8月 2012 のアーカイブ

伯耆大山 奥大山寺

2012年8月29日

大山寺入口に車を止め、参道を少しあがると、とやま旅館の前に『上豆腐屋敷跡 むかし大山寺には、上、下、西明の3軒の豆腐屋がり、ここが上豆腐屋の跡と言われている。この記念塔は明和9年(1772)7月、四国の行者三千人が大山寺に来て宿泊した記念の塔で、施主が上豆腐屋となっている。また嘉永5年には上豆腐屋が豆腐札(金券)を発行した事実も残っている。』 さぞかし豆腐が良く売れたのでしょう。

山門からの石段の途中に杉の大木があり『灯明杉 その昔、日本海を航行する船が難破の折、この杉の頂から、一大閃光を発し、方向を教えたために難をのがれといわれる霊木で、この名がある。』雷が落ちたであろうが、よく生き延びているものです。

本堂の入口には宝牛が吉備津神社のはなぐり塚の銅を鋳造し寄進されています。大山寺は、奈良時代金連上人が寺を建て、地蔵菩薩を祀り、修験の道場として開かれたのが始まりと言われています。その後平安時代になり高僧慈覚大師が教えを広め、天台宗の寺に属しました。江戸時代には、幕府より三千石の寺領を与えられ隆盛を極めました。現在の本堂は、度重なる火災の後、昭和26年に再建されたものです。

石段を降り、右の大神山神社に向かいました。650mの天然の石畳が続きます。すぐのところに、『佐々木高綱の等身地蔵 宇治川の先陣争い以来の功によって、建久4年(1193)山陰道七ヶ国の守護として赴任の途中大病にかかり、大山寺の本尊である地蔵菩薩に祈ったところ病が全治したので、等身の地蔵を寄進したと伝えられるが、寛政8年(1796)焼失し、嘉永元年(1848)田中氏により石で再建されたものである。その隣に、「暗夜航路 ゆかりの地 」の石碑があり、「志賀直哉(明治16年―昭和46年)は大正3年7月当宿坊蓮浄院に滞在した。長編小説「暗夜航路」の終章はこの体験をもととにして書かれている」 「六根清浄」と唱えながら登る様子は、哲学的境地と通じするのではないでしょうか。

その先に「和合の岩」があり良く見ると、大きな岩に杉の大木が寄り添うように伸びていました。「和合」とは「なかよくする」と言われているが、この老木と岩とは、自然に調和しているのでこの名がある。いつごろか、子供が欲し人、良いお嫁さん、お婿さんが欲しい人、夫婦仲や、お舅お姑との間があまりうまくいかず悩んでいる人は、この和合の岩にお祈りすると願いがかねられると伝えたれいる。』

長い歩きにくい石畳を登って行くと鳥居が見え、延命長寿 御神水を飲み汗を流し、タオル洗い山門にたどり着きました。本殿は、鳳凰が羽を広げて様な造りでした。『大神山神社奥宮略縁起 主祭神 大己貴命(又の名を 大国主神) 大山は太古より大己貴命が鎮り座すお山として大神岳又は大神山と呼び此の所と神祭りの場として居ました。奈良町時代より修験道場更に仏教が入り神仏が入り神仏習合説のもと大神に大智明権現の粧稱名を奉り神官社僧により奉仕し平安時代には此の奥の宮を中心として三院百八十坊兵僧三千の西日本一の霊山となり以来時勢により盛衰を重ねて居ましたが明治8年神仏分離令に依り大神山神社奥宮となり元のように純然たる神社となりました。現在の社殿は需要文化財に指定され文化2年(1805)の建築で日本最大級の権現造り。内部は彩色豊に長大な柱や長押の白檀塗は日本一と云われています、正面の社号額は明治維新新政府の総裁であった有栖川宮織仁親王の揮亳である。御神徳 農耕 畜産 病気平癒 交通 開運 勝運 良縁』

本堂は創玄拝殿であると共に、西日本一の大神輿があります。八角神輿では西日本一の大きさといわれています。平安時代から「大山神幸行列」が行われ、常に7基くりだされていた。その中でもこの神輿が最大のもの。担ぎ手が四五十人は必要。明治18年までの神幸行列が行われたがその後は行われていない。形式 両部神道式 高さ 3.2m 重さ 1トン 担ぎ棒 5.6m

本殿の左奥には、下山神社があります。下山神社由緒略記 祭神 下山大明神(渡邊源五郎照政命)元徳2年(1,330)大神山神社を尊信した備中郡司渡邊日向守一子照政公は参拝の帰路奇過にあい不慮の最後を遂げ人々これを哀れみ大山下山の地に子祠を建て下山神社と呼んだが数々の霊験あり、後、夢のお告げによりこの地に奉還したもので、多くの武将の信仰があり、現在の社殿は代々信仰の篤かった石州津和野の領主亀井隠岐守短賢公が文化2年(1805)再建されたもので重要文化財に指定されています。

