4月 2015 のアーカイブ

市久の風 4/24 3社参(今村宮)

2015年4月24日

今村宮まで朝の参歩した。本殿の案内板には、
元々は、建武元年(1334年)に陸奥国白河領主の菖蒲正寿が内山下榎馬場(現在の岡山県庁北側)に天照大御神・八幡大神・春日大神を勧請し、三社明神または三社宮と呼ばれていた。また、現在の今村宮の地には八幡宮があった。
天正8年(1580年)宇喜多直家が岡山城(石山城)を拡張し、その際に当神社を現在の地(旧・今野村)に移転し、移転当時は三社八幡宮と呼ばれたが、江戸時代になって今村宮と改められた。
元和9年(1623年)に今日見られる本殿が再建された。この本殿は三間二間桧皮葺の三間社流造りで昭和30年(1955年)に岡山県指定重要文化財に指定された。
このように遷座した経緯があるため、現在地と元来鎮座していた岡山市中心部が氏子となっている。古くから岡山市中心部の産土神として崇敬されており、土光敏夫など著名人の奉納銘も見られる。
戻りに中山道の白鬚宮に寄った。
黒住教の創始者である黒住宗忠は黒住教を始めるまでは、今村宮の禰宜であった。(父も禰宜で黒住宗忠は三男である)
二つのお宮が同じ名前であることは、書きました。その後、大野村史に触れる機会をえました。これによると、北長瀬の白鬚宮は安元2年(1176年)、備前吉備津神社から勧進されたとなっています。祭神は、猿田彦命(木像が安置されている。) 相殿に松尾大明神と御崎大明神が祭られている。当初御崎宮と称していたが、、天和元年(1681年に白鬚宮と改めた とありました。) また、明治44年に社殿が消失して、大正2年に現在の姿になったとも書いてありました。
5月28日 中仙道の小野田さんを訪ねた。残念なことに小野田さんは入院加療中であった。さらに何か考えて動いてみようと考えているが、どなたかいい知恵をお与え頂けないだろうか・・・

数日の後に、白鬚神社についてウェブサイトを見た。近江舞子の近くにある白鬚神社、その末社は、全国に375社あり、祭神は、中筒男命であり、白鬚明神とも言われていて、南極星の化身であるという。そして、全国に分布する白鬚神社の祭神の多くは、猿田彦命であった。特に多くの白鬚さんがあるのは、静岡市の安倍川流域で54社が集まっているとのことである。これ等の記述を読んでいて、北長瀬・中山道いずれのお社に残るどちらの縁起も正しいのだと思えるようになった。直接近江から勧進してきたのでも、吉備津神社から勧進したのでも、この祭神がお祭りされている本来の目的である、寿福・武運・縁結びを願ってことであったのだと思えたのである。これから後も地域住民の守護神として、御霊験あらたかでありますよう祈念して筆をおきます。 (御南学区連町電子版)P1050767 P1050768 P1050783 P1050784 P1050787 P1050791 P1050793 P1050794 P1050798 P1050807 P1050813 P1050814 P1050822

市久の風20150418

2015年4月23日

6時ごろより市民病院周りのビデオ撮影した。日頃と格別変わった様子がないがホームで岡山方面からくる貨物列車を大型カメラで撮影していた。
回遊デッキで周辺の撮影をした。
市民病院内では受付リハーサルを行っていた。
南部に向かって薬局が増え、四国の薬局も進出してきた。
西小学校前よりガボチャン邸跡辺りを通り、鴨田跨線橋を渡りかえった。
8時半に西大寺を出て大安寺高校に向けてバイクで来るとメールが入った。氏は西大寺観音院の会陽の研究者で神木がネコヤナギのアスピリンが鎮痛作用があり新薬の原点でもある。
9時半着き市久の里を案内した。北長瀬駅より市民病院入り口のガードマンに聞くと9時より式典は始まったと。
駐車場は250台置ける。
食事して間もなくするとM氏が到着。近所の人に案内してもっらた。
午後2時より高松公民館で「幕末の岡山と長州」と題して、県博の竹原氏の講演のビデオ撮影の依頼があった。
市久川の川筋・鴨川往来を案内して帰る。
M氏の『会陽の起源』へ挑戦のビデオの編集に掛る。8年前県立図書館で2時間講演した内容の再編集。
午後2人で講演会聴講した。
岡山の忍者につぃて質問すると古民家より忍者道具と書物が出てきた。学芸員としては研究対象ではない。
岡山での忍者の根は深いようなのでその関係を調べる。?P1050560 IMG_4251 P1050628

