき連れて、三次に厳しく債務の取り立てを責め立てた。その時、三次の作った「奈良原式3号機」の試験飛行中だったが、この3号機の発動機まで差し押さえてしまった。そのため3号機は試験飛行もできなくなったので、三次は止むなく東京に引きあげてしまった。
 明治四三年(一九〇三)、日野、徳川両大尉が欧州で飛行技術を学んで帰朝、同一二月一九日、代々木練兵場で日本最初の飛行に成功する半年も前に、三次は当時東京・四谷塩町にあった父繁男爵家の庭を作業場として鹿児島から送らせた丸竹を主材とした「奈良原式1号機」を完成していた。その費用は肖時の金で二〇〇〇円程かかっていた。
 海軍大技士大尉待遇)で海車を退官した奈良原三次は、更にフランスから購人したノーム50馬力のエンジンを取り付けた「奈良原式2号機」を完成した。明治四四年(一九〇四)五月五日、三次はこの「奈良原式2号機」を所沢飛行場で自ら操縦して初飛行を行った。高度.五メートル、距離六〇メートルというものだったが、純国産機で民間人が飛んだ日本最初の飛行であった。
 当時は操縦技術などを教えてくれる教官もなく、飛行機も手づくりの飛行機だったので、まったく「手製の飛行機」で「我流の操縦」だったのである。
 その後、男爵の後継者たる者が、危険極まりない飛行機で事故をおこして万が一のことでもあったり怪我でもしたら大変なことだということで、三次の親戚一同から大反対をされた為に、その後三次が自ら操縦するということはなかった。

有料公開飛行を実施
 その後、新しく出資してくれる人が現われたので、東京・京橋八丁堀(現・中央区)に「東洋飛行機商会」という新会社を設立して明治四五年(一九一二)三月、「奈良原式4号機]を完成した。そしてその飛行機
 尚、戦時中、日本の逓信省航空局、高等(又は地方)航空機乗員養成所で学んだ朝鮮人たちもいたが、その分は第二編・戦中編で述べることとする

第七章民間航空草創期に羽ばたいた女性飛行家たち

 明治、大正の女性はおとなしく、しとやかで優雅な茫ち居振るまいをするものと定義づけられていた。
従って、女性が自転車に乗ったり自動車の運転をしたりすれば、あれは「お転婆だ」、「男まさりだ」「嫁のもらい手がないぞ」などと云われた時代であった。
 昭和七年(一九三二) 一二月一六日、午前九時すぎ、東京・日本橋の白木屋呉服店四階の玩具売場から火災が発生、火は三時間にわたって燃え続け、三九八二坪を全焼、死者一四人、重傷者百十数人を出す大惨事がおこった。当時の女性はほとんど着物姿で仕事をし、従って下着をはいていなかった。この時の死亡者一四人中、一三人は和服だったので消防署員が下に幕を張って飛び降りるよう指示したが、飛び降りる時着物のすそが開くのを気にして逃げおくれたために犠牲者が増えたのだった。
 これを機に日本の女性も外で働く者は洋服を着、下着を身につけるようになったのである。
 そんな時代背景の中でも多くの女性が空にあこがれ、飛行家になる夢を抱いて羽ばたいていったのである。

女性飛行家第一号 兵頭 精

 大正一一年(一九二二)三月二四日付で三等飛行機操縦士(免許番号第三八号)の免状を取得、日本における女性飛行家第一号になったのが兵頭精である。
 精は、明治三二年(一八九九)四月六日、愛媛県北宇和郡東仲村二五番戸(現・広見町東仲)において兵頭林太郎、同民子の四女として出生した。
 父林太郎は田舎には珍らしい読書家で、明治二〇年代に早くも空を飛ぶことを夢見て絵図面などを書いていたが、明治四三年六月三日、満五三歳で亡くなった。精一一才の時である。精はそういう父の血を受けたのか、母民子から話を聞いていたのか、とにかく自分も飛行家になりたいという淡い希望を抱いていた。
大正四年(一九一五) 一二月、アメリカのチヤールズーナイルスという女性飛行家が来日して青山練兵場で宙返りを披露した。また翌五年一二月には、キャサリン・スチンソン嬢が同じ場所で宙返り飛行をしてみせた。肖時、松山巾・斉笑高等女学校に在学していた精は、この話を聞いたり新聞で読んだりして「女性でも飛行家になれるんだ」ということを知り、ますます飛行家になりたいという夢がふくらんでいった。
 父ござあと、姉のカソエが父親がわりに一家を支えていたが、精の飛行家希望に対しては「女だてらに飛行機乗りになるうとは」と猛烈に反対した。精は止むなく女学校を卒業すると安原医院に薬剤師に見習として働くようになった。しかし人空への夢は忘れられず、合間をみては東京の相羽有が経営する日本飛行学校発行の『飛行機講議論』をとり寄せ独学していた。それを知った姉カゾエは精の思い込みに根負けして「そんなに飛行機が好きならやってみるがいい。」と大枚1千円を援助してくれた。カゾエは、精のいわば自分と共通した男性的路線を生き抜こうとする姿勢に共鳴し、期待し、応援することにしたのである。
 精はこの金を持って二○歳の年の一一月一五日上京した。ところが期待していた日本飛行学校(校長相羽有)では、こ年前の人正六年(一九十七) 一〇月一目の台風で、東京・羽田穴守にあった飛行場は水びたしになり、たった一機の玉井式二号キャメロン機が流され、更にその半年前の五月、操縦教官の玉井清太郎が墜死するという大打撃を受け、相羽は飛行機事業から手を引いて自動車部だけしかなく、飛行機は『講議録』を発行するだけで、飛行機操縦など何一つ教えてはいなかったのである。
 止むなく精は赤羽飛行機製作所(岸一太医学博士が経営し、井上武三郎陸軍予備役中尉が操縦教官)を訪ねたが、ここでは「女では駄目だ」と断られてしまった 精が途方にくれていたところ、ある人から伊藤音次郎が経営する津田沼(現・千葉県習志野市津田沼)の伊藤飛行機研究所を教えてもらった。早速訪れて音次郎に入学を願ったところ、どうせ一時の出来心で長続きはしないだろうが、大金を持ってやってきた相手が男であろうと女であろうと拒む理由はないと、直
ちに入学を許可した。所長の伊藤音次郎はこの時、まだ二八歳、飛行家として実力、人気ともに上昇中で、精が訪れた頃は、設計者に稲垣知足、操縦教官に山懸豊太郎を据え、新機の製作と共に操縦士の養成に専念中でありました。彼は多くの鳥人を育て、奈良原三次に次ぐ民間航空育ての親ともいうべき人物であるが、昭和四六年(一九七一)一二月六日、八〇歳でこの世を去った。