5月 2014 のアーカイブ

備前軍記23

2014年5月30日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第21回「松寿丸の命」は、天正6(1578)年12月有岡城下の銭屋を借り文四郎ら4人は官兵衛の消息を探っていた。

信長は有岡城周辺の地図を前にして、家臣たちに指示を与え総攻撃を開始した。

土牢の官兵衛は、音を聞き、牢番の加藤又左衛門が、官兵衛のつぶやきを聞きつけた。

銃声が四方からする。攻め口をひとつにしぼるべきなのだ。これではいたずらに兵を失うばかりだ。

信長は、官兵衛が入れ知恵をしたに違いないと決めつけた。「人質にとった息子、松寿丸の首をはねよ」 秀吉に代って半兵衛が命に従った。半兵衛は長浜で松寿丸を切ったのち療養のため故郷の美濃へと出発した。

嗚咽し始めた光のもとに秀吉の奥おねより松を描いた扇子が届いた。暗に松寿丸は生きていると。

官兵衛は、村重の妻・だしから、松寿丸の死は自分のせいだと聞き、茫然として膝からくずおちた。天正7(1579)年正月氷つく土牢で官兵衛はどん底にいた。

春の光の差し込む小さな窓より藤の花見て、官兵衛の頬を涙が落ちた。

☆新釈備前軍記 虎倉の城主伊賀久隆を直家毒殺する事

伊賀左衛門尉久隆は津高郡虎倉(現御津町虎倉)の城主で、無二の宇喜多方の武将であった。

また直家の家臣に難波半次郎というものがあったが、密かに毛利家に通じ、何とか謀計をもって伊賀左衛門尉を殺害し、毛利家への手柄にしようと思っていた。

天正6年9月のころ、半次郎は、伊賀左衛門尉が毛利家に内通しているように直家に讒言した。直家はこれを讒言とも思わず、何の調査もせず、伊賀を殺害しようと企てた。左衛門尉は、兼ねて岡山城下にも屋敷を拵え、父子交代で虎倉の城を守り、また岡山にも詰めていた。

左衛門尉が岡山に居たとき、直家は左衛門尉を響応するといって、左衛門尉の家来まで呼んで料理を振舞ったが、このとき左衛門尉の料理に毒が入れられていた。

さて城を下った後、直家の料理人で、伊賀の家来に所縁のある者があって、

「今日の料理には毒が入っております。急いで解毒の薬を服用されて下さりませ」

と密かに告げた。

これを聞いた左衛門尉は、

「いま解毒剤を用いて難を免れたとて、とても生かしてはおくまい。同じ死ぬる命ならば、城に楯で籠り討ち死にするこそ本望である」

とて、急いで岡山を発し、馬を急がせて虎倉の城に戻り、子の刻(午前零時ごろ)に城に入ると、家来を集めて籠城の手配りをし、門という門をすべて差し固め、岡山の討手を待ちうけた。

左衛門尉の嫡子与二郎は、急いで解毒剤を調えて父に進めたが、最早延引し手遅れになっていたためか、暁方になって左衛門尉はついに死んだ。

左衛門尉が岡山を退去したと聞いた直家は、浮田源五兵衛を虎倉に遣わし、仔細を問わせることにした。源五兵衛は足軽五十人を召し連れ虎倉に到着したが、その時にはすでに城門を差し固め、用心厳しくみえたので、源五兵衛は足軽どもを伏せ置き、わざと一人で城の木戸に近づき、直家の使者である旨を伝えた。しかし答える者はいなかったので、仕方なく岡山に帰り、伊賀籠城の旨を復命した。しかし直家は虎倉の城を攻めることもせず、そのまま暫く打ち過ぎた。

伊賀与二郎は城に籠ると共に、毛利家へ使者を立て、左衛門尉が直家に毒殺されたことを伝え、以後は毛利家に味方することを約束し、宇喜多追討の軍を出される時は、自分か先手を仕り、父の仇を報ぜんことを申し入れた。

与二郎はその後暫く在城したが、舅の明石飛騨が内密に、このまま在城しては身の安全は保てまいと退城を勧めたので、正月下旬虎倉の城を落ちのび、毛利の軍が備中に進出したのを機に一緒に毛利側に退いた。直家はその城を長船越中に守らせた。しかし当時越中は播州駒山の城にあったので、その城には越中の弟源五郎、越中の妹聟の石原新太郎や有年・大田原らを入れて守らせた。

注 一説によると、直家が、伊賀左衛門尉の家来川原四郎左衛門という者を誘って左衛門尉を毒殺させたとも、また直家が川原と謀って殺させたともいう。

備前軍記22

2014年5月24日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第20回「囚われの軍師」は鞆ノ浦の足利義昭が有岡城へ使者を送るなど毛利が水軍を動かすと。

