2月 2012 のアーカイブ

平成24年3月行事

2012年2月22日

「矢坂山を語る会」各位

ご案内

平成24年1月28日

             

 皆様ご清栄と存じます。お蔭様で矢坂山が少しずつ綺麗になってきています。桜、ツツジの咲くのが楽しみです。今年も行事を予定しています。振るってご参加をよろしくお願いいたします。

 

矢坂山清掃活動

 日  時:平成24年3月3日(土)9時~12時(清掃1時間)

 集合場所:矢坂本町3本杉祖師堂前 あるいは鯉ケ池下駐車場

 行  事:①清掃活動(鯉ヶ池付近、富山城跡登山道の草刈、清掃)

②鯉ヶ池広場で意見交換会

③シイタケ種駒の植付

      お子さんの参加も大歓迎です。

 

「矢坂山の植生」講演会

  日  時:平成24年3月17日(土)10時~12時

  場  所:大野コミュニティーハウス

       (岡山市北区大安寺東町23番21号)

  講  師:岡本泰典先生

  定  員:50名

  内  容:昨年の現地説明に続いて矢坂山、京山、吉備の中山などの植生について特徴ある調査結果についての講演

 

申込書

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住 所

 

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行 事

清掃活動後の行事

講演会

参 加(○×)

 

 

矢坂山のナナミノキ

2012年2月21日

散歩とツツジにからまる笹(ササ)を切るため矢坂山に登りました。矢坂本町の三本杉より入り中腹に車を止め、鯉が池の土手に上がり、湖畔の道より間道を抜け、尾根に出てスベリ山と富山城跡の本丸北端までを往復して帰ってきました。3mに及ぶ樹高のツツジもあるのですが多くは1mに達しないのが多くその根元や周辺に笹が絡まっています。可憐なピンクの花が咲いたときそれ自身は葉をつけるのは花が散った後なのにヒョロヒョロ笹が出てせっかくの美しさを半減させます。ツツジの群生地も多くあるのですが笹に埋まってしまっています。ツツジの枝を切らないよう、さらに根元から新たに増えてきている苗を切らないよう選定ハサミで切ってゆくため中々捗りません。沿道によっては、草刈機で除草してツツジを切ってしまているところがあります。
赤い実をつけている木をクロガネモチ(アクラ)と思っていましたが、聞くところによると葉の形と実の付き具合が違い「鳥もちの木」であることが分かりました。鯉が池広場に大木があり桜とのバランスで切るか悩んでいましたが、冬の景観として残すことにしました。鳥もちの木の由来は樹皮から鳥もちを取り、昔販売されていたことによります。海岸に近い山地に生えるそうで矢坂山が島であったころからか、仏教橋と供に中国から持ち込まれたのかもしてません。ちなみに奈良の法隆寺に見事な鳥もちの木があるそうです。最近は庭木にも多く取り入れられています。4月には黄色い花を咲かせ、冬に赤い実を付けます。山頂にも1本ありますが、群生地を探してみたと思います。

と書きましたが、吉備の中山、矢坂山の植生を調べられて、矢坂山にも600種以上の樹木、山野草があることを確認されているかたからナナミノキであると指摘があり、鳥もちの木は確認されていないとのコメントいただきましたので訂正します。ホームセンターで実を多くつけたよく似た木が鳥もちの木として販売されていました。葉の形がナナミノキの方が長細く確かに矢坂山はその葉の形です。その名前の由来は諸説あるようですが、一説によると「七実の木」と言われ七実は多くの実をつけることを示すそうです。また、花は6月に紫赤をつけるとのことです。
写真:ナナミノキ、氷の張った鯉ケ池、ナナミノキ拡大

矢坂山連山 大野山の城郭跡?

