11月 2013 のアーカイブ

備後路歴史探訪

2013年11月24日

岡山歴史研究会主催 第7回 探訪会「備後路の歴史探訪」平成25年10月27日(日)

①   備後国分寺跡

                         昭和47(1972)年から同51年にかけて発堀調査がされ、金堂跡、塔跡、講堂跡、南大門跡、築地跡等の伽藍配置から、東に塔、西に金堂、その背後に講堂が並ぶ法起寺式の配分である事がわかった。塔、金堂を囲む中門跡、回廊跡は末検出。寺域は東西180m、南北はそれより少し長い。わずかに版築された基檀土を確認。塔は一辺が18m、金堂は縦蘭29.4m、南北20mと推定される。講堂跡は版築土と礎石列が検出され、東西内30mと推定された。大量の瓦、須恵器、緑釉陶器が出土した。瓦は奈良期から室町時代に亘るものが出土している。更に寺跡の下層には弥生時代の集落跡も埋もれている。御領遺跡と呼ばれる広域にわたる弥生時代集落跡が眠る一帯に含まれている所でもある。

 南から北に伸びる長い参道には、南大門跡・講堂跡等の石碑が建てられている。参道の両側には昔の建物の礎石であったであろう平らな石が多く見られる。境内の一角の最上段石垣の下に三体の石地蔵と並び、明和一揆の首諜者で処刑された、好右衛門義挙之碑が建っている。また、裏山一帯は国分寺裏山古墳群と呼ばれていて古墳が多い。        (根岸尚克)P1000564 P1000576-2P1010619 P1010626

②    小山池廃寺(車窓)

塔の基檀は一辺13.2m、高さ1.2~2.1m、側面に割石が積まれていた。1.7mの礎石もみつかり、深さ10cmの舎利孔があった。塔の跡の西には、東西32.4m、南北14.4mの基壇があり、講堂跡と思われる。さらに塔の跡の東の八幡神社の社殿の下にも基壇があった。これは金堂の跡であろうか。これら三棟の建物は塔を中心に車西一列に配置されている。白鳳~平安時代後半の軒丸瓦、軒平瓦もみつかった。最も古いものは持統天皇の藤原宮出土のものに良く似た軒瓦で、創建は白鵬時代の終り頃で、国分尼寺建立の詔の出された天平13年より遡ることとなる。  (安原誉仕)P1010635 P1010636

③    最明寺跡(駅家跡 車窓)

遺跡名は、北1キロにある最明寺の故地と伝えられていることから名付けられた。 中世の頃に寺が建って、採集された奈良時代の瓦が 備後国府跡推定地(府中市)や備後国分寺跡(神辺町)から出土したものと同じ文様で、 すぐ南側の切通しを古代山陽道が通っていたことや、最明寺の山号が「馬宿山」であることなどから、 古代には「駅家(品治駅)」があったと考える説が有力。 中・近世の石塔類もあり、各時代の複合遺跡といえる。P1000600 P1000601 P1000611-2

④   二子塚古墳

標高50m前後の低丘陵上に所在する前方後円墳である。 発掘調査の結果,墳丘長68m,墳丘の周辺には幅1.6~4m,深さ1.8m程度の周溝が全周し,それを含めた総長は73.4mになり,備後地域を代表する大規模前方後円墳である。

 埋葬施設は,前方部と後円部に横穴式石室が1基ずつある。後円部のものは両袖式で,全長14.9mと吉備有数の規模を誇る。石棺は播磨の竜山石製の組み合わせ式石棺であった。副葬品は須恵器・鉄製武器・馬具とともに、太刀に伴う金銅製双龍環頭柄頭(そうりゅうかんとうつかがしら)は珍しい意匠で注目される。副葬品の内容から、古墳の築造は6世紀から7世紀初頭ころと考えられる。

備前・備中地域においては、古墳時代前・中期に巨大な前方後円墳が築造されたのに対し,備後地域では、この古墳が突如として出現した。玄室内の石棺は,地元で採れる浪形石ではなく、畿内地域の前方後円墳などに採用された竜山石を用い、石室構造や出土遺物も畿内地域と関係があったことを示す。

このように,二子塚古墳は、7世紀前後のヤマト政権と吉備との政治状況を知ることができる点て,極めて重要な古墳である。im_0003P1000649 P1000652 P1000653

⑤   しんいち歴史民俗博物館

福山市北西部地域の文化・文化財(歴史・民俗・考古・産業等に関する資料)の保存と活用を図ることを目的とした博物館。特に福山市北部地域の主要産業であり,繊維産業の礎である「備後絣」の保存と活用に取り組んでいる。

福山市あしな文化財センター

 福山市北西部の埋蔵文化財の調査・研究,収集した文化財の収蔵をしている。DSC01474

⑥    備後吉備津神社

「西備名区』巻之四五の宮内村の項には、虎睡山、吉備津宮の由緒として、「吉備四国にわかれて後、美作は別に一宮社を建てより、久しく中山の古備津宮を以って三州の一の宮と唱えしが、推古天皇の朝(592~628)年に、有鬼氏、本州に吉備津宮の宿所を定めんと、暫く霊地を求め此に至る。山の姿が猛虎の眠るに見え、虎睡山と号す。古くは、三宮本宮、新宮、正宮中山に准す。元弘兵火の後、一殿となる。」とあり吉備津神社は、平安時代に備中国の吉備津神社を分祀したものである。

『新市町史』によれば、吉備津神社の資料上の初見は、鳥羽院政期の久安四(1148)年、京都祇園社の料所として宛てられたことから、12世紀まで遡ることができる。この吉備津神社を中心に、品治郡を拠点とした宮氏は、南北朝以降に勢力を伸ばした豪族で、元弘元(1331)年にここで挙兵した桜山四郎入道慈俊も宮氏の出と云われている。天文9(1540)年には、神辺城主山名理興により鐘楼が寄進された。毛利氏時代には、社領300石と56石の造営領が安堵され名実ともに備後一の宮となっている。江戸時代には、福山藩主水野勝成によって慶安元(1648)年に現在の本殿が造営された。秋の祭礼には、備後一国の一四郡から神職が集い、神事が盛大に行われた。     (杉原道彦)DSC01483 DSC01499P1010660 P1010662 P1010672 P1010675-2