忍者Ⅱ

2015年4月23日

吉備高原に始まる伊賀忍者。詮家も忍者であったか?の仮説を証明する。
医は仁術なるがごとく、忍術は化学で自在に変幻自在である。まさにマジックのように。
たとえば鉄砲に必要な硝石も円成付近で作られていて、火薬・目くらましと使われていた。乾燥したところがよかったようである。
所で、福島の電子力発電所事故も水素爆発が起こった。これは古くよりまた、最新の燃え盛る炭に水がかかると水素が発生する。こらえは、オイルショクの前に本田・藤島先生の水に光が当たると水素・酸素が発生するこを見つけ世界中が驚嘆・期待した原理である。
まさに、この事故は仁科博士に始まる科学者の社会的責任である。
まさに、科学の前には政治は無能である。共に謙虚でなくてはならない。
忍者は山、野に暮らしその技術・改良により体力など極限まで鍛えている。これはイギリスの諜報機関007と似ている。007は最先端装置にによりバックアップされているが。
ここで、身近に忍者がいてそれを題材にして著作活動をしている。
たとえば、ナルト(那岐出身)、岸本斉史きしもとまさし・1974年11月8日生まれ。岡山県出身。’96年漫画『カラクリ』でデビューノ99年より表題作にて週刊少年ジャンプ連載開始。現在に至る。
日下部部俊くさかべまさとし・1964年生まれ。東京都出身。朝日ソノラマ『剣の聖刻年代記』で小説デビュー。
代表作としてj-B00KsrNARuTo-ナルトー』シリーズ、『GANTz MINus』『映画GANTz』などがある。
最新では、官兵衛の陰謀( 忍者八門とは、すべての流派において忍者が身につけなければならない剣術、手裏剣術、
火術、槍術など八種類の技術のことである。プロローグ 魔界からの案内状・・・・・・) 中見利男 1959年。岡山県生まれ。作家、ジャーナリスト。該博な知識と徹底した取材力、そして斬新な視点を駆使し、ドキュメンタリー、評論、解説書など数多く手がける。伝奇時代小脱|「太閤の復活祭~関ヶ原文津指令」川I秀吉の11a号」に改皿)が、「2001年度の本の雑誌が選ぶ総合ベスト10」に第7位にランクイン。署=い1に「二コートンの柿秘文書~封印されたタブーのすべて」「神礼仏閃に隠された謎と闇||(宝島社)、「ヅレジデントが這ぶ傑作歴史小説100選」に選出された小脱|「耶師の秘密」、「グリム童■より怖い日木おとぎl」;」「あなたの知
らない日本おとぎ話」|「都Tl」伝脱の■」川「信長の啼号JuI家康の暗号」「天狗のlla号」(小社III)など多数。
もちろん、正統派忍者研究者は、意外と「武士の家計簿」の磯田 道史氏であった。
出身地 岡山市 学歴 慶應義塾大学大学院文学研究科修了(2002年)  学位 博士(史学) 経歴 茨城大学准教授(2004年から2012年)  静岡文化芸術大学准教授(2012年)、教授(2014年) 担当授業分野 歴史学、日本史学Ⅱ、文化交流論  研究分野 日本史、社会経済史
研究テーマ 歴史地震、19世紀日本史 研究業績 著書  『武士の家計簿』(単著、新潮社、2003年)
『近世大名家臣団の社会構造』(単著、東京大学出版会、2003年) 論文・解説
「十九世紀の日本人」(『外国人が見た近世日本』角川学芸出版、2009年)
「藩政改革の伝播─熊本藩宝暦改革と水戸藩寛政改革」(『日本研究 第40集』角川学芸出版、2009年)
「幕末武士の家計と債務 -鳥取藩士の分析-」(『徳川日本のライフコース―歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房、2006年)
詮家伊賀忍者説で参考となった「就実オータム・アカデミー2010 岡山の武芸とスポーツ」に、「武士の武芸ー岡山藩伊賀者の忍術」
是非、岡山で講演いただきた。

忍者

2015年4月23日

詮家伊賀忍者説で、大安寺高校出身の磯田道史が浮かび上がり。急きょメールを入れました。実名でよいと思います。さっき返信があり謙虚な返事で又アッタクしています。
氏は、すでに
「就実オータム・アカデミー2010 岡山の武芸とスポーツ」に、「武士の武芸ー岡山藩伊賀者の忍術」で講演され、中央でも若手で活躍されています。
ぜひ、講演に迎えたいと又、夢見ています。
ブログも面白いです。
ついでに、納豆博士の須見先生が名誉教授になられました。片づけに忙しいそうです。

