江戸時代の史書あるいはロ碑によると、大覚が備前に最初に入ったのは御野部浜野村(現、岡山市浜野)で、大覚はこの地の豪族多田氏の保護を得て、同地に松寿寺を創立し、ついで二日市(現、岡山市二日市)に妙勝寺を開き、これが備前日蓮宗の始まりであると伝えているが、この点についてはなお十分な確証がない。大覚はおそらく京都から船便を利用して県下に入ったと思われるが、その最初の上陸地がどこであったか、今のところ知るすべはない。しかし、大覚が南北朝の動乱期に、備前・備中さらに隣国備後の地に、民衆の新しい宗教である日蓮宗を、精力を傾けて多年にわたり布教したことは、動かし難い事実であり、山陽道における日蓮宗の本格的な伝播は、この大覚の努力によって始まったのである。今日県下には、大覚によって開創されたという寺伝をもつ口蓮宗の寺が、おそらく二〇か寺以上を数えるであろう。もちろん、これらの寺伝のすべてが、そのまま歴史事実であるとは、にわかに信ずることはできないが、大覚の布教が、県下日蓮宗の発展にとって、いかに大きな役割を果たしたかを知る傍証とはなり得るであろう。
しかし大覚については、今日なお不明に属する部分が多い。例えば、大覚の出自についても、江戸時代の史書あるいは宗門の所伝では、後醍醐天皇の皇子とし、あるいは関白近衛経忠の子であったと伝えるが、前者については疑わしく、後者についても確証はない。また今日一般に信じられている妙実・大覚同一人説も、まだ疑問の余地はある。ただ、大覚について確かに言えることは、東国の出身ではなくして関西に育った人であり、また当時日蓮宗僧侶の大部分が「日」号を有したに対して彼のみが大覚という特異な呼称を持っていたことから、もとはおそらく真言宗の僧侶であったと推定できるのである。
ともかく、大覚の県下での事蹟も、確実な史料によって実証できるケースはすくない。この意味で、今日岡山市の蓮昌寺に残っている大覚自筆の消息は、数少ない大覚の確実な史料の一つとして、貴重な文献である。この消息の内容は、西国門徒に宛てて、福輪寺の御堂の上葺くについて、たとえ一紙半銭なりとも、かれらの浄財を寄せてくれることを依頼したものである。この福輪寺は、現在の岡山市津島の妙善寺の前身で、『源平盛衰記』にもその名の出てくる備前の真言宗の古刹であった。大覚が、この福輪寺の上葺のために、宗門の信者たちに浄財の寄付を依頼しているからには、このころ福輪寺が大覚の支配のもとにあり、かつ日蓮宗に転宗していたと信ぜられる。この福輪寺の日蓮宗への転宗のいきさつについては、後世の史料ではあるが、江戸時代元禄版の『道林寺縁起』が次のように伝えている。
このころ福輪寺の座主は良遊法師といったが、この良遊が、津島往還の街路で説法していた大覚に対し、宗論をいどんで論破され、一山ともに法華宗に転じた。当時備前富山城主(現、岡山市大安寺)であった松田元喬は、このことを聞いて名刹の転宗を嘆き、大覚と真言僧を富山城中に呼び寄せ、宗論によって正邪を糺さんとしたが、元喬も、ついに大覚に感化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号の蓮昌院殿をとって、これを蓮昌寺と名づけたという。
蓮昌寺の資料によると
蓮昌寺はいわゆる備前法華の中心道場として栄えた日蓮宗の巨刹で、山号を仏仕出、主院を龍華樹院と号する。かっては檀家七千を有したといわれ、一万坪におよぶ境内地には国宝の本堂をはじめとする七堂伽藍が蔓を並べ、その偉容を誇っていたが、惜しくも、第二次世界大戦の戦火で灰燼に帰した。しかし、寺宝である大曼荼羅(日蓮宗宗宝・岡山市重要文化財)だけは、その難を免れた。
