2月 2014 のアーカイブ

備前軍記10

2014年2月27日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第8回「秀吉という男」は、岐阜城で信長と謁見がかなった。重臣たちが居並ぶ主殿で平伏する官兵衛の前に信長が入ってきた。小寺政職は織田に付くので織田の軍勢を播磨に向けることを願う。柴田勝家は、越前の一向一揆や上杉謙信への備えるべきと主張する。官兵衛は、中国毛利から一向一揆の大本、石山本願寺の道筋の播磨制することの重要性を説く。明智光秀が支持した。

地図を広げ播磨が毛利なびいているが、播磨一国を必ずや説き伏せ織田に付かせると力説する。気に入った信長は、立ち上がり、「圧刀長谷部」を突き付け官兵衛に与えた。

遅れて入って来た秀吉に播磨行を命ずる。光秀をはじめ、ほかの家臣は挫けた。

秀吉は官兵衛を岐阜城下、さらに長浜城に招待する。城下は1年もたっていないのに新しい町の工事が進んでいた。

「役人が取らえた盗人は年も若く、体も頑健そうだ。罰として昼間は働かせ、夜は牢に入れればよい。人間、生きていれば使い道もある。」と官兵衛は、命の使い道を説く。

秀吉の館の酒宴で母里太兵衛の振る舞い飲ぷりに秀吉が気に入り家来にと嘆願するが太兵衛・善助は黒田家から離れることを断る。

家臣の団結を羨み、官兵衛と秀吉は意気投合した

播磨には毛利の調略が伸びて来ていた。

       ☆         ☆        ☆

そのころ備前では、三村修理亮元親が自害し、備中の諸城主はみな小早川に降参したが、備前児島の常山城(現玉野市宇藤木・灘崎町迫川)の城主上月肥前守隆徳は、三村修理亮の妹聳で無二の三村方であったため降参せず、みな討ち死にを覚悟し籠城の手配りにあたった。

天正3年(1575年)6月4日、小早川隆景は備中より兵千余騎を率いて山村(現倉敷市児島由加)に布陣した。その先手の浦兵部は宇藤木(現玉野市宇藤木)に陣を取り、常山城の大手の木戸近くまで押し寄せた。城側は、敵を城近くに引きつけておいて一挙に討とうと待ち構えていた。肥前守は、彼自ら鉄砲を手にして間断なく撃ちまくった。そのほか城兵すべて、ここを先途と防戦した。

すっかり手こずって引き取り、6日の日も暮れてしまい、明けて七日、その払暁、城内で最後の別れの宴であろうか、女性の声もまじる酒宴の賑いが続いた。

 やがて夜も明け、小早川方は再び城攻めにかかった。城方も前日同様弓・鉄砲を放ったが、この日は城の木戸を開き、小七郎高重分重槍を手にして真先に進み出、肥前守・源五郎高秀父子も、その他の城兵と一緒になって突撃し、寄せ手の浦兵部の陣を突き崩し、兵卒15、6人を突き斃して引き揚げた。

肥前守の妻鶴姫は三村家親の娘で、元親の妹にあたり、当時33歳であった。寄せ手は彼女の兄元親の敵である。これを討たずにおめおめと自害するのは残念であるとて、身に甲冑をまとい、太刀は国平の鍛えた三村家相伝の2尺9寸の名刀を帯び、長刀を携えて討って出ようとした。召し使いの侍女たちは、これを引き止めたが聞き入れず、振り切って討って出たので、侍女たちもこれに続いた。

83人の城兵も次第に少なくなっていった。鶴姫は太刀をその場に投げて城中へ引き返し城門を閉ざせ、城内に入り、刀を口にくわえ、打ち臥して自害した。

幼い子供たちまで肥前守が刺し殺し、一家眷属の死を見届けた肥前守は、本城に据えられた大石に登って腹を切った。城主の一族がこのように最期をとげた。

小早川隆景は、この城を修覆し、城番を置き引き揚げた。この合戦に加勢に加わった宇喜多直家も、兵をまとめて岡山に戻った。その後、この常山城は、毛利家より直家へ渡された。因に、常山の城跡には「隆徳が腹切り石」という大石が今も残っている。

☆   天正の初(1573)年、天神山城(現佐伯町田上)の浦上宗景と宇喜多直家の間は、形のうえでは講和が成立し、表面は和平を繕いながら、心のうちでは、宗景は織田家と結んで直家を討とうと思っていた。しかし直家は、己の主君を弑逆したとあっては外聞も悪く、家来たちが自分に叛くことを恐れて年月を送っていた。