磯田 道史
ISODA Michifumi
教授
文化政策学部 国際文化学科
出身地
岡山市
学歴
慶應義塾大学大学院文学研究科修了(2002年)
学位
博士(史学)
経歴
茨城大学准教授(2004年から2012年)
静岡文化芸術大学准教授(2012年)、教授(2014年)
担当授業分野
歴史学、日本史学Ⅱ、文化交流論
研究分野
日本史、社会経済史
研究テーマ
歴史地震、19世紀日本史
研究業績
著書
『武士の家計簿』(単著、新潮社、2003年)
『近世大名家臣団の社会構造』(単著、東京大学出版会、2003年)
論文・解説
「十九世紀の日本人」(『外国人が見た近世日本』角川学芸出版、2009年)
「藩政改革の伝播─熊本藩宝暦改革と水戸藩寛政改革」(『日本研究 第40集』角川学芸出版、2009年)
「幕末武士の家計と債務 -鳥取藩士の分析-」(『徳川日本のライフコース―歴史人口学との対話』ミネルヴァ書房、2006年)P1050532

シーボルトとイネ

2015年4月23日

岡山蘭学群像Ⅰ「日本初の女医 おイネの生涯、そして謎」4/16サンタホール
この中で、西予市からまちづくり推進課長が来ていた。
幕末をおイネが過ごした町並み愛媛県西伊予市宇和町卯之町、今もあの頃のまままに
大洲・八幡浜と宇和島の間の町で通り過ごしそうな街
宇和島との繋がりは伊達藩前の城主が富田信高夫人が
浮田詮家の姉妹であった関係で改易となったとか。
楠本 イネ
1823年(文政6年)、長崎出島にあったオランダ商館付けの医師としてドイツ人シーボルトが来日しました。
1827年(文政10年)、そのシーボルトと、遊女たきとの間にイネが生まれました。母たきは遊女の名を借りて出島に人っただけだったとする説もあります。
長崎で育ったイネは、13歳から18歳まで、シーボルトの弟子であり卯之町で開業していた医師の二宮敬作のもとで、医業を手伝いながら西洋医学の基礎を身に付けました。その後、岡山県の石井宗謙のもとで6年余り本格的に産科を学び、1851年(嘉永4年)に長崎に戻りました。
1854年(安政元年)、イネは二宮敬作とともに卯之町に渡り、再び、敬作のもとで学び始めました。宇和島の村田蔵六(大村益次郎)にも学んだそうですが、1856年(安政3年)には、敬作に伴いイネも長崎へ戻り、産科医として開業しました。
1859年(安政6年)、イネは父シーボルトと長崎で再会し、1870年(明治3年)に東京へ移り産科医院を開業しました。 1873年(明治6年)には、福沢諭吉らの推薦によって、宮内省御用掛として宮中の産科・外科医にもなっています。 1877年(明治10年)に再び長崎へ戻ったイネは、当初、産科医として開業していました。医業は試験を受けての許可制になっていましたが、高齢だったこともあり受験
をあきらめ、産婆として産院を営みました。
1889年(明治22年)、62歳のイネは再び東京へ移りました。そこで一人娘高子や二人の孫娘達と暮らし、1903年(明治36年)、76歳で生涯を閉じました。
石井宗謙とも関係で今回の講演となった。
石井とのおかしな関係が語られ岡山の医者の品性を未だに問われている。

ゴミの日

2015年4月18日

火・金がゴミの日である。
5時30分散歩に出る。いつもながら散歩に出ると尿意をも用紙困る。桜本碑門の手前のダンプ置き場の奥のトイレをお借りする。
周り十田んぼで2hあるとか。昔ならあぜ道ににでもしていたが、車が往来して、たまに子どもが見て面白くいうのを聞く。
白石地区に歩道橋を渡り、わたったところに綺麗に花植えカーデエンハウス的な庭を楽しむ。藁屋根の辺りの小道を歩く。
野花大橋(を渡ると岡山市西部リサイクルセンターの上に出た。オープンして間がないが内部を見学していないのに気づき問うと何時でも見学できるとのこと。また、電気自動車受電器が2台。水素ステーションはまだ。岡山にも水素は大量にあるが危ないとか何とかで無い。
その先には排水ポンプ場がありここでも大量のごみが市街地より流れ着くが把握してない。農家組合の会合で聞くと北長瀬ポンプ場でも笹が瀬川埋まるほど出るが量はわからない。
お宮まで戻るとここのトイレは壊れたままで桜が散るのが、また花見・子供が大丈夫なのか。
帰ると帝釈天の当番で葉のぼりを上げる。16年ぶりの当番で次回も出来るか。
7時30分、8747歩。P1050422 P1050443 P1050450 P1050467 P1050468 P1050471 P1050474 P1050479 P1050489

