5月 2013 のアーカイブ

襄と八重9 快風丸で函館へ

2013年5月30日

文久3(1864)年2月13日将軍家茂は、江戸城を発して上洛の途についた。老中水野史精・板倉勝静以下が従い、高田藩主榊原式部大輔政敬・小倉藩主小笠原大膳大夫忠幹・伊予松山藩主久松隠岐守勝茂がその前後を守り、総員約3、000人が3月4日に入京して二条城に入った。翌5日夜慶喜は将軍の名代として参内し、小御所において天皇より、  征夷大将軍の儀、すべてこれまで通り御委任遊ばされ侯べし。攘夷の 儀精々忠節を尽くすべき事。という勅書を受けたのである。将軍家茂は、21日京都を発して大阪に向かい、翌日慶喜も江戸に向かって出発した。このころ生麦事件の賠償問題はいよいよ紛糾し、日・英の国交は正に危機に直面していた。
元冶元年(1864)3月初旬、新島しめた七五三太(じょう襄)は江戸市中を歩いていると、偶然にも以前に快風丸に同乗した板倉勝静の家臣である加納・柏原らに出会った。そして彼はこの船は三日以内に函館に向けて抜錨する準備をしているということを聞いた。そこで彼は急に函館に遊学することを思いたち、その運動を始めたのである。まず藩の目付役の飯田逸之助にその斡旋盡力を乞い、快風丸の所有者である安中藩板倉家の本家である松山侯を通じて藩主に歎願した。その目的は、洋学者や洋式砲術家の旗本川勝広道に学んでいたが、函館の武田斐三郎方へ入塾し、かたわら洋人について英学を研究するということであった。武田斐三郎は、伊予国大洲藩士。武田は英学、仏学を修め、とくに航海、築城、造兵を学んだ。のちに五稜郭、弁天崎砲台の築造にも関わる。武田は、八重の兄山本覚馬ともいっしょに学んだ仲だから、奇遇といえば奇遇だ。松山侯(板倉勝静)の斡旋が効を奏し、藩主から許可が下り、一ヵ年間修業し、その費用は特別のはからいで、御勘定所より金15両を貸すから、帰国後に返還せよという条件がつけられた。祖父や父母の承諾も漸く得られた。祖父だけは、敬幹(襄)が日本を脱出して外国に行きたがっていると見抜いていた。
こうして彼は同年3月12日、塩田虎尾(亀太郎)の好意で快風丸にのり、品川を出帆したのである。塩田虎尾は備中松山城下石火矢町(現・高梁市)の田那村吉郎の四男。兄作人は大小姓格・70石取。 養祖父、仁兵衛は備中松山藩士、中小姓並・10石3人扶持。山田方谷は、嘉永2年(1849)藩の元締役(兼吟味役)になった時、藩財政の全権を握る会計長官であった為、金回りが良いように思われ、痛くも無い腹を探られるのが嫌で、自分の家計を仁兵衛に依頼し、万事を仕切らせ、自分は一切家計に手を出さなかった。  養父、秀司は、山田方谷が江戸で西洋流の砲術を学んで帰った後、幕臣・下曾根金三郎の門に入り砲術を学び、評判の高弟となる。後に虎尾も江戸に出て江川太郎左衛門の門に入り砲術を学んだ。新島は明治13(1880)年に高梁に布教に来た際、松山藩元藩士・原田亀太郎の実家を焼香のため訪ねた。原田亀太郎とは、新島が密航を企てた元治元年、藤本鉄石や吉村寅太郎らと大和で挙兵した「天誅組」のメンバーで、京都堀川の獄舎で斬に処せられた人物である。新島より6歳年上で江戸藩邸で共に川田から漢学を学んだ同門だった。
彼が出発当日に、安中藩江戸詰の上士で、彼の家と親交のあった菅沼錠次郎に宛てた書状には、大要次のような一節が認めてある。
今度私は箱楯(函館)に行くことについて、一切相談もせず、なおまた御暇ごいの挨拶にも参上できかねるかも知れないので、一筆申上げる。右の箱楯行の件は、三‐四日前から騒ぎたてて、日夜奔走し、眠ることさえ出来ない状態である。且つ今日の夕刻には、周        防守(勝静)様の御船へ乗り込むことに相なり、一寸拝顔いたし度く思うが右の様な次第であるから、若し参堂出来なかったら何卒御許しを願う。
「快風丸」で箱館に着いたのは、品川を出帆して1ヵ月半近くあとの元治元年(1864)4月21日のことだった。

