Archive for the ‘趣味’ category

メロン収穫

2010年7月17日

メロン収穫
 支柱づくりしていたプリンスメロンを38日目に収穫しました。収穫と言うより、へたから無傷で落ちていました。匂いがまだすくないため部屋の中に放置して、匂いだしてから冷蔵庫で冷やし食べると多いしため期待しています。別にしたをを這わしたメロンは虫に食べられ穴だらけです。支柱づくり効用でしょう。全体的に肥料が足らなかったためか勢いがなく、葉も小さく、実も期待するほどではありませんでした。

メロンの支柱作り

2010年6月17日

メロンの支柱作り
 メロンの露地栽培で子ツルを2本伸ばしていましたが、昨年より支柱を立てて栽培を試みています。6月10日に着果が見られ、今日の6月18日にはタマゴ大になってきました。紐で吊るしました。52~60日が収穫どきで楽しみにしています。

「市久川の由来」訂正

2009年12月15日

久川(いちきゅうがわ)の由来(プレート文案)

 

岡山市外環状道路日吉町橋梁の西側に沿って南北に流れるのが一久川です。

一久川は、白髭宮(御崎宮)が1176年(平安時代末期、安元2年)に一宮の吉備津彦神社の勤請により、水源は旭川の雑用水で、市久保(いちきゅうのほ、現在の北長瀬本町・表町・日吉町)を灌漑していた用水と伝えられています。

「大化の世 一久川 大野ヶ原」

市久会

2100年(平成21年)3

一久川の由来

2009年12月14日

一久川の由来(プレート文案)

 

岡山市外環状道路日吉町橋梁の西側に沿って南北に流れる川が一久川の痕跡です。

一久川は、白髭宮(御崎宮)が1176年に一宮の吉備津彦神社の勤請によることより、水源は旭川の雑用水により市久保(いちきゅうのほ、現在の北長瀬本町・表町・日吉町)を灌漑していた用水です。中世に岡山平野西部の大野ヶ原に市久が誕生した当時は、都では平家の鹿ケ谷事件が、瀬戸内でも源平合戦が起りました。

「大化の世 一久川 大野ヶ原」

市久会
平成21129
 西バイパスの共用開始を来年3月に控えて、山陽本線橋梁が完成間じかです。橋脚にプレートを貼るか、川のそばに案内板を取り付けたいと思います。一久川を知る人も少なくなり、バイパスの側溝に流れが変わりつつあります。文と形式を決めて募金を募りたいと考えています。
 

市久会の会員募集

2009年12月14日

古代に岡山平野西部の大野ケ原に市久誕生の歴史をひもとく

 

市久会は、昨年に北長瀬駅北地区の区画整理の検討が始まったのに伴い、有志により大野・北長瀬の歴史を調べ「まちづくり」に生かし、後世に伝えることを目的として設立しました。広く輪を広げるため大野学区を限らず会員を募集しています。

 

以下の活動をしました。

1、            矢坂山の「富山城跡」を歩き、吉備新庄の「庚申山」などの大野に限らず史跡を訪ねました。

2、            矢坂山の草刈に参加、白髭宮の修理を行いました。

3、            蕎麦打ちを楽しみました。

4、            夏休みの「ラジオ体操」に参加し、尺八の演奏、市久の昔話をし、ケーナの竹笛を配りました。

5、            「北長瀬物語」を発行して県立図書館に寄贈、デジタル百科に登録しました。「宇喜田直家のまちづくりとは」「市久物語」「身近なバイオマスエネルギ-」などの発行予定です。

6、            「大野学区を歩こうロードマップ」を北長瀬駅に置き、大野の情報発信をしています。

7、            大野小学校のふれあいの会にケーナ笛、竹とんぼ、竹馬、花瓶、杖、紙飛行機、冊子など出展すると共に、ステージで尺八演奏、「市久」むかしはなしをしました。

 

今後も同様の企画を立て楽しむ方を募集しています。行事ごとに案内し、各自持ち寄りで会を盛り上げてゆきます。

宇喜田直家のまちづくりとは 

2009年12月11日

                                            矢坂山山頂の富山城跡に備中松山城など合成
 

「矢坂山 富山城」の小冊子の発行後に矢坂本町の砂田清氏より岡山新聞に連載された相賀庚著の「岡山城物語」を見せて頂き、その中に宇喜多直家が富山城を寵略するにあたり親族の三宅氏に「備前統一」と「岡山のまちづくり」を説得材料としていたことに興味が湧きました。

