4月 2010 のアーカイブ

玄関

2010年4月29日

玄関
 玄関周りは庇を3ヶ所と張り出していましたが、軒を張り出して、建てた当時の様に入り口を広くする、とのことで楽しみにしていました。
 延石の上に加工していた部材を組上げて行きました。8mの梁を持ち上げるなどのため、5人の大工さんがかりました。
 外観の骨組みがやっと完成です。ここまで5ヶ月かかりました。
 

柱・梁

2010年4月28日

柱・梁
 屋根の葺き替えが終わると、改築が急速に進むのではないかと期待していました。外壁の骨組みは屋根の葺き替え前に、レベル調整しながら柱の入れ替えたため、ジャッキで何度も使っていました。
 内部の柱・梁の入れ替え、新設は更に大変で、一本一本長さ、ほぞ位置を決め加工し、更に丸太梁のためその曲線に合せて面を加工するため細工に手にかかることおびただしです。取り付けのときも、何箇所も仮柱を立て、ジャキや吊具を使い入れ替えてゆきます。
 化粧柱などに使うカンナの種類の多さに驚かされました。ノミ・カンナを研ぐ砥石の多さと念の入れ方はさすが職人と感嘆します。
 
 

庭先

2010年4月28日

庭先
 庭先のボタンが満開となり、モミジが鮮やかな赤い葉と花を付けています。朝の散歩の途中、笹が瀬川の土手の桜に実をつけているのをみつけました。
 

ベンガラ塗り2

2010年4月27日

ベンガラ塗り2
 農家が朱色に近い赤みをおびた褐色に外壁、柱、天井にベンガラが塗られていた理由を考えています。今は白木のままとする場合が多いようです。古民家再生の佐藤先生も塗料を塗ると木が呼吸しなくなり、水分が閉じ込められるため好ましくないと言われます。
 ベンガラ塗りの場合、木の表面に皮膜を作る訳ではないのでそのような懸念はありません。ベンガラ・柿渋の防腐効果であれば床下のみに塗れば済むでしょう。シロアリには効果がないようで長い年月のうちかなり食われていました。今回は床下材には防虫剤を含浸した材料を使ってくださいました。
 梁にはベンガラを塗っていないと思われ、カマドの煤で真っ黒になっています。煙でいぶすことにより家屋の持ちがよいといわれます。ベンガラを塗らないと煤が柱などに着いて同様になるため塗っていたのでしょうか。
 組み上げる前に塗って隠れた部分と煤がつたためか、長年磨き上げた結果か、色合いが変わってきています。
 

川堀

2010年4月26日

川堀
4月25日(日)北長瀬農家組合20名により町内の川堀を行いました。例年ですと田植え前の5月25日ごろ行うのですが、日吉町・野殿と一斉に、また5月には能登川用水の清掃など行事が多いことより一月繰り上げて行いました。
 川堀は戦後間もない頃まで、川舟で苗、肥料、稲藁、米を運搬するため荷重により船底をこすらないよう、川を完全に干上げ、溜まった泥を上げていましたが、今ではヘドロが溜まりすぎたとき市の清掃局に依頼してバキュウムカーで吸い上げてもらう程度す。川干しをすると魚や貝が大量にとれて大いに喜んだものです。残念ながら今では水が汚染してよどんでいるため、酸欠となり魚が死んで浮かび上がる死の川となっています。下水道を完備してもらって、よどみのおこらなり水路整備を願いたいものです。
 旭川より取水した観音寺用水、能登川用水が市街地を流れるうち汚水で汚れ雑用水となっています。昭和30年代に笹が瀬川の三日月湖だった大川が激しく汚染されゴミと異臭がするようになったため埋め立てたのが主たる理由です。市街地の下水道が完備したとは云え、ゴミが大量に流れてきている実情には変わりません。町内流れ込む主要箇所にはゴミ留めをしていますが、大量に溜まって、これを引き上げるのが大仕事です。
 護岸はコンクリートとなり一見綺麗に見えますが、葦等無くなり、魚や、特に貝がいなくなり、浄化能力が無くなる一方です。児島湖は旭川、高梁川より大量の水を導水して汚染レベルを食い止めているのが実情です。ホテイアオイなど浄化能力の高い水草を1%植生して、定期的に収穫しバイオ燃料などにすることによって、現在の汚染水が流れ込んでも湖内の蓄積汚染物質も徐々に回収されてゆく計算になります。過去のようにホテアオイを放置すると激しい汚染源となることも事実です。
 今年は例年いなく気温が上がるのが遅く川の藻が少なく、先だっての大雨でゴミが流れためか、少なく早くに清掃作業が終わりました。「マナーが良くなり、ゴミの投げ込みが少なくなった」との話がありましたが、毎年底に溜まったゴミを回収し、少しづつ日ごろ見る浮いているゴミも少なくなっている気がします。それでも異臭のする水路が多く対策が必要です。
 終了後、公会堂に集まり、臨時総会を開き農家組合の規約の明文化と水利土木委員のなりてがない問題など話し合われらのち、懇親会と移って行きました。
 夏祭りの後、町内会総出で川の清掃、草取りを行うのが年中行事となっています。
 
