6月 2013 のアーカイブ

襄と八重10 離日

2013年6月25日

敬幹(襄)は、函館でロシア領事館付司祭ニコライの日本語教師となってその家に住みこみ、渡航の機会をうかがうことになり、密かに塩田もこれを助けていた。敬幹は、菅沼を通して箱館神明社の宮司沢辺数馬と知り合い、さらに、その沢辺の紹介で、築島のイギリス人アレキサンダー・ポーターの商館に勤めていた日本人書記富土屋宇之吉(のち福士成豊)と知り合い、7月2日(5月24日)、彼に海外渡航の計画を打ち明けた。
 7月19日(6月12日)、敬幹は宇之吉の紹介で、アメリカ船「ベルリン号」の船長ウィリアム・T・セーヴォリーと会い、海外渡航の志を語り、乗船の約束を取り付けることに成功する。
 そして二日後の7月21日(6月14)十四日夜、敬幹は一通の置き手紙を残して、ニコライの家を出た。 宇之吉の家から荷物を背負い、裏口から出て、岸に繋いであった小舟に乗った。宇之吉が舵を握り、敬幹は頬かむりをして伏していた。宇之吉は、三日間、小舟を漕ぐ練習をしていた。
 「ベルリン号」に乗ると、敬幹はすぐに船室内の倉庫に入れられ、外から錠を掛けられ、翌朝、税関の官吏が下船するまで待機させられていた。
元治元年(1864)7月17日(6月10日)正午、「ベルリン号」は箱館を出帆した。「ベルリン号」は、日本の東海岸沿いを南下。房総沖、遠州灘を経由して、上海を目指した。 敬幹は渡航費を出すだけの所持金を持っていないので、船長室付きの給仕となった。
「ベルリン号」が上海に着いたのは、7月1日朝だった。 9日、「ベルリン号」は日本に帰らなければならないため、セーヴォリー船長が、アメリカ船「ワイルドーロヅアー号」のホーレス・SIアイラー船長を紹介してくれ、同船に乗船することになった。 敬幹は、テイラー船長に長刀を譲ったうえで、船長付きの給仕にしてもらい、アメリカ本土まで連れて行ってもらうことになった。
ちなみに、幕末の密航留学生の数は犬塚孝明「明治維新対外関係史研究」(吉川弘文館、1987)によると、1862年から1865年までで53人もいる。
また、1860年2月9日(安政7年1月18日)、日米修好通商条約の批准書交換のため、外国奉行(神奈川奉行兼任)の新見正興(しんみ・まさおき)を正使とする使節が、米艦ポーハタン号に乗船してアメリカに向かった(いわゆる「万延元年遣米使節」77名)。
なお、ポーハタン号の護衛艦として共にアメリカへ渡った咸臨丸(艦長は勝海舟96名)は、遣米使節より1日遅れて浦賀を出航、ポーハタン号がハワイに寄港する間も単独で航海を続け、ポーハタン号より12日前にサンフランシスコに入港した。
さらに、幕府の遣欧使節団38名は、1862年1月から翌年にかけて、当時日本と修好通商条約を結んでいたヨーロッパの6カ国(イギリス、フランス、オランダ、プロイセン、ロシア、ポルトガル)に派遣されました。派遣当時の年号にちなんで「文久遣欧使節団」とも呼ばれている。この中に、箕作阮甫(津山藩医、対米露交渉)に菊池家より婿に入った箕作秋坪(三叉学舎創設)もいた。

松山藩御茶屋落成

2013年6月20日

平成25年6月9日に山田方谷ゆかりの旧備中松山藩御茶屋の落成式、及び記念講演「山田方谷と河井継之助」が行われた。この御茶屋は、藩主板倉勝職が別邸として建て、通称「水車」と呼ばれ、方谷が城下滞在の時宿舎としていた。越後長岡藩士河井継之助が逗留し、方谷の門人進鴻渓、三島中洲などとの交流があった。落成式、講演会を16分のビデオにまとめた。

1 野崎のさん  [削除] 2013年06月20日 16時10分
高梁市の生涯学習の場として落成したのですね。名前の由来となった「水車」が庭に廻っていておもしろいですね。また拝見したいと思います。

2 マッチャンさん  [削除] 2013年06月20日 18時44分
立派なのが再建されましたね、地元の熱意が感じられます。一度、高梁市内ををじっくり歩いてみる必要がありそうですね。昨日のTVで足守の木下利玄の生家も綺麗になって公開されるとか? 岡山の歴史を訪ねるのもよさそうですね。

