1月 2013 のアーカイブ

八浜城 浮田与太郎基家

2013年1月23日

P1060161 P1060163 P1060168 P1060179 P1060183 P1060192 P1060196 P1060199 P1060206 P1060207 P1060215 P1060216 P1060230 P1060232児島湖堤防を渡った先の八浜城を訪ねました。探していると与太郎さんの案内板があり、405号線沿いに宇喜多与太郎神社がありその隣では与太郎煎餅を売っていました。甘く美味しい煎餅で、戦国時代から伝わる煎餅とのことです。ここでは「足を撃たれ負傷を負った上に持病の脚気が悪化し、八浜に落ち延び竹薮の中で身を潜めていました。追って来た毛利勢は、周辺農民に尋問しましたが、農民たちの態度や素振りから宇喜田基家の潜んでいる場所を突き止め捕らえました。」となっていて、足の神様として絵馬が沢山かけてありました。
与太郎は宇喜多直家の異母兄弟の忠家の長男(春家の子の説もある)で宇喜多与太郎基家です。基家は、宇喜多家が信長に恭順の証として人質を出すよう云われ秀家が幼少にため基家が信長に面会した所、秀家でなくてはならぬと断られた逸話があります。明禅寺合戦にも登場し備前軍記によると幼少のため別人ではないかとされています。
八浜に基家が城を築くに当たって毛利軍と小競り合いのち本格的な合戦となり、基家は鉄砲の流玉に当たり落馬しあえない最後となってしまいました。若干18歳でした。大将がなくなり総崩れになるところ、7人の家臣が活躍したことより「八浜7本槍」として宇喜多軍の結束の深さの話として伝わっています。ところが、文吏派と武将派に分裂し、7本槍派は徳川方に付くことになります。高松城水責めの前の年でした。
毛利軍は水軍にたけ信長を脅かしたように、この時も村上水軍が300艘の舟が出陣しています。八浜は児島湾(今では淡水湖の中ですが)に入り、旭川を登って岡山城を攻めるのに水軍にとって要衝でこの攻防戦です。
八浜城は、ラクダのコブのような両児山の八幡宮に対してありました。桜が多く植えてあり花見が楽しみです。児島湖を挟んで岡山市街地が一望できました。すぐ下には児島湖流域下水道浄化センターがありました。この浄化センターは100万人分の処理能力があります。
八幡宮に階段を上がると、御埼宮と快(こころよし)神社が合祀していました。御埼宮は北長瀬の白髭宮が岬にあったと同様と考えられます。快神社は、「江戸時代末期の神社書上帳によると、昔八浜の海岸に大きな材木が流れ着き、その木に中から音楽が聞こえたので、わってみると衣冠束帯の老翁があらわれた。それを村人がまつったのが快さまであるという。」ポエムのある話です。
漁業組合が寄進したようで漁業・塩田が盛んだったころの八浜の賑わいを伺わせる立派な神社でした。