日本一長いと云われる天然石の参道を下って行く途中に、金門によりました。『金門と大山二羽烏 大智明大権現を造営するに際し、大磐石が道に屹立して通行の妨げとなったので、僧徒等これを取り除こうとしたが、難工事のため途方にくれているとき、二羽の烏が飛んできて手伝い、又、この工事中(孝元天皇52年)金剛鳥が天から飛んで来て、次のような偈を説いたので程なく竣工したと言う。大仙多宝佛 開輪御金門 慶化身垂跡 釈迦両足尊 大山の名及び金門の名は、これから始まったと伝えられる。』

 

 

伯耆大山Ⅱ-3 鱒返し滝上の一枚岩渓谷

2012年8月27日

昨日の雨で船上山の千丈滝が見えるのではないかと出かけました。大山寺まで上がり、30号線は通行止で下の鳥取方面の道を走り、船上山展望台に着きました。改めて見ると2枚の屏風岩のみでなく、22枚余り山に連なっています。千丈滝は畳を流れ落ちるように遥か遠方に確認できました。『「国指定史跡 船上山行宮跡」 船上山(標高615m)は、勝田ヶ山・甲ケ山・矢筈ケ山に連なり約100万年前の古期大山火山活動で形成された山である。特に比効100m以上の屏風岩といわれる柱状節理による絶壁は四季を通して美しい。 古来より大山寺・三徳山とならび山岳仏教が栄えた地として知られ、平安時代前期に金石寺が創建された。この寺の梵鐘が国宝として福岡県早良町の西光寺に現存する。 そして、建武新政前夜の元弘3年(1333)閏2月28日に後醍醐天皇は名和長年に奉ぜじられ金石寺に入られ3日の合戦で北条勢を破り、その後、奥の院北側に仮宮が造営されたと推定し、舟上山に約80日間行在された。その後の金石寺の変 は不明である。そして、室町時代後期の享禄3年(1530)に智積寺が創建された。しかいし中世の戦乱により安土桃山時代末期には舟上山三所権現(現舟上山神社)を残して凡ての寺坊は山下に離散した。現在智積寺は以西の竹内にある。琴浦町教育委員会』

鱒返滝入口に着き、1週間前より倒木が多く、大木が道を塞いでいるところもありました。鱒返し滝展望台と千丈滝へ分岐点につき、右の千丈滝方向に道をとり、先に鳥取チャレンジ教室が目指していた一枚岩渓谷に行くことにしました。片道50分とのことでした。更に登ってゆくと、鱒返し滝展望台200m、一枚岩200m、千丈滝1100mとなっていました。

左に鱒返し滝の音と木の間から垣間見ながら行くと渓谷に降りる道を下ってゆき渓流の音が真下になったと喜んだ途端に滑って転びました。その弾みで眼鏡が無くなり探しまくったのですが見つかりません。渓流に下ると滝の下に大きな岩が何個ものプール様になっていました。子供たちは岩スベリを楽しんだことでしょう。入るとヒンヤリどころか足をつけて洗っている間もヒリヒリと寒くなってきました。どうやら鱒返し滝の流れ落ちるところで、先に行き覗き込むと遥か50m下に滝壺がありました。ほどほどに汗を流し、暫く戻り道は涼しかったです。眼鏡を落としたところに戻り、下に落ちたと思い急傾斜を舐めるように探したのですがありません。諦めて少し登りかけたころの脇を見るとあったではりませんか。反動で逆方向のしかも上に飛んだようです。反作用です。川舟で北長瀬駅北水路の水路に張り出した木を伐採したときも、積んでいた木の間に落ち片付けた後やっと出てきました。踏んづけて曲がったのをミキで直してもらい、落ち止めを付けましたが、さらにチェーンなど必要なようです。4時間余り歩くと膝が笑い出して限界のようです。降り切る寸前には雨を疑わせる冷風が吹き上がって来ました。

車で少し先にある青少年の家に寄りました。ここも立派な建物で船上山自然探索・登山コースの拠点になっているようです。65歳以上の高齢者にもこう言った施設を使わせてもらうと有難いです。少子化で開いている所は無いものでしょか。

帰路は大雨で雷となりましいた。やれやれ。

 

伯耆大山Ⅱ-2 赤松池伝説

2012年8月26日

下の市場を覗くと豆腐屋、いか屋、花屋がテントを張って店を出していました。とくに豆腐にこんなに種類があったかとビックリしました。笊とうふ\350、滝川とうふ(そうめん様)\200、豆乳\250、豆乳豆腐、ゴマ豆腐、絹あげ、木綿とうふ、絹とうふ、おぼろとうふ、油揚げがありまいた。更に、串、大山、粒あんドーナツ、にがり豆腐ドーナツ、 チョコレート、チーズ入りなど油で揚げていました。どんな味なのでしょうか。豆腐を水で晒さずそのままお玉で掬い上げたと言う「ざるとうふ」を買いました。

