宇喜多忠家について


宇喜多忠家について

光珍寺 法要

             岡山県教育庁文化財課       副参事 内池英樹

父興家が備前福岡の阿部善定のもとに匿われていたとき、善定の娘を母として生まれた。兄直家が1549年(天文18)に邑久郡砥石城浮田大和を討ち滅ぼした功により上道郡奈良部山城に移ると、岡平介の助けを得て上道郡乙子城を守る。その後、兄直家の覇業を助け数多くの戦陣を踏み、73年(天正1)直家が岡山城に入ると、西方の守りを固めるため御野郡富山城に移り、備中境を守る。78年毛利氏の播州上月城攻めに直家に代わり宇喜多勢を率いて加勢。翌年宇喜多氏が毛利氏を離れ織田信長と結ぶと、小早川隆景の率いる毛利の大軍が備前辛川へ進攻してきたが、軍略をもってこれを撃退した。 81年直家病没後は幼主秀家を助け、その後見として82年の備中高松城の役をはじめ羽柴秀吉に加勢したその多くの合戦に宇喜多勢を率いて出陣、その功により84年に秀吉の推挙を得て出羽守に叙任した。 92年の朝鮮出兵では総督秀家の後見として渡海。その後、まもなく家督を嫡子詮家に譲り、剃髪隠居して安心と称し、大坂へ移り住み、まもなく同地で没した。

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