富山城跡考

投稿日 2017年5月17日 by tsuboigenzaemon
カテゴリー: 未分類


富山城跡の史跡指定の必要性について考える。
日本で初めて発掘調査がされた城跡として日本城郭史に記録されている。岡山市はその点でも高く評価されている。
所が、岡山の産業と云えば藺草の生産と万成石の生産しかなかった実情がある。
ウィキペディアによると万成石(まんなりいし)とは、岡山県岡山市北区の万成または矢坂地域]から産出される角閃石黒雲母花崗岩である。日本の銘石のひとつとして東日本の本小松石、西日本の庵治石と共にブランド化された万成石は、桜色の美しさから、昔も今も多くの人々に愛され、近年も需要は非常に高い国産の石材である。
万成石は万成地区が掘り尽くされ富山城跡の1/3が採掘され始めたため調査が始まったのが実情のようだ。所が産業・生活のため史跡指定を阻み、城跡の危機にある。無くても良いとの意見すらある。
すでに、風化が進み城跡が崩れた部分がある。今では土石流による危険地帯となっている。
岡山市は採石業者の保護のため、この危険地帯を災害危険地帯の指定すらされておらず地元住民は危険にさらされている。
ここでもう一度富山城跡の史跡指定の重要性について考えてみよう。
その歴史については既に多く語られている。
豊臣秀吉の高松城水攻めにより毛利と和睦が成立した。その前線の城が富山城であり宇喜多秀家のいとこの浮田詮家、後の坂崎出羽守が20年間城主を務めた城と云える。
この坂崎の名前は徳川家康により浮田の名前より変えるよう言われたとなっているが、坂崎なる名前の由来が今一つ不明だ。
家康の孫の千姫を大阪城夏の陣の天守閣が燃え落ちる中を救出したのが坂崎出羽守との説があるが定かでない。
本多忠政との婚姻を良しとせず屋敷に立てこもったことが誤解となり津和野藩が断絶となった。所が熊本藩に坂崎家が家老職として抱えられていて柳生家家臣が調査した記録が残っている。
津和野町に坂崎家が幕末まで熊本藩で続き、東京におられるとの情報がある。
岡山より津和野に行った家臣団の外に坂崎を名乗る家臣が坂崎勘兵衛、坂崎内匠、五郎左衛門、大学、七郎左衛門がいた。
浮田詮家と異母兄弟の弟がいて、その母が坂崎家よりの方で名乗る切っ掛けとなった可能性が高い。その当たりを示す公文書は全くない。
「柳生新陰流」記録
宝暦八戌寅年、臣(信之)細川家ノ士鳥糧市兵衛ニ合シ、坂崎氏ノ話ニヲヨフ。今同家中肥後国熊本ニ士大将坂崎兵庫某、禄三千石、是則羽州成政ノ弟ノ家ニシテ、元和ノ初年、仕干ニ国主云云。臣按、成政自記ニ載ル同苗坂崎内匠・同織部・同五郎左衛門・同大学・同七郎左衛門是也。右肥後ニ在処此曹ノ中カ、将平四郎ノ事力、可ニ追号。右自記ノ中家老ハ衣笠若狭守。吉見備前守也。何茂子孫興廃ヲ不詳。坂崎氏ノ家紋ハ二階笠四目結也。
松田是尋記日、享保年中、浅草海禅寺ニ到リ、成政ノ墳墓ヲ捜尋ス。文字不分明ニ云。臣(信之)宝暦元辛末十月、再依ニ君命到ニ彼寺尋求ス。其墳不審故過去帳ヲ求テ閲ス。法号年月顕然トアリ。
下ニ酒井出羽守殿・坂崎出羽守殿也卜記アリ。数回及問其審寺僧云、此寺元神田ニアリ、寛永年中此地ニ遷、其後無ニ施主墳墓頗退転紅スト云。故金二百匹ヲ呈シ茶湯ス。今茲宝暦七丁丑十一月武州品川東海寺中妙解院ハ、法徳寺開山伯叔ノ派系ヲ以、累代懇篤、故二其事ヲ談シ別院少林ニ成政ノ神主ヲ納玉フ。同十二月二三日、為ニ正使臣(信之)副使留守居鈴木三太夫誉就、香火記幵文ヲ寄付シ玉ヒ、法会執行アリ。当住ハ大川和尚也。記文左ニ写。
最後に、矢坂山は古代は吉備の中海の岩井島として万葉集に松も歌われ、桃太郎伝説の地でもあり、江戸時代には備前軍記を書いた土居常平と著名人が多く出た。山桜は勿論コバノヤマツツジを忘れてはならない。
さらに、大野村誌に書かれている岸一太は医師としてばかりでなく、大正時代に登頂可能となった黒部の剣岳でモリブデン鉱山を見つけ日本初の飛行機製造や、赤羽飛行場をつくった。
今NHKの歴史研究家として活躍している磯田道史氏も大安寺高校の出身で校歌にも矢坂山が歌われている。
今後も史跡を大切に保存せねばなるまい。