3 木村のマーチャンさん  [削除] 2013年06月20日 22時50分
山田方谷は、なぜ佐久間象山や、河合継之助より有名でないのでしょうか?有名な作家に取り上げてもらうこともよいかもしれません。平沼さんの国会での方谷の説明はわかりやすいですね。
山田方谷の使用以前には、松山藩主もいたとのことですから、水車だけでなく庭園も整備されていたんでしょうね。

4 春秋(はるあき)さん  [削除] 2013年06月21日 00時20分
2003年10月備中松山へ河井継之助ファンと1泊2日の旅行をしました。
御茶屋はもちろん訪れ、碑を見学しました。また方谷駅や見返りの榎等見学しました。
高梁市は城下町の雰囲気が良く残っている落ち着いた町だと思いました。
 今月の22日土曜日には、歴史にふれる会の講座で、「財政の天才幕末を駆ける・山田方谷物語」(講師野島透氏)の講演を聞きます。講師の野島氏は山田方谷の研究家で、御子孫の方だそうです。

5 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月21日 15時47分
野崎のさん
 また高梁に観光名所が増えました。
元は3棟あり水車小屋であったでしょうが復元されていません。

6 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月21日 15時57分
マッチャン
 高梁方谷会はじめ方谷ゆかりの各種団体の協力により3000万の割安で完成したようです。
マッチャンの健脚で回ると一層楽しみが出るでしょう。
木下利玄の生家の移築中に近水園に行ったとこ外より見ました。木下家の古文書が公開されるそうですね。それにしても1億8000万円どこにかかったのでしょうかね。

7 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月21日 16時14分
木村のマーチャン
 方谷が小説に取り上げられていない理由は
1.非業の死でなく天寿を全うしている点。
2.陽明学で大塩平八で反乱を起こし大阪を火の海としたことがその思想の危険性で封印されたこと。
3.聖人として扱われ、妻子、女性関係など面白い話がありますがタブーとされたこと。
4.最後の死に場所が新見大佐の田舎であった点。
5.漢学者の時代は過ぎ洋学指向となった点。
などなど。
御茶屋は板倉候別邸の入り口で奥の住宅の更に奥に草叢に隠れるように遺跡があります。

8 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月21日 16時22分
春秋さん
 ご来訪ありがとうございます。
高梁はもう少し整備するとヨーロッパの城郭都市より雰囲気の良い街となるでしょう。
大型バスが入れないのが残念ですが、それを作ると自然が破壊されてしましますし悩む所でしょう。
御承知のように野島透氏は財務省勤務で以前に上司に山田方谷の財政改革について調べるように言われ、それでやっと先祖が山田家より養子に来ていることを知ったとのことです。NHK
大河ドラマ化100万人署名にの発案者と聞きます。

9 木村のマーチャンさん  [削除] 2013年06月21日 22時51分
あきちゃんさん
いろいろとご説明ありがとうございます。どなたか著名な小説家に、方谷の真の価値を認識してもらい、ベストセラーを著述してほしいものです。そして、大西郷に近い評価が世の中に定着する日が遠くないことを願っています。

10 春秋(はるあき)さん  [削除] 2013年06月22日 00時23分
あきちゃんさん 
 山田方谷については、NHKで「山田方谷・奇跡の藩政改革」が中国放送局で放映され、好評だったので2004年3月にNHK総合テレビでも放映されました。
 私も見ましたが、なかなか良い出来だったと思います。
野島さんは、その時に出演され、山田方谷研究家として紹介されています。
 上司に調べるように言われて、子孫だと知ったのは知りませんでした。教えていただきありがとうございます。

11 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月22日 06時08分
木村マーチャン
 大河ドラマ化に当っては脚本家も重要でしょう。
大西郷とは西郷隆盛とは、郷土に愛される人物に違いありません。

12 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月22日 06時18分
春秋さん
 NHKで「山田方谷・奇跡の藩政改革」は方谷イントロとして良くできていますね。中井町方谷記念館でも見られます。
岡山卸センターで毎月開かれていますが、至近には、次のがあります。
岡山方谷塾ビジネススクール
□山田方谷入門③「その人物」
講師:田中里味
●6月25日(火) 18:30~20:00
500円

13 ガボチャンさん  [削除] 2013年06月23日 22時55分
松山城付近には数々の名所があり、見物に行く甲斐がありそうですね。茶屋の「水車」も風情のある名所が完成されましたね。水車は川水を引いた水力で回しているのでしょうか? 新築の茶屋の屋根瓦は、閑谷学校の屋根と同様に全てが備前焼の瓦ですか?