一方、摂津に入った信長に容易に落とせる城ではなかったが、半兵衛が妙案を出した。

「石山本願寺と有岡城との間はわずかに三里半の中間に砦を築き断つべきと」

毛利の水軍は、信長の鉄甲船の前にあっさりと敗れ去った。

信長は、キリシタンである高山右近を調略しようと画策していた。

姫路には、官兵衛が死んだという知らせが御着から届いていた。家中の結束には少しずつ亀裂が生じ、小寺の家臣が御着に帰って行った。松寿丸の親友又兵衛もであった。

信長の本陣に、髪を下ろし、紙の衣をまとった右近が現れた。信長は高らかに笑い切りかかり、「これまでの右近は死んだ!」と、右近を許した。茨木城主・中川清秀も態度を豹変させた。清秀からの情報で有岡城の兵糧は十分、兵の士気も高く、官兵衛が生きて牢に捕らわれていることも判明した。

黒田の家臣たちは、有岡城下に忍び込んで官兵衛の安否を探っていた。官兵衛も「だし」の手引きで脱出しようとしたが、村重に見つかり地下の土牢に閉じ込められた。岩がむき出し、天井は低く、立つこともできない。どこからか、かすかに賛美歌が聞こえてくる。以下は、新釈備前軍記より転載する。

☆前回、直家も信長に和睦を望んだが、秀吉を介して申し入れたいとも思ったが、兼ねて戸川平右衛門の二男孫六を、毛利家へ人質に出して居ることで思案していた。平右衛門は、「孫六が少しも御案じ召さるな。」と意見し和睦を重ねて進言した。直家はこの平右衛門の言葉に感悦し、「それでは上方と一味することに決定する。孫六については追って取り戻す手段もまたあるであろう」と語り、織田家との講和を進めることにし、まず播州の秀吉さて、芸州へ人質に遣わされていた戸川孫六であるが、当時芸州安固寺の僧恵瓊が上京し、下向の途次岡山を通るのを呼びとめ、相談したい儀があると偽って岡山城内に捕え置き、芸州に使者を送り、

「我が方は恵瓊を捕えているが、戸川孫六を返し給われば、恵瓊も返し申すであろう」

と申し入れた。毛利家も承知し、約束を定め、阿部川(高梁川)の辺りで人質を交換し、孫六は危く虎口を逃れて岡山へ帰った。

また今度、秀吉への使者に添えて遣わされた小西屋弥九郎は、もと堺の町人小西寿徳という者の二男である。また直家が幼少のころ世話になった福岡の豪商阿部善定なる者の手代に、源六 という者がいた。直家が岡山城を取り立て、国中の商売人を城下へ呼び寄せた時、この善定の手代源六も岡山城下の下之町に出て呉服商を始め、魚屋九郎右衛門といった。しかし実子がなく、かの小西寿徳の子の弥九郎を養子としていた。

秀吉は若年の頃、大坂・堺などへ上った時はこの寿徳のもとに居たから、弥九郎とも自然友達となった。弥九郎は秀吉とこのころからの馴染であった。そのため今度も使者に同行したのであるが、これから一層人魂の間柄となった。

そのうえ弥九郎は、生まれつき利根発明な者で、町人ながらも秀吉の使者となって諸方に使いし、また間者のような仕事もしたが、やがて呼び出されて侍に取り立てられ、小西弥九郎と名乗った。その後次第に立身した。後に豊臣家の五奉行の一人となり、小西摂津守と称したのはこの人である。いま堺や岡山にある小西屋というのは一族末葉であるという。

備前軍記21

2014年5月18日

 

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第19回「非情の罠」は、有岡城、茨木城、高槻城など、摂津一国が毛利に寝返り、足利義昭、石山本願寺、三木城ともつながり、荒木村重の謀反は、規模なものとなった。信長の命で秀吉と明智光秀は、有岡城を訪れ、滅びの道。裏切り者のたどる道と説得したが村重の覚悟はかった。

職隆の使いの伊吹文四郎が、御着城の小寺が村重と通じ、籠城の支度を始めたという。官兵衛は姫路に戻り、評定を開いた。御着を攻め落とすほかないとする九郎右衛門の意見に大多数が賛成した。官兵衛はそれでは義が立たぬと御着に向かった。御着では籠城の準備が進んでいた。村重の妻のだしからの謀反は本意でないとする書状を見せた説得に動かされた「村重が翻意すれば考え直す」と政職は約束した。