2012年2月12日

先日見つけた「鯉ケ城」跡を確認のため郷土史かを案内しました。見るなり「城郭跡とすると松田時代であろう」までは良かったのですが、「礎石跡が無いので城郭跡とは認定されない」とのこと。尾根を部分的とはいえ整地してあり、中世初期は1層構造の掘建て小屋の櫓楼、見張り台があったとしてもおかしくないとは思いますが。
 この後、大安寺駅にでる山道に出て、法事古墳への脇道の西側手に垣間見える大きな岩は八畳岩でないとのことでした。訂正します。さらに下った西側手に小学生などがよく寄る大安寺中町などが眺望できるところが八畳岩とのことでした。それをさらに少し下った西側手に案内いただいた「石垣」がありました。古いコケの生した2段積みが10mほどありました。松田、宇喜田の時代に南部の守りとして大野山の中腹に設けた城郭跡かもしてません。昭和の郷土史家の相賀しによると「富山城」と共に「野殿山城」「大野山城」「魚見山櫓」が矢坂山連山にあったとしていますが、場所は不明のままです。松田期を始め中世の山城は土塁が多く、本格的石垣は戦国時代後期になってからからのようです。豊臣秀吉の朝鮮出兵のとき宇喜田忠家が石工集団を連れ帰ったのが石積みの革新に繋がり本格的な石垣が出来る様になりました。万成石の採掘の加工につながたのでしょうか。
 麓には終戦後食料不足により畑にしていたところが見かけるのですが中腹のこの辺りはそう言った場所でなく法事古墳の関係から修行僧の寺跡かもしれません。十分調査する必要がありそうです。そのさらに西奥に八畳はあろうかと思われる岩がありました。
 12時過ぎに帰ると孫連中が集まりすき焼きを食べていて、少し早目ですが誕生日のバレンタインを祝ってチョコレートをもらいました。ちなみに2月14日は宇喜田直家が亡くなった日だそうです。

矢坂山 鯉ケ城跡 発見

2012年2月11日

矢坂本町より鯉が池に登る途中より、大安寺、変電所、太然寺よりの登山道と合流する尾根道に鯉が池の山桜が見下ろせる場所やツツジの群生地があり整備のため上りました。枯れた松を切り倒し、倒木を処理したり遮っていた雑木を処理することにより上りやすく、鯉が池の山桜の大木「鯉恋ケ桜」がよく見通も良くなりました。
 さらにツツジの群生地にいたりツツジの景観を悪くしている葦を刈り取り、シャシャ木を伐採しました。また、下からの景観としてツツジが見えると素晴らしいため松以外の雑木を伐採して下からも見透視が良くなるようしました。西バイパスから咲いているのが見えると良いのですが。

さらに上がった所に、最と広く群生している場所があり、同様に作業をしていると周囲が石垣に囲まれていることに気づきました。場所的には鯉ケ池の西、変電所の北東、矢坂南町の上辺りに位置します。西には吉備の中山、吉備津彦神社があり眺望も良いところです。富山城は鯉ケ池を挟んだところで富山城の水の手を守りながら、西からの敵を監視する櫓、ないし城があったのではないでしょうか。これについては記述はありませんが、とりあえず「鯉ケ城」跡と呼ぶことにして専門家の判断を仰ぐこととします。
 このあと、大安寺駅に下る山道にでて半ばまで下った右側に「八畳岩」と呼ばれる岩が2個あって、その上で昼食を食べたのですが、3畳ほどで謂れに疑問を感じながらも、山道から見難いため雑木を間伐しました。そこより左に東に向かって70mほど入った所に法事古墳があり再度訪問しました。地域にとって貴重な歴史的資源と感じます。
(写真はツツジが落葉期)