昼食にイカとハンペンを載せた焼きそばを食べました。

市場に寄って、チーズドーナツを試しに買いましたが、丸ドーナーツにチーズが入っているに過ぎませんでした。

赤松池の手前に墓地があり、詩碑が立っていました。「慕情 高原の 夕凪の空気 ふるわせ 麓の汽笛かすかに 聞こゆる へセイ9年5月 伊澤庸正 建之」読み人のことは全く分かりませんし、大山の詩でないようです。もう一詩「荒廃の墓に伝わる 裏話あり 石切地蔵 祀りて弔う 井沢庸正」。隣の墓にゆきなんとなく分かりました。「大山奉行 伊澤隼人子孫の墓 若き日は 世界に はばたけ 業了えなば 帰り眠れ 故郷の地に 四代 庸正」 大山奉行より4代とは腑に落ちませんが。

赤松展望台からは日本海が眺望でき再々通りまいたが、池は初めてでした。「赤松の池伝説」の池とは、『むかし、松江のお殿様に仕える松浦頼母という家老がおり、日頃から子供が欲しいと願っておりました。そこで、霊験あらたかな赤松池大明神にお参りしたところ女の子が生まれ、お初と名づけました。 時がたち、お初はこのあたりでは評判の美しい娘となりましたが、藩主松平候の目にとまり、妻に欲しいと要望されました。藩主の願いは断れないので、両親はお城に上げることになりました。これを知ったお初は悲しみましたが「お城へ召す前に、私が生まれるように祈っていただいた赤松池大明神へお参りさせて下さい。」と願いました。赤松池参りの日は朝から晴れわたり、池は青々とした清らかな水を満面にたたえていました。池のほとりで乳母が「お嬢さま、この池の水を髪につければ美しい髪になりますよ。」といい、いわれるままにお初が髪をすいたところ、一くしすくごとにだんだんと髪が長くなり、みるみる水面をはうほどになりました。やがてお初は岸を離れてするすると水面を歩き出し、とうとう池の中心まで行きつきました。すると突然大渦巻が起こり水中に沈んでしまいました。驚いたお侍や乳母は「お初さま、もう一度その姿を見せてください。そうでないと、帰ってお殿様に申す言葉がありません。」と祈ったところ、再び大渦巻が起こり水中から、腰から下を、蛇に変えたお初が現れました。そして、「私は、この池に住む大蛇です。頼母があまりにも強く願うので、しばらくの間お初に姿を変え、人の世に身をおいていましたが、今もとの姿に変わる時がきました。長い間育てていただきありがとうございました。これから先、私に祈りをささげる人には、かならず幸福を与えましょう。」といい残し、水中深く沈み二度と姿を現しませんでした。それより後、松江市北堀町にある松浦家では、お初が蛇にもどった旧暦六月十八日に、大広間に八枚の屏風を立て、たらいに水を入れておくと、お初が訪れたしるしとして、たらいの中の多くの砂が沈んでいたといいます。また赤松池の半島に祠があり、御身体としてお初の像が奉られており、赤松神社では同じ日に例祭が行われています。お初は今でも龍神としての信仰を集め、幸福を願う人々や干ばつの年には雨こいの祈願をする人々が、遠方からもお参りに来られます。大山町』 池の中央に向かって鳥居、拝殿、石祠と並んで、正しく曰くありげな池でした。

次に大野溜池に行きました。湖畔にレークサイドホテルがあり結婚式も人気があるようです。湖畔の砂浜で泳ぐことも、ボ-トにも乗れます。そばの「花いかだ」は綺麗にガーデニングされコーヒー、食事も美味しかったのですが、閑散として花もありませんでした。

「大山青年の家」に寄りました。鱒返の滝で、会ったグループが、4泊5日で60人余り泊まって大山登山など楽しんでいるとのことで興味が湧きました。大学生以下泊まり無料で、一食490~740円で、さにあらんでした。

伯耆大山Ⅱ-1 神庭の滝

2012年8月24日

真庭市の神庭の滝を経由して、大山を目指しました。足守辺りで小雨が降り出しました。粟井温泉横を通り、吉備高原を過ぎ、加茂川に入ると交差点に2つの大きな「かたやま亭」の提灯が目に付きました。10時頃でした。茶坊 きまぐれ弁当 850円、きまぐれ弁当 1100円、コーヒー350円となっていました。門入り、両側手の庭を見せていただき、玄関には大きな屏風の6面に山河名水が描かれていました。百畳屋敷とも呼ばれた旧家で長屋門、酒蔵などをもつ、広大な屋敷でしたが 道路改良工事などで、今は母屋を残すのみとなっています。