矢坂山より見た児島湖

2013年5月22日

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「平成25年5月19日(日)に10周年『児島湖流域エコウェブ』が岡山大学 創立50周年記念館で行われた。そこで児島湖の思い出話として「矢坂山より見た児島湖」の5分間ビデオを発表した。昭和35年に世界最大の人造湖として誕生した児島湖は、その後市街地の汚染の問題を抱えて来た。近年浄化が進み新たな時代に入ろうとしている。
矢坂山の魚見山より見てきた岡山平野の変貌と遠くに見える児島湖、矢坂山の春の様子をまとめた。」
「矢坂山より見た児島湖」ビデオhttps://www.youtube.com/watch?v=xtDwpHSQzWM

そこでサンパチェンスの興味ある発表がありました。
「夏の暑さに耐え、きわめて生育旺盛で、初夏から秋遅くまで花を咲かせ続けます。花径約5~6cmの大輪で、草丈約60cm、株張りは、30cm鉢の場合で約50cm、庭植えでは60~80cmになります。
大気汚染物質の浄化能力に優れた「環境浄化植物」となっている。
緑のカーテン 従来の花き園芸植物より吸収能力が二酸化窒素は5~8倍、ホルムアルデヒトは3~4倍、二酸化炭素は4~6倍ある。
水質浄化能力 吸収速度は窒素0.42~0.53g/㎡/日 リン0.04~0.07g/㎡/日で水辺のヨシと同等となっている。」
苗を3株貰い1株500円とかで、早速裏の水路に浮舟にして見ました。

1 野崎のさん
 [削除] 2013年05月22日 14時30分
「サンバチェンス」、「環境浄化植物」という名前も初めて知りました。ホテイアオイが水の浄化作用能力を持っていることもしりませんでした。川の汚染の元凶と思っておりました。いい勉強をさせていただきました。
浮舟栽培よく考えられましたね。

2 マッチャンさん
 [削除] 2013年05月22日 15時35分
サンパチェンスはインパチェンスの仲間で生育旺盛なニューギニアインパチェンナス等とのハイブリッド育成された新品種で大変生育旺盛で大株になりますね。環境浄化能力については知りませんでしたが、そもそも花壇や鉢植え植物なので児島湖の浄化には向きませんし、プランターに植えて溝に置いても浄化効果は無理でしょう。大鉢を数個部屋内に置くと部屋の浄化対策にはなるかもしれませんね。そのような有用植物はたくさんありますね。私は冬の間部屋と直結したサンルームにたくさんの鉢植え植物を取り込みますが、朝になると部屋とサンルームの間のガラス戸を開放してやります。夜の間に部屋の中に貯まった石油温風機から出た二酸化炭素をサンルームの植物たちに与えて、昼の間植物たちの炭酸同化作用によってできた酸素を部屋に貰います。昼間サンルームの空気は酸素が多く気持ちがいいです。

3 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月22日 16時07分
野崎のさん
 サンバチェンスの 「環境浄化植物」として香港万博などで紹介されていたようですね。
児島湖の場合、ヨシを植えて浄化を図っているようですが、刈取りが大変なようです。
サカタの種で水路に浮かべる槽の紹介がありましたが、とりあえず挑戦してみます。

マッチャン
 サカタの種で開発された品種のようで種は売っていないのが難点です。刺し芽で増やそうとしている人もいるようです。
水路の浄化用に岡大環境学部が協力して開発したようです。
根腐れが心配なのですが、サンパチェンスが水耕栽培できるか今後の課題です。

4 マッチャンさん
 [削除] 2013年05月23日 09時08分
インパチェンスは挿し木で簡単に大量に増やせますし、プランターで咲かせると種がたくさんできてこぼれ種からたくさん苗が生えてきます、サンパチェンスも出来るかもしれませんね。

5 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月24日 06時28分
マッチャン
 会のブログを見ていただき岡大の環境学部からコメント頂いたところ、サンバチェンは水路で水位が高いと根腐れする恐れがあるそうです。入手は今のところ一株500円以下出来るよう交渉中とのことです。
水路に使えるような発表があったため問い合わせて見ます。

