Archive for the ‘歴史’ category

「鹿田荘」シンポジウム

2011年1月10日

「鹿田荘」シンポジウム

 1月10日岡山大学50周年記念館で「鹿田荘」シンポジウムがありました。100名以上の満席でした。鹿田荘は藤原家の全国4箇所荘の一つで平安時代あら鎌倉時代に栄えていました。岡山平野は大化の改新の南北の条里制の区割りですが、鹿田荘は少し東に傾いた条理をとっていて藤原家の荘園範囲を推定するのに役立つそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 もう一つ興味があったことは、岡山平野の平安時代の河川のイメージ図で鹿田荘を主体に書かれたものですが、京山、矢坂山の南に笹が瀬川と旭川につながる川が描かれていて、鎌倉時代には無くなっています。大安寺の庄の南の堤防沿い川ないし海のなごりか、観音寺用水の流れか確認してみたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  参考までに、中世末と奈良時代のの岡山平野の海岸線を調べた植松氏の図を載せておきます。

お日待ち

2011年1月10日

お日待ち

 1月8日日暮れの7時と9日朝7時30分より、壇家の講が集まり、覚善院のお聖人がこられ、経を読みお日待ちをしました。昔は、宿の家に集まり泊り込みで経を読み、飲み食いをしながら日の出を待ったそうです。同様のことは庚申の日にも行われていました。1月と9月に5年ごとに宿の家が廻ってきています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

米に代表される植物の成長に太陽はかがせないばかりでなく、生命の誕生は光によるとされています。日の出、入りは、日時を刻み、バイオリズム、生活、健康に大きく影響しています。太陽のエネルギーは核融合として原子量発電の形で手に入れようとしています。それでも、暗黒の世界の恐怖から逃れる手段はいまだに見つかっていないようです。

大野の由来

2010年2月23日

大野の由来
 大野村の名残は大野小学校として残っているのみです。移転前の大野小学校が大安寺の庄ゆかりの地(正野田町)にあったことや、大安寺駅、大安寺町、大安寺中等教育校など大野名前が忘れれられて来て地域の古参は残念がっています。
 そもそも大野の名前は、

岡山県大百科事典 上巻 昭和55年 山陽新聞社 発行 によると、 

 大野(岡山)

 岡山市街地西部の旧村名。1889年(明治22年)大安寺、野田、高柳、北長瀬、野殿の各村が合併、大安寺と野田の頭文字をとり大野村とした。1952年(昭和27)岡山市に編入後は大野の地名はなくなる。矢坂山とその南部の平野部で、国道2号線沿いに農機具販売店、自動車販売店が並び、都市計画の一環として中小企業団地もある。近年住宅地化が進んでいる。

 大野(大原)、大野(鏡野)の記述もある。

大安寺と野田の頭文字をとって、大野村としたとあって、にわかに信じがたいものでした。読みか方を説明するためこのようになったならともかく、大野村誌にもその辺りの経緯は触れていません。下図のように経過のみしか記していません。

 10年ほど前に、吉備津彦神社に初詣したさい、「吉備の中山を守る会」が神社にまつわる古絵図をパネルにしていました。その一枚には吉備津の東に広大な平野が広がり「大野ヶ原」と小さく記してあったように記憶しています。写真を撮ったのですが見つかりません。その後何度もお聞きいしているのですがパネルが見つかりません。

 「市久物語」に記したように、歴史的には葦の生い茂る「長江葦原」が広がって「大野ヶ原」があってもおかしくありません。ちなみに「長江葦原」の長江は中国の「ちょうこう」の景色に似ていることから付いた名前とする説があります。北長瀬の字名に「大伴」が残っていることより、万葉集の歌人の大伴家持が吉備を旅する際、笹が瀬川の蛇行する大川で詠んだ詩があったかもしれません。岡山平野全体が「長江」的風景であったかも知れません。富山城が本格的城郭をなしていたならば、岡山平野・岡山市は冨山平野か大野平野、富山市か大野市となっていたでしょう。なぜなら、岡山城の岡山と呼ばれる小高い丘に築城されたことからきています。いずれにしても地の利には勝てなかったようです。

 妄想にしても古代に「大野が原」あったとするとポエムを感じますし、魚見山からとの景色が一段と引き立ちます。

 

 

 

 