少し行くと円城の道の駅があり、豆腐、もやし、山菜おこわ、さば寿司、茸など買いました。

勝山に入り道に迷い町並み保存街路の奥に赤い鳥居とさるすべりの赤い花の大木が目に付きました。玉雲宮 化生寺でした。その他、安養寺、妙円寺など5のお寺が並んでいました。又、お盆前のお参りが多く見かけました。文塚には、勝山の俳人景山青千は大阪の松本淡々に師事したが、云々。と書いてありましたがまったく知りません。三浦氏は備中に大きな勢力を持っていたが、落城した時その奥さんの「お福」を宇喜田直家が見初め、秀家を生み、直家の没後、豊臣秀吉の加護を受け、お福は奥に入りました。また、三浦家の姫は、常山合戦のおいて城主を亡無しても城を守るため女子軍団を作り毛利と戦ったと語られています。「梟の妻 お福」?。

神庭の滝自然公園は、周り100haが指定さていて、後ろの山(1030m)を水源とし高さ110m、幅20mの全国まれに見る豪壮絢爛な名爆と記してありました。駐車場より入り口まで300m、滝まで500mです。脇に流れの音、落ち岩を削る流れを見ながら舗装された道を上って行くとサルが夫婦、親子で毛の虫を取り、乳を飲ますなど戯れていました。200匹いるそうで少子化の心配はないようです。滝の袂でさば寿司食べるつもりでしたが、車に置いて来て良かったです。デジカメを向けただけで牙をむくサルもいました。大部分は、逃げようとしますが。入り口で300円払い、少し行くと、苔むした岩から素麺か、簾のように流れ落ちる「玉簾の滝」がありました。滝の下の橋につくと、落石によりこれより奥立ち入禁止となっていました。早急に滝壺まで行けると楽しみが倍増します。見上げると振り被るような頭上より流れ落ちていました。2~3筋が岩からの水流が、お互いぶつかり合い、岩に砕かれ、水飛沫が飛び、霧となり、モミジの影に消え、最後のまとまって流れ落ちる姿は圧巻です。帰り道、ポコポコと小さな包みを打つような流れがありました。不思議な音色です。

鹿田(旧備中街道、大山道が交差する要衝の地で江戸時代は天領で代官所の置­かれた所)おどりの幟を見、どんなものかと興味を持ちながら、新庄の凱旋桜の横を抜け、44曲峠トンネルを過ぎ、日野市の又金持神社横を、そして溝口で肉を仕込みました。

別荘下の市場で、週末で豆腐屋が出店を出していてそこで絹あげを100円で買いました。中で地ビールのバイツェンを買い、それと山菜おこわで夕食としました。

 

北長瀬駅北水路 雑木伐採

2012年8月18日

北長瀬駅北口水路の法面の草刈、立木の伐採を5年前ごろ市久会で行った。今年もラジオ体操後に30名弱を川舟に慣れた古老が小学生を乗せて喜ばれました。矢坂山を語る会が発足して、その活動に傾注していました。北長瀬北地区の区画整理も頓挫し、駅水路法面に草花、アジサイ、桜、ツツジを植える案も、JRとの交渉で、JRの土地とのことで交渉は成立しませんでした。南口は、岡山総合医療センターが出来るとかですが、南北格差は開くばかりです。元は「市久保」として一体であったはずです。
とは言え、水路に張り出した立木は美観上も、大雨の時水の流れの妨害となるため、川舟を使って切ることとしました。鴨田弧線橋下に係留していた川舟を北長瀬駅まで漕で行くのは、古老にように上手く行きませんでした。それでも何とか川舟を持って行き川に張り出している草や柳などを切って行きました。川の上は涼しいかと思いました、矢張り日中は汗だくだくとなりました。切った木はとりあえず法面に上げて乾燥することとしました。
ところでこの水路は、道路に面して150mほどあり直線遊泳ないし競泳コースとすると非常に楽しみが増えるでしょう。両方を仕切り水質を浄化するとプール水質を維持できるかもしれません。幸い北長瀬設置工事のときヘドロをとり竿も立たない程度になっています。大野小学校には屋内プールがあり、充実していますが、150mに及プールは全国的にも無いでしょう。岡山総合医療センターからも楽しい眺望となるかも知れません。

伯耆大山 帰路智頭

2012年8月17日

別荘の片づけをして9時に出かけるとき改めて見回すと、庭一面色んな花が鮮やかに目にとまった。また向かいの朝顔園では、主人が手入れをしているのに挨拶をして、一路智頭3.5時間を目指した。大山牧場まで出ると大山を借景としてコスモスが牧草地に一面彩っていた。蒜山道に出て関金温泉を通り三朝の三徳山に寄りたい願望にかられながら、人形峠のトンネルを抜け恩原にさしかかると28度の表示に清涼感を覚え、佐治ダムに出てきました。トンネルを抜けてしばらく行くと「やる気地蔵」の看板が見え寄ることとした。弥留気地蔵は「人生の吉凶はすべからく、 己の為せる業にして、 持続する限り、 吉運常に座右に在りて、 為す事叶わぬことなし」と、等身大の石地蔵が祀られていました。村おこしに昭和52年に佐治谷村長が東京のやる気おじさんを誘致したとか。お札販売所で、孫に「やる気」の絵馬、地蔵を買って帰りました。

