5月 2015 のアーカイブ

西川 能登川錦町樋門

2015年5月28日

P1060335 P1060336JR岡山駅西能登川用水は水の流れない、砂が堆積

5月7日中学同窓生とBBCを楽しむため午前中の白髭宮の掃除には参加したが、農家組合の河掃除は息子に初めていってもらった。
自宅で鯉・金魚・メダカの水槽にも菱の水草の葉が大きくなり始めていた。
田植えシーズンを前にして水の流れを良くするため藻・水草・ゴミを掃除するのが定例となっている。このシーズンは昨年の取り残しの藻が大部分だ。
相変わらず北長瀬地区の水の流れが悪く、藻が発生し始めているため、気にかっていた。
5月11日の週に三野水源地辺りの西川用水取り入れ口当たりより、観音寺用水分岐点を過ぎ、能登川用水取り入れ口を探したが見つからなった。岡山駅北口より能登川用水をたどって行くとイオンの北の解放水路が少しあり、地下水路としてマンホール少しある程度で錦町に取り入れ口があり、ここにゴミが溜まって水が堰止められていることがっ分かった。
18日になって北区農林振興課にメールを入れた。さらに念のため18日に電話でお願いすると担当者が見に行くと心地よい返事であった。結果はメールで返事するとのこと。
土木史研究論文集Vol.28 2009年 水路都市岡山の近世一西川用水前史 小野 芳朗”・竹内 晋平に西川についての記述があらる。
近世の城下町都市は飲料水を含めた多日的の用水の確保が可能な場に成立したと考える。特に、近世城下町はただ武士や町人の住むいわゆる城下だけを都市とみるだけではなく、その生産地域である近郊農村とは食料の供給と都市からの肥料 (人肥)供出で共立の関係にあったと考えるべきではないか。その意味で、[用水]の存在は大きく農業生産に寄りしていたと考えられる。
岡山は宇喜多家、小早川家の統治ののち、池田家が幕末 まで藩主となる。鳥取池田藩とは親族であり、その鳥取藩主から移封された池田光政(1609~1682)は、正室が天寿 院千姫の娘、勝姫である。池田家は徳川家康の血脈を導入し、外様ながら親徳川的な大藩となる。岡山城下の設計は光政のときにその原型ができあがる。
ここでも登場する千姫を大阪城夏の陣の時救出し、翌年世界史に残る千姫事件を起こした坂崎出羽守(浮田詮家)について8月21日県立図書館岡山人物銘々伝を語る会で18時より講演する。
旭川には大潮時に塩水が遡上してくるため2)、城ド町の 西部域の農村地域に供給する麿漑用水として塩水の及ばない北方の地より旭川の水を導水したのが「西川用水」で ある。
西川用水の原型は早くも平安時代に遡るといわれているが、小早川秀秋時代(1600-1602)に開削され、池田忠雄時代(1615-1632)に都市・農業用水として近世城下町の水 インフラとして整備されたとされる。旭川右岸の三艇樋門から取水され、旭川西岸部の農業用水・防火用水として機 能してきた水源である。旭川の塩水遡上の影響を排除するため、三野という北部の取水地点が選ばれていると考える。
近世岡山の都市の完成を元禄頃とすると、その頃には細かな用水網がすでにできていたと推定する、 なお、西川の分流である各用水は現代では一部が暗渠化されつつも残っている。これらの分流については城下町絵図の範囲外であり、文献調査も行えていないため、いつ頃整備されたものなのか定かではない。能登川、大野川用水については、1701-1704(元禄十四一宝永元)年、1708(宝永五)年頃にこれらの用水へ繋がる西川からの分岐水路が出来ているため、この2つの分流については、江戸時代中期には元となる用水路はあったようだ。
ここで市久保が出来た平安時代に旭川からの用水が引かれ、塩害対策用の一久川、また市久保の南を潤す大野用水の名がいつ付いたか興味あるところだ。大野村の名前、大野平野との兼ね合い興味がある。
写真 西川用水
錦碑門ゴミ
イオン北水路能登川 流れが無い西川能登川

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市久の風 岡山市民病院オープン

2015年5月11日

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南に向けて6時より散歩に出かけた。
病院は開業前で駅よからの通路クローズであった。
鴨川街道を大野辻に向けて歩き、今の竹通辺りまで歩いて行った。
出る頃は雨が降っていたが止んでいた。
最近卸団地(問屋町)の界隈をうろつき店頭のレイアウトなどを楽しんでいる。
7時半ごろになると病院が開いていて、エスカレーターで上がると院長が陣頭指揮しているところを取材カメラが追っていた。
そこに、出食わしカメラを向けられ、散歩の途中で市の健歩ウオークで病気なならない気を付けているとコメント。
院長が健康な人は検診コーナーがあると紹介いただいた。
すでに10名弱が9時の開業を待っていた。

総社街角

2015年5月11日

総社国分寺はよく行く。
市街地は国体のとき福原愛ブームの卓球を誘致したためか、メインドーロが整備され、活気のある街並みとなている。
また、そうじゃ吉備路マラソンが開かれ毎年楽しみにして参加ている人が多い。
吉備線で東総社に着き、総社宮の南に用事があり歩いてみた。JR吉備線のLRT(次世代型路面電車)化を検討している。1時間当たり4~6本の運行頻度を目指し、車両購入や線路の整備などを進めた場合、開業までの初期投資として少なくとも160億円程度が必要とした。
ここもリャッター通で静かで歯の抜けた街並は、未だに頑張っている家、廃墟と化した家そっれぞれ趣がある。
麹屋さんがあり昔気がつかなっかた店が味噌屋として頑張っている。
総社宮の南門の前には、総社市まちかど郷土館があった。明治43年に建築された旧総社警察署の建物で、現存する市内唯一の明治洋風建築です。八角形の楼閣風の入口が明治の雰囲気を漂わせています。館内には、備中売薬や阿曽の鋳物、い草産業など、明治を中心とした伝統産業の資料を展示しています
とくに、鬼城に因み、阿曽の鋳物を展示してあるが時間がなく次回とする。
総社宮は子供の時神楽を見に行った思い出がある。今でも続いているが当時の熱気はない。
第2回総社芸術祭2015が4/19~5/7まで開かれいる。
帰りは西総社まで送ってもらい伯備線で北長瀬まで戻った。P1050898 P1050899 P1050907 P1050908 P1050915 P1050917

多賀城

2015年5月11日

多賀城(宮城県多賀城市中央2丁目7-)
津波と縁に無い瀬戸内の町さらに、市民病院に24時間対応の緊急対応施設など贅沢な病院誕生。
これも山田方谷・土光敏夫などのお蔭と感謝している。
方谷の現代版は、高谷岡山元市長だと思う。
如何に、この病院誕生するのに難産だったかは知る人は人は知る。
世界遺産の誕生であり、地元住民の支援がさらに岡山の福祉・医療の地方の苦難の歴史を物語る。
本題は、矢坂山を語る会で指導いただいていた岡本泰典先生が、東北に派遣され、しかも、吉備埋蔵文化センターの派遣記録を読み感激した。
氏は、矢坂山の植生を調べられ倉敷市自然博物館報文になっている。
また、玉島の羽黒神社は東北の羽黒山に由来すると聞く。
多賀城は、奈良盆地を本拠地とする大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置した。創建は724年(神亀元年)、按察使大野東人が築城したとされる。