⑦   広島県立歴史博物館

草戸千軒町遺跡出土品(国の重要文化財)を中心に瀬戸内地方の交通・交易や民衆生活に関する資料などを展示している。P1010699

⑧   明王院

中世には常福寺とよばれる西大寺流律宗の寺院であったことが知られている。

 明王院に伝わる近世の資料によれば、常福寺は807年(大同二)、弘法大師の開基とされている。本尊は重要文化財の十一面観音立像で、平安時代中期、一〇世紀前半の作品とされる。 本尊の製作年代と、遺跡の下層から出土している緑釉陶器の年代は近い関係にあり、現在の明王院の前面一帯が常福寺の建立に関係して開発された可能性もある。ただ、現存する本堂と五重塔(ともに国宝)は、昭和30年代に実施された解体修理によって、本堂が鎌倉時代末の1321年(元応三)、五重塔が南北朝時代の1348年(貞和四)に建られた。P1010715 P1010724

肥後熊本 2

2013年11月15日

肥後熊本大会 第2日 見学会②  10月20日(日)

古代ロマンの宝庫くまもと

①    西南戦争遺跡群】国指定史跡

西南戦争最大の激戦地。高瀬(玉名市)から熊本に至る主要道路の玉名郡玉東町木葉―熊本市北区植木町間にある。当時砲車を通す唯一の道路であった。加藤清正が熊本城の北辺を固めるためにつくったといわれ、道路は緩やかな傾斜であるが、曲折する凹道がつづいている。

明治10年2月22日、乃木希典少佐指揮の歩兵第14連隊は、熊本城包囲から北上した薩軍と植木で戦い本葉に後退したが、この時連隊旗手河原林少尉が戦死、軍旗を失う。翌23日薩軍は高瀬に進出したが夕方後退。 25日増援の官軍第一、第二旅団が南関に到着。 26日官軍は高瀬、植木の薩軍を攻撃、その前軍となった歩兵第一14連隊は田原坂上まで進出したが、午後三好第二旅団司令官の命令で高瀬に後退。27日薩軍は高瀬の官軍を攻撃したが夕方後退し、田原坂、吉次峠を連ねる陣地を構築した。3月3日豪雨の中官軍の本軍は田原坂の薩軍を攻撃開始、9日まで休まず力攻したが成功せず、薩軍の切り込みにより、また坂上からの狙撃による将校の死傷が多かった。 11日官軍も警視隊から選抜した抜刀隊を先頭に早朝から攻撃したが、15日まで一進一退を繰り返した。17、18日は坂正面から攻撃したが失敗。 20日再び雨のなか早朝官軍の全力を挙げて総攻撃、坂上の薩軍陣地を突破、先頭は昼前に植木に入った。攻撃開始以来17日、多数の死傷者と弾薬を消費して田原坂を突破することができた。日本陸軍が最初に体験した大消耗戦であった。

文化庁は、平成25年3月、我が国近代の政治・軍事を知る上で重要な遺跡として、田原坂古戦場、二俣官軍砲台跡、横平山古戦場、半高山・吉次峠古戦場、正念寺山門、宇蘇浦官軍墓地などの9ヵ所を国史跡の認定をした。明治以後の戦跡に関する本格的な史跡指定としては全国で初めてである。

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【熊本県立装飾古墳館】

国の史跡に指定されている岩原古墳群の近くに、平成4年(1992)に開館した考古学博物館。建築は安藤忠雄。県内の主要な装飾古墳のうち、12基を選び、これらの精密なレプリカを作り、出土した副葬品などと共に展示している。

熊本県内には装飾古墳が196ヵ所に点在し、全国一の数を誇っている。そのうち117もの古墳が菊池川流域で発見されている。これは古代からこの地が文化・文明の中枢であったことを物語っていると言って過言ではない。P1010497 P1010499 P1010507 P1010510 P1010511

 

【八千代座】 国指定重要文化財

明治44年(1911)、現山鹿市九日町に建設された、伝統的芝居小屋形式をもつ本格劇場。木造一部3階建て、延べ面積165㎡。このような劇場で現存するのは、全国で福岡県の嘉穂劇場、香川県の金丸座、明治村に保存中の呉服座と八千代座のみ。明治末期、山鹿の有志は八千代座組合会を結成し、拠金により建設費を準備するとともに、その運営にあたった。設計は、中村只八、島田寅次郎、木村亀太郎。熊本の大和座(のちの歌舞伎座)をモデルとし、やや小型となったが、廻り舞台、本花道、仮花道、迫り、スッポンなどを備えた本格劇場。当時の建設総額は2万955円。木村亀太郎は、このあと隅府桜座も手掛けた。大正期から昭和にかけての大衆演劇爛熟期にその全盛を誇った。戦後も映画、演劇用の劇場として利用されたが、テレビの普及など時代とともにやがて閉鎖。昭和40年代に老朽化し朽ち果てる寸前の八千代座を、山鹿の老入会が「瓦一枚運動」で募金を行い、5万枚の屋根瓦を修復。その後、復興に向けた取り組みにより5年がかりの修復を経て平成13年に復元された。平成2年から「坂東玉三郎舞踊公演」が定期的に開催され、全国に八千代座の名を広めていった。また世代やジャンルを問わず、様々な公演が催されている。

「い・ろ・は」から始まる桟敷席や舞台装置すべてが健在し、奈落の底で廻り舞台(人力式)を支え続けるレールには、1910年のドイツ・クルップ社の刻印が刻まれている。P1010532 P1010536 P1010538 P1010540 P1010542 P1010549