「人間五十年下天のうちを比ぶれば夢幻の如くなり……」と敦盛を舞う信長は、鬼の舞であった。

一方、毛利の水軍が本願寺に兵糧を運ぶと村重に情報がはいって喜んでいた。そこへ官兵は秀吉・半兵衛の生きては帰れぬとの説得にもかかわらず、単身、有岡城に乗り込んだ

そこで「官兵衛がそちらに行くので殺してくれ」と書かれた政職からの書状を見せられた。愕然とする官兵衛は縛りあげられ、牢に入れられた。

天正6(1578)年11月、信長は自ら軍を率い、摂津に向け出陣した。

官兵衛には底知れぬ暗闇が待ち受けていた。

☆宇喜多上方勢と和睦並びに小西弥九郎の事

直家は、その後織田・羽柴の上方勢と毛利家との勝負を見はからい、病気と称して出陣せず、彼方に付かず、此方にも付かずという態度であったが、その去就をきめるため、老臣達を集めて意見を求めた。その時、戸川平右衛門が進み出て、

「この度の一度や二度の合戦で、その勝負がいずれであろうと、それで天下の行方を占うことは出来ませぬ。信長公の威光、秀吉の合戦の仕様、賞罰の公平さなどこれまでの経歴から考えるに、天下は必ず織田家に帰するでありましょう。当家の行く末の御為には、少しも早く秀吉を介し信長公に付かせられるが得策と存じます」

と諌め、他の重臣達もみな同調した。

直家ももっともと思い、信長に和睦を望んだが、信長とても簡単に許容する筈はないし、秀吉を頼み、彼を介して再三申し入れたいとも思ったが、兼ねて戸川平右衛門の二男孫六を、毛利家へ人質に出して居ることでもあり、さてどうしたものかと思案した。

平右衛門は、

「孫六が事は少しも御案じ召さるな。御家の大事をどうして某の倅などと替え申すことが出来ましょうや。これは天運にまかせるばかりでございます」

と意見し、織田家との和睦を重ねて進言した。

直家はこの平右衛門の言葉に感悦し、

「それでは上方と一味することに決定する。孫六については追って取り戻す手段もまたあるであろう」

と語り、織田家との講和を進めることにし、まず播州の秀吉のもとへ、足立太郎左衛門を使者とし、多くの進物を揃えて遣わすことになった。

しかし和睦の一件は、信長が許容せぬところを無理に秀吉に頼むための使者であるから、大層むずかしい役目である。誰が秀吉と親しい者を使者に添えて遣わさねばならぬ。誰か適当な者はいないかと思案した。

その頃、岡山城下の町人に小西屋弥九郎なる者がいた。和泉国堺(現大阪府堺市)の生まれで、秀吉がまだ「猿」と呼ばれていた時分の竹馬の友で、当時も秀吉から目をかけられていた。この小西屋弥九郎を呼び出し、足立に差し添えて遣わしたところ願いを許され、以後は何につけても相談せよとの返答であった。

そこで直家は、秀吉へ加勢のためと称し、花房弥左衛門正成に侍・足軽を添えて姫路の秀吉のもとへ遣わした。

その翌年の天正七年(一五七九)の秋、秀吉は安土城に参り、信長に直家が味方に参ったことを言上したが、信長は、

「伺いも立てず、勝手に交渉するとは宜しくない」

となおも直家の願いを許さなかった。しかし秀吉はさまざまに取りなし懇願して、十月晦日に至ってやっと許され、直家が織田家に味方することとなった。

このことが岡山に伝えられると、直家は浮田与太郎元家を御礼の使者として、摂津国昆陽野の織田信忠の陣所に遣わして御礼を言上させ、また播州の秀吉のもとへは、直家自ら赴いて対面し、その節の礼を述べた。この時信長の執奏によって、直家に従五位下の叙爵があったという。

呑海寺と季弘大叔

2014年5月16日

早島町史に下記の様に載っていて野殿の大寺と関係しているか興味があったので岡山市箕島の呑海寺に寄った。住職の奥様が煎茶を出してくださり教えてくださった。
呑海寺の開祖の霊岳法穆は、73歳の時お経を唱えながら
地下に籠り、お経が聞こえなくなった石の蓋をしてくれてと云ってミイラとなった。東北では良く聞く話だが岡山でもあったとは。
野殿の大寺の向かいの北長瀬で幼少を過ごした季弘大叔は市久保で財力あった家で育ち、対岸の大寺の影響を受けたのであろう。当時日比芦原の領で大安寺分ではない。