開山は龍華樹院目像聖人。その高弟大覚大僧正が備前地方弘通の砌、これに帰依した備前の領土松田左近将監元喬により、光厳天皇の正慶年中(一三三二~三四)あるいは、後村上天皇の康永三年(一三四四)に創建されたと伝えられる。寺号を蓮昌寺と称するのはその法号に基づく。もと岡山城中、榎の馬場(えのきのばば)にあったが、天車元年(一五七三)宇喜多直家が亀山城(沼城)より岡山城に入るや、これの大改築工事にとりかかり、蓮昌寺を旭川の対岸国富に移し、更に続いで慶長六年(一六〇一)小早川秀秋が外濠(そとぼり)に沿って、郭外に寺町をつくったとき、同寺を現在の地に再移転した。戦災で焼失した桁行(けたゆき)三六、七m、梁間(はりま)三五、八mの本堂は再移転のとき秀秋大勧進となって建て、岡山城下の名物的存在であった。
蓮昌寺の古い縁起書には、次のように誌されている。
◆蓮昌寺の縁起
蓮昌寺は岡山第一の巨刹にして、堂宇の宏壮なる、その類稀なり。此の開基をたずぬれば光厳天皇の正慶年中、松田将監元喬の創造する所にして、実に我国紀元一千九百九十二年及び一千九百九十三年の間に在り。寺号を蓮昌寺と称するは、将監元喬の法号に基づき、西国にては日蓮宗最初の道場にして、其本山は京都妙覚寺たり。当初備前岡山城内の大手筋なる榎の馬場にありしが、天正年中宇喜多直家当国の本寺代として再興した。
明光山妙勝寺(現、岡山市ニ日市)も妙実の開基と伝えている。当寺の「由緒書」に、「当山ハ人皇八十九代、後村上天皇御宇、興国三年(一三四二)、大覚大僧正中国弘通ノ際、当地に錫ヲ留メ給ヒシ時、後醍醐天皇勤仕ノ武士多田頼貞厚ク覚師(大覚大僧正)ヲ請シ法ヲ聴カシム。阿比宿縁アリテカ頓二悟り、捨邪帰正信仰益々深ク、遂二邸ヲ改メテ法華堂ト為ス。是レ当山ノ草創ナリ。因テ入党大僧正ヲ仰テ開祖トス。と見える。二日市に、中世のころ、阿比氏という豪族が住み、多田頼貞との関係も深く、大覚大僧正に帰依して、自分の居館を法華堂になおした。これが妙勝寺の始まりである。なお、現在の寺地は、すべて阿比氏の屋敷跡と伝えられる。
妙実は京都から海路を使って備前に入ったと思われ、備前・備中は勿論のこと備後の地までも精力的に布教している。妙実がいかに布教に努力したかを実証する確実な史料の一つとして、「妙実自筆の消息」が、当蓮昌寺に残っている。その貴重な文献の内容は、「西国門徒にあてて、福輪寺(岡山市津島)の御堂の上葺のため、たとえ一紙半銭たりとも浄財を寄せてくれるよう依頼したもの」で大変貴重な史料である。
この史料に見える。福輪寺”は、『源平盛衰記』などにもその名がみえる真言宗の占刹であった。同寺の修理を妙実が頼んだということは、このころの同寺は妙実の支配下のもとにあり、法華宗に転宗されていることを意味している。同寺の法華宗転宗については、後世の史料ではあるが、「道林寺縁起」(江戸元禄版)に次のように記している。
このころ、福輪寺の座主は良遊法師といった。この良遊が、津島往還の街路で説法していた妙実に対し、宗論をいどんで論破され、一山ともに法華宗に転じた。当時、備前富山城主(岡山市大安寺)松田元喬は、このことを聞いて名刹の転宗を嘆き、妙実と真言宗僧を富山城中に呼びよせ、宗論によって正邪を糺さんとしたが、元喬もついに妙実に感化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号の。蓮昌院殿”をとって、これを「蓮昌寺」と名づけたという。」