ふな飯

2013年1月20日

P1060042 P1060043 P1060048 P1060110興除公民館で児島湖流域フォーラム「郷土食ふな飯を食べよう!そして語ろう」が開かれました。児島湖は、世界で2番目の面積10.88 km2、水深2mの人造湖で、岡山、倉敷両市から排水が流れ込み一時全国でも有数の汚染湖でした。長年の取組により水質が改善されましたが、COD5~8ppmと横ばいとなっています。地域住民の汚染防止活動、下水道普及、浚渫など数百億円投入し改善してきましたが、ここに来てこれ以上の水質改善が必要か議論となっています。その一つとして全国2位のフナなどの淡水漁獲(営利漁業ではない)があり、栄養成分として、また自然環境とはと考えるところです。岡山の財政難も影響しているかも。スイス・ドイツ国境のレマン湖も生憎の天候もあり決して水の色は綺麗ではありませんでした。
「児島湖の魚とフナ類」「児島湖のフナの繁殖の秘密」の話題提供がありました。その中で、ウナギの漁獲量が増えてきていて、それは稚魚を早期に禁止したことによるそうです。ブラックバスなどにより小さい魚が食べ、フナ、鯉が大型化しているとのことです。
ふな飯は、各家庭で近所の川で取れたフナをまな板で叩いて細かくし、野菜と煮た丼食でした。特に寒い時期の寒フナが美味しく、タンパク源の補給となりました。フナはアユ同様にコケ類を食べ、アユは清流に住みその独特の味が貴重がれています。逆にフナは、下流の苔を食べるため臭みがあります。今では市販のミンチとしたフナを油で炒め、その時ショウガなど入れ臭みを取ります。ゴボウ、大根、人参、サトイモ、水を入れ醤油を加え煮たった所にアゲを入れ調味料で味付けし豆腐を入れます。丼のご飯を盛り、この具・汁を掛け長ネギ振り食べます。温たたまります。琵琶湖のフナ寿司が有名で千から2万円もすると云われますが、ふな飯は安く親しみがあります。
正午より興除、藤田の2グループのふな飯の試食会をして討議しました。両者ともとても美味しく昔のふな飯の臭さ、骨が全く気になりませんでした。それなりに料理法に工夫してあり、むしろ逆に昔のふな飯を食べたいとの意見もありました。この他、妹尾、灘崎学区も取り組んでいて「フナ飯」のBワングランプリ出店で町興しとなるでしょう。
柳川交差点と後楽園前でふな飯が食べられます。

操山ウオーク 下

2013年1月15日

P1050638 P1050938 P1050942 P1050948 P1050962 P1050988 P1050991 P1060004 P1060019 P1060022 P1060034午後から丸山方面の三畳岩、八畳岩古墳、二股古墳、丸山不動明王、妙見大菩薩・八大竜王、高倉山、金蔵山古墳、沢田大塚古墳を見ました。
旗振り台から急坂を下り300m弱歩いた右手に少し入った所の三畳岩から西大寺方面がよく眺望できた。吉井川河口に宇喜多直家初めての乙子城が見えた。この城で倍の元家臣を養うため食を切り詰め、盗賊まがいのことを繰り返し、勢力を伸ばした。
少し行った左手に沢田裏山古墳があった。円墳の形態はよく残っているが、玄室の入り口は土砂でかなり埋まっていた。
更に350mの所に八畳岩古墳があり完全に石室が露出していた。奈良明日香の石舞台を彷彿されるが古墳としては中規模とのこと。この下に同様にもう一基あった。ここからも眺望できた。
355m歩いた所に全国的に珍しい入口が一つで中で二室に分かれている二股古墳を見た。ただ露出していて保全状態が悪い。
700m行くと丸山不動明王に着き休憩した。大日如来の教令輪身で、火焔を背にして右手に剣、左手に縄を持って怒りの姿をしている像を祀っている。人の死後は必ず初七日に不動明王に導かれるとされている。横穴式石室墳の上に建てられていた。ここを下ると塔の池、三重の塔を通って曹源寺に出る。
ここより急な階段を230m登って八大竜王と妙見大菩薩に着いた。妙見さんは北斗星信仰で天空の中心を司り、天皇の大嘗祭との関係の説明があった。八大竜王は日蓮宗の雨乞い信仰である。
そこを少し上がると高倉(丸山)山頂の磐座があった。その入り口に保存状態の良い石鉄山古墳があった。広場の奥に巨大な磐座(2×3×3m)があり周りに小石のサークルストーンが囲っている。となっている。恩徳寺が今でも祀っている。石高神社があったが丸山に移転している。
急勾配を下って金蔵山古墳に上った。岡山県下4番目の規模の前方後円墳で、墳丘は全長165m、前方部幅72m、同高さ後円部径100m、同高さ18mで3段築式となっていて、段が確認でき、丸石も転がっていた。玄室の天井石が近くに移されたままとなっていて、中の石組の一部が見えた。石室からは農・工具、武具の鉄製品や副葬品が多数出土した。現在規模の測量中で木が伐採されていて古墳の概要が見通し易い。
柿の木畑の中のある柿の木古墳を横目に見ながら操山で最大の横穴式沢田大塚古墳に行った。円墳墳丘(16×4.65m)石室全長11.4m、玄室(5×2.8×3.2m)、羨道(6.4×1.7×1.8m)の規模であり、奥が広く不動明王・地蔵菩薩が祀れていて全員が玄室内に入れた。矢坂山の法事古墳よりかなり大きい。降りかけは服部姓の墓地ばかりで、沢田は元々千姫の長女・勝姫(池田光政室)に姫路より着いてきた郎党と云われ、現在柿の産地となっている。
沢田の街中を通り3時の予定が1時間遅れたが余裕を持って皆が集まって説明を受け皆満足した。