大野村誌にも矢坂山全体もしくは万成山を含め旭川より山の北と南に水を引き込み堀を備えた巨大な城郭とし、矢坂山南部の大野中心に岡山平野の大都市計画があったことが述べられています。備前統一はともかくとして宇喜多直家がいつの頃より岡山の町作りの志を持つようになったか、その時代背景を探ることにしました。

 宇喜多直家については、江戸時代の評価が多く、特に「和気絹」の中で冷酷非情と非難され、「暴虐にして冷酷な人物で貧欲であり、眷属を殺し、あるいは凶悪な手段で暗殺し、主家を追放し強奪するなど、武人の風上に置けない人物だ、との酷評のみが残っている(加藤武徳)」。作為的な歪曲を除き評判の実態をも解析することです。

 宇喜多直家は織田信長より5年早く生まれ、備前統一、全国統一の差はあれ驚嘆の生涯です。6歳にして砥石城において隣城の島村弾正の謀略・急襲により祖父能家の自害と城の落ちるのを目の当たりにします。

 

 

寓味無能な興家父と1年近く流浪の後、備前福岡の豪商安部禅定を頼り、当時物流の拠点として繁栄していた福岡の商都に少なからず影響を受けたと思われます。その支えと備前守護代浦上氏の信任を受けて、吉井川河口に海賊対策の乙子城を築き、能家縁故の家臣も集め、周辺の冠賊も撃退し戦力、財力を備蓄して行きます。乙子城を築く前年1943年に種子島に鉄砲が伝来され、その翌年には善定共々鉄砲を武器として集めて行きます。祖父能家の仇の浮田大和吐石城主を討ち、画策の後、155931歳にして亀山沼城を手中にします。奇しくもこの年信長は上洛し足利義輝に謁見しています。信長が長篠の合戦(1575)で鉄砲を戦術に使い有名ですが、直家はそれより早く三村家親や松田氏重臣宇垣を鉄砲で狙撃し暗殺したり、備中勢との名善寺合戦(1567)において「繰替え、繰替え」鉄砲を撃ち撃退し大勝利しています。福岡の隣の長船の刀鍛冶、遠海貿易、戦術情報を掌握していたならではと考えられます。

 信長は1567年に岐阜楽市楽座に制札を立て、岐阜のまちづくりの発端となり、意図的に安土城築城(1576)に当り城下町にそれをとり入れたことは欧州の都市情報の影響でありましょうか。直家はこれを知り信長と毛利との狭間になる恐れより沼城に代わる強固な城郭都市の建設の必要性を痛感するに至ったとされています。しかし、1568年松田の金川城落城以前に富山城の寵略の働きかけをしていたはずで信長と同時進行的あるいは早くに構想を進めていたと思われます。金光時代の石山城は貧弱なもので豪族屋敷の域をでないもので、一族・家臣の屋敷を配置し、旭川を上ってくる船や定例市により賑う程度でありました。直家は南部の備前平野の穀倉地帯と瀬戸内海運漕の便と東西街道に通じ、軍事的・流通経済的将来を見通し、1573年より石山の本格的築城に取り掛かりました。すぐ東の小高い丘、すなわち岡山の地の社寺を城外に移転させ拡張し、城下には福岡・西大寺の商人を呼び寄せ2階建てを推奨して住まわせました。

織田・毛利狭間で戦乱を繰返し、高松城攻略のため石山城に逗留した秀吉とお福、秀家の関係が直家死後の岡山のまちづくりに大きく影響し、江戸中期には64もの櫓がありその内11櫓につては天守閣に匹敵する3~4階建てで西日本一の壮大なものになって行きました。ちなみに、秀家により6年間の岡山城の大改修が終了した1601年が岡山城築城、開府の年とされています。

宇喜多直家につては、『赤磐郡史』、『悪いやつら』(謀将宇喜多直家 東郷隆著)、『梟雄の妻』(森本 繁著)で語られるように下克上の戦国時代の謀略家として獄評されています。江戸時代初期に書かれた『和気絹抄』の評価が大いに影響していると思われますが、梟(ふくろう)は市の鳥、商売繁盛、知恵者として敬われています。直家が志していた「備前統一」「岡山のまちづくり」は達成され、岡山市、県の発展の祖を作ったといっても過言ではないでしょう。しかし、其の手段は後世にまで語り継がれることは現代の経済主義的な世の中の教訓にもなるでしょう。

宇喜田直家・忠家の一度夢見たであろう「大野城下町」構想は実現することはありませんでしたが、西部副都心として発展しつつあり、巨大な港の替わりに岡山空港が世界に窓を開き、北長瀬駅中心に大野が拠点となることが夢ではないかもしれません。