当蓮昌寺の創建と寺名はこのような理由からできあがった。当今の歴史をよく実証している。今日、中国地方には妙実によって開山、創建されたと伝える寺は、おそらく四十ヶ寺を数えることができる。
実証するものとして、備前には妙実自筆と伝える題目石が多く残っている。「大光院の康永四年(一三四五)法華題目石」(県指定重要文化財、岡山市円山)を始め法泉寺(和気郡和気町)、大覚寺(都窪郡清音村)、大覚堂(岡山市辛川)の四基でまた、妙実にまつわる伝承も多い。
妙実の足跡は、ただ備前だけでなく、備中、備後にも及んでいる。備中の名刹具足山妙本寺(上房郡賀陽町)は、鎌倉時代、日蓮の人間性の偉大さにうたれ、法華経を信ずるようになり信徒となり、このため幕府から備中の奥地野山庄地頭職に左遷された伊達弾正朝儀によって創建された。妙実は伊達氏の保護のもと、妙本寺に多年とどまり布教に懸命の努力をした。
現在、京都の妙顕寺には、この頃日像から妙実にあてて出した書状が多く残されている。その内容は、南北朝の動乱期に、京都妙顕寺にあって飢餓と寺運中絶の危機にひんしていた日像が、金銭・物資の援助を訴えたものと、妙実の支援に対する礼状が見られる。この援助は伊達氏や松田氏らを中心とする備前・備中地方の法華宗信者たちに支えられることの少なくなかったことを物語っている。このことは、妙実の布教活動が進んでいたことを実証している。
妙実は、元徳二年(一三三〇)から興国二年(一三四二の約十三年にわたる長年月、備前を中心に備中・備後の三国にまたがる精力的な教化に努め、多くの信徒を得、未開拓の地に法華宗の足跡を残した。
妙実は師日像の死去により京都妙顕寺に帰り、そのあとを継いだ。そこで、妙実はその高弟日実を備前に派遣して、引き続き布教を着実に行わせた。今も妙実の「消息」が当蓮昌寺に所蔵されている。線は豊かで、筆跡は闊達である。
その大意は、「自分の跡継ぎである日実が、このたび福輪寺の屋根のふき替えをするので、それを助けてやってほしい」と見え、冒頭には、「ほんの少しでも寄進してくれた人がいれば、その人の名前をぜひ教えてほしい」と、わざわざ書き添えている。妙実の日実に対する愛情をよく物語っている。日実はのち帰洛して京都の妙覚寺を開創したので、県下の法華寺院のなか、特に備前に妙顕寺から妙覚寺の末寺に変ったものが中世には多かった。
妙実が京都にいた正平十九年(一三六四)六月、京都が大旱魃に襲われた。後光厳天皇の勅願によって、妙実は三百余人の僧徒をつらねて、雨ごいの大修法をしたところ、雨が降ってきた。その恩賞を求められた妙実は、日蓮に人菩薩号、日像・日朗に菩薩号を賜わることを願い、天皇から受け入れられたという。自分のことよりも師たちを思う妙実の心根が感じられる。
松田氏と歴代城主
初代 松田元国( ~暦応三年・一三四〇)
松田元保の嫡男。名を孫次郎といい、官途は左近将監。
法名は蓮華院殿秀巌日法人居士。建武二年(一三三五)、鎌倉幕府の討倒に軍功をたて、備前国守護と同国伊福郡(岡山市伊福町付近)などを賜わり、相模国から備前国に移った。そして富山城(岡山市矢坂東町、矢坂本町)を築いて、居城したといわれた。いわゆる金川・松田家の祖とされる。
二代 松円元喬( ~康氷三年・一三四四)
父は元国で、通称は孫次郎。官途は左近将監。法号は蓮昌院殿秀哲日妙大居士。妻は高崎蔵人高行の娘で、子息は元泰・元高・元行。暦応一一年(一三三九)、金川城(御津町金川)を築いて居城とした。富山城居城中、大覚大僧正が備前に布教に来たとき、真言宗福輪寺を日蓮宗に改宗したが、大僧正に帰依した。
宇喜多氏家臣と法華経