 

【鞠智城】国指定史跡

天智2年(663)の白村江の大敗を契機に西日本に築かれた古代の山城の一つ。文献では『続日本紀』の文武2年(698)の繕治(修理)の記事が初見で、以降『文徳実録』『三代実録』『類聚国史』などに記事が見え、元慶3年(879)を最後に文献から姿を消す。鞠智城の所在地については古くから考証されてきたが、昭和に入ってから鹿本郡菊鹿町(現山鹿市菊鹿町)米原を中心に菊池市堀切一帯に種々の遺構があることがわかった。昭和42年(1967)から44年の調査で遺構の発掘が行われ、鞠智城の所在が決定づけられた。

城の中心は、米原字長者原、長者山一帯である。長者原では多量の焼米と建物礎石が見つかった。長者原の西方、通称宮野では東西三間、南北九間の長大な瓦葺きの建物礎石が一棟分、良好な状態で残っていた。内部を三部屋に区切った奈良東大寺の正倉院風の構造が推定される。長者山の頂上部には四間×三間の建物が六棟以上あり、福岡県大野城の建物群の配置と似た状態を示す。城の中心部が耕作地と居住地であるため移動した礎石も少なくないが、数十棟の建物群があったとみられる。文献には「兵庫」「倉」など記されているので、食物倉や武器倉などと推定される。長者原の北西側、菊池川流域の平野を望む尾根上には土塁が見られ、南側の要所には三ヵ所に門礎がある。

これらの発掘調査に基づき、平成6年度から八角形鼓楼、米倉、兵舎、板倉等を復元、整備を進め、昭和42年度から平成22年度平成20年(2008)には、百済系の銅造菩薩立像が出土し、古代山城の築城に百済の貴族が関わったという『日本書紀』の記述内容を裏付ける考古学資料として鞠智城の歴史的意義や学術的価値において注目を集めている。

このようにその評価が高まっている現在、熊本県では国指定史跡鞠智城跡(山鹿市・菊池市)の国営公園化を目指した取組みを進めている。P1010583 P1010586 P1010587P1010557 P1010558 P1010564 P1010565 P1010569 P1010573 P1010575 P1010581 P1010582

 

肥後熊本 1

2013年11月13日

歴史研究会の全国大会が肥後熊本であり初日講演、歓迎会があり、2、3日目は肥後熊本を史跡を案内いただきました。

講演は島津義昭先生(崇城大学芸術学部講師 元九州考古学会会長)が古代ロマンの宝庫くまもと」と稲葉継陽先生(熊本大学文学部付属永青文庫研究センター教授 副センター長)の「近代史研究の最前線-永青文庫細川家史料から-」がありました。

肥後熊本大会 第2日 見学会①

加藤・細川家が遺したもの

【水前寺成趣園】

細川家文書によると、熊本藩主初代忠利が、寛永13年(1636)に作事した「国府の御茶屋が始まりで、当時は露地と草庵風の数寄屋だけであったという。「水前寺」は御茶屋と同時に建立された寺で、豊州国羅漢寺の僧玄宅を迎えて開山とした。その後まもなく御茶屋は水前寺の所有となり「水前寺御茶屋」と呼ばれるようになった。

寛文5年(1665)、水前寺は無住となったため、御茶屋は寺地とともに熊本藩に引揚げられ、寛文10年(1670)に細川綱利により大規模な普請が行われた。作庭は茶道役萱野甚斎、二代目古市宗庵を中心に進められ、池辺の御茶屋「酔月亭」も作事された。この時期の普請が現在とほぼ同模の庭園として完成され、陶淵明の詩『帰去来辞』の一節「園日渉以成趣」からとって「成趣園」と名付けられた。

阿蘇伏流水の豊富な湧水を活かした桃山様式の回遊式庭園で、東海道五十三次を表したといわれており、綱利はここで水前寺十景(阿蘇白煙、龍田紅葉、瀬田山雪、国分晩鐘、前林梅花、飯田夕陽、岩泉清流、健宮杉風、水隈乱蛍、松間新月)を選んで、楽しんだという。

細川重賢の宝暦の改革でただ一つ残された酔月亭も、明治10年(1877)の西南戦争で焼失し一時荒廃するが、大正元年(1912)酔月亭の焼け跡に「古今伝授の間」が移築され、大正14年(1925)に通称を「水前寺公園」とし、昭和4年(1929)には国の名勝・史跡に指定。現在では、毎年8月に細川家歴代を祀るための御神事として薪能が行われ、春秋例大祭奉納行事として武田流流鏑馬等が催されている。P1010244 P1010245 P1010253

【五高記念館・化学実験場・赤門(熊本大学内)】

旧制第五高等学校の赤煉瓦の本館は明治22年8月に完成し、以来100年以上の風雪に耐えながら、今なお優美な姿を留め、平成5年より「熊本大学 五高記念館」として一般公開されている。

また、この校舎では、夏目漱石、小泉八雲、嘉納治五郎ら多くの優れた個性あふれる教師が教鞭をとり、またここから、池田勇人・佐藤栄作の二人の総理大臣をはじめとする多くの有為の人材が各界に送り出されてきた。 五高記念館には、五高時代の教育資料が展示されている。第2室には、第3代校長嘉納治五郎が学生の希望によって勝海舟に懇願して揮毫してもらった勝海舟の「入神致用」の扁額がある。柔剣道場の剣道部の正面に掲げられていた。

第3室には、夏目漱石の開校記念式の祝辞がある。明治29年(1896)4月13日、第五高等学校の英語教師として赴任する。明治30年10月10日、教員総代として教授夏目金之助が読んだ祝辞の一節「夫れ教育は建国の基礎にして、子弟の和熟は育英の大本たり」の文章は今なお教育についての高い評価を受けている。

第4室は、復元教室で、五高時代の教室がそのままに保存してある。漱石や八雲がここで教えていたことが実感できる場所である。P1010300 P1010301 P1010303

