11月 2014 のアーカイブ

美作市長萩原氏と対談

2014年11月27日

DSC06532 DSC06541 DSC06567 DSC06569 P1040141 P1040144 P1040146浮田詮家が16歳にして直家の死の直前に大将として出陣したのが三星城合戦でした。美作教育委員会に調査依頼して図書資料が揃ったとのこと向うことになりました。
秘書から電話が入ったのが米子に「おかやまメディカルテクノ」の見学会で「とっとりバイオフロンティア」(鳥取大学米子キャンパス)の講演中でした。
至急11/26 11:00訪問の日程、人員の調整していましたが、昨今の社会情勢等で緊迫しています。
要件は、教育課で用意して頂いた三星城合戦に関する資料を受け取ります。
重ねて、萩原市長は小生の近所の大安寺高校に通学当時、N宅に下宿されていましたのでなつかしく一面識もないのに失礼しました。 現在ほぼ出来上がっていつ報道して頂くなど課題山積です。昨年は、美作国1300年祭で岡山歴史研究会主催の歴史探訪会で訪問し、ビデオを作成し公開し、美作市の立地上重要な事が再確認しました。さらに、山田方谷NHK大河ドラマ化署名運動に協力しています。本年、4月大安寺駅北の矢坂山のツツジの満開に合わせて、魚見山の麓の元大野小学校の柴田一先生を迎え「浮田忠家」に関して講演頂きました。同時にNHKが「軍師官兵衛」放映を開催し、この当時の事は魚見山の麓で江戸時代中期に書かれた「備前軍記」があり、放送と同時に備前の様子をブログに書いてきました。車、ないし電車で行きます。当日はよろしくお願いいたします。と4日後に連絡を入れました。
同行者を多くの方に御願いしまたが、西大寺から同行して下さると喜んで居た所、前日キャンセルとなり
1人で行く事になりました。
美作市に入ったころ電話で時間調整し鏡野町より駆けつけるとの報の喜びました。
10時15分に美作市庁社(林野・三星城対岸)に着きました。H氏を待ち受け30分前より萩原美作市長と対談と成りました。我が家の庭に伝わる「妙丹」柿をお持ちし土産とし蘊蓄を述べました。
H氏は元Y社秘書をされ現在ペレットスローブなどで活躍され市長も初めてながら好感でした。美作国1300年祭でも案内お世話になりました。
市長は適切な指摘下さり、資料集としても出版社に依頼し早く正式な編集が待たれると。
毎晩新情報を更新追加し300頁の「詮家誕生秘話」ができた事を説明。また、副題「今の幸せを感じる」の背景の思いを伝えました。 『宇喜多直家は織田信長と同時代に生き、よく比較される。
梟の武将として赤磐町史などでは、恐怖感をあおっている。梟は智恵者として国内に限らず可愛い鳥であるが。
関係ない所で悪口の一つであろうか。宇喜多家は、直家に限らず幼少時非常に苦労している。
詮家は誕生時より16歳まで全く不明であるが、家康同様毛利の人質生活は辛苦であったであろう。男親は忠家で直家の弟とされ、真意は分らないが過激な性格であったとされる。また、今回わかった母親は伊賀久隆の妹とされ現代のDNAで考察すると其の生涯が推察される。いずれにしても詮家は戦国時代の最前線で生まれ徳川の余にその生涯を閉じた。今の北朝鮮のように国際社会から閉ざされた時代でも何件かは海外に報道された。その名は『パウロ』として!又詮家の妻は庭瀬藩主の戸川の妹で妙円であるとされる。
今誕生する赤ちゃん、我々は1億人の一人として、また世界に内一人として平和で自然災害のないことに感謝する。人関係の難しさはともかくとしとして。』
重ねて、駅前イオンオープンに伴う影響が美作にも人の不足出ていて、長期的には優秀な人材が引き抜かれ、北長瀬地区の治安でも共通認識となった。
11時30分となっていました。
etc.