そこを少し下ると「紙民具 佐治」と紙漉きの展示館がありました。腹がすいたので別荘でにぎったチッチヤなお握りを2ヶ苞ばりました。中は紙漉きの工程を人形で展示してあり紙の民具を販売していました。突き当りを左に行くと佐治市街その先は流し雛の用瀬です。右にハンドルを切り智頭に向いました。

智頭駅で観光情報を得ました。藩政時代を偲ばせる町並、智頭宿は県内最大の宿場町として栄え、藩主の止宿の場所である御茶屋の他、奉行所や制札場がおかれていました。その名残は、ふるくは「日本後期」の大同3年(808)6月、「印旛国智頭郡道俣の駅二匹を省く」と記され、その道俣という呼び名が智頭のことで、由来は道が分かれる所といいます。 その後、上方街道と備前街道が分岐する要衝の地となったのは藩政時代ですが、参勤交代の道筋、藩主池田候の宿泊地として本陣が置かれと、商人や旅人の宿場町として栄えました。あまり繁盛したので、弘化元年(1844)にはとうとう小売商人の逗留を禁止しました。その中核が中谷家のようで訪問することにしまた。専用の駐車場で鯖寿司を予約し小豆を買いました。そこより歩くと興雲寺(曹洞宗)は、1593年の大洪水により壊れあれていました。1632年再建され江戸幕府の国替えの時、新藩主池田光仲の父忠雄が納めています。なるほど、備前橋などあり岡山と交流が深かったでしょう。

石谷家は、古くは屋号を塩谷といい、元禄時代の初め(1691)頃に鳥取城下から移り住み、本拠を構え分家をつくり、繁栄しました。塩屋が大庄屋に命じられたのは、明和9年(1772)からで、明治に入り、商業資本家として躍進し、政治家として貴族院議員に選出されました。平成21年に国の重要文化財となっています。敷地3000坪(1ha)部屋数40余と7棟の土蔵、400坪の庭園は、池泉庭が最も古く鯉が泳ぎ、牛臥山を背景として明治30年小松宮の時完成したであろう。まず入り口の門を入ると藩主を迎えたであろう御成玄関を過ぎ、正面玄関を入ると釜戸があり、その板間の大黒柱は幅50cmはあろうか高さ吹き抜け屋根に達する樫の輝いた柱が目につきました。梁の木組みは見事で松の太いアーチを見ました。我が家に比べると煤が付いていなく松も脂が見られないことより明治になって迎賓館として改築したのかも知れません。庭の池を泳ぐ鯉が見事でした。奥に入ると書が並び、仏の間、2階に上がると神の間と続き、10畳の部屋が連なっていました。 宿場町の趣のある所を歩くと、大きな屋敷に塩谷出店の看板が目につきました。本家の次男が天保年間に起した店で、名主、村長を務め、昭和に入って洋風の療養所を建て今でも中央に凛として建っていました。

時間がかなり過ぎましたが、鯖寿司を受け取り、みたき園を目指しました。片道30分だそうで芦津渓谷にあるようです。滝を見ながら食事ができるとかで興味がありました。登ってゆくと秋には紅葉が綺麗であろう紅葉を河筋に見ながら、豆腐工場が目につきました。

「ろくろうさんの豆腐 極吟豆腐」豆腐の美味の秘訣は、「一滴の水にあり」。轆轤の水は、杉の林の奥深く、大自然に抱かれた芦津の里の村人が古来より守り伝える 天然の石清水です。と看板がありました。豆腐を売っているのかと聞くと買いに来た人か売ってないとの返事でした。今では智頭町の出店で売っているそうでした。その奥に目的の「みたき園」がありました。入り口に茶店風の土産店があり、苔むした茅葺きの建物の奥に滝、水車を配し、真紅の敷物が目に生える小屋が並び、3時ごろでも忙しく料理を運んでいました。河川まで出ると同じ用に京都の貴船を思い描かれる河川屋台小屋が並んでいました。滝には至りませんでした。帰りに茶屋によるとここオリジナルの豆腐を分けてもらえることとのことで岩豆腐様に硬いとのことで分けてもらうことにしました。1丁1000円と高いとは思いましたが、食べたい誘惑にかられまして、暫し待ちわくわくしながら持ち帰りました。豆腐は1丁80円、3丁で100円のもあるとかですが、大豆の香り、味が生きて味わい深かったですが、家内によるとこんなにボソボソした豆腐は食べられないと怒られました。大山の「真名井」の豆腐は湯豆腐として美味しかったです。

ちなみに西粟倉村に寄らず那岐を抜け津山、御津を通り3.5時間のところ2時間強で帰りました。省エネのため3リットルの車から1リットルに還って如何に山道に弱いか痛感しました。

 