操山ウオーク

2013年1月14日

P1050817 P1050836 P1050846 P1050848 P1050852 P1050855 P1050859 P1050861 P1050869 P1050879 P1050886 P1050892 P1050903 P1050907 P1050910 P1050920 P1050922 P1050924 P1050926 P1050609 IMG宇喜多_0001-2 P1050619岡山歴史研究会の歴史探訪の操山ウオークに参加しました。操山里山センターに9時に43名集合、今回操山ボラインティアガイドの古墳と神社仏閣の上原、野崎顧問さんの2名に主として案内いただきました。まずセンター内で会長挨拶とスッタフ紹介、上原顧問の操山について簡単な説明がありました。
10時15分に恩徳寺に向けて下る。右手に大師堂があり、両側手は池田の殿様が舟遊びをしていた池だったと説明を聞きながら石造の太鼓橋を渡り、正面の鳥居をくぐると、山門には舟の戸板を外し保存しているのが見えた。恩徳寺は750年に僧行基が創建した真言宗の寺院。太陽の道上にある。本堂の裏に稲荷が祀れている。本堂の縁の腕木庇にはキツネの彫り物が見られ、天井には方位計が描かれている。奥に入ると江戸時代に書かれたミシンが描かれた額絵があり、天井には薬師院である多数の薬草が描かれていた。また本堂の裏の小窓から稲荷を拝観した。本尊は60年ごとで最近開帳したばかり。境内で岩田会員にウオーキングの本格的な安全祈願をしてもらった。2月1日には火渡り行事がある。
柿畑を抜け明禅寺城跡へ急勾配な坂道を上がった。先立つは落ち葉を熊手で掃除してくれた。城跡に近づくと割って落とす戦石が見られた。明禅寺城は東に8km離れた宇喜多直家の沼城(亀山城)の出城として築城し、翌年には備中の三村勢に占拠され、直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝ぶりが明禅寺崩しと呼ばれた。奪い取られた原因は直家の弟の忠家が福岡の女郎との寝夜の時情報が漏れたことが判り、それを逆手に取り郎党がその女郎と懇ろとなり、明禅寺城が奪い帰されたことを4時間後に狼煙によって知った為、2万の軍が引き帰すのに混乱し、宇喜多は5千に兵にも拘らず千丁の鉄砲により逃げる兵を背後より撃ちまくり16000人の死体が無残に野に並ぶことになった日本歴史上残虐な戦いとなった。実に、永禄5年(1562)だから信長の長篠の戦の13年前、鉄砲種子島伝来の15年後となる。この戦いのそもそもの原因は、直家が三村の娘に惚れて申込みをしたのに見下され断られた遺恨から始まったと語れている。
城跡からはこの悲惨な合戦のあった岡北地区、半田山が一望できる。馬場と呼ばれる広場と磐座があり、この磐座に一部が恩徳寺稲荷の横に移されている。ここを出て少し進んだ所に、切掘りがあった。
操山方向に330m歩き、急な階段を190m登って萩の塚古墳に着いた。操山の古墳100基の一つの円墳(φ10×H2.5m)で、横穴式石室(L8.2×W1.9×H1.9m)も持つ6世紀後半の家族墓でした。
215m旧坂を下り、つばきの森のあるふれあい辻を通り330m歩いて12時半ごろ旗振台古墳・展望所に着いた。旗振台古墳は5世紀後半の27×4mの方墳で、剣、メノウ玉など多数出土している。ここで江戸時代に大阪の米相場を京橋に旗を振って知らせていたことにより名前がついた。今は操山も雑木林だが燃料の薪の採取により禿山に近く見通しが良かった。展望所で昼食を食べ、児島半島、児島湾、百間川河口の岡南地域を見ながら、高島の神武天皇の行宮、沖新田、一~九番の由来など説明を聞きました。(続く)