ツツジ祭2015

2015年4月15日

富山城主詮家は伊賀忍者か?P1050330 P1050353 P1050356 P1050359 P1050361 P1050369 P1050372

丸谷賢二氏撮影

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1616年10月10日、夜遅く江戸市中に騒動起れり『リチャード・コックス日記』

大坂夏の陣 千姫救出

父 浮田忠家(直家弟・秀家従弟)の妻 詮家の母 乙子城で生まれる。

虎倉城主伊賀久隆(妻 直家妹)の娘 深雪(阿部禅定娘市説などあり)昨年「浮田詮家誕生秘話」 伊賀家は、三重県伊賀上野より鎌倉時代畠山家に仕え、御津・吉備高原・賀陽・北房が勢力圏 美作の宮本武蔵も伊賀忍群から独立した新免忍群の下忍であった説。

伊賀久隆は円城の伊賀家の出で、周辺部には銀山、鉄、銅山、硝石の鉱山があった。

伊賀一族は鉄砲を使いこなし玉松城主 松田左近将監元輝を滅ぼした。鉄砲の製造は堺や根来、近江と全国に広がった。そのキーポイトはネジと硝石であった。

詮家の生涯が謎だらけでシックリしないのが残っていた。

宇喜多詮家(初名)→坂崎直盛 のみならず、別名として知家、直行、重長、信顕、 正親、正勝、貞盛、成正、成政などの名が記録されている。その業上は不明である。さらに、キリスト教信者としてパウロとして海外に紹介されている。 この名前の多さは進出記没の正に忍者として活動した証ではなかろうか。イギリスの諜報機関007。

また、備前軍記で16歳で毛利から人質から解放され戻り、三星城合戦の大将として行ったとされている。総大将は父の浮田忠家であり浮田政家とされている。元服して参戦し攻略に当たったとすると説明がつく。その後の辛川合戦、八浜合戦、冠山城合戦、高松城水攻め、関ケ原合戦、大坂城冬夏の陣に浮田忠家、戸川親子の陰で活躍した詮家がいなければ説明がつかない事件が多い。

吉備高原は蒜山高原より高く岡山で最高峰の山岳地帯である。伊賀久隆の虎倉城より吉備高原・賀陽・北房一帯は伊賀一族の征服地帯であった。その証拠は、各地の山城の城主の名前に刻まれている。さらに天台宗円城・清水寺の再建、吉川八幡宮の振興と記録が残る。

しかも宇喜多直家の妻お福が勝山城主三浦貞勝の妻でのちに円融院と称する女性は子の桃寿丸を伴って備前国へ落ち延びた。円融院は後に宇喜多直家の妻となり秀家を生んでいる。直家がお福と会ったとされる土井家の屋敷跡は、伊賀一族各家系譜に登場する。

『備前記』御野郡大安寺村(部分)  一 矢坂ノ上、富山古城山アリ、昔松田左近将監居城卜云、金川ノ城へ移りテ後、宇喜多直家弟忠家同子安心居城卜云、直家岡山ノ城取立以後、岡山ヨリ富山城高キ故破城トスト云、其後安心ハ野殿へ移玉フト云伝、于時天文17戌申4月卜云伝、元禄17申申迄157年ニ成ル、安心後ハ改、坂崎出羽守卜云、安心(安津)は忠家の号であるが、史料1の「宇喜多直家弟忠家同子安心」「安心後ハ改、坂崎出羽守卜云」とあるところから、ここでいう「安心」が、忠家の子である左京亮を指すことは明らかである。また、森俊弘氏も指摘しているように、「天文17年戌申」は天正17年の転訛と見るべきであり、この史料1は、全国的な城破り・山城の廃棄事例の一つとして見るのが妥当であろう。とすれば、天正十七年、富山城の破城によって、城主であった左京亮はその麓の野殿へ移住したということになる。なお、「殿下御内」の忠家がこの時期大坂に在った。

詮家は16~36歳まで富山城・野殿城や京都伏見・大坂住吉、江戸屋敷など多く記録がある。池田家家老 池田伊賀として大坂冬の陣(淀川)、幕末60人の忍者集団。