伯耆大山 鯉返し滝

2012年8月16日

 朝近所の人が出かけるところに声をかけるとゴルフに毎日出かけているとのこと、また隣家の方は虫除けネットを被り水やりや草取りをされていました。朝顔ツリーを中心に見事な作庭です。週末となると閑散としていた別荘地も車が見られるようになってきました。

ロイヤルホテルで梅ちゃん先生を見た後、大山滝付近の2~3の滝を見に行くことにしました。大山滝は数年前、入口に立ち入り禁止となっている横を恐る恐る入っていくと後からサンダルの人も来るし、登山に慣れているらしき人としばらく一緒してもう大丈夫と離れた途端、50mほど崩れた所があり、崖下側にロープが渡してありました。また恐る恐る半ばまで行くと、大きく崖の方にロープが緩み、一瞬落ちたと思いました。カメラ用の三脚を持っていたのが良かったか悪かったか踏みとどまり渡り切りきました。今日、茶店で聞いたところ昨年の大雨で完全に崩落し階段を付けたそうです。

その前に真名井の名水の水の流れの音を再収録に行きました。この日は水車が廻っておらず、回してみたのですが駄目でした。続けて、白鳳の里の上淀廃寺跡を訪れました。飛鳥時代建立された寺院で、平安時代中期に焼失しました。ここは、法隆寺より大きな曼荼羅壁画が出土したとのことです。金堂を中心に3棟の5重の塔や関連建屋が出土し、その位置に芯柱の礎石を展示してありました。経蔵、鐘楼、政所または食堂、僧坊、花園院、薬園院も含まれ東西212m南北106mの境内の南には南大門があったと考えられ見渡す限りの条理田が広がっていました。弓が浜が遠望できまんざら国引き伝説が嘘ではない気になってきました。

引き換えし大山寺より34号線に入りスキー場で大勢が絵を描いているのを横目に見ながら進むと、通行禁止に出くわし更に進むと「川床」で立ち入り禁止の工事をしていました。そこで数名の若者に聞くと阿弥陀滝に行って帰ってきたとことか。30分で行けるとかで、行こうとすると「腰まで浸かるところを沢歩きしないとならず、下はカッパで長靴をテープで括って水が入らない出で立ちである」と諦めて引き返すことにしました。川床より大山滝のある一向平の中国自然歩道は10kmあり2時間で行けるような案内板が出ていました。

所が大山を一周することになりました。大山滝の入り口の茶店でソバを食べながら聞くと相変わらず大変で往復1時間以上かかるとのことで、一時間先の鱒返しの滝、千畳滝に行くことにしました。44曲の細い峠を越すと、鱒返滝橋の先に入口があり、佇む人がいて60人ほどの小学生4年から中学2年のアドベンチャークラブを連れて来ていて大山登山から昼食を済ませ滝に行くところと。滝まで50分はかかりそこで岩すべりするとのこと。15分の所に滝を見える場所があるとのことで、途中まで案内して頂いた。岡大出身で伊福に住んでいたが矢坂山は知らないとのことでした。道幅は数10㎝と狭く断崖絶壁を歩くが恐怖感はなかった。柵が見えその先に50mはある大山滝より勇壮な眺めが飛沫音とともに展開した。谷を越え遠方だがまた仲間と行ってみたい。分岐点を右に行くと千丈滝にゆけるらしい。 降りてくると20名ほど同じ仲間が上る準備をしていました。

少し行くと千丈滝展望台がありました。家族で来ている人に聞きと、遥か遠方に2枚の岸壁が見える。これが100m以上の屏風岩と云われいわゆる柱状節理による絶壁で約100万年前大山の火山活動でできたそうで、今は雨が少なく滝は見えないとのことでした。いつか豪雨の時、見たいです。

1時間半ほどで迂回里を通り帰りました。

伯耆大山3 読書&門脇家住宅

2012年8月11日

デジカメの充電コードが着くまで午前中「吉備群書集成」を読んだり、ドウダンツツジに絡まったツルを取り除いたり、草取りで過ごしました。吉備群書集成は大正10年発刊、全10輯、各600ページの岡山県関連の地誌、人物などの集大成です。第1輯 和気絹(高木太亮軒) 備陽国誌(和田正尹等著) 山陽道美作国古城跡,寸簸之塵(土肥経平) 備前名所記(土肥経平) 備中名所記(土肥経平) 歌枕備中民談(無楽翁) 吉備の志多道(古川古松軒)~第9輯 吉備温故秘録 利之巻(大沢惟貞編) 第10輯 吉備温故秘録 乾之巻(大沢惟貞編)