法事古墳 2

2012年2月11日

矢坂山の中腹に法事古墳と呼ばれる円墳があることが分かり、岡山市史に大安寺の荘の南限の北長瀬の北側手に法事との字名があるここを思い出して、付近の字名を法務局で調べました。下法事、上法事、奥法事の字名がありました。下法事は現在の大安寺南町の東半分相当で南は新幹線の南の北長瀬で、東は高柳となていました。上法事はその北側手の大安寺東町辺りと推定されます。その奥は谷間で「説教谷」が見られました。これは岡山市の貯水池より降りてきた辺りで名前があるとは知りませんでした。その東の魚見山山麓を行ったところが、元大野小学校があったところで現在大野コミュニティーハウスとなっています。そこを「乞食谷」が見られます。そこを流れる小川を「乞食谷川」と古地図には書いてあったのですが、いつの間にか魚見山川となっていました。聞くところによると、乞食を連想するため世間呈が悪いと勝手に変えたそうです。乞食とは仏教の修行の托鉢などする行為です。比丘尼(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定める。もし自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定めるとあります。笹が瀬川に掛かる橋も「比丘尼(僧侶)橋」とに因んでいるようです。
奥法事は、法事古墳のある大野山の東面の谷間と想定されます。仏教はインドより中国を経由して500年ごろ聖徳太子の時代につたわったされ6世紀後半のこの古墳は仏事が行われて来た事は十分想定されます。大安寺の荘が奈良時代ですから時代はかなり下ります。5世紀頃は矢坂山は岩井島でしたから砂浜は多少あったでしょうが島の中の修験道場であってのでしょうか。その僧侶たちが干拓、開墾を指導したことは十分考えられます。奈良の大安寺との繋がりは創建当時からあってその歴史は根太いもののようです。

「岡山市マスタープラン公聴会」提言

2012年2月8日

 

本日、「矢坂山を語る会」の世話人が「岡山市マスタープラン公聴会」で意見を述べました。矢坂山は周辺4山の一つとして緑の質的、量的な緑のボリュームアップを上げていますが、具体的なプランニンイグ、計画があるわけではありません。

矢坂山を世界にも冠たる里山とするためには、固有の三つ葉ツツジを活かすように整備、レイアウトすることことにより可能と考えます。なにも金をかけたり施設を整備しなくても、固有の自然を活かすことこそ重要ではないでしょうか。

矢坂山における里山の整備について

岡山市「都市計画マスタープラン」について関心を持っています。重点事項「水と緑に囲まれ緑にあふれた都市空間の形成」に関して意見を述べさせて頂きます。

「矢坂山を語る会」は矢坂山を地域で楽しめる山として話し合う機会を設け、保全活動、講演会、散策会を模様しています。150人程度参加頂いています。

 ご承知のように、矢坂山は市の中心部に近く市街地を眺望できる好位地にあります。吉備津彦命が陣を張ったとする物語をはじめ古墳も多くあり、平安中期には富山家が砦を築き、松田家、宇喜多家の時代に城が築かれました。宇喜多忠家の時代には全山を城郭とする計画もありました。残念ながら小早川により一国一城制度のもとに廃城となりました。

その後地域の里山として焚き木にも活用され自然豊かな山でした。しかし、大正、昭和初期に万成石の産地として採石が活発に行われ城郭跡も半分以上失われました。また、昭和30年代となると焚き木を使うことがなくなり、主要山道を除いて人も入れないような雑木林化が進みました。航空写真によると緑が顕著に増えたかに見えますが、実情はシンボルであった赤松は枯れ、カクレミノ、楠木、クロガネモチなど常緑樹がハビコっています。美観を保っていた赤松、山桜、ツツジなどが劣勢となってきています。この点、緑のボリュームアップの指標を如何にするか課題があります。

今後市民皆の憩いの場となる里山にしたいと考えています。そのためには清掃、間伐作業、山道の整備、道案内板設置などは不可欠です。また、外から内から四季おりおりに綺麗と感じられる山とするため自生している春はピンク色の花を咲かせるツツジの増殖育成、秋の紅葉を楽しむためのモミジの植樹などの必要性を感じるところです。さらに、間伐材を処理する道、搬送機、処理機、トイレ、里山センターなどの整備をしていくことも必要と考えています。もちろん多くの地権者、利用者があるためそれらの合意を得ることが不可欠です。

