秀吉中国大返しと野殿
矢坂山麓野殿の太然寺の沿革によると、当山の発祥は、遠く奈良時代に遡り、南都五大寺の一つ、奈良大安寺の荘園を管理する支院として創建されたものと推定されるが、その史実は定かでない。その後室町時代の初め岩根山大然禅寺と称する禅宗道場となり、そのころにはほぼ現在の寺域を有していたものと伝えられる。そして永禄4年(1561)戦国時代の初期、備前守護職松田一族の強い要求によって日蓮宗に改宗され現在に至る。また、金神様の由来(本堂右側奥金神堂に安置)当山に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。その後、あの有名な秀吉の高松城水攻めの激戦が行われた。梅雨の候、高松城周辺に大堤防を築き、足守川、長野川の水を引き入れ、高松城の周辺を水没させたのだ。しかしその当時、金神信仰が強く、金神尊の鎮守を知る近郊の人々はこの無謀なる大工事を恐れ嘆き、必ずや神罰が下るであろうと、秀吉の陣営に進言した。そしてその直後、本能寺に於いて主君織田信長が明智光秀の手によって討たれたのである。 しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日尭上人にその再建勧請を託されたとされている。時に日尭上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。それ以来、今日まで四百数十年の長きに渡り、三年塞がり、鬼門等の方位を侵す新築、改築等の各種工事、結婚、転宅等の方除け、除災安全、家運長久の守護神として、岡山県はもちろん、近隣の各県より遠近を問わず参詣が絶えず、「金神様の太然寺」として現在に至る。さらに門前には秀吉あるいは軍が飲んだとされる古井戸跡がある。右下の枡を開けると今でも湧き出している。
また、『真説歴史の道第8号』(2010)p.10によると、天正10年(1582)6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、『上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。』と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。 これは、明らかな虚偽の情報であった。この手紙が高松の陣で書かれたのか、野殿で書かれたのかは不明であるが、本能寺の変にともなう清秀の動揺や疑心暗鬼を、偽情報を流してでも鎮めようとしたものと考えられる。秀吉は既にこの時点で、情報操作によって少なくとも清秀が光秀に加担しないように気を配り、事を自らの有利に運ぼうと画策したことがうかがわれる。
平賀元義筆記
宇喜多直家は岡山在城後に播磨一国、備中一国を手に入れた上は御野郡冨山を本城とし西川を二筋に分け津島の下より分けて、今の用水上伊福村の前より野殿へ一筋(今の観音寺用水)を流し一筋は津島川の下ダス河へ落しザブト云所より西へ今の矢坂の北の川筋(今の座主川用水)より野殿へ流し富山別所の山を取入て大城とする事を思い立ち、例え12年籠城しても薪炭の憂なく水懸りも能く究竟の城地となる。然る所直家病死してしまい、秀家の代も其事を思っていたが朝鮮の軍の事があり、引き延となり、程なく家中の騒動があって其儘なく置いていた所、関ヶ原軍出来て宇喜多は亡びてしまった。大挙を直家思い立つ事、惜しい事となった。此城を築いた事の評定あったことを宇喜多家の軍帥穴田伊賀介が語々所を宇喜多家の臣小瀬中務の聞書に見えている此書は宇喜多家武者鑑と云う。
編者曰く此筆記は事を富山城に係り岡山城には関わらない事けれども英雄の心事を窺う一端を以て茲に挿記する。
(岡山城誌)
野殿の城跡
岡山市野殿(のどの)に「城ノ内」という字(あざな)がある。「吉備温故秘録」の津高郡野殿村の条に、「野殿城、宇喜多左京亮」とあり、野殿の地名はこれによったものらしい。別項に書いた富山城と一連の関係ある遺跡で、富山城を宇喜多氏が支配するようになってから、その南麓の平地に根小屋を構えて城主の平常の居館にあてたといい、また富山城主宇喜多忠家(安心人道)がその子左京亮詮家に城を譲って、自分は今の野殿の地に屋敷を構え、これに隠棲したといい、あるいは富山城が岡山城よりも高い場所にあるので本家の宇喜多秀家がこれを喜ばず、宇喜多左京亮は富山城の建物を南麓の平地に移して住んだ、これが野殿城であるとも伝える。