襄と八重8 密航の時代

2013年5月17日

新島襄が密航の準備をしているころ、元高梁藩の谷兄弟が新選組に入隊している。
小説山田方谷の夢 野島 透によると次のように書いている。
谷昌武は1848(嘉永元)年に生まれた。谷昌武の父は谷三治郎で備中松山藩主板倉勝職の家臣である。 旗奉行として元高120石、役料20石取りで藩では上士格に属する家柄である。代々、直心一派、俗に直心流と言われる剣客として知られていた。藩校「有終館」で剣術(直心流)の師範を務めていた。三治郎の息子は3人おり、長男が三十郎、次男が万太郎、三男が昌武である。すぐ上の次男万太郎とは13歳も離れており、長男の三十郎とは親子ほどの年の差があった。
 福西志計子は1847(弘化4)年に、備中松山藩士福西郡左衛門と飛天子の一人娘として生まれた。昌武より約6ヶ月ほど歳上だった。志計子の家は昌武の家の隣の隣で、反対側の隣は方谷の家であった。後に明治期のキリスト教教育者、高梁順正女学校創立者となる。
 熊田総師範代は1825(文政8)年に熊田武兵衛の3男に生まれた。父も新影流の師範であったため、幼少のころから武人としての心構えを教えられていた。若いころ、四国宇和島藩に武芸修行に行き、今治の道場で剣術の試合をした時に相手の竹刀の先皮が破れ彼の眼を突き刺した。熊田は隻眼となったが、日夜精励したので剣の腕前では随一となった。
 原田亀太郎は1838(天保9)年に新町の煙草商原田市十郎の長男として生まれた。昌武より十歳ほど年上である。同志社大学の創立者新島襄とも仲がよく、後に尊王攘夷を主張した天誄組の乱に参加したが、武運つたなく1864(元治元)年に処刑された。明治維新後は名誉が回復され靖国神社に合祀され従五位が追贈されている。新島の密航に協力する。
あるとき谷兄弟の長兄三十郎が藩主の姫君(家老の奥方とも)との密通したということで家名断絶となった。兄弟三人は大阪に向かった。方谷の知人の中山大納言家の侍医岩田文硯が親身になってくれ、岩田家で世話になることになった。 文硯は武道を好み、自分自身も鎌槍をやっていた。 直心流剣術と種田流槍術に優れていた万太郎は文硯に目をかけられ、文硯の次女スエを妻とした。 文硯の世話で大阪北新町に住んで、大阪南堀江の、岩田文硯宅にて剣術道場を開設した。
老中板倉勝静が「浪士掛」も兼ねていた。近藤ら京都残留組に対する差配の命令が1863年3月に老中板倉勝静、京都守護職松平容保に下された。3月12日には京都残留組は会津藩預かりとなり「壬生浪士組」となった。9月になると「壬生浪士組」に「新選組」の隊名が与えられた。
新選組が活躍している状況を見て、腕に自信のある三十郎、万太郎は昌武を連れて1863(文久3)年8月、新選組に入隊した。新選組で一旗挙げようと考えたのである。昌武もまた新選組で名をあげるという夢を持った。
入隊後の元治元年、長兄・三十郎は新撰組の主導権を握りたいと考え、人の良い近藤勇を取り込むため、末弟・昌武を松山藩主板倉周防守の御落胤と偽り、近藤勇と養子縁組させてしまう。近藤は武州多摩の農民の出であるがゆえに貴種に対する憧憬が強く大いに喜び、昌武を改名、近藤周平とした。
この時代、板倉勝静は老中として幕府を支える矢面に立たされる。方谷は政治顧問として意見を具申している。当時アメリカ、イギリス、フランスなどの列強は帝国主義を標傍し、日本にも進出しようとしていた。もし日本が内乱となれば列強はそれぞれの背後に付き代理戦争と発展、日本は植民地となっていた。方谷は政治顧問として意見を具申している。1867年には方谷が大政奉還の原文を書き上奉している。この年、パリ万国博に20数名が派遣されている。薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示している。