備前軍記46

2014年11月9日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第44回「落ち行く巨星」が、放映された。
官兵衛を如水と改め豊臣秀次の相談相手となっていた。ところがそれが仇となって、またもや三成が秀次の謀反の疑いありとして切腹を命じた。秀吉は高野山に蟄居を命じるとこ淀が秀頼の行く末を案じ、秀次ともに39名が死となった。
秀吉は孤独と成り、官兵衛を許し播磨2千石余を与えた。ところが奉行衆始め皆官兵衛が秀吉の飼い犬となったと笑っていた。福島正則でさえ太平衛を怒らせ酒で負けて家宝の槍を取られ悔しがっていた。官兵衛は秀吉の天命を待つより外に無いとそれが近いと見ていた。
明の国書が届き、奉じての書に属国扱いに怒り、又もや朝鮮出兵を命じた。皆、負け戦に怯えた。官兵衛は秀吉に朝鮮に渡ると喜ばしたが、傷を深くしたくなかった。
55の家康も、60の秀吉の寿命をあと2年と予測していた。
黒田家出陣の時、守りを固めむやみに打って出ぬよう長政は命じた。16才の熊之助も出陣を申し出たが残れと云われた。14万の軍が渡ったころ三原城では小早川隆影が官兵衛に最後の別れとなった。熊之助は太平衛と後から置手紙を残し朝鮮へ渡った。
☆戸川家譜
慶長元年に、日本・天明和議にて、天明より冊使・遊撃来朝す、太閤殿下御馳走無限りしか、天明の書簡御意に不叶、御機嫌損し、大明両使和泉の堺へ遣し、本国に帰さる、掲て、朝鮮へ諸勢渡海の事被仰付、浮田中納言秀家一方の大将分を承りて、同2年3月に、釜山浦に渡る、惣勢13万余也、肥後守又供す、同年8月ニ、全羅道の南原の城を攻む、大手の大将ハ秀家、先陣ハ小西摂津守行長・島津義弘・蜂須賀家政・長曽我部元親・加藤左馬助・生駒讃岐守、其勢5万なり、一方ハ毛利宰相秀元大将として、加藤清正・黒田長政・浅野幸長、其外其勢5万、慶州より押寄、王城の兵・天明の兵と戦ワんと擬す、名島中納言秀秋も、一方の大将として釜山浦にあり、南原城の後援たり、全州の敵を防にハ、島津義弘・加藤左馬助圖取りにして、両将向全州まて、南原城(南門共言)秀家・行長攻之、肥後守家来完耳(宍甘)太郎兵衛(家老分也)・青井善兵衛(物頭なり)一同に壁下に着く、青井共侭壁の上に来る、完耳人ハ無かと問ふ、人なしと言、太郎兵衛我を引揚てくれよと言(完耳ハ老年、青井ハ若、年也)、青井手を取て引上る、壁に乗ると、均敷太郎兵衛名乗る故に、完耳一番乗りに定る、青井一番に乗て後に成り口惜しき事なり、諸勢に先達て肥後守手より来る事ハ、殿下にも聞召所也、其後、諸勢乗入り高名する者多し、打取る首3千余、行長猛勇を奮ひ本城乗り破る、生捕千計(女多しといふ)
追記  先ほど庭瀬の松林寺となり不変院の墓の前で東京からこられた戸川家子孫の方とお会いしました。広島の娘さんのとこへ行く途中でした。浮田詮家の話もしました。
参考:戸川家累代の墓が建立されています(達安の墓碑は東京都大田区池上の永寿院と岡山市妹尾の盛隆寺、3代藩主戸川安宣は盛隆寺、4代藩主戸川安風は東京都中目黒の永隆寺)。

ふれあいの会雨

2014年11月2日

雨の為、屋外でコバノミツバツツジ種とその育て方と宇喜多左京亮詮家(坂崎出羽守)のパンフレット50部を配ることにした。例年の様に室内での展示スペースはとれなかった。薪カマドで姫のもち米を蒸し本格的に餅ツキを子供たち体験させていた。

