8月 2010 のアーカイブ

富山城の支城

2010年8月18日

富山城の支城
 神奈川県逗子在住の松田勝徳氏より富山城の支城について手紙がありましたので転載させていただきます。矢坂山山頂の富山城とともに野殿山城・大野山城・魚見山城も矢坂山城郭として松田の時代に築城され浮田忠家により再整備されたのかもしれません。 

 備前松田氏にとって、富山城と吉備津彦神社(備前一の宮)、吉備津神社(備中一の宮)は中世期最も重要な拠点ではなかったかと思われます。

 その一つ富山城は主要街道に面し、戦略上重要なポイントであり、備前と備中の境目としてまた旭川、笹が瀬川から瀬戸内海に通じる軍事上、交通上、交易上の拠点だったと思われます。

 また近くには八幡山城(松田親秀居城)、田益城(横井土佐守居城)、富原城(蜂谷氏居城)、高柳城、辻川城、野殿城など、富山城を囲む支城郡があり、関連する寺院や神社が存在していたと思います。

 室町初期に三備を巡錫した大覚大憎正に帰依する一方で、吉備津神社(備中一の宮)の社務としてまた吉備津彦神社(備前一の宮)へも積極的介入を回り、備前一国を他の在地領主よりも卓越した地位を獲得し、組織化して行ったのでは思います。

 備前松田氏成立のポイントは、まさに富山城を中心とする範囲に集約されると思われます。

 これからも富山城周辺の遺跡、地名、伝承など、一つ一つ積み重ねていく必要があると確信しています。 

「矢坂山開城2100年祭」2012年

2010年8月17日

「矢坂山開城2100年祭」2102年
 日本城郭全集によると次のように書いてあります。
矢坂山に城が築かれたのは、崇神天皇の十年(前八八)、四道将軍の一人としてこの地方に派遣された吉備津彦命が、この山に陣を置いた時に始まると伝えられている。
 信憑性はともかくとして矢坂山が記録上初めて登場します。当時は吉備の穴海の岩井島であり、後の万葉集にも島として歌われています。ただ地元の言い伝えとして矢坂山頂にある巨大な石を評定岩と呼び、吉備津彦命が「うら」を成敗する計画を練ったとされ、矢を射たことより矢坂山と命名したとつたえられています。
 時代が下がって、平安時代中期885年に富山重興氏により矢坂山山頂に富山城が築城され、1342年に松田元喬氏、1568年に宇喜田直家氏により本格的な山城となり、さらにその弟忠家により野殿山城・大野山城・魚見山城も整備され矢坂山全山が巨大な城郭となてゆきました。しかし、1615年に一国一条令により小早川氏により解体されました。
 2012年の再来年は、上記の記述より2100年目にあたり盛大に「矢坂山開城2100年祭」をしてはと考える次第です。
 イベントとしては、4月中旬実施とし①歴代城主サミット ②桜・ツツジの散策 ③四方の登山道より競争登山 ④石切り場での「うらじゃ踊り」「備中太鼓」「コンサート」 ⑤青空市 など考えられます。
 主催・共催者、実施案を募集します。

巨大な富山城の縄張り

2010年8月14日

巨大な富山城の縄張り
 富山城の城郭は矢坂山山頂付近のみとされていますが、富山城主累系の神奈川県逗子在住の松田勝徳氏が送ってくださった「日本城郭全集」パブリック/矢坂山http://cid-f21c182abf6c5b81.office.live.com/browse.aspx/.Public/%e7%9f%a2%e5%9d%82%e5%b1%b1?uc=1の富山城の項には次のように書いています。
 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである。
 南よりも眺望できる巨大な城構えであり、岡山城ををはるかにしのぐ城郭となり、岡山城が平城のため兄の宇喜多直家をしのぐとして野殿に城を造ったとするのもうなずけます。浮田忠家は直家の死後、幼少の秀家の後見役として大阪に詰めて、実質上朝鮮出兵の指揮を執ったとされています。一説によると宇喜多の先祖は朝鮮王朝とされ、秀吉の意向に加えて、宇喜田が王朝の再建を目論んだとも考えられます。
 「大野村誌」記載の全山に及ぶ巨大な城郭と大野地区の町並み構想は、単なる夢物語と考えていましたが、着実に進められていたのかもしれません。
 忠家の子基家は常山合戦で流れ矢に当り亡くなりましたが、その弟は坂崎出羽守http://ameblo.jp/junichi54262001/entry-10549118384.htmlとして津和野城主になったことは有名です。
 野殿山城跡?