DVC00016.JPG DVC00018.JPG DVC00024.JPG DVC00025.JPG開祖霊岳法穆禅師の開山塚

(早島町史)
鎌倉期から南北朝期にかけて、霊岳法穆という禅憎がいた。この人は、もともと備中国早島の出身で、俗姓は藤原氏であった。『延宝伝灯録』『本朝高僧伝』などの所伝によれば、母が夢の中で朝日を飲み込んで妊娠して、一三ヵ月後に産まれたのが彼であった。死没時の年齢から逆算してみると、正応二年(一二八九)ごろのことである。幼いころから福山寺などの仏門に入り、十七歳にして京都の建仁寺で修行した後、相模国(現、神奈川県)に下って、太平妙準に教えを請った。また、当時鎌倉の浄智寺・建長寺にいた乾峰上曇を師と仰いだ。その後、備中の信蔵寺(所在不詳)に移住した後、箕島に呑海寺を開創し、開基となった。霊岳法穆は康安元年(1361)12月13日に円寂した。時に73歳であった。
この霊岳法穆という禅僧の話は、鎌倉末期から南北朝期にかけて、早島の地において、子息を僧侶にして京都に送り出すことのできる財力・家格と人脈を有した豪族が存在していたことを物語っている。その一族が早島でどのような地位を獲得していたのか、例えば地頭であるとか、在庁官人であるとか、また早島のどのあたりに居を構えていたのかというような、より具体的なことは史料上何も明らかではない。しかし、おそらくは荘園の経営にかかわり、京都とのパイプを持っていた一族であると推測される。
禅僧の季弘大叔*(きこう・だいしゅく)の記した『蕉軒日録』である。季弘大叔が備前国の生まれで、同国長妹村(現、岡山市北長瀬)で、幼少期を過ごしていることは推測されている。大叔は、青年期に京都へ出て禅僧として修行を積み重ね、京都の東福寺を中心に活動を展開し、五山文学僧として一流になっていた。
文明17年は、この季弘大叔が65歳で、死没の2年前であった。この年の4月ごろ、体調のすぐれない叔は遺言を記した。遺品となるべき物の譲与先を示しか大叔の遺言によれば、大叔が嘉楽普灯録という書物を「備中天海寺」に寄附すると記している*。この当時、備中の呑海寺には、大叔と親交のあった人物が住持(住職)をしていたと考えられる。というのも、季弘大叔は、霊岳法穆の法系*にあたっているのである。
さらに、大叔は、翌年の年末には、呑海寺の仏殿再興を祝う疏文*の執筆を依頼されている。
*『燕軒口録』文明17年4月21日条
*僧侶の師弟関係、大叔は年代的にみても、直接に法穆の教えを受けてはいないが、法穆の弟子の弟子の弟子というような関係である
同年12月13日条には、大叔が呑海寺の開山である霊岳法穆の命日に献花をしたことが、また23日条には、依頼された疏文を完成させたことが記されており、その疏文は、『燕軒日録』同年12月30日条の後ろに、序文とともに掲載されている。呑海寺が禅の師である法穆が建立したという点、また、何10年も帰郷していない故郷、その故郷にほど近い呑海寺の仏殿再興は、季弘大叔にとって二重の意味で、非常に喜ばしいものであったろう。なお、呑海寺の山号が日蓮宗にかわった時点で、如意山と改めたとする見解かあるが、この疏の序文には「備中州如意山呑海禅寺」と記されており、山号は中世以来のものであったことが分かる。
(呑海寺パンフレット)
当寺は備中箕島字呑海寺にあり、日蓮宗京都石塔寺の末寺である。建造物は、本堂、庫裏、鐘楼堂のほか、境内には、七面堂、番神堂、開山堂の三宇があり、開山堂の前には、開祖霊岳法穆禅師の開山塚がある。
寺は貞和3年4月28日(1347)に創建された。もとは禅宗で開山は、霊岳法穆禅師である。
この寺は、昔 箕島山と号し有名禅寺であったが、慶長13年(1608)備中高松の領主 花房兵衛職之が、領民を悉く日蓮宗に改宗させたことがありその時から日仁を開山として山号を如意山と改めたという。応永9年(1402)から寛永11年まで、233年間、数10代続いた寺で古書類も数多く有ったが花房氏によって突然改宗させられ、開山以来の本尊や古文書など悉く失ったという。
現在でも毎年8月16日に、開山霊岳禅師の徳を偲んで供養のため「開山踊り」が多くの善男善女によって催されている。

中國大返しと富山城

2014年5月14日

高松城水攻めの後、太閤記などによると1日にして姫路ないし大阪に帰り明智光秀を討って天下人になったと書かれ語り伝えてこられた。可笑しいと思いながら当時凄いことが起こったとしか思っていなった。現実にはありえない事である。講談調の語りであった。

秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。その直後、毛利氏は信長横死の情報を人手したという。これを知った吉川元春は、和睦を破棄して秀吉を追撃すべきであると息巻いた。しかし、小早川隆景は「誓書の墨が乾かないうちに和睦を破棄するわけにはいかない」と真っ向から反対したという(『川角太閤記』)。実際には、この時点で毛利方は信長の死を知らなかったというのが正しく、この逸話は単なる俗説として退けなくてはならない。

備中高松城を発った秀吉は、常識を超えたスピードで東上の途についた。これがいわゆる「中国人返し」と称されるものであるが、通説には疑義が認められる。最初に、これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月六日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。

ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。

ひとつの説としては、六日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約二十二キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌七日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約七十キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。

ところが、秀吉の書状には、さらに厳しい強行日程が記されている。六月七日に備中高松城を出発すると、約九十キロメートル離れた姫路まで、わずか一昼夜で到着したというのである(「滋賀県立女土城考博物館所蔵文書」)。この書状は、本能寺の変からわずか四ヵ月後に書かれたものである。ただ、この書状は例のごとく、高揚した気分で大袈裟に書いており、一次史料とは言いながらも信用を置けないところがある。

ふたつの説が根本的に間違っているのは、備中高松城を離れた日を六月六日もしくは七日としていることである。『黒田家譜』には、姫路城における官兵衛の進言が記されている。官兵衛は姫路城へ立ち寄ることなく、すぐに合戦のために進軍すべきであると秀吉に意見を述べたという。しかし、後述するとおり、秀吉らが姫路城に滞在した事実が認められるので、この説は誤りと考えられる。{渡辺大門)

宇喜多直家が岡山(石山)城共に毛利に対する最前線であった富山城を忠家が築城し、忠家は6万石の治行を持っていた。直家が毛利より信長に従うことになり重要度が増した。増してや直家が亡くなった、当時は松田の時代からの野殿城は弟の忠家の屋敷として使われ、高松城水攻めの最前線作戦本部が置かれていた。

 備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

東軍の大部分は、旧古山陽道に辛川から入り、宇喜多軍は矢坂大橋を渡り沼城への道を帰った。

宇喜多忠家は高松城水攻めの最大の功労者であった。東軍、秀吉、重臣と宇喜多重臣は野殿屋敷に戻り、毛利の動きと明智光秀の討伐の軍議を行った。そして、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して、事を自らの有利に運ぼうと画策した返書を送った。そして、まとまった所で岡山城に向かい八郎後の秀家に報告した。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。(備前軍記)

この辺りを検証する意味でも、富山城祭を野殿中心に6月4~7日に開くことを検討している。城の内現代_edited-2字図と現代図を重ねた。

笹ヶ瀬川は直線でなく大川を蛇行して野殿地区は備中領であった。

五輪の字当たりの南が野殿交差点、西署。大川沼の跡に大野小学校、大安寺中等校がある。

上に太然時があり、城ノ内に野殿城、忠家御殿があった。

 

中國大返しと野殿

2014年5月9日

秀吉中国大返しと野殿

矢坂山麓野殿の太然寺の沿革によると、当山の発祥は、遠く奈良時代に遡り、南都五大寺の一つ、奈良大安寺の荘園を管理する支院として創建されたものと推定されるが、その史実は定かでない。その後室町時代の初め岩根山大然禅寺と称する禅宗道場となり、そのころにはほぼ現在の寺域を有していたものと伝えられる。そして永禄4年(1561)戦国時代の初期、備前守護職松田一族の強い要求によって日蓮宗に改宗され現在に至る。また、金神様の由来(本堂右側奥金神堂に安置)当山に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。その後、あの有名な秀吉の高松城水攻めの激戦が行われた。梅雨の候、高松城周辺に大堤防を築き、足守川、長野川の水を引き入れ、高松城の周辺を水没させたのだ。しかしその当時、金神信仰が強く、金神尊の鎮守を知る近郊の人々はこの無謀なる大工事を恐れ嘆き、必ずや神罰が下るであろうと、秀吉の陣営に進言した。そしてその直後、本能寺に於いて主君織田信長が明智光秀の手によって討たれたのである。 しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日尭上人にその再建勧請を託されたとされている。時に日尭上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。それ以来、今日まで四百数十年の長きに渡り、三年塞がり、鬼門等の方位を侵す新築、改築等の各種工事、結婚、転宅等の方除け、除災安全、家運長久の守護神として、岡山県はもちろん、近隣の各県より遠近を問わず参詣が絶えず、「金神様の太然寺」として現在に至る。さらに門前には秀吉あるいは軍が飲んだとされる古井戸跡がある。右下の枡を開けると今でも湧き出している。

また、『真説歴史の道第8号』(2010)p.10によると、天正10年(1582)6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、『上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。』と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。 これは、明らかな虚偽の情報であった。この手紙が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変にともなう清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、情報操作によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことがうかがわれる。