宇喜多直家はその法名を星雲涼友と称し、天台宗平福寺に葬られたので、法華宗の信徒ではなかったといわれるが、『備前軍記』によれば、「或日、宇喜多直家病重くなりて、侍臣を呼び、殉死すべきや否やを尋ねらるるに、(中略)
僧の引導するには、たれかまさり申すべき、常に信仰ましましし日蓮宗の僧にこそ一番に殉死して御用にも立つべしと申ければ、直家此事はわれあやまりなり、汝がいう所尤もよしとて、殉死を強いらるる事、止めにけりという。」
この文献が正確でないものとしても、直家が法華宗に大変な信仰と理解をしていたことは実証できる。
それもそのはず、直家の同族家臣たちの多くは、熱心な法華信者であった。『作陽誌』に、天正九年(一五八一)、福渡に法華宗の金福山妙福寺を、沼本(浮田)与太郎久家、日笠次郎兵衛頼房口二人で建立したと記している。この妙福寺建立について、「沼本家家譜」によれば、「備前一国を法華宗門にするようにと、直家公自ら日笠治郎兵衛、沼本与太郎に命令した」旨記している。
直家の弟浮田土佐守忠家も熱心な法華信徒で本久寺(和気郡佐伯町佐伯)を菩提寺とした。忠家は兄直家没後、幼き秀家の後見役として活躍した武将であるが、美作図勝南郡中河内村の豊蔵院に法華宗に改めるようせまったと、「備前美作古城主由来」に見える。
前掲の『作陽誌』によると、宇喜多氏一門が前述した金川城主松田氏にも劣らないほど、法華宗を保護し、他宗を迫害したことが、有名な名刹誕生寺(法然上人生誕地に建立された寺院)に記されている。
宇喜多直家が死去し、その嫡男秀家が岡山城主になると、キリシタン信者が勢力をのばした。明石掃部・長船紀伊・浮田太郎右衛門・中村二郎兵衛門など切支丹宗徒が家老などの重役に抜擢され、直家以来勲功をたてた老臣の浮田左京亮(のち坂崎出羽守)・戸田肥後守・岡越前守・花房志摩守などの法華信徒は重職からはずされ、ついに「御家騒動」に発展した。
大覚大僧正 夙外生
大正五年十二月二十一日印刷 下村宏之
篠ヶ迫の城下、備前府中の街頭に、法義を布くこと、七日八日。
因みに、篠ヶ迫城とは、別に鳥山城とも亦富山城とか言ふ、備前の古族 、松田氏の築く處にして世々、其の居城たり、福輪寺畷を隔て、中國街道に沿ひ、伊福の山嶺にあり、城址は、備前御津郡大野村字矢阪に位し、伊福の郷は、仝郡伊島村字津島一帯附遍を呼へり、 当時我国戦乱相続きて、天下麻の如く乱れ、上下の市民の士民は、自然殺伐の気風に流る、而も本化妙宗の教旨は、強く人意を力勵し、調節の法行、又壮気溌剌として、単明の教法、克く当時の生活とあい相伴ひ、信仰随喜の徒、愈々賣来す、大僧正、法輪一たひ轉ぜられんか、庶民耕営のてを休めて巻局聴問其の態恰も酔へるが如し。今日彼受法し、明日また彼帰依せり、と。一回は一回より、信徒の数を倍し来る、喧伝相承け、情態相迎えて法華を信受するもの、ここに愈々多きを加ふ。
囚みに、大覚大僧正辻説法の常時、小高き岩の上に立ちて、教義を布かれれる石を、法輪岩と称して、今猶ほ衆人の盤拝を集め、傍ら小形の石、また法談後、小憩されたりとて、腰掛岩の名を貽し、附近の岩石に樹当時其の袈裟を掛けられたりとて、今猶は多数信徒の、六百年の礼拝を戌何れも衆人、遺跡を吊ふて、香煙絶ゆる隙なし。
楢は新九郎田の、由緒の如き、常時恰も稲苗植付の、最中にして、農民新九郎なる者、田の前方へ向って、稲苗を植付けるを、甚た不便なる事と看、後退して、植へ行くの便利なるを教へられたりと云ふ、久しく津島の一遺跡として伝はり来りしも、今は十七師圃一部の敷地と為りて、其の俤を見るに由なー、之れ等の古寶は口碑として、世人等しく傅ふる處とす。