という云う訳で、家から持ってきた吉備群書集成第1輯 地誌部(上)和気絹 御野郡 富山城の項を改めて読むこととしました。松田記伝よると、備前国一乱以後、山名領知の福岡の城を攻め落し、軍功により伊福郷をもらい、直ぐ富山城を築き、大乱の最中で西備前数か所を領地とした。金川城で12代続いたが、松田滅亡の時、富山城は横井土佐が守った。天正年間より宇喜多直家の弟、浮田忠家居城を息子左京允に譲り大阪でなくなった。こののちの坂崎出羽守は関ヶ原の功労により津和野城3万石を拝領した。大阪城落城のとき石垣より投げ落とされた豊臣秀頼の妻の千姫が気絶しているところを坂崎が拾い徳川家康の陣所に届けたとき、自害すべきを怒り、姫君同心ないまま下さると決めた。所が故あって別に嫁ぎ坂崎大いに怒り姫を奪い取ろうとする。公儀が坂崎の家を取巻き打ち破ろうとする。家老が内通しその息子の小姓が蚊帳を張り、まどろんだころ家老が3度様子を見に来ることに坂崎は不思議な夢を見た。4度目に子が蚊帳の吊緒を切り、親が槍で突いた。 何度か映画化され、ハピーエンドとならない悲しい結末です。

有形文化財の美甘住宅に寄りました。富士山の火山岩で作庭した庭が自慢と当主が、江戸時代中期よりの地元の大地主だそうでした。現在は造園業をしている事は後で確認しました。

野崎のさんが云っておられた、国指定需要文化財の門脇家住宅を覗くと1,769年に建てられた茅葺の母屋(桁行22m、梁行16.5m)を中心に3381㎡以上の屋敷を美甘造園の庭師が、剪定中でした。いまの時期に剪定すると年1回でよいとのこと、我々年がら年中するのと訳が違うようです。水車小屋・米蔵・新蔵・井戸・湯殿・雪隠・茶室、池、大きな消火栓銃があるなど一通り見て歩いていると、若奥さんが出てきて春と秋しか公開をしていないと怒られ早々に退散しました。

今晩は、キノコすき焼きでエリンギ、ナメコなどマツタケが無いのが残念です。

伯耆大山2 名水・滝

2012年8月10日

古来の豆腐は、縄で縛って持ち歩けるほど硬かったとかで、地方の田舎でその伝統の豆腐を作っている話を聞き一度食べてみたい願望にかれていました。投げ入れ堂で知られる三徳山で見かけましたがその時は叶いませんでした。大山ロイアルホテルで聞いたところ、心当たりはないが淀江近くの真名井の名水で豆腐を作っているので聞いていてはとのことで、早速大山を下って行きました。

名水百選の「天の真名井(まない)」はすぐ見つかりました。『この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、天の名水と呼んでいます。「真名井」とは、「古事記」「日本書記」において、高天原の「神聖な井戸」を意味し、神聖な水につける最高品位の敬称です。高井谷の氏神である。下津守神社の古棟札にも、「天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布」と古くから記されております。その湧水量は、1日2500トンに及び、夏は冷たく、冬は温かく、実に味わいのある深い天然水です。云々。米子市』と書いてあります。湧水とのことで、蒜山や阿蘇山のように池の中より沸々と湧き上っていると思いましたが、池の先にまだ滝のような流れがありました。入口には飛沫をあげる流れがあり、その奥を見ると水車が廻っていました。小屋の中を覗くと臼をコトコトと突いていました。『ざぶざぶ落ちる 水の音 とんとんひびく きねの音 年が年中 休まない 五一車は 休まない』五一じいさんの額が掲げてありました。その奥に大きな浅い鯉の泳ぐ池があり、さらに奥に近所の人が水を汲みに来ていた水源ありました。飲むと冷たくさわやかな味でした。秋葉三尺坊大権現が樫の大木の下にありました。サイノカミとして火災から守り、良縁の神として祀られています。

そこを少し淀江に下ったところに「白鳳の里」名水から生まれたオリジナル商品として、周辺の森はドングリの木などの広葉樹が多生し、水を綺麗にしていることと古代人が食糧にしていたドングリを使った商品、ドングリ焼酎、白鳳ゆめ化粧品とともに名水豆腐を加工場で作っていました。目当ての岩豆腐ではないのですが、11時ごろそぼろ豆腐と木綿豆腐が出来上がるとのことで近くの妻木晩田(むきばんだ)遺跡を見てくることにしました。156ヘクタール調査され、1~3世紀の弥生時代の大集落跡で竪穴式住居群が復元されていました。タタラの原点の鉄器も作られていました。地方の一大勢力が暮らしていたことを伺わせます。「国引き伝説」むかしむかし出雲の国を治めていた八束水臣津野命は、高志の都都岬(北陸地方)のあまっているところに太い綱結んで引き寄せて、美保の岬(美保関)をつくりました。この時に使われた綱が夜見の島(弓ヶ浜)なったといわれています。