 その頃、播磨の小塩に、浦上清宗の子で当時9歳になる松久に目を付け、小寺政職・官兵衛を通じ、主従に宗景誅伐を思い立たせ、直家はその先手となると約し、岡山へ移らせた。天神山城の最期については諸説がある。宗景は播磨に逃れる。

天神山城を焼き払った直家は、宗景の行方を探索したが、戸田松城に隠れたと聞き、城を攻め落した。景行は播磨の江島へ落ちのびた。直家はこの戸田松城も焼き捨てて岡山の城へ帰陣した。

1571(元亀2年)織田信長より播州・備前・作州三国の所領朱印を受く。

1574(天正2年)宇喜多直家離反し、毛利と和す。宗景、信長の授により毛利と戦う。

1575(天正3年)信長天神山へ兵糧を送る。

1577(天正8年)4月12日、日笠青山城落城。5月浦上与次郎、直家により毒殺される。8月10日 浦上宗景一代の天神山落城。

備前軍記9

2014年2月21日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第7回「決断のとき」は、毛利元就の亡き後、吉川元春、小早川隆景の補佐により輝元が天下の動きに関心を深めていた。

官兵衛が御着から松寿丸と同年齢の後藤又兵衛を連れて帰りお光は次第にその思いが分ってくる。

毛利を陰で操やつていると云われる安国寺恵瓊が官兵衛に会いに来た。

天正3(1575)年に宇喜多直家は毛利に付き、播磨の地侍も次々毛利の配下に入っていた。織田についているのは、姫路の東にある三木城ぐらいになり、光の姉・力が嫁いだ上月城の景貞も毛利につき官兵衛にも強引に勧めていた。

 信長は浅井・浅倉を滅ぼし、武田も長篠の戦いで3千丁の鉄砲で使い壊滅する。

決断を悩む中で「……すべては生き残るため」の祖父の言葉思い出す。

其の中で、小寺家の行く末を決める大評定が開かれた。小寺家は、義に厚い毛利につけば安泰とるとする大勢の意見の中で、官兵衛は『信長の大義をもって兵を進め、天下取りの勢い、楽市楽座などで繁栄を極め、家中は才覚ある者がそろっている。』と説得する。

荒木村重の紹介で岐阜城に信長に会い、歴史の表舞台に登場することとなる。

 

☆       ☆     ☆      ☆       ☆

宇喜多直家は毛利に付く前年天正2年(1574)の春の末に津高郡虎倉城合戦が起こる。

毛利輝元・小早川隆景は、備中に兵を進めて直家の所領を侵し、さらに直家の本拠である備前に攻め入ろうと、備中の竹庄(現賀陽町竹荘)に陣を取った。

虎倉の城主伊賀左衛門尉久隆は、兼ねて毛利勢が攻め来った時は、一戦してこれを討ち果たそうと待ち構えていた。

粟屋与十郎・大田垣某らが攻め寄せてきたから、伏兵達は存分に引きつけておいて、山上より弓、鉄砲を撃ちまくったから、寄せ手はひと攻めも出来ず浮き足立ってしまった。そこへ伊賀の軍勢が城中から繰り出し、槍をふるい突いて掛かったから、毛利勢は総崩れとなって逃げ始めた。

伊賀の軍勢は厳しくこれを追撃した。毛利勢は敗残の兵百騎ほどになって備中に引き揚げた。

伊賀左衛門尉は大いに喜んで、その戦勝の由を岡山の宇喜多直家に注進した。直家もこれを大層賞し、毛利勢が再度侵入したときは加勢を出すことまで約束した。しかし、輝元は軍議を開き、この虎倉城は敵方に突出した山で、毛利方から攻めるには渡河がむずかしく、川に阻まれ不利であるとして兵を引き揚げ、新規に川の向かいの勝山という山に城を築き、輝元・隆景は同月5日主力を率いて松山城に攻め入った。

 天正2年(1574)将軍足利義昭は、織田信長に敗れて西国に逃れ、備後の鞆津に着岸し、毛利輝元を頻って再度帰洛のことを相談したが、宇喜多直家にも味方になるよう頼み、毛利と宇喜多は再び和睦した。

毛利輝元と吉川元春は同意しなかったが、小早川隆景は直家と連絡を取りあって出陣を急ぎ、同年12月隆景が出陣し、直家もこれに呼応して、同月23日岡山を出陣し、三村元親の持ち城をつぎつぎに陥落させた。

