10月 2015 のアーカイブ

津和野

2015年10月5日

坂崎出羽守(浮田詮家)が16年間城主を務めたと云われる津和野町を訪れた。まず、永明寺へ行った。紅葉には早くざねんだった。しかし、応永27年(1420年)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、月因性初禅師を開山とした。島根県最古の禅寺といわれている。本堂の屋根は単層茅葺きである。本堂奥の石段を上がったところに悲運の武将、坂崎出羽守の墓があった。宝物殿が公開中で多くの展示物の中に出羽守縁のものもあった。出口の右側手の墓地に医者であり日本の近代文学を代表する文豪、森鴎外(森林太郎)の墓があった。
続いて、乙女峠マリア聖堂を訪れた。「明治元年。キリシタンたちは着のみ着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、又乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引きあげて、今度は火あぶりにして責めました。」悲しい歴史を見た。
絵本のノーベル賞と言われる「国際アンデルセン賞」を受賞し、世界的に活躍している画家である、安野光雅美術館には、絵本や風景画などたくさんの作品が展示されていた。
自転車を借り、殿町通り、城下町時代の古いたたずまいを残すとても魅力的な場所。藩校養老館跡、郡庁跡、津和野藩家老多胡家表門、カトリック教会などたくさんの歴史を感じさせる建物が集中している通りに沿って流れる掘割には、白壁や並木の緑が映り込み、赤、白、金、黒など、千匹以上ともいわれる色とりどりの鯉が泳いでいた。この鯉は詮家が富山城水の手「鯉が池」より思いついたのではのではないかと推察している。
津和野城は町の南端に位置する標高370mの山上にあった。別名を三本松(さんぼんまつ)城、蕗(ふき)城、山の名を霊亀山という。南北3kmにのびる丘陵上にあり、中世には全山が城塞として使用された。
元冠にさいして、西国防備を命じられて西石見吉賀地方に下向した吉見頼行が、永仁3年(1295)から築城にかかり、約30年の歳月をついやして完成したと伝えられる。山上をけずり削平地とし、山の峰つづきに堀切をつくった典型的な山城であった。石垣構築は室町末期といわれる。
関ケ原の戦いの戦功で入城した坂崎出羽守成正は、城郭の大改築をはかり、本丸の北方約200mの山頂に側面防衛のための出丸である織部丸(おりべまる)を築いた。今日残る遺構の大部分がこのとき築かれたものである。また城の内堀は城山をめぐって流れていた津和野川をあてた。亀井氏になって寛文年間(1661〜1673)に現在の大橋から横掘までの約1kmにわたって外堀が掘られた。
吉見氏14代319年間、坂崎氏1代16年間ののちは、明治維新まで亀井氏が11 代225年にわたり城主として在城した。貞享3年(1686)に天守は落雷のため焼失し、その後再建されることもなく、明治7年(1874)に石垣を残して解体された。その間、吉見氏十一代正頼が天文23年(1554)、陶晴賢(すえはるたか)の大軍をこの城で迎えうち防戦した戦史がある。
現在は太鼓谷稲成神社の参道からリフトによって約5分で頂上に達する。城郭建造物は何もないが、全曲輪(くるわ)の石垣はほぼ完全な形で保存されている。東部の高所が本丸跡、西のやや低い所が天守台、また南門跡をつなぐ石垣は広壮であり、吉見氏後期に改築した大手ははぼ東北にある。東門跡、三段櫓跡、腰曲輪跡の石垣は階段状に延々と連なって雄大である。さらにその北方やや低い所に三本松平をへだてて、普請奉行だった浮田織部の名をとった織部丸があり、東麓に館跡や侍屋敷跡がある。古城の旧態をよく保ち、ことに石組の堅固さ、雄大さは比類のないものである。
堅牢なピラミッドのような石垣の石を担ぎ上げさせた出羽守の思いは如何なものであったか。麓の遠くからSL山口の汽笛が聞こえてきた。
森鴎外記念館も訪れた。その生涯の履歴・作品・手紙が多く展示してあった。
鴎外の生家も見た。現在東京の小石川植物園の鴎外の屋敷跡は津和野東京事務所として使われている。 P1070735 P1070743 P1070765  DSC08154P1070810  DSC08163 P1070722 P1070734