当時中國にありて、佛教を知れるは、‐天台、真言、禅、念佛の外、本化妙宗の如きは、絶て之れを知れる者なし、今大覚大僧正の弘教を目睹しては、何れも奇異の戚を持ち、聊か思慮ある者は、其の邪法邪教に非らさるなき哉、深き一朶の疑は、其の心を掩ふに至れ。
日々帰依受法する、信者の殖へ行く情勢を見て、先つ容易ならすと倣せしは、福林寺の住侶、良遊法印なり、廼、意を通して、大覚大僧正を山内に招き、先つ真言の教法を挙げけて、其の一疑一問か致す、大覚大僧正、其の挙くる處の、真言の教法を一々注釈して、而して問ふ處の、本化の教旨を示す、懇切丁寧、然も温雅幽姿、威容凡に非す、良遊相謁して、肇めて心中に堅く敬譲の思を興す、良遊一山の衆徒を説き、爰に拝信帰依の超誓を立つ鷲林山福輪寺の号を改めて、本化の霊所と成す。大僧正、錫を暫くここに止めて日あり。
この事、敏くも城主、松田元国、元嵩父子の聞く処と成り、頻蹙密に怪疑す、即ち其の重臣某を福輪寺に使はし、親しく之を検察せしむ。(難波備前守ならむ事)
使臣.福輪寺に大覚大僧正に閲す、また密に其の凡容ならさる事を知る、然も所説の法門を聞くに至って、始めて深甚の妙理を悟り、先つ隨喜の心か致す、之れ叉凡僧に非さる事を思へり、即ち帰城して、其の検察の旨を詳細に復命し、言を添へて教化を受けし機根を留術縷述す、茲に於て、松田益々之れを怪しみ、自ら賓非正邪を糺さんとし、日を更ため、大覚大僧正を城中に招し、傍ら真言の碩學教輩を集め置き、而して本化妙宗の激法を問ふ。乃ち、真言、念佛宗の立宗教旨を、以て佛法の誤解者たる。権教の要義を剔説す、進めて教外別傅の禅宗の立教に對して、玄旨を索きて天魔の業と褐破し、即ち妙宗正法の佛識にして、佛法の正解は、法の外にある事なし、と。断論して、周の穆王の古事を惹く。
曰く。…………周の穆王、一日中天竺の舎衛國に至る、此時釈尊群舘、霊鷲山に法華を説き玉ふ。穆王會座に望み、先つ佛を礼し、退いて一面の座に着けり、此時、釈尊問ひ宣はく汝は何れの國の人ぞ。穆王答へて、吾は震旦の國王なり、と。佛重ねて宣はく、善哉々、………汝今此の会場に来る、我に治國の法を有てり、汝受持せんと欲する否、と穆王願はくは吾信受奉行して、理世安民の功徳を施さん。其の法有てり、受水行’して。理世安民の功徳を施さん。其の時、佛漢語を以て、四要品の中の二句の偈を授け玉ふ、其の後、魏の文帝、宝祚より、法華経律、深秘の術を愛く禀く文帝之れを請けて、菊花の盃を伝へて、万年の壽をなせり。我國重陽の御宴即ち之なり。其より後、皇太子位を天に受け玉ふの時、必ず先つ此文を受持し玉ふ。此文我國に傅御即位の日、必す之れ受持し給ふ。(後の歴代の天皇中に受禅し給ふと見ゆる之なり。(若し幼主の君、賤祚ある時は、摂政先つ是を受けて、御治世の始に必す、惜政先つ是を受君に捧げ奉るけで、御治世の始に必す、君に捧け奉る。此八句の偈の文、三國傅来して理世安民の治略、除災興楽の要法と倣れり、之れ皆偏へに妙宗正佛法興隆せん、況や佛説き玉へる、正法を解せすして、何を大道を照す事を得む、況や権門の教法に則つてをや、理世安民の要道、偏に法花妙法の宗綱に懸鎚す、宝祚長久の基、王法の繁昌は、正しく佛法擁護に先先住すべし、と。………
淳々として、本化の宗綱を説き。和光同埃、月明らかに、傍りの人の心の闇を照す。萬座闃さして聾なら。元喬忽ち法華を持受せん事を請ふ。列座の僧侶、等しく妙宗に受法し三賓に誓を立つ。松田元國、元喬の父子、既に受法帰依して、内に洗膳の供養を怠らす、外極端の椎護を為す、(岡山、佛住山蓮昌寺の項参照)、備前四郡に妙宗の流布したる、誠に洵に故なしとせす。
「松田元喬、妙宗帰依の状況等は、元禄版の、道林寺縁起、詳細に之を伝へり。」