成羽の鶴首城も、両軍の威勢に呑まれて開城したので、隆景と直家はこの鶴首城で年を越した。明けて哲多郡新見の城に楯て籠る元親の弟の三村宮内元範を討ち滅ぼし、美袋城主結城民部忠秀も降参した。幸山城(現山手村西郡)の石川源左衛門久式は、城を捨てて松山城に入った。正月23日には鬼身城(現総社市山田)を攻めたが、城主上田入道は、養子の孫次郎実親を切腹させて降参した。

やがて初夏を迎えた4月7日、三村勢の大将修理亮元親の拠る松山城を包囲し、昼夜を分かたず攻め立てた。しかし元親も手配りよく堅固に防戦したから、落城の気配はみえなかった。

隆景の陣中に河原六郎左衛門という者の間者が手引きして、忽ち天神の丸を乗取ったから、隆景・直家の軍は一挙に城内へ雪崩れ込み、城を攻め落とした。

元親はもはやこれまでと諦め、頼久寺の近くの松連寺(現高梁市上谷町)に入って切腹した。

元親の辞世の句は、

「思しれ行帰るべき道もなし本のまことを其侭にして人といふ名を仮るなとや末の露」

捕われの身となったわずか八歳勝法師は、生まれつき大層聡明であった。

「自分は城内で自害して果てるべき身でありながら、ここまで生きながらえ、かえってこの憂目をみることよ」

と悔み、その態度たるや大の大人にもまさる堂々たるものであると、見張りの者は顔を見合わせて驚き入った。

 「僅か8歳にしてこの態度、とても尋常な児とは思えませぬ」

と隆景のもとへ告げたから、やがて井出(現総社市井出)の宝福寺で首を刎られた。しかしそのとき勝法師は少しも騒がず見事な最期であったという。

備前軍記8

2014年2月14日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第6回「信長の賭け」は、比叡山焼き討ちで延暦寺が炎に包まれたとこより始まった。

時は元亀3(1572)年で松寿丸が5歳となっていた。家中は、母里太兵衛が他の家来となじめず騒動を起し善助が諌めるのに苦労していた。官兵衛は太兵衛の思いを知り、栗山善助と義兄弟の契りを結ばせ、結束を図る。

将軍足利義昭は信長と合わず、武田信玄に上洛を勧めた。信長は浅井・朝倉に囲まれ、摂津の石山本願寺に悩まされ四面楚歌の状態だった。賭けに出、信玄上洛に家康に浜松城で粘らせ、京で義昭で兵を上げるのを待つ。

元亀4年(1573年)信長が足利義昭を攻めた時、逢坂山の所で茨木城主荒木村重が信長に組みする約束し、摂津の国司となる。後に村重は官兵衛を拘束し土牢に監禁した。

官兵衛は遠く姫路で時代に取り残された思いであった。有岡城で村重に会い、信長が魔王と呼ばれるが、天下人であると聞く。信長の軍勢に善助・太兵衛は驚嘆するが、官兵衛は、お光の父が2人目の孫の顔見ずなくなった。200年以上続いた足利幕府は終わり、「天正」となり、毛利との戦いに播磨が巻き込まれてゆく。

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 備前では、宇喜多直家の母親は天神山城の浦上宗景の奥方に仕えていたから、八郎仕官のことを宗景に願った。そして天文12年(1543)8月、八郎直家は宗景に召し出され、その側近に仕えることになった。その年赤松晴政は、播磨におった宗景の諸城二、三ヶ所を攻め落とした。この報を受けた宗景は天神山城を発し、百々田豊前・日笠源太らを先手として播磨に攻め入り、到るところに放火し、赤松方の城塞二ヶ所を落として帰陣した。この時八郎直家は15歳で初陣したが、兜首一つを討ち取って宗景の実検に備え、宗景からその武功を賞せられた。その後もたびたび軍功があったので、翌天文13年、八郎は元服して宇喜多三郎左衛門直家と名乗り、邑久郡乙子村(現岡山市乙子)の辺りで知行三百貫の地を賜った。これはかれ自身の武勇と祖父能家の旧功に宗景が酬いたものであった。直家の乙子時代について、領地が少ないために戸川平介・長船又三郎・岡平内のような重臣であっても自ら耕作し、ときどきは夜盗なども働いていた。

直家は、永禄2(1559)年に、まず舅であった上道郡沼城主中山備前守信正と砥石城主で祖父能家の敵、島村豊後守の謀叛の証拠を浦上宗景に提出し、これを謀をもって殺害した。直家は、この功により沼城(現岡山市)を手に入れ、その第一歩を踏み出した。