平賀元義筆記

宇喜多直家は岡山在城後に播磨一国、備中一国を手に入れた上は御野郡冨山を本城とし西川を二筋に分け津島の下より分けて、今の用水上伊福村の前より野殿へ一筋(今の観音寺用水)を流し一筋は津島川の下ダス河へ落しザブト云所より西へ今の矢坂の北の川筋(今の座主川用水)より野殿へ流し富山別所の山を取入て大城とする事を思い立ち、例え12年籠城しても薪炭の憂なく水懸りも能く究竟の城地となる。然る所直家病死してしまい、秀家の代も其事を思っていたが朝鮮の軍の事があり、引き延となり、程なく家中の騒動があって其儘なく置いていた所、関ヶ原軍出来て宇喜多は亡びてしまった。大挙を直家思い立つ事、惜しい事となった。此城を築いた事の評定あったことを宇喜多家の軍帥穴田伊賀介が語々所を宇喜多家の臣小瀬中務の聞書に見えている此書は宇喜多家武者鑑と云う。

編者曰く此筆記は事を富山城に係り岡山城には関わらない事けれども英雄の心事を窺う一端を以て茲に挿記する。

(岡山城誌)

 

野殿の城跡

岡山市野殿(のどの)に「城ノ内」という字(あざな)がある。「吉備温故秘録」の津高郡野殿村の条に、「野殿城、宇喜多左京亮」とあり、野殿の地名はこれによったものらしい。別項に書いた富山城と一連の関係ある遺跡で、富山城を宇喜多氏が支配するようになってから、その南麓の平地に根小屋を構えて城主の平常の居館にあてたといい、また富山城主宇喜多忠家(安心人道)がその子左京亮詮家に城を譲って、自分は今の野殿の地に屋敷を構え、これに隠棲したといい、あるいは富山城が岡山城よりも高い場所にあるので本家の宇喜多秀家がこれを喜ばず、宇喜多左京亮は富山城の建物を南麓の平地に移して住んだ、これが野殿城であるとも伝える。

これに野殿の字割(あざなわり)図は市役所にある明治二十一年調整の地籍図によったもので、笹ヶ瀬川の川節かその後の改修の線に変わって居るていどで、昭和三十七年ごろまではこの図にあるような地形がのこっていた。

野殿は押入図で見るように四辺を笹ヶ瀬川(白石川とも)が流れ、東・南・北の三方は細長い沼が取りまいて隣村との境を水で仕切っている。この湾曲した帯状の沼を大川とよぶのは古い時代に笹ケ瀬川が流れていた旧河道であるからで、笹ヶ瀬川が村の四辺を北から南へ流れるようになると、もとの河道は沼となって取り残され、備前名産の一つ″野殿ブナ“の生息地に変わった。

現在の大川の面積九ヘクタール、野殿の南部下野殿を中心に敷地をとって昭和38年から市立大安寺高等学校の建設工事がはじまり、学校用地に振りあてた農地の代償に大川(沼)を埋立て農地としたのでこの特色ある野殿の水郷風景は見られなくなった。

野殿城の跡は「城ノ内」にあたる、東は中島を浮かべた沼に面し南と西と北の三面には用水溝を掘りまわしている。おそらくこの用水が城屋敷の外郭をとりまいた水壕で、内部に相当の防備をもつ建物があり、中島には遊息所がつくられていたのであろう。P1030297

中島を所有する野殿の虫明巌氏からの報告によると、「城ノ内」の面積八反歩余、中島の面積一反四畝、城ノ内の在住者は明治末年ごろは10戸ばかりであったが現在(昭和37年末)は19戸にふえている。

他にも例が多いが平地の城跡とか豪族屋散の跡はよく住宅地に変わっているが、野殿の城ノ内にもふるくから人が住みつき、多くは農業を営なんでいる。

野殿は城ノ内、中通、北ン上、寺前など大安寺部落に近い地区に住宅が集まり、西部、南部、東部にわたっては広い水田がつらなり、典型的な農村といいたいところである。しかし地籍図でみると西部には大寺、大御堂、五輪などの地名がのこり、笹カ瀬川を西に越えた旧花尻一所の地内にまで大寺の地名をのばしているので、このあたりに平地伽藍のあったものと考えられる。また南部の下野殿の地内には下屋散らしい構えのあった形跡がある。

このようにして野殿の全域を見るとき、大川と称する沼にとりまかれた全村59ヘクタールの還濠集落--野殿そのものが、構想雄大な平地の城郭の建設地として条件を備えていたことに気付くであろう。

宇喜多左京亮が富山城の建物を野殿に移したのは城ノ内であったか知れないが、戦争気構えののこる当時の武将として、水に守られこれほどの要害を見のがす筈はない。また富山城の根小屋があったとしても究竟の場所である。野殿城ノ内-2

『岡山市史 政治編』

 

備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。

宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。

 

中国大返し(宇喜多直家、秀家  渡辺大門)