地域の里山、岡山市の誇れる里山として根気強く活動してゆく必要がありますので今後ともご指導よろしくお願いいたします。 

矢坂山 法事古墳

2012年2月5日

 本日2月5日の午前中に一人で矢坂山の野山変電所南横より登り、大安寺駅方向に下って戻ってきました。小道を登ってゆき鉄塔付近を過ぎると大雨でえぐられた赤土の滑りやすい道となりました。6箇所ほどにロープがありそれを伝って登り大いに助かりました。10歩進んで、2、3歩進んで息を整え、周りを見ては登ってゆきました。中腹までは雑木林でしたが山頂に近づくにつれてツツジが増えてきました。登山道の応じて、春、夏、秋、冬の道として特徴があると楽しみかもしれません。さしずめモミジを植えて秋の道とすると西日に照らされ鮮やかな彩りになるのではないでしょうか。先日間伐した野山見晴台に出ました。矢坂大橋は良く見えますが、南を間伐するとより視界が開けそうです。先日見つけた古墳はどこっだたか分からなくなりました。

 富山城跡、すべり山、魚見山、太然寺、大安寺、大安寺駅方向と交差してる辺りに出て、大安寺駅方向に下ることにしました。「法事古墳」と呼ばれる人が入れる大きさとの事でそれによることにしました。少し下った左側手に小道があり70mほどと聞いていたのですが、かなりの距離があった先にその古墳がありました。案内板があり今でもお参りするのか、供え物がありました。

「法事古墳 この古墳は横穴式石室墳といい6世紀後半(今から役1400年前)に築造された墳墓で石室に出入りできるようになっていて古墳を築造した家の人々が次々に葬られた代々の家族墓です。墳丘は流出していますが10mの円墳で円墳で遺骸を葬る石室は長さが約8mあります。石室は遺骸を安置する玄室と入り口の羡道からなり、玄室が長さ4.2m 幅1.8m、高さ1.8m、羡道が長さ2.5m、幅1.8mです。この古墳は東正野田から大安寺かけての山や谷に築造されている多くの横穴式石室墳のうちでは大型のもので当時この地域を支配していた有力者の墓です。したがってこの地域の歴史を考えるうえからもかけがえのないものです。また、この地の祖先が残した私たちの共通の文化遺産として大切にしなくてはならないおのです。このような古墳をはじめ遺跡をかってに掘ったり壊すことは、法律で固く禁じられており、もしこれを犯すと罰せられます。昭和47年10月29日 施主 井上志保美 岡山教育委員会」と記されています。

法事とは広辞苑によると①追善・供養のために行う仏事。②死者の年忌に営む仏事。となています。大安寺の荘の南端辺りに字名として残っていたそうですので、大安寺の荘を開墾した、もしくは祭事を営んだ家系であったかもしれません。

 

 

矢坂山 大安寺登山道

2012年2月4日

2月3日に大安寺東の登山道から4月8日の玉松会の案内の下見と間伐を兼ねて5人で富山城跡まで上がりました。「玉松会」は、戦国時代に御津の金川城を主城とし、富山城をはじめ備前を200年ほど治めた松田家と家臣の子孫でつくる会です。

 まず、大安寺の東となりの急勾配な階段てら登ると山道に出て、しばらく登ると「ずべる岩」と呼ばれる巨岩のある見晴らしのよいところに出ます。さらに竹林の中(終戦後食糧難のとき伊開墾して畑に使っていた後だそうです)を抜けると、「こうの岩」と呼ばれる磐座にいたりました。広い場所ですが回りに常緑樹が蔓延り見通しはありません。間伐が必要でしょう。

 野山変電所からの登山道の方に少し入るとツツジが多くあり楽しみな辺りに「野山見晴台」があり、そこも見通が悪かったのですが間伐すると矢坂大橋が眼下に、又流通センターなどよく見えるようになりました。そこを引き返すとき古墳が見つかり回りの雑木を切り払い良くも良く見えるようになりました。

 富山城跡の南出丸の手前に山桜が良く目立つようになっていました。2の丸も以前に比べて枯れ松も片付けられ広々となっていました。さらに枯れ木を片付け、南側の視界を遮っていた雑木を切り倒すことにより、すべり山、北長瀬岡山ドーム、常山、西には川崎医療大学なども見せるようになりました。御津と倉敷より来られた女性の方も以前に来たときより奇麗になっている喜んでいただきました。