直家は永禄9(一1566)年に美作興禅寺で狙撃させ暗殺した。これに対し、父の敵を討つベく三村元親は、翌年直家の第一線の出城であった明禅寺城(現岡山市沢田)に夜討ちをかけ奪取した。しかし、直家もすぐさま反撃を開始しいわゆる「明禅寺合戦」が勃発した。直家は信長より早く鉄砲を合戦に使い大勝に終わった。

直家の眼前に具体的に備前統一が見えてきて、邪魔になるのが、主君浦上氏の存在であった。直家は、元亀四(一五七三)年に主君浦上宗景と縁を切り、毛利氏の配下に入った。

天正元年(1572)の春から、岡平内が岡山城普請総奉行となり、門、櫓、塀、堀などを堅固に造営し、大体出来上がったところで、同年秋直家は沼の城から岡山の城へ移った。家臣達も家屋敷をつくってここに移り、また富裕な商人達も児島・西大寺、そのほか国中は勿論近国からも移り住み、城も城下も賑わった。

山陽道の駅路は、それまで上道郡・御野郡の北部の山麓を通っていたが、この岡山城下の町づくりを機に、上道郡宍甘村(現岡山市宍甘)の出端から平野の中を岡山城下に通し、城下から万成村の小山を越え、辛川(現同市辛川)へ出る道をつくった。

今村宮が現在の社地に鎮座し、蓮昌寺が上道郡森下村の御堂屋敷へ移り、岡山寺が山科町へ移された。

この頃忠家もこの頃、富山城に入った。富山城は、松田氏の枝城で横井土佐の預かりであったが、永禄十一年(1568)七月、直家が伊賀久隆と共謀して金川城の松田元輝・元賢父子を滅ぼしたのに際して宇喜多方に落ち、忠家の富山入城はそれ以降、さして年月を経ない時期のことと考えられている。

 ただ、平賀元義(1800~65)によれば、富山城は、直家が本城とする計画があったと云う。備前・備中境を守る要衝である。『岡山城詰』は「平賀元義筆記ニ曰」として、富山城の水利を調整すれば、「タトヒ一二年籠城スルトモ薪炭ノ憂ナク水懸リモ能ク究竟ノ城地ナルベシ」と書いている。

 しかもこの富山城は、岡山城の西方の備えであるとともに、対毛利の最前線というべき位置にある。忠家に課せられた役割は想像を絶するものがあった。

 折しも直家は腫物を患って岡山城にほとんど寝たきりで、忠家は直家の代理として、まさに毛利方の東進を食い止め宇喜多家を守る重責を担っていた。(宇喜多忠家 若松武彦)

美作国歴史探訪You Tube

2014年2月10日

http://www.youtube.com/watch?v=ogWjGB2RtRc

平成25年6月1日に岡山歴史研究会主催で建国1300年の美作国を64名が歴史探訪した。
津山市城東地区、津山洋学資料館、津山弥生の里及び文化財センター、中山神社、国分寺跡、土居宿西惣門、八咫(やた)の鏡の発掘地、流王の碑について撮影し18分のビデオに編集した。

備前軍記7

2014年2月7日

P1020520 P1020539 P1020552 P1020561 P1020562 P1020565 P1020577NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第5回「死闘の果て」は、永禄11年(1568年)9月に信長が足利義昭と共に上洛し、天下布武を発し狼藉を働く族を成敗し都の治安が回復した。

黒田家では備前福岡からの家風で質実剛健、倹約をむねとし備蓄を増やしていた。

信長は官位を断り、堺、大津、近江に代官を置いた。

近江では竹中半兵衛に乱世を終わらせる天下布武を説得し半兵衛は秀吉の家臣となった。

松寿丸(後の長政)が生まれる。

龍野城の宿敵赤松政秀が兵を上げた。官兵衛は数百の手勢で奇襲をかけ数千の敵を破った。家来に貯めていた金を配り士気を盛り上げた。

今度は赤松が奇襲をかけてきて姫路城を攻めた。小寺は逃げ、官兵衛の軍のみで応戦した。家来の負傷は甚大で夜も迎え、籠城することなく疲れ切った物を引き連れ赤松に夜討をかけ、赤松を撃退した。多くの重臣を失い、この時期召し抱えた若者が黒田二十四騎と呼ばれる一騎当千の精鋭となった。

 黒田 高政は、永正8年(1511年)の船岡山合戦に六角方として参戦したが、六角高頼の命に背いて抜け駆けしたことから将軍足利義稙の怒りを買って追放され、親族を頼って備前福岡に流れてきたとされる。その子黒田重隆は、山陽地方随一の商業都市として繁栄していた備前の福岡に在住していたと伝わる。官兵衛の祖父である。