半田山縦走

2013年1月10日

P1050673 P1050683 P1050689 P1050699 P1050703 P1050708 P1050725 P1050727 P1050735 P1050748 P1050753 P1050760 P1050763 P1050767 P1050772守屋益男氏の登山道詳細図によると法界院駅より理大を登ることになっていますが、法界院に車を止め登りました。登山道があるか確かではなかったのですが、奥の墓地の頂上まで上がると、操山が正面に見えました。日本の戦いで最も死者が多かったのが6000~8000人と言われますが、創作かもしれませんが、明善寺城合戦では、16000人がしかも1日で死者が出たといわれています。これは三村・毛利軍2万が宇喜多直家5千の計略に掛り、崩れて笹ヶ瀬方面に逃げ、一挙に旭川を渡れない所を追撃し鉄砲を撃ちまくったと云われ、道、田に死体が転げまくっていました。残酷な地獄の様相です。関が原では鉄砲が使われなかったと云われています。当にこれが眼下に見えたであろう場所です。当時は北長瀬が出来て間がないころで、百間川もなくほとんどが沼地だったでしょう。この後、今村宮は直家が岡山城を造る際、八幡宮があった所へ移したとされます。
境界のフェンス沿いに歩み、理大の研修棟の裏に出ました。所が網フェンスで繋がっていて門も閉めてありました。金網と糸網の少しの隙間を抜けました。太っていると通れないかもしれません。理大の受付で聞いて津高グランドへのゲートの横を通って、ダイミ山の山頂に着き、昼食をたべました。160mと操山と同じ高さですが周りは雑木林で市街地は見えません。
半田山は岡山大学農学部の演習林となっていますが、全く雑木林で岩もなく、周りも見えず目印が全くありませんでした。京山の下の伊福町は古くはタタラ製鉄が盛んで、それに使う木炭用に木を伐採し、禿山となり、更に江戸時代も薪を争って取った為、その状況が続いたようです。
津島小学校の裏を通り、烏山に移りました。七つグロ古墳に行きました。三世紀後半に造られ前方後円墳で、墳丘の規模は、後方部の辺20m、高さ2.6mで、前方部の最大幅は15m、高さ2.4mを測り、墳丘全長は45.1mとのことですが、サッパリ古墳らしく見えませんでした。特殊器台が出土したとのことで期待したのですが。その先に獅子岩の広場がありベンチもありましたが見晴はサッパリでした。戻り石像に寄りましたが個人が阿弥陀様をお祀りしているだけでした。更に明誠学園に向かって降りると尾治針名真若比咩神社(おちはりなまわかひめじんじゃ)があり100mほどの長い石段を上ると拝殿の祠がありました。元三野貯水場の南の御埼宮内にあったのをここに移設したようです。半田山はこの宮の針田山から来るとの説がありいわくあるお宮のようです。
妙善寺に寄りました。日蓮宗の布教に来た大覚僧正のゆかりの寺で、この寺から矢坂山の富山城主松田に呼び出され大論争の上、松田が信者になってしまった逸話があります。
岡山大学前を通り法界院に戻りました。

万成山散策

2013年1月8日

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笑岩、怒岩(古岩竜王)

笑岩、怒岩(古岩竜王)

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妙見山神社

妙見山神社

出かけようと庭に出ると十数羽の鳥が飛び交い囀りが騒がしかった。足音がするとすぐ逃げる。柿木、高野槇などの枝を百舌鳥、鳩、その他色々。

矢坂東町の法照寺横に車を止め、岡山市貯水場のチェーンの直ぐの所を右に入ると土肥経平一族の墓地がありました。土肥経平は備前軍記など書いています。土肥家は鎌倉御用人を祖とするといわれ、池田家の代々番頭役を世襲していたが、明和元年(1764年)に蟄居を命じられ子に相続しこの地に竹裡館(ちくりんかん)を建て隠居しました。改めて吉備群書集成第三巻「備前軍記」を紐解くと五巻に戦国時代一六〇年間の戦記を克明に記しています。また付録には黒田官兵衛にも簡単に触れていました。