山田方谷の人間像

投稿日 2017年5月10日 by tsuboigenzaemon
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平成29年度岡山歴史研究会は新大田弘之会長体制スタートした。高梁出身だ。講演は方谷直系5代目の山田敦氏が行われた。2016年5月の主要国首脳会議(伊勢志摩サミット)に合わせ、教育相会合が倉敷市で開催。
発端は、6月7日(日)「岡山方谷まつり2015特別フォーラム」のシンポジュウムの中で、下村博文文部科学大臣から伊原木隆太岡山県知事に提案があった。
7月3日、山田方谷が縁で、倉敷市で開催決定。(16年5月14、15日)
2017年1月、山田方谷像がJR備中高梁駅前ロータリーに完成。
誕生 JR伯備線方谷駅。
文化2年(1805)備中松山藩一現在の高梁市中井町西方に生まれた。
父五郎吉重美。母梶。
幼少期 4歳で母から字を習う。
作州木野山神社(落合)に額字を奉納。
5歳で新見藩儒丸川松陰の塾に入る。
丸川塾で神童と称される。
父母の死 14歳の時、母が40歳で亡くなる。直後「述懐」の詩を作る。
次の年15歳の時に父親が亡くなる。
家業の農業と製油業を継がざるを得なくなった。
19歳、すこぶる家業にくわしく、毎日マスを手にして農民や商人とまじわる。
藩士登用遊学時代 21歳の時、2人扶持を支給される。
23歳から29歳の間に、3回京都に遊学した。
25歳で藩主より苗字帯刀を許され、8人扶持、藩校有終館会頭を命ぜられる。
30歳から32歳まで江戸に遊学し、佐藤一斎の塾で2年9ヶ月学んだ。
佐藤一斎は後に昌平學儒官(総長)博学で陽明学にも明るい。
佐藤-斎の塾で塾長を務めた。
佐久間像山(洋学)と夜な夜な論争をした。
江戸遊学から帰った年、32歳で有終館学頭(校長)になる。
勝静に講義藩主板倉勝職(かつつね)に跡継ぎがなく、
桑名藩主松平定永の第8子、勝静(かつきよ)を養子にした。
勝静(かつきよ)は寛政の改革をなした松平定信の孫に当たる。
勝静に講義をしたことが、方谷が藩政改革を任されるきっかけとなった。
この時、方谷40歳、勝静22歳。
砲術研究43歳の時、津山藩に行き、津山藩士天野直人に洋式の大砲及び銃陣
について学ぶ。1か月余りに及ぶ。
藩政改革 方谷45歳の時、勝静か藩主となり、方谷を元締役・吟味役に抜擢する。
45歳~53歳の間、7年半で改革を成し遂げる。
57歳~63歳の間、江戸や京阪の地で、勝静を補佐する。
方谷は多策家で、―つのことについて必ず、上策・中策・下策を示した。
大政奉還の原稿を書いたとされる。
無血開城 備中松山城を征討軍に開城する。
教育活動 維新後は長瀬塾で教育に専念。
66歳、小阪部(おさかべ)に塾を移した。
69歳、閑谷(しずたに)学校が再興されるに当たり、招かれて講義をする。
72歳、7月最後の閑谷での講義をした。
終焉 73歳、明治10年6月26日没、家人に命じて枕元に、
勝静から賜った短刀と小銃と王陽明全集を置かせた。