中世の史蹟 野田・今

2010年2月2日

 
 中世の史蹟 野田・今
 間野さんに中世のお墓と今村宮を案内いただきました。墓地は、野田と今の数箇所です。巨大な多宝塔は歴史を感じます。転がっているような小さな多宝塔も中世の墓だそうです。屋根付の墓は、それより古いそうですが、神式の墓か物置ではないでしょうか。
 宇喜田の時代は今村辺りは野田・市久の潮止め堤防の外にあり、島であったか堤防の外に広がっていった州であったと思われます。中仙道の白鬚宮は松島に建立され市久とは長い間海で隔てられていたと記録されています。また、今村宮の北向きの参道は鴨方往来に出て、旧2号線と交差し岡山ドーム辺りに通じています。この辺りは竹通と呼ばれ、市久保と野田保の堺辺りになり、高柳の前田城跡に繋がり、前田の殿様は後に今村の開墾をしたと伝えられ、運河として行き来していたのではないでしょうか。参道と往来との交差する北東には、池田の殿様が立ち寄ったとされる佐藤家があり「花屋」の看板が長く掲げられていたそうです。市久保は江戸時代には辻と北長瀬に分かれ、北長瀬は池田和泉の知行地とされています。
 (参考) 
 墓ja.wikipedia.org/wikiの歴史は、平安時代に仏教の伝来に伴い石工の技術も渡来人によってもたらされ、供養塔や墓石としての五輪塔、宝篋印塔、宝塔、多宝塔、層塔などが支配階級の間で出現した。その後、鎌倉時代~室町時代にかけて、禅宗の到来とともに位牌戒名が中国から伝わる。その影響からか、位牌型の板碑や今日の墓石に近い角柱型のものもつくられるようになった。江戸時代になると檀家制度が確立し、人々に先祖に対する供養や葬儀、墓など仏事が生活の中に定着したことにより、庶民まで墓石を建立するようになった。墓石に家紋を入れるようになったのはその頃からである。 
 今村宮www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgiは、建武元年(1334)の創建で、岡山市の中心部である内山下の榎の馬場(現在の岡山県庁前)に、奥州白川の城主である菖蒲七郎左衛門の子・正寿が勧請した。
 天照大御神、八幡大神、春日大神の三神を奉祀したので、「三社明神」または、「三社宮」と称し、約250年にわたり、岡山市の中心部の産土神として崇敬された。
 天正8年(1580)岡山開府の祖といわれる宇喜多直家が岡山城城郭を拡張するにあたり、付近の土地を整理・移転した。そこで、三社明神は今野村に祀られている八幡宮に御遷宮され、二つの神社は合祀されて現在の今村宮となった。

乞食川

2010年1月30日

乞食(谷)川

 

 魚見山の麓にあった元の大野小学校の西を流れる小川が「乞食(谷)川」だと間野さんに聞きました。現在は魚見山川の標識が立っています。岡山平野の古来の河川図に座主川、観音寺、能登川用水と並んで矢坂山を南に向かって流れる乞食川が書かれています。大安寺の庄を潤していた川であろうし、その名前の由来に興味を持っていました。

 下記のように、「僧侶は比丘(びく)というが、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意味である。」との記述で、乞食川でなく、僧侶川、比丘(びく)川でもおかしくありません。笹が瀬川を吉備津に向けて渡る比丘橋があり、多くの言い伝えがあります。さらに、大きな石仏が矢坂山より滑り落ち麓に祀られています。大安寺庄にゆかりもしくはもっと以前に矢坂山に僧侶の暮す大寺があってもおかしくありません。矢坂山の歴史の中で古墳時代後から富山城の平安中期の間が欠落しています。この辺りの観点から矢坂山を散策してみるのも面白いと楽しみにしています。

 安易に魚見山川と呼ぶようになったのも疑問です。古事記川とでもしておけば風流でよかったかもしれません。

 

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

乞食(こつじき)とは、

本来は仏教用語である。比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定める。もし自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定める。

上記の事項が転じて、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることを乞食(こじき)と呼ぶようになった。

 由来

古代インドのバラモン階級では、人の一生を学生期・家長期・林住期・遊行(遍歴)期という、四住期に分けて人生を送った。このうち最後の遊行期は、各所を遍歴して食物を乞い、ひたすら解脱を求める生活を送る期間である。またこの時代には、バラモン階級以外の自由な思想家・修行者たちもこの作法に則り、少欲知足を旨として修行していた。釈迦もまたこれに随い、本来の仏教では修行形態の大きな柱であった。

 

特に釈迦の筆頭弟子であったサーリプッタ(舎利弗)は、五比丘の一人であるアッサジ(阿説示)が乞食で各家を周っている姿を見て、その所作が端正で理に叶っていることに感じ入り、これを契機に改宗して弟子入りしたことは有名な故事である。このように仏教では乞食・行乞することを頭陀行(ずだぎょう)といい、簡素で清貧な修行によって煩悩の損減を図るのが特徴である。

 

また、僧侶は比丘(びく)というが、これはサンスクリット語の音写訳で、「食を乞う者」という意味である。これが後々に中国で仏典を訳した際に乞食(こつじき)、また乞者(こっしゃ)などと翻訳されたことにはじまる。

 