市久物語 参考

2009年12月11日

1. 大野ケ原 吉備の国あるいは魚見山のコウの岩より岡山平野を見たとき、葦の原野の光景より大野地区を指す。

2. 市久 岡山県史、岡山市史、大野村誌などに「市久保」は北長瀬村・辻村とのみ記されている。

3. 吉備の穴海 古代岡山平野が海だった頃の通称で、矢坂山は岩井島、岡山城付近は大島、児島半島は児島と呼ばれていた。

4. 魚見山 矢坂山の連山で東西に位置し、岡山平野が良く眺望できる。もとの大野小学校の裏山。

5. コウの岩 魚見山の山頂にある巨岩で、神の磐、コウの鳥の岩といわれる。

6. タタラ製鉄 足で踏んで風を送るフイゴによる製鉄法で、砂鉄や鉄鉱石を原料とし、多くの木炭を使用した。

7. 大化の改新 孝徳天皇の大化2年、中大兄皇子・藤原鎌足等によって行われた政治上の大改革。氏族政治の廃止・人材登用・国司及び郡司の設置・戸籍の作製・班田収受・祖庸調の税法新設などがその著しい内容で、強固な国家体制を定め、我国中世国家の基盤をなした。(広辞苑)

8. 条里制 大化の改新の際い行われた土地の区劃法。1坪の面積は60件4方で1町であり、64方(36坪)を里といい、東西或は南北に36里をつらぬいたものを条という。現在各地にこの遺構がある。(広辞苑) 北長瀬すなわち市久の一部は条理の範囲外とされていたが、中世の潮止め堤防と考えられる浜街道(鴨方往来)は条里線に一致し平安時代に市久にも及んだと考えられ、現在の岡山平野全体に及んでいる。

9. 丹比真人 七世紀から八世紀にかけ多治比(丹比)氏は、その「姓」が「真人」であるように、帝室から分かれた名門一族。 嶋、そこ子池守、県守などの名前が見られ、大伴旅人・家持親子とも縁が深い。多治比(丹比)真人家は農地の開墾を進める一方で、農業用水を安定的に確保するための治水工事も行っていた。岡山の伊福郷に派遣された郡司はその一人と考えられる。

10. サイフォン 笹ケ瀬川と他の川を交差するため川底に木管を多く敷設している。紀元前アルキメデスにより原理は発見されているが何時の時代に日本で利用されたか定かではない。

11. 冨山城 武士が現れた時代に矢坂山の山頂に富山氏により平安中期に砦を築城されたと伝えられている。松田、宇喜田により本確的な山城となり小早川により廃城となった。歴史的に重要な城であり、矢坂山全体にまで広げた岡山城に勝る築城計画もあった。

12. 一宮、吉備津彦神社、吉備津神社 定かではないが11~12世紀を国司が一番に参拝する神社を一宮と呼んだ。備前吉備津彦神社と備中吉備津神社と呼び、共に「ゆら」の御崎宮を祀っている。

13. 大川 笹ケ瀬川の蛇行跡で江戸初期まで本流であった。長年、三日月湖として親しまれが、昭和30年代の土地改良区画整理により埋め立てられた。

14. 鹿ケ谷事件 平安時代安元3年(11776月に京都で起こった、平家打倒の陰謀事件である。首謀者の藤原成親は吉備の中山の有木の別所に流され殺害され、公家達も花尻の庚申山に住むこととなった。

15. 白髭宮(御崎宮) 北長瀬西部の氏神様で平安末期の安元二年(1176)に吉備津彦神社(一宮)により御崎宮として謹請されたと口述されている。地方神社、豪族により開墾された土地は百姓墾田と称された。平家物語の源平合戦の直前の頃。

16. 庭瀬・鴨方往来 鹿田あたりを基点とし大元、大野辻、白石橋(渡)を通り庭瀬、鴨方に通じ浜街道とも呼ばれた。砂洲上に潮止め堤防を築き戦国時代まで南は海の所が多かったと考えられ条里の線とも一致する。

17. 池田和泉 藩主池田家との縁戚の記述はないが、池田和泉として北長瀬のほか旧児島市・郡などに30箇所以上の給地が見られる。

18. 座主川、観音寺用水、能登川用水、西川用水 大野地区を流れその灌漑や南部に利用されている。江戸時代に完成しているが古代より地域により別名の川として伝えられている。

19. 15の鉄橋 昭和40年頃まで市久川の南西に15並ぶ長い山陽本線の鉄橋があった。笹ケ瀬川が氾濫した場合の水抜き用とも言われていたが、操車場拡張のため1つの鉄橋のみとなっている。