14 あきちゃんさん  [削除] 2013年06月24日 08時45分
松山城のある松山を流れる伊賀谷川には10ヶの水車がありました。米搗、製粉、紙漉、タドン製造ン使われていました。上流より水をパイプで引いって回しています。
茶屋の瓦は、島根県の石州瓦の陶工が良質の粘土が出る高梁市宇治に移り住い、塩田瓦を焼いていました。その再現工房の瓦です。

矢坂山の春

2013年6月14日


暑中お見舞い申し上げます。
「矢坂山の春2013」http://www.youtube.com/watch?v=M85k06IEPqsを公開しました。
中学の同窓生夫妻の来岡思い出深いです。モミジを大切にします。
平成25年3月22日より4月22日矢坂山の桜・ツツジの撮影を行った。特に4月1日のモミジ植樹会、4月13日の恒例のツツジ祭りを盛り込んだ。草刈、間伐が進んだ様子がわかる。
矢坂山固有のコマノミツバツツジ群生地はもちろん鯉けいけの山桜が次々咲散る様子も見所。13分のビデオにまとめた。

美作国歴史探訪

2013年6月7日

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P1000082-2平成25年6月1日に岡山歴史研究会主催で建国1300年の美作国を64名が歴史探訪しました。
美作国は、和銅6年(713年)に、備前国から英多郡、勝田郡、苫田郡、久米郡、真嶋郡、大庭郡の6郡を分けて設けられました。古来より製鉄の盛んな土地で、たたら製鉄が行われていました。
城東地区は、昔ながらの町並みを残す情緒豊かな地区です。
津山洋学資料館の建物は「津山洋学五峰(宇田川玄真・箕作阮甫・津田真道・宇田川玄随・宇田川榕菴)」をモチーフに五角形を基本として設計されました。
幕末から明治初期にかけて、津山藩は優れた洋学者を輩出。この資料館には西洋の内科医学を初めて紹介した宇田川玄随(うだがわ・げんすい)や、幕末の対米露交渉に活躍した箕作阮甫(みつくり・げんぽ)など、津山出身の蘭学者らの資料を展示。「解体新書」の初版本の他、精巧な木製の骨格標本(レプリカ)は目を見張ります。
津山弥生の里は約2,000年前の弥生時代中期の竪穴式住居と高床倉庫などが復元された史跡公園です。
文化財センターは、近年発掘調査で出土した貴重な資料等を展示するとともに、稲作を中心とした視点から津山の歴史を紹介しています。
中山神社は、和銅6年(713年)、美作国が備前国から分立した時に吉備中山から勧請を受けて創建されました。美作国一宮として崇敬を受けています。
天文2年(1533年)、尼子晴久の美作攻めの際火が放たれ、社殿が焼失し、その後、晴久自身によって再建されました。
『一遍上人絵伝』には、弘安9年(1286)の春に一遍上人が中山神社に詣でた様子が描かれています。
美作国分寺は、総国文寺となる東大寺と伽藍配置が極めてよく似ています。また、お寺の範囲は二町(約220m)四方で、国分寺の基本的な規模に一致するといわれています。
土井宿の東西惣門の内、西の惣門が姫新線土井駅入り口に再建されています。幕府の命により朝夕門番により開閉されていました。
土井宿を過ぎた所に、八咫(やた)の鏡の発掘地があります。昭和三十三年七月十三日、作東町天王谷の小社(右方約三十メートルの山裾)より天皇家継承の印しとされる八咫の鏡が同所春名義雄氏によって発掘されました。
 美作の東部、勝田郡植月地方には天皇家正続とする後南朝の歴史があり、史実を裏付けるものとして貴重な品であるが、現在は発掘者に春名よって山□県の赤間神宮に奉献され安置されて居る。一説によれば源平の興亡を極めた壇ノ浦の合戦において、土居・妹尾家(前方の山の持ち主)の先祖が、ひそかに、持ち帰ったものとのロマンに満ちた逸話もあり、よって安徳帝を祀った同社に奉献されたもの力、発掘者春名氏も今は物故の人となり知るすべもない。
美作と備前の境の柵原(やなはら)近くの美咲町飯岡(ゆうか)の田圃の中に「流王の碑」が建立されています。美作後南朝第九代良懐(よしやす)親王(この時点では皇籍を離脱され平民)が宝永6 年(1709)正月轢死(横死)し埋葬された地が現在の久米郡美咲町飯岡(ゆうか)の田圃の中に存在する。地元民からは「我王さまの墓」として榎木とその下に小さ石の祠があり、森家所縁の我原家が代々墓守をしていたと聴く。立派な碑文は後に同じく美作後南朝の末裔で後醍醐天皇から26 代当主流王(りゅう
おう)農(あつし)氏とその娘(弘子)さんが平成11 年から12 年に建立されたものである。流王家も平民に降り県北を中心に末裔が点在するが、王の流れを苗字にして遺徳を伝えている。