 
  
 

葦守(足守)界隈

2010年4月22日

葦守(足守)界隈
 4月21日久しぶりの快晴のもと、郷土史家の間野行治先生に、下記行程で「葦守(足守)」界隈を案内いただきました。
1.最上稲荷奥の院
 巨岩に「南妙法蓮華経」の文字を刻んだ石柱が目立ち、大きなもので10を越え、数え切れないほど林立していました。登る途中は山桜.ツツジが満開でした。本殿で、奥さんの抹茶と煎茶のお手前をご馳走になり、お上人にマイクを使ったような美声で祈祷していただきました。
     
2.龍王山
 7月のお滝祭りとして龍の口から出る水に打たれる行で有名な龍泉寺にお参りしました。五穀豊穣の源として水をおまつりしてきたのでしょう。
3.葦守八幡宮
 南北朝時代につくられた石造の鳥居を見ました。1300年も経過したとは思えないつくりでした。吉備津神社の創健の賀陽氏によるとされています。3~4世紀は盾筑遺跡・造山古墳に見られるように大和を凌ぐ勢力が吉備の国を治めた証拠だそうです。
 本殿には葦守の荘園図の模写が奉納されていました。神楽殿などあり戦前のにぎやかだった当事をしのばれました。
 
 
4.木下足守藩陣屋とその界隈
 洪庵茶屋の隣の駐車場に止め、茶屋で足守のパンフレットをもらいました。ねねに養子に入った籐吉郎の性は杉原であったはずだが、木下の性は、信長よりの賜り名かどうか定かでないとのことです。
 緒方洪庵菩提寺の乗典寺により佐伯氏のお墓にお参りしました。
 商家藤田邸は改築前は相当傷んでいたと思われますが、漆喰壁がみごとに復元されています。
 杉原家の武家屋敷の傍を通り、陣屋跡、近水公園(池は足守川の本流であったかもしれないとのこと)から橋を渡り、緒方洪庵生誕地を見て一巡して帰りました。
 
5.緒方洪庵先祖菩提寺
 
6.緒方洪庵生誕地
 
 
7.木下家菩提寺
 大光寺の大きなお寺ですが、山門、塀、本堂は荒れ果ていつ倒れるか云った状況です。足守市街地の町並み保存の一部の資金でも使って修復して高松城水攻めの太閤秀吉、ねねのゆかりの寺として価値はあると考えます。
 大きな大名墓が2対ありましたが誰のお墓かわかりませんでした。
 
8.福武家菩提寺
 ベネッセゆかりの寺として全国的にお参りに来る方がおられるようです。受験者は名刺入れに抱負か、願い事を書いていれておくとひょっとして受かるかもしれません。何時見ていただけるかは分かりません。
 
9.備中国二宮鼓(ツツミ)神社
 吉備津神社とまったく違っておもむきがありました。一宮と二宮の格差でしょうか。宝塔は葦守八幡宮鳥居と同じ石工の「妙阿」作とされ、1300年経過してもコケも生えてなく傷んでいませんでした。
 吉備津神社同様に賀陽氏の創建とされ、鉄生産のタタラ用の炭焼きで財をなしたのではないかとは間野先生の説です。
 

「うつろぎ」

2010年4月20日

「うつろぎ」
 夢見の明け方、この言葉が浮かびました。理由があるわけであはありません。
 この言葉あるか広辞苑をひくと、「うつろ」[空・洞]①中の空しいこと。また、そのところ。うつお。うろ。から。 ②一族仲間。 ―ぎ[空木]⇒うつおぎ。―舟[空舟]大木を刳(く)ってつくった舟。うつおぶね。うつぼぶね。まるきぶね。
 とありました。気が移るとかの意味があるかと思いましたが、ありませんでした。
 無意味な空虚な時間を過ごしたいとの願望がかすめたのかも知れません。
 別に忙しいわけでもなく、無駄なことばでした。