『大乗義章』15に「専行乞食。所為有二。一者為自。省事修道。二者為他。福利済世利人」、『行事鈔』下に「善見云。三乗聖人悉皆乞食」、また「善見云。分衛者乞食也」とあり、『法集経』に「行乞食者。破一切憍慢」、『十二頭陀経』に「食有三種。一受請食。二衆請食。三常乞食。若前二食起諸漏因縁。所以者何。受請食者。若得請便言我有福徳好人。若不請則嫌根彼。或自鄙薄。是食憂法則能遮道。若僧食者。当隋衆法断事擯人料理僧事。心則散乱妨廃行道。有於是悩乱因縁応受乞食法」などとある。

 

 修行僧の乞食

仏教では、修行僧が檀家の家々(近隣に限らない)を訪問したり、寺院の門前や往来の激しい交差点等で直立するなどして施しの米や金銭を受ける行為。行乞(ぎょうこつ)、また托鉢という。これが本来の乞食(こつじき)である。

 

 

 

田舟を訪ねて(写真追加)

2009年12月24日

下段は、水辺の会の様子を写した写真です。

田舟を訪ねて

2009年12月24日

 本日、久米の佐藤さんの案内で田舟を見せていただき、一宮周辺の2重樋門を見せていただきました。前回の新比丘尼橋の隣の樋門は紹介されたものでなく、吉備線とすぐ南にありました(訂正いたします)。ただ、吉備線付け替え工事に伴って、石造であったろう、昔の面影は残っていませんでした。
 中山小学校の北側手の吉備津より笹が瀬川に出ていた砂川ないし西川の隣に津田永忠が築いた石造堤防約500メートルを見ました。正に閑谷学校の塀そのものでした。其の隣に吉備線の「北一宮川橋梁があり一久川橋梁を思い浮かべました。笹が瀬川東岸にも2重樋門があったはずで日吉町の桜本樋門がその形跡があり、大川の南端、市久辺りであり、北には間の橋(現大安寺西町)辺りにあたのではないでしょうか。
 石造でなかったため其の面影のある樋門として今保水門を案内いただきました。今保鉄鋼センターの南端辺りにあり、大賀邸の隣にありました。今保港が備前藩の笹が瀬川で西側の米の出荷でにぎわっていた様子が分かります。江戸時代には米倉が笹が瀬川東岸の同様の機能を持っていました。
 水辺の会の田舟を見せていただき、10艘は在り、また修理の様子を聞きました。一艘北長瀬駅の北口水路に浮かべ、尺八・琴演奏している様子を描き新年の初夢のようでした。ただ、5メートルもあり持ち帰る方法、修理方法など難題が待ち構えています。日吉町には吉備の水軍の末枝が居るとかで田舟の改修など簡単なことと期待しています。

一久川が市久と一宮を結ぶ運河説

2009年12月22日

久米の佐藤さんより貴重な情報を頂きました。

 市久物語の一久川は一宮の吉備津彦神社により市久を干拓・灌漑するために作られた用水です。干拓のためには潮抜き用の川が必要で、旭川を水源とする丹比真人墾田や大安寺の庄で使われた雑用水を一久川に引き込みそれに当てていました。昭和37年頃、大川を埋めた際、いつの時代か浅瀬で難破したと思われる帆船が出てきたと聞き、白石・市久辺りで帆船より小船に乗り換えて一宮辺りに上っていて、賑わい、たまに市が開かれていました。

 ところが佐藤さんが話されるのに、黒住秀雄著の「尾上の田船の歴史を探る」(市久/SkyDrive/公開 参照)によると、津田永忠が津高堺江関係の干拓の時、笹ケ瀬川に堤防を作りました。其の時、内川より潮川に田舟が出るため比丘尼橋にハク樋(2重樋門)をつくり、満潮時でも田舟が通行できるようになりました。また、大安寺の三カ月湖を通って岡山市西川まで行くことが出来ます。一宮より岡山市街地に田舟で行けていたことより、当然市久にも行けていたはずで、その縁から一久川と付けられたとする説です。

この2重樋門は、玉島の高瀬通し同様にパナマ運河同様の構造をとり貴重な歴史遺産でした。少し笹ケ瀬川を下った西長瀬樋門にも2重樋門が残っています。

  市久誕生当時の古代末期には、自然堤防程度で淡水の流れる川辺で稲作が行われていたと考えられていて、市久より笹ケ瀬川の三ケ月湖になる前の大川を通って一宮へ行っていたとするのが妥当でしょう。

 時代は下りますが明治30年頃、土光敏夫《元日本経団連会長》伝によると幼少の頃、家が肥料を商いとしていたことより大野辻(現北長瀬表町)の生家より岡山に川舟を引いて売りに行っていたと書いています。此の川は能登川用水であったかも知れません。