県立図書館に坂崎出羽守(浮田詮家)の千姫事件(英略 Sennhim Ivent or
Problem)の講演準備にため行くと現在岡山空襲について資料展示してある。昭和20(1945)年6月29日3~4時である。この年、2月に生れた。父は、東の空が真っ赤なのを見て自転車で空爆中心地、今のクレド岡山(電電岡山)に向かった。通信が気がかりだった。と仕事熱心である。当然、焼け出されえた人が逃げるところである。爆心地の燃え盛る所にである。(出羽が千姫救出に燃える大坂城に、事実は飛び込んでないとの事だが。)着くと電信の普及どころでなく、天満屋の地下に降りると逃げ込んで酸欠で倒れている人が多数で数十人を担ぎ出したと云っていた。この日、火災の暑さで西川に飛び込みそれでも焼け死んだ人が多数いたと聞く。さらに、8月6日広島に原爆投下にも早々に救援に出かけたと原爆の罹災証明をもらっていないと。75歳の死因は心筋梗塞であった。小さな躰で満州を行軍したのが自慢であったがよく生き抜いたものだと感心する。
この調査で北長瀬本町の自宅から内山下交差点(クレド岡山)まで5.25km(自動車)で、徒歩で高低差が自宅3.5mHで0.8kmより3.2kmまで2.2mH、当着地4.5km高さ4.5mHとなっていた。すなわち、灌水期になると水路に水が無くなるのはこのためにもよる。そして、汚水濃度が高くなる。西川の水量が減ると水門にゴミが溜ると流れが悪くなることにもよるが、昔の島の上にあるためかも知れない。何れにしても早期に下水道施設など対策が必要だ。
山本有三の戯曲によると千姫救出の1年も経ったか9月の暑い夜、「牛込見付から詮家の屋敷の傍を通って、安藤坂に出て、本多家へ達する道順」で花嫁行列となった。
出羽屋敷の障子開けると「ふと向こうの本郷台に、おびただしいチョウチンの光が登って行く。」
出羽 惣兵衛、こういうことをしでかした上は、今夜にも討つ手の者が向かうであろう。そうしたら、このやけどの首を上使の者に渡してやれ。
出羽、わき差しをとって切腹しようとすると、ふと先刻自尽した源六郎のことがあたまに浮かんでくる。
出羽 源六郎の死骸は、厚く葬ってやれよ。