羽柴秀吉が主君・織田信長の変死を知り、急きよ毛利氏と和議を結び、主君のあだ討ちのために急いで姫路城へ帰った。その秀吉の帰途については、多くの説に分かれている。

・ 「秀古勢は、乗船で帰国するために予定通り片上(備前市浦伊部)の豪商灘屋七右衛門邸ヘ一泊し、早朝灘屋の早船にて赤穂岬(兵庫県赤穂市)に午前4時頃着いたといわれる。この時、灘屋は船賃として銀銭二文を頂いたという。この銀銭一文で米一斗を買い得たという。現在は灘屋自体が不明で、このことを実証する方法はない」 (高田馬治氏説)。

・ 「6月5日秀吉退陣、岡山を通り越して、西片上の灘屋七右衛門宅に一泊。6日三石の船坂越えして、8日朝姫路に入る」 (『播磨灘物語』=司馬遼太郎氏説)。

・ 「秀吉は岡山城に入り、しばらく秀家と対面し、その夜沼村に宿陣した。翌6月7日沼を渡って播州宇根につき、そして姫路に帰陣した」 (『備前軍記』)。

・「秀吉、当地灘屋に一泊し、灘屋の船にて翌朝当地を発ち、赤穂より上陸し姫路に向かう」 (『備陽記』)。

以上の4説が有力であった。

『前野家文書』によると、退陣は殿陣(最後尾の軍勢)を秀吉の弟の羽柴秀長が但馬衆5000余人で受け持ち、総勢1万7000余人は退路を南北二つに分けた。

南隊(加藤作内、黒田勘兵衛尉など)は、岡山から渡河して、国富ーー藤井―ー沼ー―長船ーー伊部ー三石の経路。北隊(蜂須貿小六、前野忠康など)は旧道を通り、大井ーー物部ーー和気出村ーー下原ーー南谷ーー三石の道。問題の秀吉は、6月5日、岡山城に立ち寄り、国富、藤井を経て沼へ着いた。ここで休息。 その間に蜂須賀正勝と相談し、三石の船坂が峻路であることや味方の軍勢が混乱している点などを考えて、海路で帰ることに決めた。正勝は急いで家来を伊部浦に派して、その準備にあたらせた。

秀吉は沼から吉井川を渡って、福岡・長船・伊部へと急いだ。そして予定通り片上から早船に乗ることになった。片上で一泊し、翌朝夜明け方に乗船した。その従者は、蜂須賀正勝、生駒親正のほか馬廻衆(旗本衆)16人という極めて小人数であった。

早朝、少数の乗船は人目に隠れての早立ちであった。6日午後4時ごろ、秀吉の船は赤穂岬(赤穂市)に着いた。秀吉はお茶を飲み、しばらく休息した。

そのとき、迎えに来ていた前野長康から、本能寺の変(主君織田信長が家臣明智光秀に殺された事件)とその後の諸将の動きについて、詳しく聞いた。そして、用意された馬に乗って姫路城に帰った。

 

中国大返し再考(黒田官兵衛 作られた軍師像 渡辺大門2013年 講談社)

秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月6日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。

ひとつの説としては、6日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約22キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌7日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約70キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。

実際の行程

ほかの一次史料と照らし合わせて検討すれば、秀吉の行軍日程は次のようになる。

①6月4日、備中高松城から野殿(岡山市北区)へ到着(「梅林寺文書」)。

②6月5日、沼城(岡山市東区)へ到着(「梅林寺文書」)。

③6月6日、姫路城へ到着(「松井家譜」所収文書)。

④6月9日、姫路城を出発。

この行軍でも厳しいのは事実であるが、一次史料で裏付けられるたしかな行程である。

『黒田家譜』は6月6日に備中高松城を発つたというが、もちろん誤りである。5日に沼城に到着して、翌6日に姫路城に到着するというスケジュールも厳しいが、決して無理ではない。5日の午後に沼城を発ち、6日に秀吉の軍勢の一部が馬などによって早く到着し、残りが同日の夜にかけて少しずつ着いたと考えられる。全体が一度に到着したと考える必要はない。

右の行程によると、姫路での滞在は4日間に及んでいる。この間は、畿内周辺における光秀の動静の確認と兵卒に休息を取らせることが優先的に行われた。秀吉が姫路に本拠を構える以前は、官兵衛の膝元であった。土地勘もある場所であり、毛利氏の脅威も遠のいたので、改めて状況分析するには最良の地といえる。

 

コメント

ここで、野殿に秀吉軍が泊まった可能性が高い。泊まらないでも忠家の屋敷で手紙を読み返事をしためたであろう。宇喜多直家が岡山(石山)城を築城したころ、弟の宇喜多(浮田)忠家は松田を滅ぼした後、矢坂山に富山城を毛利の備えとして築城した。この城は、直家の構想で平賀元義によると岡山城より大規模な計画だった云われている。