町内旅行2013

2013年5月15日

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P1070835町内で鳥取砂丘方面の旅行がありました。8時2分前に乗り込み間に合いました。28名と今回は少なく、昔の様にバス2台は無くなりました。
今回はバスガイドが丁寧に沿線の説明をしてくだしました。
山陽自動車道岡山ICより山陽IC美作道に入り赤坂の菊ケ峠で休憩、吉井川沿いに北へ、美作1300年祭にちなんで法然上人、湯郷では武蔵の話を聞き、黒尾峠で休みました。黒尾峠のたい焼き屋は無くなっていました。ここまでで2時間智頭を通り1時間で砂丘に着きました。
 天気は絶好調、砂丘の先には日本海、ハングフライダー、すべり降りる人、砂丘を上り並ぶ人も小粒に見えました。
 昼食は、鳥取牛のシャブシャブ、甘海老,イカの食べ放題でした。
 この後、砂の美術館で東南アジアの栄華を誇った文明を神秘的につつまれた王朝の姿を砂で19の作品で再現し見ごたえがありました。人の力で新たな造形美を創り出し、この地を訪れる人に今までにない感動と感激を与え、2006年に、「砂」を素材にした彫刻作品である「砂像」を展示する「砂の美術館」を開館しました。
砂像彫刻家兼プロデューサーとして国内外で活躍している茶圓勝彦氏が総合プロデュースを務め、毎年海外各国から砂像彫刻家を招き、世界最高レベルの砂像を展示しています。
3回の展示を仮設のテントでおこなっていました。 そして2012年4月、世界初となる砂像のための展示施設を整備し、新たな「砂の美術館」が誕生しました。会期が終われば、砂像はもとの砂にかえっていきます。限られた期間しか存在することができない砂像。その儚くも美しい造形を創り上げる為に、砂像彫刻家は情熱を注ぎ込んでいます。
永遠に残らないがゆえの美しさが、砂像のもつ大きな魅力の一つです。(パンフレットより)
 賀露漁港で干物などの土産を買いました。このまま居眠りしながら帰れると思っていましたら、湯郷温泉の郊外で「ケーキ食べ放題」、足湯を楽しみました。
満足、満足。

1 野崎のさん
 [削除] 2013年05月15日 12時02分
砂の芸術、お写真はアンコールワットでしょうか。すごいものですね。鹿児島の吹上浜では以前から芸術展をやっていました鳥取はなぜしないのだろう思っておりましたら開かれるようになりましたね。
運転なさることもな、くいろいろ見学でき、おいしいものもたらふく食べれて、親睦もはかれて良いご旅行でしたね。

2 マッチャンさん
 [削除] 2013年05月15日 12時41分
町内会の旅行、私が帰ってきてもうずっとありませんね、老人会はやっているようですが。一つの町内が1200戸にもなって収拾がつかないのでしょうね。砂の芸術、アメリカロサンゼルスのサンタモニカなど海外では大道のパフォーマノンスとして割とよく見かけますが日本ではあまり見かけないな、雨風がよくあるから難しいのかな?と思っておりましたが鳥取砂丘ではそのような美術館までありましたか、面白いですよね。

3 うるしのえんちゃんさん
 [削除] 2013年05月15日 14時38分
町内会の日帰り旅行も楽しそうですね、

最近は、旅行会社が企画に参加するので
企画内容が良いですね。

私は、町内会の旅行は子供の頃に行った覚えが
あるが、それ以後は無いです。
町内会のようなメンバーと
一度、行ってってみたいです (^0^)

4 木村のマーチャンさん
 [削除] 2013年05月15日 23時56分
昔行った町内会の旅行は楽しかったですね。まだ、町内会の旅行をしているのは素晴らしいですね。
アンコールワットは、実物よりきれいですね。2年ほど前に鳥取の砂丘に行ったときは、砂の芸術を期待していましたが、残念ながらありませんでした。

5 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月16日 06時52分

野崎のさん
 アンコールワットですね。東南アジアに行ったことがありませんので現地との差はわかりません。半年で崩されるとは砂上の楼閣ですね。大きな体育館の中で最大でした。鹿児島でもしていますか。
ガイドが付いたのは久しぶりでずっと案内してくれました。