【泰勝寺跡】国指定史跡

細川家菩提寺跡。寛永9年(1632)の細川氏肥後入国後、蕃主忠利の父忠興(三斎)は八代城に入って、小倉に建てた父藤孝((幽斎)祀る泰勝院を八代に移建した。熊本城主となった忠利も、寛永14年立田山山麓に、祖父藤孝と祖母麝香の方および母玉子(ガラシャ)を祀る寺を建立して泰勝院と名付けた。泰勝院は藤孝の院号である。

忠利の死後、その子光尚は京都妙心寺(臨済宗)の大淵和尚を招いて住職とし、正保3年(1646)に忠興が亡くなると、玉子の隣にその墓を営んだ。藤孝夫妻、忠興夫妻の廟が並んだので、現在これを“四つ御廟”と呼び習わしている。光尚はその後、八代泰勝院を廃して立田にあわせ、瑞雲山泰勝院と改めたが、綱利の時山号をさらに龍田山と改称した。忠利以後9代治年までの藩主は妙解寺に葬られたが、10代斉茲と11代斉樹は再び泰勝寺に墓が建てられた。

明治初年、「神仏分離令」が出されたとき、細川家は妙解寺、泰勝寺を廃して別邸とし、秦勝寺本堂を神式の祠堂に改めた。

昭和30年(1955)熊本市は細川家より庭園部分を借り受け、立田自然公園として一般に開放している。庭園内の池と山林は調和して幽邃の景観をつくり、三斎好みの茶室仰松軒、苔園、梅晦園も見事である。また、伝宮本武蔵供養塔や、戦国期の板碑もある。

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【熊本城】国指定特別史跡

加藤清正が幾多の実戦経験を活かし、熊本市の中心茶臼山に築いた近世城郭で、日本三名城の一つに数えられている。

それ以前にもこの茶臼山―帯には中世城が存在し、記録に残る最古の城は、応仁年間 (1467~1469)に茶臼山の東端に築かれた千葉城で、城主は菊地一族の出田秀信。次に明応5年(1496)に鹿子木親員、別名鹿子寂心が茶臼山西南麓に「隈本城」を築いた。城の規模や場所は判然としないが、現在の古城と呼ばれる一帯にあったようである。その後九州も菊池氏、大友氏、島津氏、龍造寺氏などが争う戦乱の時代を迎え、隈本城には天文19年(1550)大友氏の配下、城親冬が入ることとなる。

天正15年(1587)豊臣秀吉の九州平定により、佐々成政が領主として肥後に入国するも、国衆一揆が起こり、成政は切腹。翌年肥後は北半部宇分を加藤清正に、南半分を小西行長に分け与えられることになり、清正が隈本城に入り、慶長12年(1607)に熊本城が完成するまで隈本城を本拠としていた。

清正は、完成した城と町を「熊本」と改める。茶臼山は、熊本平野に北から突出した京町台地先端の,標高50mの丘陵である。東には坪井川,西には井芹川の谷が一面の湿地帯をつくり、南には沼沢湿地が広がり,その先には両川を合わせた白川が西南へ流れている。清正はその白川を外堀に見立てて,茶臼山の南麓沿いに坪井川の流路を移し,これを井芹川と合流させて,城の内堀に代用した。城下町は、白川の右岸に設け、そのなかで坪井川と井芹川の内懐に新町を開いた。茶臼山は東高西低の地形で、東、南、北の三方は断崖となっている。そこで西南側の崖下には湧水をたたえた深堀をめぐらして、新町との間を区切り、北の京町台地との間の地峡を掘り切って一条の馬背道だけを残し北側の守りを固めた。台地の最西端の古京町、漆畑、段山は防衛の第一線で、次は一段高い宮内の藤崎台、第三線は二の丸、第四線で初めて本丸の一角西出丸に達し、最後に東端の最高地に達する。熊本城が西向きの城と呼ばれるのはこのためである。城の防衛上の配慮は築城から270年後の西南戦争で実証され、名城の名をさらに高めた。

加藤家は清正の子忠広のとき、寛永9年(1632)に改易され、小倉から細川忠利が領主なって入国した。忠利は国入りの行列の先頭には清正の位牌を掲げ、入城する際は大手門で深々と額ずき、天守に登って清正の眠る本妙寺に向かい頭をさげたと伝られている。

以後、細川家が11代にわたって保った城となるのである。

明治時代になると、軍の「熊本鎮台」が置かれたため、西南戦争の戦いの場となり、原因不明の出火で天守閣や本丸御殿などが焼失してしまう。しかし前述の通り、50余日間の籠城に耐え、難攻不落の堅固な造りであることを知らしめることにもなった。

西南戦争でも焼けずに残った宇土櫓は、昭和25年(1950)に国指定重要文化財に指定。昭和30年(1955)、熊本城跡は国の特別史跡となる。

昭和35年(1960)には、古写真などをもとに外観をまったく同じに大小天守閣を再現し、往時の天守閣が蘇った。その後、数奇屋丸二階御広間などを復元、そして平成20年(2008)4月、行政の場・歴代の肥後藩主の対面所(会見の場)として使われてきた「本丸御殿大広間」が絵図や文献、明治期の古写真などの史料をもとに復元され、熊本城にさらなる魅力が加わった。

国指定重要文化財:宇土櫓、源之進櫓、四間櫓、十四間櫓、七間櫓、田子櫓、東十八間櫓

北十八間櫓、五間櫓、不開門、平櫓、監物櫓(新堀櫓)長塀

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【本妙寺】

加藤家代々の菩提寺で日蓮宗の名刹。天正13年 (1585)に加藤清正が父清忠の菩提寺として大坂に建立し、本妙寺と号す。肥後入国後、熊本城内に移し、清正の逝去後は遺言状により現在の中尾山中腹に移建され、廟所を造営。清正の法号により浄池廟(じょうちびょう)と号した。