これに野殿の字割(あざなわり)図は市役所にある明治二十一年調整の地籍図によったもので、笹ヶ瀬川の川節かその後の改修の線に変わって居るていどで、昭和三十七年ごろまではこの図にあるような地形がのこっていた。
野殿は押入図で見るように四辺を笹ヶ瀬川(白石川とも)が流れ、東・南・北の三方は細長い沼が取りまいて隣村との境を水で仕切っている。この湾曲した帯状の沼を大川とよぶのは古い時代に笹ケ瀬川が流れていた旧河道であるからで、笹ヶ瀬川が村の四辺を北から南へ流れるようになると、もとの河道は沼となって取り残され、備前名産の一つ″野殿ブナ“の生息地に変わった。
現在の大川の面積九ヘクタール、野殿の南部下野殿を中心に敷地をとって昭和38年から市立大安寺高等学校の建設工事がはじまり、学校用地に振りあてた農地の代償に大川(沼)を埋立て農地としたのでこの特色ある野殿の水郷風景は見られなくなった。
野殿城の跡は「城ノ内」にあたる、東は中島を浮かべた沼に面し南と西と北の三面には用水溝を掘りまわしている。おそらくこの用水が城屋敷の外郭をとりまいた水壕で、内部に相当の防備をもつ建物があり、中島には遊息所がつくられていたのであろう。
中島を所有する野殿の虫明巌氏からの報告によると、「城ノ内」の面積八反歩余、中島の面積一反四畝、城ノ内の在住者は明治末年ごろは10戸ばかりであったが現在(昭和37年末)は19戸にふえている。
他にも例が多いが平地の城跡とか豪族屋散の跡はよく住宅地に変わっているが、野殿の城ノ内にもふるくから人が住みつき、多くは農業を営なんでいる。
野殿は城ノ内、中通、北ン上、寺前など大安寺部落に近い地区に住宅が集まり、西部、南部、東部にわたっては広い水田がつらなり、典型的な農村といいたいところである。しかし地籍図でみると西部には大寺、大御堂、五輪などの地名がのこり、笹カ瀬川を西に越えた旧花尻一所の地内にまで大寺の地名をのばしているので、このあたりに平地伽藍のあったものと考えられる。また南部の下野殿の地内には下屋散らしい構えのあった形跡がある。
このようにして野殿の全域を見るとき、大川と称する沼にとりまかれた全村59ヘクタールの還濠集落--野殿そのものが、構想雄大な平地の城郭の建設地として条件を備えていたことに気付くであろう。
宇喜多左京亮が富山城の建物を野殿に移したのは城ノ内であったか知れないが、戦争気構えののこる当時の武将として、水に守られこれほどの要害を見のがす筈はない。また富山城の根小屋があったとしても究竟の場所である。
『岡山市史 政治編』
備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。
宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。
中国大返し(宇喜多直家、秀家 渡辺大門)
羽柴秀吉が主君・織田信長の変死を知り、急きよ毛利氏と和議を結び、主君のあだ討ちのために急いで姫路城へ帰った。その秀吉の帰途については、多くの説に分かれている。
・ 「秀古勢は、乗船で帰国するために予定通り片上(備前市浦伊部)の豪商灘屋七右衛門邸ヘ一泊し、早朝灘屋の早船にて赤穂岬(兵庫県赤穂市)に午前4時頃着いたといわれる。この時、灘屋は船賃として銀銭二文を頂いたという。この銀銭一文で米一斗を買い得たという。現在は灘屋自体が不明で、このことを実証する方法はない」 (高田馬治氏説)。
・ 「6月5日秀吉退陣、岡山を通り越して、西片上の灘屋七右衛門宅に一泊。6日三石の船坂越えして、8日朝姫路に入る」 (『播磨灘物語』=司馬遼太郎氏説)。
・ 「秀吉は岡山城に入り、しばらく秀家と対面し、その夜沼村に宿陣した。翌6月7日沼を渡って播州宇根につき、そして姫路に帰陣した」 (『備前軍記』)。
・「秀吉、当地灘屋に一泊し、灘屋の船にて翌朝当地を発ち、赤穂より上陸し姫路に向かう」 (『備陽記』)。
以上の4説が有力であった。
『前野家文書』によると、退陣は殿陣(最後尾の軍勢)を秀吉の弟の羽柴秀長が但馬衆5000余人で受け持ち、総勢1万7000余人は退路を南北二つに分けた。