最初の福岡攻防で赤松氏は、嘉吉元(1441)年の嘉吉の乱で大きな打撃を受け、備前は山名氏が治めた。その後長禄二(1458)年になって赤松家は政則によって再興され、播磨や備前は、元来赤松氏にとって「本国」であったため、すぐに手中にしたとある。

福岡合戦はもちろん備前も例外ではなく、「守護代以下在国の者が従わない国」であり、事態は決して安定的には推移しなかった。赤松政則は、備前奪回後三石城を築き浦上則宗を守護代として配置し、主として東備前を固めさせ、西備前は、伊福郷に居を構えた松田氏が守護代的な役割を果たしていた。応仁の乱後西備前を中心に治国していた松田元隆が、御野郡・津高郡・赤坂郡・上道郡を自分の所領のように扱いはじめ、次いでその子元成の時には、それまでの居城富山が西国往還に近く要害によくないとの理由により、津高郡金川城に移してしまった。このような情勢のなか、文明15(1483)年に至り、ついに松田元成は赤松政則に対し反旗をひるがえした。この動きに対して、赤松政則は浦上則国に松川追討を命じた。浦上系図には、浦上則国は、この動きをとらえ福岡城に陣を構え、かつ「大軍の籠城なれば近辺の民屋を構の中に取入れ、その外に堀を二重三重にはり、川水をせき入れたれば究竟の要害たり」と表現されるほどに防備を固めた。そして、城内には播磨・備前の国人たちを中心に立てこもった。

一方松田方は、まず福岡の川上で陣をはっていた長船右京亮の館の跡の古城を奪って山陽道を押さえてしまう。

赤松方の内部分裂で、残った浦上則宗・小寺則職ら宿老は、赤松一族の有馬澄則の千慶寿丸を政則の猶子とし「福岡奥城」にて年を越し、その機会に兼光を召し出して太刀を打たせた。

浦上・松田の勢力を考えるうえで、重要な点が引き出せる。まず、松田方と浦上方はだいたい砂川を堺に勢力が分かれているが、おおむねそのあたりに両勢力の境界があった。

「福岡合戦」を前にして、「今迄の居城富山は、西国往還の所に近き地にて要害よろしからずとて、津高郡金川の城にうつる」とあり、「福岡合戦」前に「要害」の地金川へ移っているが、先の記述から、それ以前にはすでに「富山」と「金川」を拠点にしていた。富山は、「西国往還」沿いの地であり、金川は旭川沿いの地であるので、松田氏は陸上交通と河川交通の両面の視野から拠点を押さえていた。

浦上氏は政宗と宗景の兄弟が対立するようになり、兄の政宗は本拠を三石城から播磨の室津に移したのに対し、兄からの自立をはかる宗景は享禄4年(1531)天神山城(現和気町)を築いて本拠とした。しかし、政宗は赤松政秀によって滅ばされ、宗景が備前を手中にしたのである。これが一六世紀前半の浦上氏をめぐる状況であるが、この宗景の天神山城も古井川を見下ろすところに位置しており、宗景が河川交通を意識していた。

明応6(1493)年3月に浦上宗助が三石城を発し、上道郡に乱入し、大安寺村の富山城を攻めたものの敗北し、龍口山に陣を構えた。宇喜多能家がその救援に赴き奇襲をかけたため、松田勢は旭川を越え西を指して遁走し、浦上勢は能家がしんがりを勤め、無事吉井川を越え帰陣した。

「浦上則宗が病死し子村宗が赤松家に叛く事」に永正9年(1512)の春、浦上美作守則宗は三石城で病死した。嫡子の近江守宗助はこれより先に若死にしていたので、二男の掃部肋村宗が本家を相続して三石城を守り、また小塩城下の館にあって父則宗と同様赤松家の政治を掌っていた。

備後路歴史探訪2

2014年2月3日

備後路歴史探訪

備後国は、文武天皇の大宝津令(701年)により吉備から備前国、備中国とともに分国された。平成25年10月27日(日曜日)に備後国分寺跡、小山池廃寺、最明寺跡、二子塚古墳、しんいち歴史民俗博物館、備後吉備津神社、広島県立歴史博物館、明王院 の歴史探訪をした。二子塚古墳を福山市教育委員会文化課、備後吉備津神社権禰宜、明王院住職の案内があった。備後路、福山市の歴史的資産の一端を紹介する。(訂正 平山悦夫→平井悦夫)