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【霊巌洞】

宮本武蔵が熊本に来だのは寛永17年(1640)、堪忍分の合力米三百石の客分待遇で、千葉城跡に居宅を与えられ、細川氏三代忠利に仕えた。以後約5年間の晩年を熊本で過ごし、「兵法三十五ヶ條』『五輪書』『独行道』などを著し、茶、禅、書画三昧の日々を送った。

法名二天道楽居士。春山和尚の引導で飽田郡五町手永弓削の地(現熊本市・武蔵塚)に葬られたという。これは、恩顧を被った細川藩主の参勤交代を草葉の陰から拝したいという武蔵の願いからといわれている。

武蔵はまた日本水墨画史上に独自な位置を占める画人でもある。

「枯木鳴鵙図」「鵜図」「蘆雁図」「達磨図」などの名品の多くは、熊本におけ晩年作思われるが、特定の流派の技法にとらわれることなく、自在に描かれたその画境には武人画家の鋭い気迫がうかがえる。

 

武蔵が死の直前まで一人きりでこもり、「五輪書」を書き 上げた霊厳洞は、金峰山西の岩殿山・雲巌禅寺の中にある。

この寺は室町時代の始頭に中国の僧東陵(とうりょう)に よって建てられたもので、武蔵はここでなんども座禅を組 み、武士道に通じる禅の修行を行なったとされる。霊巌洞での修行のきっかけは忠利の死への深い失望であったようだが、武蔵がここで著述した「五輪書」は武蔵の二天一流兵法の極意書であり、日本だけでなく海外でも多くの人に広く読まれている。また、武蔵の臨終(正保2年-1645)はこの霊巌洞であったという説と千葉城であったという2つの説が残されている。(雲巌禅寺境内は県指定史跡)P1010386 P1010387 P1010393 P1010397 P1010401 P1010408 P1010417 P1010422

 

 

「新邪馬台国サミット」12月1日

2013年11月11日

im_0001im_0002平成25年12月1日(日)の午後1時から3時10分に山陽新聞社9階講堂でテレビせとうち主催の「新邪馬台国 G5シンポジュムが開かれます。

前回、近江、山陰、吉備の邪馬台国が紹介され好評につき、今回、丹波丹後、阿波が紹介されます。

参加費は、2000円、懇親会は、1500円で事前申し込みが必要です。

市久会、矢坂山を語る会も後援しています。

蓮昌寺を創建した富山城主松田元喬

2013年11月8日

江戸時代の史書あるいはロ碑によると、大覚が備前に最初に入ったのは御野部浜野村(現、岡山市浜野)で、大覚はこの地の豪族多田氏の保護を得て、同地に松寿寺を創立し、ついで二日市(現、岡山市二日市)に妙勝寺を開き、これが備前日蓮宗の始まりであると伝えているが、この点についてはなお十分な確証がない。大覚はおそらく京都から船便を利用して県下に入ったと思われるが、その最初の上陸地がどこであったか、今のところ知るすべはない。しかし、大覚が南北朝の動乱期に、備前・備中さらに隣国備後の地に、民衆の新しい宗教である日蓮宗を、精力を傾けて多年にわたり布教したことは、動かし難い事実であり、山陽道における日蓮宗の本格的な伝播は、この大覚の努力によって始まったのである。今日県下には、大覚によって開創されたという寺伝をもつ口蓮宗の寺が、おそらく二〇か寺以上を数えるであろう。もちろん、これらの寺伝のすべてが、そのまま歴史事実であるとは、にわかに信ずることはできないが、大覚の布教が、県下日蓮宗の発展にとって、いかに大きな役割を果たしたかを知る傍証とはなり得るであろう。

しかし大覚については、今日なお不明に属する部分が多い。例えば、大覚の出自についても、江戸時代の史書あるいは宗門の所伝では、後醍醐天皇の皇子とし、あるいは関白近衛経忠の子であったと伝えるが、前者については疑わしく、後者についても確証はない。また今日一般に信じられている妙実・大覚同一人説も、まだ疑問の余地はある。ただ、大覚について確かに言えることは、東国の出身ではなくして関西に育った人であり、また当時日蓮宗僧侶の大部分が「日」号を有したに対して彼のみが大覚という特異な呼称を持っていたことから、もとはおそらく真言宗の僧侶であったと推定できるのである。

ともかく、大覚の県下での事蹟も、確実な史料によって実証できるケースはすくない。この意味で、今日岡山市の蓮昌寺に残っている大覚自筆の消息は、数少ない大覚の確実な史料の一つとして、貴重な文献である。この消息の内容は、西国門徒に宛てて、福輪寺の御堂の上葺くについて、たとえ一紙半銭なりとも、かれらの浄財を寄せてくれることを依頼したものである。この福輪寺は、現在の岡山市津島の妙善寺の前身で、『源平盛衰記』にもその名の出てくる備前の真言宗の古刹であった。大覚が、この福輪寺の上葺のために、宗門の信者たちに浄財の寄付を依頼しているからには、このころ福輪寺が大覚の支配のもとにあり、かつ日蓮宗に転宗していたと信ぜられる。この福輪寺の日蓮宗への転宗のいきさつについては、後世の史料ではあるが、江戸時代元禄版の『道林寺縁起』が次のように伝えている。

このころ福輪寺の座主は良遊法師といったが、この良遊が、津島往還の街路で説法していた大覚に対し、宗論をいどんで論破され、一山ともに法華宗に転じた。当時備前富山城主(現、岡山市大安寺)であった松田元喬は、このことを聞いて名刹の転宗を嘆き、大覚と真言僧を富山城中に呼び寄せ、宗論によって正邪を糺さんとしたが、元喬も、ついに大覚に感化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号の蓮昌院殿をとって、これを蓮昌寺と名づけたという。