矢坂山のツツジは群生地が多く見つかり、特に頂上の富山城跡二の丸からの眺めはツツジの先に岡山市街地が一望でき「浮田詮家」は秀家の岡山城がちっぽけなものだとの気分を味わっている。詮家誕生物語も二冊目を印刷している。詮家の母は虎倉城主の伊賀久隆の妹で吉備高原中心に4~50万石の勢力を持ち北房辺りまで勢力があり鉄砲を早期に作ったとも思われ、諜報活動にも優れていたようだ。また、お福が直家と結ばれる前、土居に隠れていたとのことだ。

ツツジの種も矢坂山の参道周りに春振り撒き多少発芽しているように見受けられる。自宅でも種を蒔いて増やしているが意義と難しく、水苔に蒔くと良く発芽するが株分けすると根が切ってしまう為が半部以上枯れてしまった。30cm程に育ったのがあと数年で花が咲くと思われる。今年は数十ケに蒔き花が咲くころ矢坂山に移植するのが楽しみとなっている。今年もカルフォニアの同窓生らとモミジの生育状態を観察に登った。

持続可能な開発のための教育(ESD)に関するユネスコ世界会議が開かれているが、太陽光パネルは設置し、ほどほどに発電量に満足しているが、発電コストが高いのが難題だ。「身近なバイオマスエネルギー」を書き挑戦しているが、一つの課題の児島湖浄化と藻類発電の身近な課題として河川の藻の回収とメタン発酵の検討したが採算ベースにまで至らなかった。僅かなエネルギー生産でも依存しない目途を立てたい。

下記記事は注目したが「山田方谷」現代版の登場が待たれる。

10/31山陽新聞朝刊の滴一滴「観光バスがずらりと並び、大いに…」

観光バスがずらりと並び、大いににぎわっていた。北海道余市町にあるニッカウヰスキーの蒸留所。創業者・竹鶴政孝、リタ夫妻がモデルとされるNHK朝の連続テレビ小説「マッサン」に誘われ、旅の途中に立ち寄ってみた▼蒸留棟では、創業時からの「石炭直火(じかび)蒸留」が今も受け継がれている。品質への強いこだわりだ。敷地内にある和洋折衷の旧竹鶴邸は、入り口をリタの生家に似せるなど妻への心配りがほほえましい。美しい紅葉の中、ウイスキーづくりにかけた情熱と夫婦愛に酔いしれた▼それにしてもドラマの影響力は大きい。ウイスキーに特段興味のない人々も引き寄せ、関心を呼び起こす。当時へ想像力を膨らませると、同じ建物や風景でも親しみや印象が異なるから不思議だ▼経済産業省は、そんなストーリー性が持つ力を観光客誘致の手だてとして勧める。名所や特産品に歴史や自然を絡めた「物語」をつくって売り込む地域の取り組みを支援するという▼有名、無名を問わず地域には多くの素材がある。それらを組み合わせることで、新たな観光の魅力や周辺地域への波及効果も生まれよう▼ただし、外部の専門家に任せきりにするのでなく、地域の人々が足元を見詰め直すことが大切だ。素材を吟味し、その土地ならではのコクと香りがあるストーリーを醸成したい。P1030547 P1030549 P1030553 P1030559 P1030567 P1030474

備前軍記45

2014年11月2日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第43回「如水誕生」が、放映された。

官兵衛は朝鮮より勝手に帰国したかどで蟄居を命じられた。三成の陰謀であった。

家臣、光そしておねも成り行きを心配していた。

文禄2年(1593)8月3日に淀殿は秀頼を生んだ。

秀吉の仕置き申し渡しに現れた官兵衛は名を「如水水清」と改め断髪していた。「人は生かしてこそ使い道がある」と助命を嘆願した。助命の嘆願書の中で茶々から秀頼誕生を血で汚すながあった。隠居の許しを出して戦の終了のもとに大坂へ帰った、