と方谷の一生の話があった。
さらに、別所龍芳氏の「対人問備中」の朗々たる詩吟が演じられた。
写真 別所龍芳氏 山田敦氏  大田弘之会長

ヒヨッコ

投稿日 2017年5月9日 by tsuboigenzaemon
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NHK朝ドラ「ヒヨッコ」を毎朝見ている。
彼女は、茨木より集団就職で上京する。
当時、仲間も岡山より京浜コンビナートの大手石油会社に就職し寮住まいしていた。
正にオリンピックの前の年であった。何故かと云うと、横浜スタジアムに寮の仲間と女子バレーボ-ルのチケットを取るため数日前より徹夜で並んだ思い出がある。結局、何人か前で売り切れとなった。
幸運にも?現役で入学した。先日50年ぶりに東京都足立区の先輩にメールした。
「さて、この度、岸一太の伝記を書いていまして、K先輩の事務所が赤羽飛行場の直ぐ北にあることに気付きました。北区は東京都の一番北と思う田舎者です。
北区飛鳥山博物館で資料を頂いています。
大正時代の岸氏が撮影した映像フィルムが川口NHKアーカイブスに問い合わしたところ2分映像を20~30万円よこせいと云われ困っています。
最近、新橋の日本航空協会にその件で問い合わせたところ、ビデオがあり見せられるよう準備して頂いています。」
回答は「お元気で、「岸一太」の伝記をまとめていること、お慶び申し上げなす。小生「岸一太」のことは全く知りませんでした。100ページに亘る貴論文を後で読ませていただきます。
「赤羽飛行場は、聞いたことがありません。拙宅は、隣の区ですが、交通の便が悪く、赤羽に行くには、山手線まで行かなければならないくらいです。東京の交通網は山手線から放射状に出ていて、横の連絡が非常に悪い都市です。
もしかしたら、隅田川と荒川放水路(現荒川)に挟まれた所かも。荒川は、大正初期?に隅田川の氾濫防止に掘削されました。」
先輩は、物理化学研究部の部長をされていて東京都化学科連合会(通称都化連)の楽しい会に入らせてもらった。
「岸一太物語200頁A4冊子の追加資料分を申し訳ありませんでした。
講演用PDFでも容量がオーバーします。
東京都の交通網の違いと赤羽飛行場が意外と知られていないのですね。岡山では国宝の備前刀が多く米軍により没収された場所として新聞で話題となります。」
未だに交流のある同級生は先日岡山に来てくれた時、山形より東芝に就職し、再度入学し、卒業後就職し、また、東京電機大学の修士、博士を取り、神奈川県工業技術センター長を務めたことを知りました。彼は航空業界では全日空会長の大橋氏が日刊工業新聞に「私の履歴書」の4月に連載しているとの情報を頂いた。大橋会長は山田方谷の署名運動の東京代表だ。岡崎嘉平太も全日空の会長で田中角栄の中国交流立役者だ。岡山には表具師浮田幸吉の世界で初めて飛ぼうとした鳥人の理想が流れているのかもしれない。
岸一太は明治35年に台湾の総督府医院医長及び医学校教授、更に明治40年に関東軍督府技師兼満鉄大連病院長を務めロシア勲章をもらっている。
そして、大正2年に東京都築地明石町の聖路加病院付近に耳鼻咽喉科を開業する。大正4年には黒部剣岳のモリブデン鉱山を発見し、病院の裏で300回も航空機用発動機のシリンダーの試作を繰り返し成功した。数十分だっだたのを4時間の航続できるつるぎ号2号機まで東大工学部技師4年とともに、そこで作った。
大正6年には赤羽に飛行機製作所及び飛行場と一貫工場を作った。このため医師として蓄えた支那骨董品など蓄財を全て売った。
地図 この辺りは、トトねいちゃんで日本製袋工場があった。
赤羽飛行場 面積165,000㎡ 直線距離1500m
岸一太撮影フィルム 岸氏3女(武蔵野市木村花子さん保存)