貯水池のゲートを抜け右に上ると山土が露出した所があり、それを突き進み少し行くと「古岩竜王」に着きました。笑い岩と怒り岩があり、神社があったようです。一反程度の広場になっていますが、「天籟の広場」の案内板の意味は分かりません。

鉄塔まで戻り、万成山の山頂の北向八幡宮があったと云われる「カエル岩」に向かいました。ここから旭ヶ丘病院上の「北向観音」、と行っても岩に刻んであるだけです、まで行き、戻り道を左に降り(カエル岩を降りた所)る、と乳岩がありました。巨岩に日蓮宗のお題目が刻んでありましたが、なぜ乳岩と云われるのか判りませんでした。

古岩竜王に戻り、「かわず岩」に降り、この道を辿ると関西高校に降りるところ右手に辿ると西崎の妙見山神社に降りてきました。

昨年歴研が探訪会で案内してもらったコースですが、疲れて見なかった所もあり散策して見ました。万成稲荷神社の磐座は分かりませんでした。

初日の出、初詣

2013年1月4日

P1050186 P1050193 P1050199 P1050250 P1050283 P1050295魚見山の麓の大野コミュニティーに6時30分に着き、早速ゆっくりと暗がりを登って行きました。とは言え、満月に近く月明かりで結構明るかったです。途中何組か道を譲って、コウノ岩の手前は岩場を登るようにして上がりました。一組は、するめを焼き酒盛りの準備をしていました。石井小の同窓生とのことです。例年通り大野スポーツ少年団のグループ、矢坂東町のグル-プ、前日より友達の家に泊まり登ってきたグループなど集まってきました。NHK大河ドラマ山田方谷放送に署名して頂きました。7時10分の日の出の時刻となると人でいっぱいとなりました。ところが雲が厚く中々太陽が上がらず気をもみました。操山の南端のはずが20分頃になってやっと児島湾の上に見事な日の出が見られました。まさに後光を差す輝きです。日が上がるにつれて児島湖赤く染まってゆきました。これは、総社の鬼の城からも日の出のとき見られます。
帰って庭先の石柱に日の丸を上げました。昨年ロスアンゼルスを訪問し星条旗と日章旗を上げガボチャンに歓迎して頂いたのが切欠です。一般的に祭日さえ日の丸を上げることがなくなり、学校でこの問題が上げられます。家庭教育の問題もあり、日本人としての自覚と誇りを持つ必要があると考えます。風もなく旗めかないため、後で皆で写真を撮って、門の掲揚場所に移しました。
長男の家族は神戸に行っているため、次男家族と正月早々から鴨鍋と雑煮を食べました。お年玉を配り、家内が転り回って笑う猫を孫にやって「今年は笑える年でありたい」とのことでした。
次男にはお神酒を飲ませず初詣に吉備津神社、吉備津彦神社にでかけました。新道山は何時ものように零時に友達と参ったとのことで通過して天皇陵の下道で吉備津神社の裏にスムーズに辿りつきましたが、駐車場待ちで暫く並びました。駐車料は正月のみ200円と安すぎる気がしました。人で満ち溢れ参拝客の多さにびっくりです。20人ほどのお囃子に乗って3つの臼で餅つきを大勢が囲っていました。嫁と孫の3人がおみくじを引いたところ3人共大吉だったため私も引くと小吉でした。いにしえ、花みくじ、英語みくじ、子供みくじ、よろこびみくじが六角に配置してあり100円入れると引けます。
吉備津彦神社に行こうとすると一方通行でまた元に戻って駐車待ちとなりました。手前の尾上では5軒ほどが日の丸を掲げていました。珍しい光景となってしまいました。吉備の中山を逆回りすれば良かったのですが習慣上間違いました。ここでは太鼓に合わせて獅子舞しているのを囲んで人並です。頭を噛んでもらうと悪いところが治ると順番待ちが大勢です。「吉備の中山を守る会」が活発に活動していて賑わいを取り戻しています。