関白を譲った秀次が邪魔となりだした。秀次は娘を2歳の秀頼に許嫁を申し出た。

朝鮮より各大名が帰国すると秀吉の朝鮮出兵が言われ出した。

徳川家康は不平分子、特に長政に親身となった。

淀、三成の陰謀により秀次に謀反の疑いがかけられた。

☆戸川家 備前騒動

一肥後守、備前の老臣にて、三ヶ国仕置壱人にて申付るなり、伏見の城御普請にて、諸大名築之、浮田宰相秀家ハ御本丸を承る御手伝なり、家老交て長船紀伊守勤なり、(3家老之内、長船越中嫡子紀伊守ハ、肥後守妹也)此御普請御急きあり、殊に御前江近し、紀伊守抽根気昼夜相詰る、才智有能情を出す故、御意に叶ひ、其以後ハ、備前之儀一向に長船に可申付との上意なり、以前、殿下播州姫路に御直館の時、花房志摩守幸次ハ御使をして御意に叶ひ、三家老よりも、備前の事ハ無大小、内々志摩守に被仰付候也、此度、紀伊守上意を以ての故に、諸家中に不構して心に任セ可申付、肥後守内慮ハ隙あれとも、壻増なれハ不及異儀、其外、家老・物頭ハ恨怒を含めとも、上意の上なれハ無事なり、近年軍役繁く、又、所々の御城普請、諸大名ともに勝手迷惑せさるハなし、秀家卿ハ天下の御婿分にて、御威勢他ニ異也、奢侈にして、又、舞曲を好て、御能と有て、公方家のことく、町役に掛て見物、此費莫大の事なり、其外、諸営雑用若干に入故に、勝玉不足なり、爰に中村次郎兵衛といよ出頭のものあり、是ハ秀家卿の御前様ニ付而、加州利家卿より来るもの也、先代よりの用人浮田太郎左衛門と言ものと、両人紀伊守に諾して、様々密談して、伏見へ参窺御旨、4年春、紀伊守簡略と号し、3ケ国検地す、作州・両備州、播州の内も同し事なり、諸10数代所持し来る知行を所替さセける程に、家人等も数年作り来る田畠打捨て、流浪に似たるもの多し、在所に離れ、及迷惑ニ、次郎兵衛を恨む、家老・大身数代被官とも、人に知られたる者ハ取上て昵近さセ、所領増者多して悦へとも、家中一篇凡小足に思ひけり、雖然、上意にて如此故に一言も申に不及、岡越前組と肥後守組と、夏方先納違ひ申分に依て、両家引分れ闘諍に及ぶ、外の家中の者とも、縁に触て具足・鑓をもって両家に行、備前騒動この時也、秀家郷の御母堂大方殿と申セしか御扱にて、大守御留守也、是非ともに堪忍可什旨、老人を以て被仰下で、無事に成りぬ同年夏の頃、秀家卿の御前様妖気御煩也、医療及かたきによつて、御祈祷可有とて、日蓮旨の僧とも、抽魂気を数日折れとも無験、其後、山伏祈之て平愈し給ふ、秀家郷怒之、家中不残日蓮宗を可改旨被仰付ける、其時、明石掃部切支丹を専ら勤るゆへ、忍んて伴天連を呼下し勧めけるに、不傾ものなし、家中不残此流に成りぬ、肥後守老父友林ハ御理りを申、信仰に依て日蓮宗旨也、これハ耶蘓宗門を嫌らひ、終に一代不傾也、浮田左京亮・岡越前(豊前子家督)・花房志摩守・花房助兵衛、その外家中過半肥後守一同なり、紀伊守ハ、次郎兵衛・太郎左衛門・延原土佐杯一味す、明石掃部ハ、彼宗門を弘めんとのミにて、何れへも不寄と也、家中割て不静、是、秀家卿家滅亡の端也