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納豆のこと、岸一太のこと

投稿日 2017年4月28日 by tsuboigenzaemon
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矢坂山のツツジ祭りに続き、市久会のあきちゃんさんが主催される講演会があった。
納豆から抽出される酵素、ナットウキナーゼを発見命名された、倉敷芸術科学大学、須見洋行教授の「納豆と焼酎のちょっと良い話」。
納豆は身体にいいとは聞いているが、どのようにいいのかお聞きした。
昔、私たち関西以西に住む者は、進んで食べる食品ではなかった。身体にいいということで、今日では、ほとんどの人が食べるようになった食品と思っている。
納豆に含まれるナットウキナーゼは血栓を溶かすきわめて高い酵素である。臨床で行われるt-PA治療にも匹敵する力をもっている。ネバリにはメナキノン-7が多く、これは骨の維持に必要なものである。腸内の改善に最適である。強い抗菌作用も持つ。
このようにいいものを沢山持つ納豆を食べ続ければ長寿に効果があるというお話であった。なによりも安価である。
アジアには納豆トライアングルがあり、それに囲まれた中には納豆に似た食品が存在する。その一点が日本の納豆、インドネシアのテンベイ、ネパールのキネマ、これを結ぶ三角形がトライアングルとのこと。唱えたのは中尾佐助大阪府立大教授という。教授の専門の照葉樹林帯にも重なるという。中尾教授のことは私たちはマナスル登頂の一員として知っている。
血栓溶解の効果を高める焼酎。
度を過ぎないように飲めば、血管内に臨床で用いられるt-PA剤が出来ると話された。
納豆は良く煉ってネバネバを出して食べた方かよいのかとの質問が出た。どちらでもよいとの答えであった。
次はあきちやんさんの「日本初の飛行機を作った医師岸一太」のお話。
岸一太は明治の初め大野村北長瀬で生まれ。第三高等学校医学部を卒業、ドイツ留学後、台湾、大連で医者として活躍。その後、国産の飛行機の開発に心血をそそぐ、数機の複葉機を製作したのち破たん、関東大震災に遭い、道路の建設計画等にも携わり、67歳で死去している。
懇切丁寧な資料を頂きお話をお聞きする。
第三高等学校医学部が初期岡山にあったということも知らなかった、岡山医学専門学校、岡山大学医学部の前身である。ドイツ留学時、漱石、滝廉太郎、野口英世なども留学生であったという。ドクトルメディチーネの学位を得ている。この学位を鷗外や斎藤茂吉が得ていたかどうか私は知らないが、茂吉の岳父は同学位を得ていたことを、孫の北杜夫は小説「楡家の人々」に書いている。台湾、満州の時代は後藤新平のかの地での活躍の時代とかさなるとのこと。
また夫人は双日、神戸製鋼などの元締めであった鈴木商店の娘というが、ドイツ留学時代からの女性もおり艶聞には事欠かなかった人物であるともお聞きした。
東京で耳鼻咽喉科を開業するが、飛行機への夢があり、休業。
赤羽に工場を作り制作、開始。エンジンの部品、発動機も自作した。このため上質のモリブデンを得るため、富山の小黒部に鉱山まで所有する。
大正4年に1号機つるぎ1号が完成。飛行にも成功する。が、すべて自作にこだわりすぎたためか、つるぎ第6号あたりで困難を極める。しかし彼はアルミニュームの研究所も設けるが、破たん。
間なしに関東大震災に遭う。昭和12年他界。
YS11の初飛行の50年前に、志の高い人がいたのである。という郷土の偉人のお話であった。
どちらもおもしろくお聞きした。
あきちゃんさんありがとうございました。

野崎のさんありがとう。

山田方谷、これからの時代、どう生きるか?

投稿日 2017年3月6日 by tsuboigenzaemon
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平成29年1月29日に高梁駅前で金森秀禎さんが制作した山田方谷像の除幕式が行われた。

高梁市総合文化センターで下村博文元文部科学大臣の「山田方谷、これからの時代、どう生きるか?」と題して講演があった。

トランプ大統領選の結果をどう見るか

   格差の増大

シンギュラリティー(技術的特異点)の到来

 AI、機械が人の仕事を超える 10~20年後  失業者の問題

ダボス会議の主要議題

  AI・ロッボトの時代

「収穫加速の法則」と「シンギュラティー」

  新たな産業革命に覚悟が必要

平均寿命の推移 10~20年以内には寿命が無限となる

日本・地方の課題

  ①人材育成 ②産業構造改革 ③新たな技術投資

未来の生き方

 自由な働き方が可能となる。

協労・チムワーク

人工知能と経済の未来

  1割の人しか働いてない未来 最低限所得補償制度

既にAI社会に突入している。

 必要な資質・能力は

教育立国に向けた労働価値観

  人材価値倍増戦略

5つの社会ビジョン

  1. 教育平等社会

  2. 挑戦応援社会

  3. 障害成長社会

  4. 働き甲斐社会

  5. 人生支援社会

邪馬台国は福岡県にあったーありえない畿内

投稿日 2017年3月1日 by tsuboigenzaemon
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平成29年1月8日に国際交流センターで岡山歴史研究会主催の新春講演会が開かれた。講師は安本美典先生で「邪馬台国は福岡県にあったーあり得ない畿内」が演題であった。

卑弥呼天照大神は同一視できる。『魏志倭人伝』のなかの地名との類似から邪馬台国九州説が有力である。文献によると邪馬台国には28万人もの人がいたとあり、そこから類推し、邪馬台国はいくつかの国の総合名称であり、吉野ヶ里遺跡は女王の支配国の一つであったと考える。つまり、卑弥呼の宮殿は筑後川の上流にあり、流域すべてが邪馬台国ではないかという説である