矢坂山の標識

2010年4月15日

矢坂山の標識
 インターネットで矢坂山を検索すると、登る経路に標識がないと多く書かれています。矢坂本町の砂田清さんが矢坂本町の三本杉から鯉が池経由で冨山城跡への標識が必要と、岸洋一さんの奥さんに書いていただきました。近く取り付けられるのが楽しみです。
 大安寺駅からは中野稔さんが大野幼稚園の園児と可愛い標識を取り付けています。上り口が見難いのが残念です。6ヶ所の上り口に全体の登山道の図(矢坂山の桜・ツツジ、5経路図)があると良いと思いますが、話には出てもいつのことになるか分かりません。
 矢坂山も下より見るとちっさな130m程の山ですが、懐は深く、雑木に覆われ、未透視がないため、方向が分からず不安となります。沢を登るか、尾根を登るかに分かれますが、矢坂山は後者が主たる経路です。昔は薪、松葉を燃料にしていたため、下草も良く刈られ、所有者ごとに道がはっきりしていましたが、松は枯れ、落葉・常緑潅木に覆われた暗い原生林化してきています。
 魚見山からの眺望は素晴らしいものがあります。

ベンガラ塗り

2010年4月14日

ベンガラ塗り
 朱塗りと紹介しましたが、柱に塗った状況を見ると「ベンガラ塗り」が適切のようです。
 部材を加工した後、塗の粉を塗って、墨を混ぜたベンガラを塗って仕上げたようです。漆・柿渋・菜種油を混ぜたようですが、漆でないことは確かです。
 棟上げの前に、屋根藁吹きするのと同様に村人が集まって、部材の加工が終わるごとに塗っていったのでしょうか。離れを改築する際、天井のベンガラ塗りを手伝いましたが、工務店がベンガラを塗って来た板を菜種油(ごま油の方が乾性油で触るところは好ましいそうです)を浸み込ませた雑巾でベンガラが着かなくなるまで何回も拭きあがました。木目が綺麗に浮き上がりました。大変手の架かる作業でした。
 年末の大掃除のときは、柱・敷居を菜種油で吹き上げるため黒光がしていました。床下の土台、床、外壁にも塗ってあったことにおどろかされました。江戸時代にはベンガラを塗ることが通常の工法だったのでしょう。吹屋の町並みにはベンガラが塗ってあり落ち着いた歴史を感じますが、最近の吹屋郵便局のような外観だとしたら異様です。ちなみに、我が家の郵便受けには、ベンガラに柿渋を混ぜ塗っています。柿渋が日ごとに落ち着いた褐色の色合いになります。
 酸化第二鉄に防腐作用があるとされていますが、その機作はよくわかりません。
 
 【べんがら】
 べんがらは、酸化第二鉄を主成分とする安全な無機顔料です。黒・赤・黄・ベージュ・茶・朱など様々な色があります。その酸化第二鉄には防虫・防腐効果があり、有史以前から人類に馴染み深い赤色顔料として、今日に至るまで、漆の椀、化粧品、神社仏閣の彩りに使われてきました。現在、無害顔料として、食品、塗料、化粧品、インキ等に広く利用されています。

 建築では、抗菌・防水効果のある柿渋と一緒に塗ることにより、防水・防虫・防腐・抗菌効果が得られます。
 調べていくと、柿渋にはホルムアルデヒドを吸着する作用もあると記されており、 
柿渋入りのべんがらは強力な木材保護剤といえます。

 昔、べんがら塗りは、社寺など特殊な建造物では化粧としての役目もありましたが、民家では、木材保護剤としてのみ認識され、塗装職人が行う作業ではなく、主に、手伝いさんや大工さん、または専門の職人さんが建て前(上棟)以前に作業を担っていました。そのため、はけ塗りではなく、木材にとの粉を塗るように擦り込みによって塗布していたようです。
 べんがらという言葉は、インドのベンガルに産する黄土を焼いて作った赤色の顔料に由来するようです。

http://www.tabara.jp/jo_ben.html

吹屋郵便局

 

川舟座礁

2010年4月13日

川舟座礁
 4月12日は雨が降り続きましたが、大雨と言うほどではありませんでした。
 13日の朝川船を見に行くと、北長瀬本町と日吉町の堰に船首の1/3が乗り上げ、木製の仮設乗り場も流されていました。既に水は引いていましたが、増水して北長瀬側より日吉町側に堰を悦流したものと思われます。水の勢いは凄いものです。
 能登川用水系の水量が多かったか北長瀬駅東側の操車場跡地の下を暗渠にしているのが細いため水がさばき切れないのか、大雨となったとき心配な面があります。
 観音寺用水系は笹が瀬川の2つの樋門(新分木・桜本)と山陽本線の15の鉄橋(1/15に狭くなっている)より幸いにも笹が瀬川の水位が低かったため流れ出していました。
 水を掻きだした所、堰からはずれ元に戻りました。