蓮昌寺の資料によると

蓮昌寺はいわゆる備前法華の中心道場として栄えた日蓮宗の巨刹で、山号を仏仕出、主院を龍華樹院と号する。かっては檀家七千を有したといわれ、一万坪におよぶ境内地には国宝の本堂をはじめとする七堂伽藍が蔓を並べ、その偉容を誇っていたが、惜しくも、第二次世界大戦の戦火で灰燼に帰した。しかし、寺宝である大曼荼羅(日蓮宗宗宝・岡山市重要文化財)だけは、その難を免れた。

開山は龍華樹院目像聖人。その高弟大覚大僧正が備前地方弘通の砌、これに帰依した備前の領土松田左近将監元喬により、光厳天皇の正慶年中(一三三二~三四)あるいは、後村上天皇の康永三年(一三四四)に創建されたと伝えられる。寺号を蓮昌寺と称するのはその法号に基づく。もと岡山城中、榎の馬場(えのきのばば)にあったが、天車元年(一五七三)宇喜多直家が亀山城(沼城)より岡山城に入るや、これの大改築工事にとりかかり、蓮昌寺を旭川の対岸国富に移し、更に続いで慶長六年(一六〇一)小早川秀秋が外濠(そとぼり)に沿って、郭外に寺町をつくったとき、同寺を現在の地に再移転した。戦災で焼失した桁行(けたゆき)三六、七m、梁間(はりま)三五、八mの本堂は再移転のとき秀秋大勧進となって建て、岡山城下の名物的存在であった。

蓮昌寺の古い縁起書には、次のように誌されている。

◆蓮昌寺の縁起

蓮昌寺は岡山第一の巨刹にして、堂宇の宏壮なる、その類稀なり。此の開基をたずぬれば光厳天皇の正慶年中、松田将監元喬の創造する所にして、実に我国紀元一千九百九十二年及び一千九百九十三年の間に在り。寺号を蓮昌寺と称するは、将監元喬の法号に基づき、西国にては日蓮宗最初の道場にして、其本山は京都妙覚寺たり。当初備前岡山城内の大手筋なる榎の馬場にありしが、天正年中宇喜多直家当国の本寺代として再興した。

明光山妙勝寺(現、岡山市ニ日市)も妙実の開基と伝えている。当寺の「由緒書」に、「当山ハ人皇八十九代、後村上天皇御宇、興国三年(一三四二)、大覚大僧正中国弘通ノ際、当地に錫ヲ留メ給ヒシ時、後醍醐天皇勤仕ノ武士多田頼貞厚ク覚師(大覚大僧正)ヲ請シ法ヲ聴カシム。阿比宿縁アリテカ頓二悟り、捨邪帰正信仰益々深ク、遂二邸ヲ改メテ法華堂ト為ス。是レ当山ノ草創ナリ。因テ入党大僧正ヲ仰テ開祖トス。と見える。二日市に、中世のころ、阿比氏という豪族が住み、多田頼貞との関係も深く、大覚大僧正に帰依して、自分の居館を法華堂になおした。これが妙勝寺の始まりである。なお、現在の寺地は、すべて阿比氏の屋敷跡と伝えられる。

妙実は京都から海路を使って備前に入ったと思われ、備前・備中は勿論のこと備後の地までも精力的に布教している。妙実がいかに布教に努力したかを実証する確実な史料の一つとして、「妙実自筆の消息」が、当蓮昌寺に残っている。その貴重な文献の内容は、「西国門徒にあてて、福輪寺(岡山市津島)の御堂の上葺のため、たとえ一紙半銭たりとも浄財を寄せてくれるよう依頼したもの」で大変貴重な史料である。

この史料に見える。福輪寺”は、『源平盛衰記』などにもその名がみえる真言宗の占刹であった。同寺の修理を妙実が頼んだということは、このころの同寺は妙実の支配下のもとにあり、法華宗に転宗されていることを意味している。同寺の法華宗転宗については、後世の史料ではあるが、「道林寺縁起」(江戸元禄版)に次のように記している。

このころ、福輪寺の座主は良遊法師といった。この良遊が、津島往還の街路で説法していた妙実に対し、宗論をいどんで論破され、一山ともに法華宗に転じた。当時、備前富山城主(岡山市大安寺)松田元喬は、このことを聞いて名刹の転宗を嘆き、妙実と真言宗僧を富山城中に呼びよせ、宗論によって正邪を糺さんとしたが、元喬もついに妙実に感化されて法華宗に転じ、やがて一寺を創立し、自分の法号の。蓮昌院殿”をとって、これを「蓮昌寺」と名づけたという。」

当蓮昌寺の創建と寺名はこのような理由からできあがった。当今の歴史をよく実証している。今日、中国地方には妙実によって開山、創建されたと伝える寺は、おそらく四十ヶ寺を数えることができる。

実証するものとして、備前には妙実自筆と伝える題目石が多く残っている。「大光院の康永四年(一三四五)法華題目石」(県指定重要文化財、岡山市円山)を始め法泉寺(和気郡和気町)、大覚寺(都窪郡清音村)、大覚堂(岡山市辛川)の四基でまた、妙実にまつわる伝承も多い。

妙実の足跡は、ただ備前だけでなく、備中、備後にも及んでいる。備中の名刹具足山妙本寺(上房郡賀陽町)は、鎌倉時代、日蓮の人間性の偉大さにうたれ、法華経を信ずるようになり信徒となり、このため幕府から備中の奥地野山庄地頭職に左遷された伊達弾正朝儀によって創建された。妙実は伊達氏の保護のもと、妙本寺に多年とどまり布教に懸命の努力をした。

現在、京都の妙顕寺には、この頃日像から妙実にあてて出した書状が多く残されている。その内容は、南北朝の動乱期に、京都妙顕寺にあって飢餓と寺運中絶の危機にひんしていた日像が、金銭・物資の援助を訴えたものと、妙実の支援に対する礼状が見られる。この援助は伊達氏や松田氏らを中心とする備前・備中地方の法華宗信者たちに支えられることの少なくなかったことを物語っている。このことは、妙実の布教活動が進んでいたことを実証している。

