今村宮まで朝の参歩した。本殿の案内板には、
元々は、建武元年(1334年)に陸奥国白河領主の菖蒲正寿が内山下榎馬場(現在の岡山県庁北側)に天照大御神・八幡大神・春日大神を勧請し、三社明神または三社宮と呼ばれていた。また、現在の今村宮の地には八幡宮があった。
天正8年(1580年)宇喜多直家が岡山城(石山城)を拡張し、その際に当神社を現在の地(旧・今野村)に移転し、移転当時は三社八幡宮と呼ばれたが、江戸時代になって今村宮と改められた。
元和9年(1623年)に今日見られる本殿が再建された。この本殿は三間二間桧皮葺の三間社流造りで昭和30年(1955年)に岡山県指定重要文化財に指定された。
このように遷座した経緯があるため、現在地と元来鎮座していた岡山市中心部が氏子となっている。古くから岡山市中心部の産土神として崇敬されており、土光敏夫など著名人の奉納銘も見られる。
戻りに中山道の白鬚宮に寄った。
黒住教の創始者である黒住宗忠は黒住教を始めるまでは、今村宮の禰宜であった。(父も禰宜で黒住宗忠は三男である)
二つのお宮が同じ名前であることは、書きました。その後、大野村史に触れる機会をえました。これによると、北長瀬の白鬚宮は安元2年(1176年)、備前吉備津神社から勧進されたとなっています。祭神は、猿田彦命(木像が安置されている。) 相殿に松尾大明神と御崎大明神が祭られている。当初御崎宮と称していたが、、天和元年(1681年に白鬚宮と改めた とありました。) また、明治44年に社殿が消失して、大正2年に現在の姿になったとも書いてありました。
5月28日 中仙道の小野田さんを訪ねた。残念なことに小野田さんは入院加療中であった。さらに何か考えて動いてみようと考えているが、どなたかいい知恵をお与え頂けないだろうか・・・
数日の後に、白鬚神社についてウェブサイトを見た。近江舞子の近くにある白鬚神社、その末社は、全国に375社あり、祭神は、中筒男命であり、白鬚明神とも言われていて、南極星の化身であるという。そして、全国に分布する白鬚神社の祭神の多くは、猿田彦命であった。特に多くの白鬚さんがあるのは、静岡市の安倍川流域で54社が集まっているとのことである。これ等の記述を読んでいて、北長瀬・中山道いずれのお社に残るどちらの縁起も正しいのだと思えるようになった。直接近江から勧進してきたのでも、吉備津神社から勧進したのでも、この祭神がお祭りされている本来の目的である、寿福・武運・縁結びを願ってことであったのだと思えたのである。これから後も地域住民の守護神として、御霊験あらたかでありますよう祈念して筆をおきます。 (御南学区連町電子版)