 

富山城主ゆかりの松田氏を囲む会

2010年8月7日

 

富山城主ゆかりの松田氏を囲む会
 8月2日(月)に神奈川県逗子在住の松田勝徳氏と香川県多度津の弟善徳さんが矢坂の北向八幡宮に来られました。佐藤芳範氏が電子町内会に松田屋敷について書いているのを見て、情報交換が始まり、このプログを紹介いただき、「矢坂山富山城跡」をお送りしていたところ、香川の法事の帰りにお寄りくださいました。
 「市久会」のメンバー中心に14人が集まり、午前中は松田勝徳氏の話と郷土史家の間野行治氏の話を聞き午後に松田氏縁の地を見学しました。
 松田家は神奈川県大井松田インター近くの松田庄に発し、備前には鎌倉時代の弘安8年(1285)に松田元保が伊福の郷を加領し、正慶2年(1333)に松田元国が矢坂に引越し居住し、松田元喬が康永2年(1342)に富山城を築いたと説明がありました。富山城の時代に備前に日蓮宗の布教に来た大覚大僧正を城に招き大論争の後、布教を許し備前法華として現在も生活に大きな影響を残しています。 
 元喬の子の元泰は文和4年(1355)に金川に本城を築き、9代元勝の時に玉松城と命名し、昨年命名500年に当たり500年祭が行われ記念碑建立と記念誌も発行されました。毎年4月に全国の松田家ゆかりの人たちが集まり「玉松会」が催されているそうです。
 備前松田が13代続いたのち宇喜多直家に滅ぼされ、高松城水攻めの前哨戦の冠山城の戦いに清水宗治の家臣として松田氏の名が登場したのち「讃岐松田」が成立するまで37年間の空白があり、そのあたりを解明することが今回の訪問の目的でもありました。
 間野行治氏からこの空白期間の調査結果や砂田と名を変え吉備津彦神社近くに累系が現在もおられる話しがありました。
 さらに平安時代中期に最初に富山城を作ったとされる北向八幡宮の宮司の富山氏とは、讃岐松田の3代目の元明が備前富山氏の娘を迎えるなど一方ならない縁があるそうです。
 午後は、久米の鉄鋼団地ないにあったとされる松田屋敷跡を訪れ、境目川の東と推定されますが発掘調査されないまま鉄鋼団地が立てられたため場所、広さは特定できません。さらに中世備前法華信徒が東国日蓮宗三本山に旅立つ港として使った今保港を見ました。今でも船着場の名残をとどめ、隣には題目石や大賀邸がありました。
 吉備津彦神社ではお田植え祭りでにぎわっていました。そこを少し西に行った山麓に松田家と砂田家のお墓が混在してありました。間野氏によると備前松田の系図があり、近所に住まわれているそうです。
 辛川の180号線交差点の西土手を少し登ったところに、大覚寺があり題目石は本殿の中にあるとかで見れませんでした。
 続いて、高松城の北の足守地区にある冠山城を遠望し、高松城跡を訪れました。勝徳氏は父親と20年前に訪れて以来とかで、先祖が讃岐に渡前の軌跡を偲ぶ思いであったでしょう。資料館は月曜日休館で、冠山城の資料はお見せできませんでした。
 再来年の玉松会は富山城跡を訪問することを企画したいとの申し出があり市久会でも楽しみにしています。
 
 

松田屋敷跡今保港跡松田(砂田)墓地大覚寺高松城跡

小豆島

2010年8月1日

小豆島
 7月29.30日と小豆島に1泊しました。岡山駅より新岡山港へバスで、そこよりフェリーが直通していて港の前のオーキッド ホテルに泊まりました。豊島の産業廃棄物の汚れた島のイメージから脱皮するため瀬戸内国際芸術祭が行われていて直島、豊島、女木島、小豆島、犬島が参加していますが、モニュメントが特別目立つほどではありませんでした。
 オリ-ブの島として有名で、100ヘクタールまで植樹面積が回復したそうです。オリ-ブ公園からの眺めは格別で、10ヘクタールの園内は楽しめる施設も整備されています。
 千枚棚田と農村歌舞伎舞台が保存されている村落で中国の「小豆島の家」が展示されていて、また留学生が、中国の楽器演奏を聞かしてくれました。