妙実は、元徳二年(一三三〇)から興国二年(一三四二の約十三年にわたる長年月、備前を中心に備中・備後の三国にまたがる精力的な教化に努め、多くの信徒を得、未開拓の地に法華宗の足跡を残した。

妙実は師日像の死去により京都妙顕寺に帰り、そのあとを継いだ。そこで、妙実はその高弟日実を備前に派遣して、引き続き布教を着実に行わせた。今も妙実の「消息」が当蓮昌寺に所蔵されている。線は豊かで、筆跡は闊達である。

その大意は、「自分の跡継ぎである日実が、このたび福輪寺の屋根のふき替えをするので、それを助けてやってほしい」と見え、冒頭には、「ほんの少しでも寄進してくれた人がいれば、その人の名前をぜひ教えてほしい」と、わざわざ書き添えている。妙実の日実に対する愛情をよく物語っている。日実はのち帰洛して京都の妙覚寺を開創したので、県下の法華寺院のなか、特に備前に妙顕寺から妙覚寺の末寺に変ったものが中世には多かった。

妙実が京都にいた正平十九年(一三六四)六月、京都が大旱魃に襲われた。後光厳天皇の勅願によって、妙実は三百余人の僧徒をつらねて、雨ごいの大修法をしたところ、雨が降ってきた。その恩賞を求められた妙実は、日蓮に人菩薩号、日像・日朗に菩薩号を賜わることを願い、天皇から受け入れられたという。自分のことよりも師たちを思う妙実の心根が感じられる。

松田氏と歴代城主

初代 松田元国(    ~暦応三年・一三四〇)

松田元保の嫡男。名を孫次郎といい、官途は左近将監。

法名は蓮華院殿秀巌日法人居士。建武二年(一三三五)、鎌倉幕府の討倒に軍功をたて、備前国守護と同国伊福郡(岡山市伊福町付近)などを賜わり、相模国から備前国に移った。そして富山城(岡山市矢坂東町、矢坂本町)を築いて、居城したといわれた。いわゆる金川・松田家の祖とされる。

二代 松円元喬(    ~康氷三年・一三四四)

父は元国で、通称は孫次郎。官途は左近将監。法号は蓮昌院殿秀哲日妙大居士。妻は高崎蔵人高行の娘で、子息は元泰・元高・元行。暦応一一年(一三三九)、金川城(御津町金川)を築いて居城とした。富山城居城中、大覚大僧正が備前に布教に来たとき、真言宗福輪寺を日蓮宗に改宗したが、大僧正に帰依した。

宇喜多氏家臣と法華経

宇喜多直家はその法名を星雲涼友と称し、天台宗平福寺に葬られたので、法華宗の信徒ではなかったといわれるが、『備前軍記』によれば、「或日、宇喜多直家病重くなりて、侍臣を呼び、殉死すべきや否やを尋ねらるるに、(中略)

僧の引導するには、たれかまさり申すべき、常に信仰ましましし日蓮宗の僧にこそ一番に殉死して御用にも立つべしと申ければ、直家此事はわれあやまりなり、汝がいう所尤もよしとて、殉死を強いらるる事、止めにけりという。」

この文献が正確でないものとしても、直家が法華宗に大変な信仰と理解をしていたことは実証できる。

それもそのはず、直家の同族家臣たちの多くは、熱心な法華信者であった。『作陽誌』に、天正九年(一五八一)、福渡に法華宗の金福山妙福寺を、沼本(浮田)与太郎久家、日笠次郎兵衛頼房口二人で建立したと記している。この妙福寺建立について、「沼本家家譜」によれば、「備前一国を法華宗門にするようにと、直家公自ら日笠治郎兵衛、沼本与太郎に命令した」旨記している。

直家の弟浮田土佐守忠家も熱心な法華信徒で本久寺(和気郡佐伯町佐伯)を菩提寺とした。忠家は兄直家没後、幼き秀家の後見役として活躍した武将であるが、美作図勝南郡中河内村の豊蔵院に法華宗に改めるようせまったと、「備前美作古城主由来」に見える。

前掲の『作陽誌』によると、宇喜多氏一門が前述した金川城主松田氏にも劣らないほど、法華宗を保護し、他宗を迫害したことが、有名な名刹誕生寺(法然上人生誕地に建立された寺院)に記されている。

宇喜多直家が死去し、その嫡男秀家が岡山城主になると、キリシタン信者が勢力をのばした。明石掃部・長船紀伊・浮田太郎右衛門・中村二郎兵衛門など切支丹宗徒が家老などの重役に抜擢され、直家以来勲功をたてた老臣の浮田左京亮(のち坂崎出羽守)・戸田肥後守・岡越前守・花房志摩守などの法華信徒は重職からはずされ、ついに「御家騒動」に発展した。

大覚大僧正 夙外生

大正五年十二月二十一日印刷 下村宏之P1000873 P1000874 P1000893 P1000899 P1000900 P1000901

篠ヶ迫の城下、備前府中の街頭に、法義を布くこと、七日八日。

因みに、篠ヶ迫城とは、別に鳥山城とも亦富山城とか言ふ、備前の古族 、松田氏の築く處にして世々、其の居城たり、福輪寺畷を隔て、中國街道に沿ひ、伊福の山嶺にあり、城址は、備前御津郡大野村字矢阪に位し、伊福の郷は、仝郡伊島村字津島一帯附遍を呼へり、 当時我国戦乱相続きて、天下麻の如く乱れ、上下の市民の士民は、自然殺伐の気風に流る、而も本化妙宗の教旨は、強く人意を力勵し、調節の法行、又壮気溌剌として、単明の教法、克く当時の生活とあい相伴ひ、信仰随喜の徒、愈々賣来す、大僧正、法輪一たひ轉ぜられんか、庶民耕営のてを休めて巻局聴問其の態恰も酔へるが如し。今日彼受法し、明日また彼帰依せり、と。一回は一回より、信徒の数を倍し来る、喧伝相承け、情態相迎えて法華を信受するもの、ここに愈々多きを加ふ。