 マッチャン
町内旅行今では珍しいようですね。
私を除いて役員ばかりでした。もちろん家族で参加している人もいましたが。
砂丘のみでなく楽しめる場所ができました。

うるしのえんちゃん
 農家組合が宿泊旅行をしていましたが、高齢となり中止となっています。
町内を含め全額負担ということもあるでしょう。

木村のマーチャン
 子供会の旅行など思い出が多いですね。
今年も6月中旬より大山に避暑を検討しています。今年は近所の秘湯を探していますが、中々無いものですね。

6 ガボチャンさん
 [削除] 2013年05月16日 19時28分
町内旅行は親睦と娯楽を兼ねて素晴らしいイベントですね。 アメリカ人達にはこう言う団体旅行は無いので、残念です。 ランチのシャブシャブ、甘エビ、イカ等のご馳走が抜群良いですね。
此方の砂像彫刻展は屋外で在るので、雑荒い彫刻ですが鳥取のは屋内にあるので、とても明細に綺麗です。

7 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月17日 07時15分

カボチャン
 社員旅行始め団体旅行は珍しくなりました。個人が裕福となったあかしでしょうか。
東京一極集中になる中で地方では必死です。
砂丘の砂遊びに近かかったのですが、雨で流れるため、国際的芸術となり年2回更新しています。札幌雪まつりでは無理でしょう。サンタモニカのような賑わいはありません。

襄と八重7 旅立ち前

2013年5月10日

安中藩の敬愛する添川廉斎が1858年に死去、悲嘆に暮れていた新島の新しい漢学の先生となったのが親戚藩・備中松山藩の藩儒「川田甕江」だった。
山田方谷は、希望して西方村長瀬の一軒家に移住し土着政策を自ら実践する。長岡藩士河合継之助来遊してる。1860年には、再び元締役をかねる。 桜田門外の変が起きる。
1861年2月、江戸で勝静の政治顧問となる。勝静、井伊直弼に意見したことが認められ再び奏番者兼寺社奉行に返り咲く。4月、病気のため帰国。5月、元締役をやめる。
この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていたのではないだろうか。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入した。この年は 板倉勝静、江戸幕府 老中に任命される。方谷、再び江戸にて勝静の顧問となる。11月、将軍家茂にあい勝静を通して攘夷を進言する。顧問の辞職を許され、準年寄役となる。
同時期、新島は1860年に江戸湾でオランダ軍艦を見て、その偉容に驚愕し、幕府の軍艦教授所(軍艦操練所)に通い、数学、航海術を学ぶなど、大型船への興味を増していた、川田は快風丸の処女航海にあたり、教え子であり、軍艦教授所へ通っている新島に初航海の協力を求めた。
快風丸の初航海(1867年)、江戸から松山藩の飛び地玉島までの長旅の中で、新島は広い世界を知った、のちにこのたびの記憶を綴った「玉島紀行」の中で新島は「この航海は私にとって非常な喜びだった。私の青春のすべてを過ごした江戸藩邸、天は4角である、と思うようになっていたあの場所から遠く離れて生活したことは、とても為になった。いろいろな人と会い、様々な場所を見るという初めての体験をした。この航海によって私の精神的な視野がうんと広がったことは明らかである。」と追懐している。
当時は志士が四方に起り、勤王派と佐幕派との対立はいよいよ激しくなっていた。新島は勤皇を欲していたが、安中藩は佐幕派と結んでいたため、彼は非常心苦境に立っていた。
快風丸での初航海の翌年、一日友人杉田廉卿(杉田玄白の家系)の宅を訪ねた時、書斎に一小聖書抜萃の在るを発見し、借受その夜、初めて天地の神に就て知ることとなった。廉卿が襄にキリスト教を教えたとされる(太田雄三『新島襄』)。
中国における耶蘇教史(プロテスラント)は1807年(文化4年)R=モリソン (Robert Morison(1782~1834)馬礼孫)の渡来から始まるが、その後慶応3年(1867)までに漢訳キリスト教書が出版されている。
「予を造りし者は誰ぞや、父母なるか、否父母にあらずして神なり、予の机を造りし者は誰ぞや、匠人なるか、否匠人にあらずして神なり、神地上に樹木を生ぜしめ匠人をして其樹木を用ひて予の机を造らしめ玉へるものなり、かく考ふるとき予は神に感謝し、神に信頼し又神に対して正意誠心を尽くさゞるべからずと、此時よりして予は切に英訳の聖書を研究せんと欲し英米の教師に就て教を請はんがため(略)」
 聖書そのものを本格的に研究したいと考えるようになったというのだ。むろん思いつきで日本脱出に踏みきっだのではなく、まずは日本人の英語教師に習って英語を理解することに努めた。英書の辞書や文法書も手に入れて自らも終日英語の学習に費やしたというのである。
 この期、襄が国禁を犯して外国に赴くとすれば、一族郎党になんらかの危害が及ぶかもしれない。
 しかし襄がそのことに悩みをもちつつも最終的にその感情を放棄することができたのも、「予を造りし者は誰ぞや」との問いに、それは父母ではなく、「神なり」との考えで自らを納得させようとしたからであろう。(八重と新島襄 保坂正康)
方谷は1863年 2月、江戸より帰国する。4月、京都にて勝静の顧問となる。(このころ強く勝静に老中辞職を進言するが実現せず。)6月、京都より帰国する。意見の異なる勝静に抗議して登城を拒み、長瀬の自宅にこもる。
そして転機、新島襄が1864年3月藩船快風丸で横浜から乗って函館に向かう日が近なってきた。