むかしはなし いちきゅう

2009年12月11日

むかし むかし 「桃太郎」と「鬼のうら」が住んでいた頃、北長瀬や大安寺、野殿、今の大野小学校、幼稚園のあたりは「吉備(きび)(あな)(うみ)」とよばれ、島にかこまれた海でした。

 「(うお)見山(みやま)」は、岩井島と呼ばれる島の上に出来ている山で、その魚見山の大きな岩「コウの岩」に立つと魚がおよいでいるのが良く見えました。

 魚の(むれ)れを見つけては「おーい、魚が来たぞ―!」と大声でさけぶと漁師は船を出して魚を取りに出かけます。その魚はたくさんの群れで、魚が盛り上がり、島が動いているように見えました。漁師はその群れに()っ込むと簡単に魚が取れました。

 又、島の人は浜辺で(かい)を取って食べて生活していたため、魚見山のまわりでは、多くの貝塚(かいづか)が残っています。

 あるとき、魚見山で魚の様子を見ていた漁師(りょうし)は「あっ、おかしいぞ、おかしいぞ!島の浜辺がだんだん広がっていくぞ」と浜辺が広がってゆくことに気づきました。それから、何百年(なんびゃくねん)も長い年月(ねんげつ)が過ぎていくうちに浜辺には細い笹のような草の(あし)はえた沼地となり、そこを「大野ヶ原」と呼ばれるようになりました。

 そして沼地となるとお米を作る稲作(いなさく)が始まり、たくさん人が住むようになり、田んぼも多く必要となりました。

 そこで、海の水が入らないようにするため今の笹ケ瀬川の白石橋から市役所の辺りまで壮大な堤防を作りました。しかし、その頃は機械がないので、それは大変な仕事でした。

 笹ケ瀬川は今の大安寺高等学校や大野小学校、そして幼稚園あたりを大きく曲がりくねって流れたままで大川と呼ばれていました。海と(つな)がっていたため塩が上がって来ていて、都からも吉備津に船が来ていました。

 稲を作るための水は雨の水や旭川上流の座主(ざす)(がわ)、西川、津島(つしま)辺りの水田で使われた水を流した川筋がいつの日か「市久川」と呼ばれるようになりました。

 そして、何百年(なんびゃくねん)かかったかわかりませんが、魚見山の裏の矢坂山に富山(とみやま)(じょう)の砦ができ、平家物語の時代となると大野ヶ原は塩気が抜け稲作ができるようになりました。

 市久の名前の由来は分かりませんが、平安末期に北長瀬の(しら)髭宮(ひげぐう)が一宮の吉備津彦神社によって建てられたことや、一宮が「いっきゅうさん」と呼ばれていたことや、吉備津にお参りする人たちの船がたまに上がってきました。さらに、東西の潮止め堤防を歩いて来て、笹が瀬川を渡るため白石橋付近にあった渡し舟を待つ人目あてに、久方ぶりに都より来た船の色んな物を売る市が開かれていたことより市久といわれるようになったのではないでしょうか。

 市久のお話はおしまいです。

平成21年11月7日 大野小学校ふれあいの会にて

市久物語

2009年12月11日

市久会

2009年12月10日

中世に岡山平野西部の大野ケ原に市久誕生の歴史をひもとく

市久会は、昨年に北長瀬駅北地区の区画整理の検討が始まったのに伴い、有志により大野・北長瀬の歴史を調べ「まちづくり」に生かし、後世に伝えることを目的として設立しました。広く輪を広げるため大野学区を限らず会員を募集しています。

以下の活動をしました。
1、 矢坂山の「富山城跡」を歩き、吉備新庄の「庚申山」などの大野に限らず史跡を訪ねました。
2、 矢坂山の草刈に参加、白髭宮の修理を行いました。
3、 蕎麦打ちを楽しみました。
4、 夏休みの「ラジオ体操」に参加し、尺八の演奏、市久の昔話をし、ケーナの竹笛を配りました。
5、 「北長瀬物語」を発行して県立図書館に寄贈、デジタル百科に登録しました。「宇喜田直家のまちづくりとは」「市久物語」「身近なバイオマスエネルギ-」などの発行予定です。
6、 「大野学区を歩こうロードマップ」を北長瀬駅に置き、大野の情報発信をしています。
7、 大野小学校のふれあいの会にケーナ笛、竹とんぼ、竹馬、花瓶、杖、紙飛行機、冊子など出展すると共に、ステージで尺八演奏、「市久」むかしはなしをしました。

今後も同様の企画を立て楽しむ方を募集しています。行事ごとに案内し、各自持ち寄りで会を盛り上げてゆきます。