囚みに、大覚大僧正辻説法の常時、小高き岩の上に立ちて、教義を布かれれる石を、法輪岩と称して、今猶ほ衆人の盤拝を集め、傍ら小形の石、また法談後、小憩されたりとて、腰掛岩の名を貽し、附近の岩石に樹当時其の袈裟を掛けられたりとて、今猶は多数信徒の、六百年の礼拝を戌何れも衆人、遺跡を吊ふて、香煙絶ゆる隙なし。

楢は新九郎田の、由緒の如き、常時恰も稲苗植付の、最中にして、農民新九郎なる者、田の前方へ向って、稲苗を植付けるを、甚た不便なる事と看、後退して、植へ行くの便利なるを教へられたりと云ふ、久しく津島の一遺跡として伝はり来りしも、今は十七師圃一部の敷地と為りて、其の俤を見るに由なー、之れ等の古寶は口碑として、世人等しく傅ふる處とす。

当時中國にありて、佛教を知れるは、‐天台、真言、禅、念佛の外、本化妙宗の如きは、絶て之れを知れる者なし、今大覚大僧正の弘教を目睹しては、何れも奇異の戚を持ち、聊か思慮ある者は、其の邪法邪教に非らさるなき哉、深き一朶の疑は、其の心を掩ふに至れ。

日々帰依受法する、信者の殖へ行く情勢を見て、先つ容易ならすと倣せしは、福林寺の住侶、良遊法印なり、廼、意を通して、大覚大僧正を山内に招き、先つ真言の教法を挙げけて、其の一疑一問か致す、大覚大僧正、其の挙くる處の、真言の教法を一々注釈して、而して問ふ處の、本化の教旨を示す、懇切丁寧、然も温雅幽姿、威容凡に非す、良遊相謁して、肇めて心中に堅く敬譲の思を興す、良遊一山の衆徒を説き、爰に拝信帰依の超誓を立つ鷲林山福輪寺の号を改めて、本化の霊所と成す。大僧正、錫を暫くここに止めて日あり。

この事、敏くも城主、松田元国、元嵩父子の聞く処と成り、頻蹙密に怪疑す、即ち其の重臣某を福輪寺に使はし、親しく之を検察せしむ。(難波備前守ならむ事)

使臣.福輪寺に大覚大僧正に閲す、また密に其の凡容ならさる事を知る、然も所説の法門を聞くに至って、始めて深甚の妙理を悟り、先つ隨喜の心か致す、之れ叉凡僧に非さる事を思へり、即ち帰城して、其の検察の旨を詳細に復命し、言を添へて教化を受けし機根を留術縷述す、茲に於て、松田益々之れを怪しみ、自ら賓非正邪を糺さんとし、日を更ため、大覚大僧正を城中に招し、傍ら真言の碩學教輩を集め置き、而して本化妙宗の激法を問ふ。乃ち、真言、念佛宗の立宗教旨を、以て佛法の誤解者たる。権教の要義を剔説す、進めて教外別傅の禅宗の立教に對して、玄旨を索きて天魔の業と褐破し、即ち妙宗正法の佛識にして、佛法の正解は、法の外にある事なし、と。断論して、周の穆王の古事を惹く。

曰く。…………周の穆王、一日中天竺の舎衛國に至る、此時釈尊群舘、霊鷲山に法華を説き玉ふ。穆王會座に望み、先つ佛を礼し、退いて一面の座に着けり、此時、釈尊問ひ宣はく汝は何れの國の人ぞ。穆王答へて、吾は震旦の國王なり、と。佛重ねて宣はく、善哉々、………汝今此の会場に来る、我に治國の法を有てり、汝受持せんと欲する否、と穆王願はくは吾信受奉行して、理世安民の功徳を施さん。其の法有てり、受水行’して。理世安民の功徳を施さん。其の時、佛漢語を以て、四要品の中の二句の偈を授け玉ふ、其の後、魏の文帝、宝祚より、法華経律、深秘の術を愛く禀く文帝之れを請けて、菊花の盃を伝へて、万年の壽をなせり。我國重陽の御宴即ち之なり。其より後、皇太子位を天に受け玉ふの時、必ず先つ此文を受持し玉ふ。此文我國に傅御即位の日、必す之れ受持し給ふ。(後の歴代の天皇中に受禅し給ふと見ゆる之なり。(若し幼主の君、賤祚ある時は、摂政先つ是を受けて、御治世の始に必す、惜政先つ是を受君に捧げ奉るけで、御治世の始に必す、君に捧け奉る。此八句の偈の文、三國傅来して理世安民の治略、除災興楽の要法と倣れり、之れ皆偏へに妙宗正佛法興隆せん、況や佛説き玉へる、正法を解せすして、何を大道を照す事を得む、況や権門の教法に則つてをや、理世安民の要道、偏に法花妙法の宗綱に懸鎚す、宝祚長久の基、王法の繁昌は、正しく佛法擁護に先先住すべし、と。………

淳々として、本化の宗綱を説き。和光同埃、月明らかに、傍りの人の心の闇を照す。萬座闃さして聾なら。元喬忽ち法華を持受せん事を請ふ。列座の僧侶、等しく妙宗に受法し三賓に誓を立つ。松田元國、元喬の父子、既に受法帰依して、内に洗膳の供養を怠らす、外極端の椎護を為す、(岡山、佛住山蓮昌寺の項参照)、備前四郡に妙宗の流布したる、誠に洵に故なしとせす。

「松田元喬、妙宗帰依の状況等は、元禄版の、道林寺縁起、詳細に之を伝へり。」