その麓に野殿城があったとされるが、富山城の根小屋で忠家・家臣が暮す御殿であった。忠家は岡山城より高松城攻めに参戦したとなっているが、野殿より行き、秀吉軍を帰りに招いたであろう。当時、直家は,天正9年(1581)に無くなり、9歳の秀家が家督を継ぎ、直家の養子の基家が名代を務めていたが八浜合戦で倒れた。

野殿には、城の内の字名が残り、田んぼ中の暗渠工事中に石垣が出て来て遺物も発掘されたと地元では云っている。

以上の資料よりも秀吉が浮田忠家屋敷に泊まり、黒田官兵衛・旗本重臣と毛利のその後の動き、明智討伐の軍議を開いた濃くなってきた。

 

 

        

備前軍記20

2014年5月7日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第18回「裏切る理由」は、天正6(1578)年8月三木城攻めの軍議が開かれた。城を囲み兵糧を運び込もうとする毛利の者を即座に見つけ、追い払うことにより戦わずして勝てると2人の軍師が説明した。

荒木村重は、神吉城攻めの不手際で追い詰められた、生き残りをかけ申し開きをし信長の信を得た。

有岡城に戻った村重もとに茨木城主・中川清秀がやってきて、清秀の家中の者が石山本願寺にひそかに兵糧を荷揚げしているところを織田の兵に見つかり、斬り合いになったあげく兵を斬って逃走したという。信長を恐れ、籠城の支度を始めたと言う気の早い清秀を、村重は兵を捉えるのが先だと一喝した。

宇喜多直家の調略にかかった官兵衛は、三木城陥落前に信長のつくよう話すが直家の間者はすでに摂津の動きを報告しているようで官兵衛に背後が危ういと聞かされる。

米の買い占めや兵糧の備蓄など、摂津に不穏な動きがあるとの噂に信長は村重と縁続きの明智光秀と、腹心の万見仙千代を有岡城へ遣わされた。

秀の家中の者が、織田方に捕まっり、村重謀反の噂が広く流れてた。

村重の家臣の信長に対する不信と毛利の安国寺恵瓊の調略の手紙があり、村重は遂に天正6(1578)年10月、信長に反旗を翻した。

☆毛利勢播州より帰陣の事(柴田一著 新釈備前軍記)によると、宇喜多直家は、今度の上方勢と毛利勢との合戦は恐らく毛利勢が敗れるものと判断し、仮病を構えて出陣せず、家臣ばかりを従軍させた。その上、角南隼人人道如慶を使者として、播州飾磨津(現姫路市)に在陣した織田信忠のもとへ遣わし、今後は織田方に御味方申しますと和を請うたので、信忠もこの願いを許容した。

ところが思いも寄らず、上方勢が打ち負け、上月城を見捨てて後詰めの大軍を引き揚げてしまった。隆景・元春は上月落城後しばらく黒澤山に在陣していたが、そこへ直家は、病気が平癒したと称して参陣し、隆景・元春に対面し、今度の戦勝の祝詞を言上して岡山へ帰った。

毛利の陣にも、すでに直家の上方内通の噂さは伝わっていたから、杉原盛重は直家を討ち取るべしと主張したが、隆景はそれを許さずそのままとなった。

直家は重ねて播州の隆景・元春の陣へ使者を送り、

「今度上方へ直ちに御出陣なさいませ。その節は某必ず御先手を仕る」

と合戦を勧めた。しかしその本心は、いずれであれ旗色のよい方へ味方する魂胆であった。また、 「もし直ちに御帰陣なさるのであれば、領内御通行の節、心ばかりの御もてなしなど仕る」

などと懇ろに申し添えた。これも、承知して岡山に立ち寄ることになれば、元春・隆景を討ち取る心算であった。

しかし直家の家臣中村三郎左衛門は兼ねて毛利家に内通していたから、この直家の密計を播州黒澤山の陣へ密告し、その身は何気なく美作の居城へ帰った。中村が毛利家に内通したと聞いた直家は、岡山から彼の居城へ人数を送り、8月2日の暁ごろ中村を誄殺した。

この一件は黒澤山へ伝えられたので、直家の密計はいよいよ間違いないことが確かめられた。

隆景・元春は芸州への帰路、備前を通行することを取り止め、8月3日黒澤山を発し、隆景は播州奈波垣越から乗船して海上より帰国し、元春は作州路をとった。岡山へは使者を立て、

「芸州より急に帰国するよう申し来ったため、残念ながら今度は御饗応にあずかれないが、重ねて立ち寄ることもあろう」

と申し伝えた。

直家は、このたび隆景・元春を饗応し、討手を掛けて討ち取り、その首級を織田家への忠勤の印しに献じ、信長の威を借りて備中・備後までも奪い取ろうと謀ったが、この謀計も水泡に帰してしまった。しかし直家は素知らぬ体を繕って毛利家とも親しい関係を続けたのである。