1 木村のマーチャンさん
 [削除] 2013年05月10日 23時24分
新島襄が快風丸で初航海したのは、前回の日記で1862年になっていましたので、単に2を7に見間違えたものと思います。キリスト教を知ったのが、密航前年の1863年ですか。当時はまだ禁教令が生きているはずなので、その取扱い、教義の授受はかなり気を遣ったのでしょうね。杉田玄白も密かにキリスト教の研究をしていたということになるのでしょうか?密航を覚悟するほど、襄にインパクトを与えたのは誰か、どのようにしては、とても興味があります。

2 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月11日 06時53分
ありがとう。年号の変換に苦労します。
杉田廉卿は玄白の曾孫(養子)で《蘭学事始》の写本を出しています。津山藩の宇田川の家系もこの当時活躍しています。岡山県立美術館で5/31~6/30http://b.okareki.net/で美作の洋学について展示・講演があります。方谷も砲術など学びに行っています。
当時の知識人は密かにキリスト教の研究していたでしょうね。
世情が不安定となり、皆模索したでしょう。
新島が高梁藩、勝静、方谷に信任を得ていたことが良くわかります。密航に高梁藩の人物が深くかかわっていたことより藩として送り出した可能性があります。

3 野崎のさん
 [削除] 2013年05月11日 14時24分
船を知って、キリスト教を知って、英語を知っての密航だったのですね。これで安心しました。やみくもに密航したのかと思っておりました。
年号交換、以前エクセルで一覧表にしました。会社の昼休みを利用して作りました、「お墓の年号を読むのによい、一部ほしい」と言った同僚がおりました。

4 あきちゃんさん
 [削除] 2013年05月12日 06時51分
野崎のさん
 大志をいだき脱藩した人、脱国に中で名をの残した一人ですね。多くの人の影響と協力があったことがよくわかります。時代が育てた人物でしょう。
 年号は変換ソフトを使っています、1~3年ごとに変わった時代です。寛 政、文化などの墓碑がありますが古くなると拓殖をとってもよく読めません。ある日、雨のあと西陽が当ったとき読めたことがありました。その墓も風化して今では読めません。

早やセミの鳴き声

2013年5月7日

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P1070802魚見山に植樹したモミジが気になり上がってきました。
岩の上に植え、その後水もやっていなかったが、健在にだたので安心しました。毛虫も着いてませんでした。市街地から見えるまで成長するのが楽しみです。
大野コミュニティーに車を置いて、魚見山、すべり山、法事古墳、大安寺駅方向に回って帰ってきました。
早や、セミが鳴き始め、1羽が鳴くと一斉に山にコダマします。なんと云うセミか分かりません。赤松に初夏に見られるセミが居るそうです。
昨年収穫したコバノミツバツツジの種を水苔に蒔きました。残ったのを法事古墳などに蒔いてきました。一部でも発芽するのが楽しみです。

岡山歴史研究会総会・講演会ビデオ公開

2013年5月4日


平成25年4月24日(水)山陽新聞本社さん太ホールで岡山歴史研究会総会・講演会が開かれました。会長・来賓挨拶及び佐藤光範氏の「犬も歩けば棒にあたる~吉備国の話題」と下山純正氏の「こうして津山に洋学が栄えた」の2題の講演の部分的映像、さらに懇親会の1スッポトを公開します。
また、佐藤光範氏の「犬も歩けば棒にあたる~吉備国の話題」はhttps://www.youtube.com/watch?v=9T8ZjzHqeN4より6シリーズで公開していますが、未完です。非常にユニークな論説ですので是非ご覧下さい。