NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第8回「秀吉という男」は、岐阜城で信長と謁見がかなった。重臣たちが居並ぶ主殿で平伏する官兵衛の前に信長が入ってきた。小寺政職は織田に付くので織田の軍勢を播磨に向けることを願う。柴田勝家は、越前の一向一揆や上杉謙信への備えるべきと主張する。官兵衛は、中国毛利から一向一揆の大本、石山本願寺の道筋の播磨制することの重要性を説く。明智光秀が支持した。
地図を広げ播磨が毛利なびいているが、播磨一国を必ずや説き伏せ織田に付かせると力説する。気に入った信長は、立ち上がり、「圧刀長谷部」を突き付け官兵衛に与えた。
遅れて入って来た秀吉に播磨行を命ずる。光秀をはじめ、ほかの家臣は挫けた。
秀吉は官兵衛を岐阜城下、さらに長浜城に招待する。城下は1年もたっていないのに新しい町の工事が進んでいた。
「役人が取らえた盗人は年も若く、体も頑健そうだ。罰として昼間は働かせ、夜は牢に入れればよい。人間、生きていれば使い道もある。」と官兵衛は、命の使い道を説く。
秀吉の館の酒宴で母里太兵衛の振る舞い飲ぷりに秀吉が気に入り家来にと嘆願するが太兵衛・善助は黒田家から離れることを断る。
家臣の団結を羨み、官兵衛と秀吉は意気投合した
播磨には毛利の調略が伸びて来ていた。
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そのころ備前では、三村修理亮元親が自害し、備中の諸城主はみな小早川に降参したが、備前児島の常山城(現玉野市宇藤木・灘崎町迫川)の城主上月肥前守隆徳は、三村修理亮の妹聳で無二の三村方であったため降参せず、みな討ち死にを覚悟し籠城の手配りにあたった。
天正3年(1575年)6月4日、小早川隆景は備中より兵千余騎を率いて山村(現倉敷市児島由加)に布陣した。その先手の浦兵部は宇藤木(現玉野市宇藤木)に陣を取り、常山城の大手の木戸近くまで押し寄せた。城側は、敵を城近くに引きつけておいて一挙に討とうと待ち構えていた。肥前守は、彼自ら鉄砲を手にして間断なく撃ちまくった。そのほか城兵すべて、ここを先途と防戦した。
すっかり手こずって引き取り、6日の日も暮れてしまい、明けて七日、その払暁、城内で最後の別れの宴であろうか、女性の声もまじる酒宴の賑いが続いた。
やがて夜も明け、小早川方は再び城攻めにかかった。城方も前日同様弓・鉄砲を放ったが、この日は城の木戸を開き、小七郎高重分重槍を手にして真先に進み出、肥前守・源五郎高秀父子も、その他の城兵と一緒になって突撃し、寄せ手の浦兵部の陣を突き崩し、兵卒15、6人を突き斃して引き揚げた。
肥前守の妻鶴姫は三村家親の娘で、元親の妹にあたり、当時33歳であった。寄せ手は彼女の兄元親の敵である。これを討たずにおめおめと自害するのは残念であるとて、身に甲冑をまとい、太刀は国平の鍛えた三村家相伝の2尺9寸の名刀を帯び、長刀を携えて討って出ようとした。召し使いの侍女たちは、これを引き止めたが聞き入れず、振り切って討って出たので、侍女たちもこれに続いた。
83人の城兵も次第に少なくなっていった。鶴姫は太刀をその場に投げて城中へ引き返し城門を閉ざせ、城内に入り、刀を口にくわえ、打ち臥して自害した。
幼い子供たちまで肥前守が刺し殺し、一家眷属の死を見届けた肥前守は、本城に据えられた大石に登って腹を切った。城主の一族がこのように最期をとげた。
小早川隆景は、この城を修覆し、城番を置き引き揚げた。この合戦に加勢に加わった宇喜多直家も、兵をまとめて岡山に戻った。その後、この常山城は、毛利家より直家へ渡された。因に、常山の城跡には「隆徳が腹切り石」という大石が今も残っている。
☆ 天正の初(1573)年、天神山城(現佐伯町田上)の浦上宗景と宇喜多直家の間は、形のうえでは講和が成立し、表面は和平を繕いながら、心のうちでは、宗景は織田家と結んで直家を討とうと思っていた。しかし直家は、己の主君を弑逆したとあっては外聞も悪く、家来たちが自分に叛くことを恐れて年月を送っていた。
その頃、播磨の小塩に、浦上清宗の子で当時9歳になる松久に目を付け、小寺政職・官兵衛を通じ、主従に宗景誅伐を思い立たせ、直家はその先手となると約し、岡山へ移らせた。天神山城の最期については諸説がある。宗景は播磨に逃れる。
天神山城を焼き払った直家は、宗景の行方を探索したが、戸田松城に隠れたと聞き、城を攻め落した。景行は播磨の江島へ落ちのびた。直家はこの戸田松城も焼き捨てて岡山の城へ帰陣した。
1571(元亀2年)織田信長より播州・備前・作州三国の所領朱印を受く。
1574(天正2年)宇喜多直家離反し、毛利と和す。宗景、信長の授により毛利と戦う。
1575(天正3年)信長天神山へ兵糧を送る。
1577(天正8年)4月12日、日笠青山城落城。5月浦上与次郎、直家により毒殺される。8月10日 浦上宗景一代の天神山落城。