邪馬台国や古代史問題について、日本神話は実際の歴史上の出来事が伝承として伝わったものである。トロイ戦争など神話だと思われていたことが実際の出来事に基づいている例は多い。高天原邪馬台国天照大神卑弥呼である。天の岩屋戸の伝承は卑弥呼の死と台与の相続を暗示したものである。記紀では高天原は九州にあったとされるため邪馬台国は九州である。神武天皇の東征などは基本的に事実を基にしているはずである。欠史八代の天皇など、架空とされた天皇は実在する。天皇の在位年数は、時代を遡るにつれて短くなる傾向がある。多くの天皇が実在しないと仮定するよりも、記紀に書いてあるとおり実在し、その在位年数が信じられないと仮定したほうが、矛盾が少ない。平均10年の在位で計算すると欠史八代の天皇の前が神話の時代に相当し、卑弥呼の時代が天照大神に相当する。

数理文献学的分析によると古代の王の在位の平均は約10年である。記紀では欠史八代を直系相続としているが、実際は兄弟相続だった可能性もあり不自然ではないとする。

ツツジ祭 & 講演会2017

投稿日 2017年3月1日 by tsuboigenzaemon
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ツツジ祭 & 講演会

平成2931日 

「市久会」「矢坂山を語る会」

寒四温で日ごとに温かくなり、矢坂山の山桜と山ツツジが楽しみな季節になってきました。

午前は、鯉ヶ池周辺、富山城跡、尾根の山ツツジが楽しみです。

午後は、講演会を開きます。

奮ってご参加願います。

 

日 時 : 平成2948日(土)

 9時より16

場 所 : ツツジ鑑賞会  9時より自由登頂

  •    大野コミュニティーハウス集合 岡山市北区大安寺東町23-21

 

 

講演会     1330分より 大野コミュニティーハウス 2階 50名 申込順

演 題 : ①納豆と焼酎のちょっと良い話 倉敷芸術科学大学特任教授 須見洋行氏    ②―日本初の飛行機を作った医師-岸 一太  市久会   坪井 章氏

        要旨 裏面

会 費 : ツツジ祭 無料(飲物・昼食など各自)

          講演会 500円(資料代)

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講 演 要 旨

 

納豆と焼酎のちょっと良い話

倉敷芸術科学大学生命科学部 特任教授 須見洋行

 

納豆も焼酎も共に日本が生んだ発酵食品であり,効能のあることがわかってきた。

まず,納豆については,「腹中をととのえ,食をすすめ,毒を解す」と江戸時代の『本朝食

鑑』にも記載があり,明治初期にはコレラやチフスに対しても効果があると報告されている。

納豆には,このような抗菌物質の他にも最近様々な機能成分が見つかっている。血栓溶解酵

素ナットウキナーゼの発見を皮切りに,骨に必須のビタミンK2(メナキノン-7),抗老化物質ポリアミンあるいは免疫力を増すなどである。

一方,焼酎は泡盛と共に「血の巡り効果」がある。とにかく,少しは飲む方が良いよう

である。時間が許せばこうした本格焼酎の良さも交えてお話ししましょう。

 

 

 

 

―日本初の飛行機を作った医師-岸 一太

市久会 代表 坪井 章

岸一太は、明治7年大野村北長瀬(現 岡山市北区北長瀬本町)に生まれる。

明治26年第三高等学校医学部(現岡山大学)に入学。明治32年文部省から選ばれ、ドイツに留学。34年「ドクトルメディチーネ」の学位を授与された。35年総督府医院医長及び医学校教授に任命された。医学博士となり、11月に退職。関東軍督府技師兼満鉄大連病院長に任用3年勤務。院内に胸像を建てられた。露国皇帝より神聖アンナ2等勲章を授与される。

大正2年より東京都京橋区明石町に、耳鼻咽喉科医院を開設。富山県剣岳山中の池ノ平周辺に鉱山(輝水鉛鉱モリブデン)を開発し、1914(大正3)年ごろモリブデン鋼を使った素材でルノー70馬力発動機の試作を繰り返し、1915(大正4)年11月19日に試作に成功した。大正5年にはモーリス・ファルトマン1913年型機を模した機体に装着し、つるぎ号と名付けた。 東京都赤羽に民間航空機製作所を創設した。つるぎ号として6号機まで飛ばしたが資金難に落いる。中島飛行機などによりその技術は日本のゼロ戦に発展した。

大正12年9月1日未曾有の大震災で、東京、関東は甚大なる被害を受けた。帝都復興院が置かれ、技師として参画し、道路計画にも創意した。昭和12年に惜しむべく、脳溢血で他界された。