戻って豆腐を購入し急いで帰る心算が、本宮の泉の看板を見つけ寄って見ました。日量3万トンという県下でもほかに例を見ない湧水量を誇るほか、水生植物・シダ・コケ類をはじめとする貴重な動植物の宝庫となっています。昭和60年6月14日に「因伯の名水」16選に選ばれています。たまたま米子市の職員が水質検査に行く途中で案内してもらいました。名水のビデオを編集して送る約束をしました。ここも手前に浅い大きな鯉が泳ぐ池がありその奥にはヤマメの養殖場の跡の更に奥に伏流水が流れて来ている所がありました。日に3000トンの湧水量があり多くの人が水を汲みに来ていました。

清見寺によると因幡藩の池田光仲公が建てた寺で、室町時代末期につくられた木造千手観音立像が本尊で写真がありました。玉清姫(奈良時代の帝の后)にあやかり、良縁を求める信者が多くにぎわっています。

別荘に帰り豆腐に醤油をかけ味わいました。新鮮な大豆の味が残る美味なものでした。

デジカメの予備の電池も切れ、充電コードを忘れてきていることに気づき、宅配で送ってもらうことにしました。

伯耆大山2 岩豆腐を求めて

2012年8月10日

岩豆腐を求めて

古来の豆腐は、縄で縛って持ち歩けるほど硬かったとかで、地方の田舎でその伝統の豆腐を作っている話を聞き一度食べてみたい願望にかれていました。投げ入れ堂で知られる三徳山で見かけましたがその時は叶いませんでした。大山ロイアルホテルで聞いたところ、心当たりはないが淀江近くの真名井の名水で豆腐を作っているので聞いていてはとのことで、早速大山を下って行きました。

名水百選の「天の真名井(まない)」はすぐ見つかりました。『この泉は、米子市淀江町高井谷泉川にあり、天の名水と呼んでいます。「真名井」とは、「古事記」「日本書記」において、高天原の「神聖な井戸」を意味し、神聖な水につける最高品位の敬称です。高井谷の氏神である。下津守神社の古棟札にも、「天乃真名井乃清久潔幾与 元水於降玉布」と古くから記されております。その湧水量は、1日2500トンに及び、夏は冷たく、冬は温かく、実に味わいのある深い天然水です。云々。米子市』と書いてあります。湧水とのことで、蒜山や阿蘇山のように池の中より沸々と湧き上っていると思いましたが、池の先にまだ滝のような流れがありました。入口には飛沫をあげる流れがあり、その奥を見ると水車が廻っていました。小屋の中を覗くと臼をコトコトと突いていました。『ざぶざぶ落ちる 水の音 とんとんひびく きねの音 年が年中 休まない 五一車は 休まない』五一じいさんの額が掲げてありました。その奥に大きな浅い鯉の泳ぐ池があり、さらに奥に近所の人が水を汲みに来ていた水源ありました。飲むと冷たくさわやかな味でした。秋葉三尺坊大権現が樫の大木の下にありました。サイノカミとして火災から守り、良縁の神として祀られています。

そこを少し淀江に下ったところに「白鳳の里」名水から生まれたオリジナル商品として、周辺の森はドングリの木などの広葉樹が多生し、水を綺麗にしていることと古代人が食糧にしていたドングリを使った商品、ドングリ焼酎、白鳳ゆめ化粧品とともに名水豆腐を加工場で作っていました。目当ての岩豆腐ではないのですが、11時ごろそぼろ豆腐と木綿豆腐が出来上がるとのことで近くの妻木晩田(むきばんだ)遺跡を見てくることにしました。156ヘクタール調査され、1~3世紀の弥生時代の大集落跡で竪穴式住居群が復元されていました。タタラの原点の鉄器も作られていました。地方の一大勢力が暮らしていたことを伺わせます。「国引き伝説」むかしむかし出雲の国を治めていた八束水臣津野命は、高志の都都岬(北陸地方)のあまっているところに太い綱結んで引き寄せて、美保の岬(美保関)をつくりました。この時に使われた綱が夜見の島(弓ヶ浜)なったといわれています。

戻って豆腐を購入し急いで帰る心算が、本宮の泉の看板を見つけ寄って見ました。日量3万トンという県下でもほかに例を見ない湧水量を誇るほか、水生植物・シダ・コケ類をはじめとする貴重な動植物の宝庫となっています。昭和60年6月14日に「因伯の名水」16選に選ばれています。たまたま米子市の職員が水質検査に行く途中で案内してもらいました。名水のビデオを編集して送る約束をしました。ここも手前に浅い大きな鯉が泳ぐ池がありその奥にはヤマメの養殖場の跡の更に奥に伏流水が流れて来ている所がありました。日に3000トンの湧水量があり多くの人が水を汲みに来ていました。

清見寺によると因幡藩の池田光仲公が建てた寺で、室町時代末期につくられた木造千手観音立像が本尊で写真がありました。玉清姫(奈良時代の帝の后)にあやかり、良縁を求める信者が多くにぎわっています。

別荘に帰り豆腐に醤油をかけ味わいました。新鮮な大豆の味が残る美味なものでした。

デジカメの予備の電池も切れ、充電コードを忘れてきていることに気づき、宅配で送ってもらうことにしました。