南隊(加藤作内、黒田勘兵衛尉など)は、岡山から渡河して、国富ーー藤井―ー沼ー―長船ーー伊部ー三石の経路。北隊(蜂須貿小六、前野忠康など)は旧道を通り、大井ーー物部ーー和気出村ーー下原ーー南谷ーー三石の道。問題の秀吉は、6月5日、岡山城に立ち寄り、国富、藤井を経て沼へ着いた。ここで休息。 その間に蜂須賀正勝と相談し、三石の船坂が峻路であることや味方の軍勢が混乱している点などを考えて、海路で帰ることに決めた。正勝は急いで家来を伊部浦に派して、その準備にあたらせた。
秀吉は沼から吉井川を渡って、福岡・長船・伊部へと急いだ。そして予定通り片上から早船に乗ることになった。片上で一泊し、翌朝夜明け方に乗船した。その従者は、蜂須賀正勝、生駒親正のほか馬廻衆(旗本衆)16人という極めて小人数であった。
早朝、少数の乗船は人目に隠れての早立ちであった。6日午後4時ごろ、秀吉の船は赤穂岬(赤穂市)に着いた。秀吉はお茶を飲み、しばらく休息した。
そのとき、迎えに来ていた前野長康から、本能寺の変(主君織田信長が家臣明智光秀に殺された事件)とその後の諸将の動きについて、詳しく聞いた。そして、用意された馬に乗って姫路城に帰った。
中国大返し再考(黒田官兵衛 作られた軍師像 渡辺大門2013年 講談社)
秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月6日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。
ひとつの説としては、6日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約22キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌7日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約70キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。
実際の行程
ほかの一次史料と照らし合わせて検討すれば、秀吉の行軍日程は次のようになる。
①6月4日、備中高松城から野殿(岡山市北区)へ到着(「梅林寺文書」)。
②6月5日、沼城(岡山市東区)へ到着(「梅林寺文書」)。
③6月6日、姫路城へ到着(「松井家譜」所収文書)。
④6月9日、姫路城を出発。
この行軍でも厳しいのは事実であるが、一次史料で裏付けられるたしかな行程である。
『黒田家譜』は6月6日に備中高松城を発つたというが、もちろん誤りである。5日に沼城に到着して、翌6日に姫路城に到着するというスケジュールも厳しいが、決して無理ではない。5日の午後に沼城を発ち、6日に秀吉の軍勢の一部が馬などによって早く到着し、残りが同日の夜にかけて少しずつ着いたと考えられる。全体が一度に到着したと考える必要はない。
右の行程によると、姫路での滞在は4日間に及んでいる。この間は、畿内周辺における光秀の動静の確認と兵卒に休息を取らせることが優先的に行われた。秀吉が姫路に本拠を構える以前は、官兵衛の膝元であった。土地勘もある場所であり、毛利氏の脅威も遠のいたので、改めて状況分析するには最良の地といえる。
コメント
ここで、野殿に秀吉軍が泊まった可能性が高い。泊まらないでも忠家の屋敷で手紙を読み返事をしためたであろう。宇喜多直家が岡山(石山)城を築城したころ、弟の宇喜多(浮田)忠家は松田を滅ぼした後、矢坂山に富山城を毛利の備えとして築城した。この城は、直家の構想で平賀元義によると岡山城より大規模な計画だった云われている。
その麓に野殿城があったとされるが、富山城の根小屋で忠家・家臣が暮す御殿であった。忠家は岡山城より高松城攻めに参戦したとなっているが、野殿より行き、秀吉軍を帰りに招いたであろう。当時、直家は,天正9年(1581)に無くなり、9歳の秀家が家督を継ぎ、直家の養子の基家が名代を務めていたが八浜合戦で倒れた。
野殿には、城の内の字名が残り、田んぼ中の暗渠工事中に石垣が出て来て遺物も発掘されたと地元では云っている。
以上の資料よりも秀吉が浮田忠家屋敷に泊まり、黒田官兵衛・旗本重臣と毛利のその後の動き、明智討伐の軍議を開いた濃くなってきた。