「富山城、石井寺から高松城水攻め」 -矢坂山周辺の文化財-
矢坂山を中心として、文化財を通してみた地域の歴史
内容は「石井」の地名の歴史や謎の多い石井廃寺について。富山城をとおしてみた松田氏や宇喜多氏の攻防から高松城水攻めについて。
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矢坂山の春120716 https://www.youtube.com/watch?v=G0Xb05fZsA4
石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館https://www.youtube.com/watch?v=iKdIKoqwtlk
吉祥寺石井寺 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2016/01/29/%e5%90%89%e7%a5%a5%e5%af%ba%e7%9f%b3%e4%ba%95%e5%af%ba/
石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館
岡西公民館で「石井学区の歴史いろいろ~身近な文化財の見方~」と題して岡山市埋蔵文化財センター 高橋伸二氏による講演があった。デジメを転載する。 はじめに 指定文化財について 国指定・県指定・市指定 1、埋蔵文化財の見方 ・集落遺跡と貝塚 ・古墳 (津倉古墳と青陵古墳、矢坂山の古墳群) ・古代~中世の寺院 (石井廃寺) ・城郭 (富山城) 2、神社仏閣と石造物 ・妙林寺と常福寺 ・国神社 ・松山長昌寺地蔵石仏 3、山陽道 ・古代中世の山陽道 ・近世山陽道(西国往来) 石井廃寺 報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。 石井寺末寺として廃寺となった寺院に、(万成村)正雲坊・自正院。 (島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などがある。 寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。また、この寺に関する記録はきわめて乏しいものの、北区津寺のには石井寺にあったとされるが伝わっている。 富山城 矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南 北に連なる。昭和42 ・ 43 年(1967 ・ 1968)発掘調査。 富山城の概史 応仁元年(1467) 松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする 文明15年(1481) 松田元成 金川へ帰り弟の元親を城主とする 文明17年(1483) 福岡合戦で元親戦死 親家が城主に 明応6年(1497) 備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退 永禄11年(1568) 松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に 天正7年(1573) 毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退 慶長4年(1599) 忠家の子左京亮信顕(坂崎出羽守)家中騒動により出奔 慶長6年(1601) 小早川秀秋により廃城となる ※ 発掘調査で以下の変遷が明らかになった 明応・永正年間(1491~1521)頃 有事龍城型の中世山城 天文年間後半(1550)頃~永禄10年(1567) 小規模な石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城 宇喜多期 永禄11年(1568)~慶長5年(1600) 石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城 小生の調査によると天正17年(1583)岡山城築城の際、浮田詮家(後の坂崎出羽守)が破城・移築させられ家中騒動の原因の一つとなった。 妙林寺 本堂は元文元年(1736)、仁王門は宝暦4年(1754)の建築6池田光政国替の時、鳥取から僧日 意を伴い寛永9年(1632)山崎町(野田屋町)に創建。貞享3年(1686)現在地に移転。授法院・延寿院・観明院・清涼院の塔頭(たっちゅう)寺院がある。 常福寺 本堂は安永4年(1775)の建築。仏像を安置する厨子は。16世紀後半(桃山時代)の作で彫刻・彩色が施される。牛窓大工の作。 寺伝によると養老2年(718)創建。大覚院と称したが永禄年間に浦上宗景が富山城を攻めた際に兵火にかかり焼失。宇喜多氏により保護を受け長福寺と改めたが、小早川秀秋の代に寺領が没収され衰微する。享保元年(1716)常福寺に改められる。昭和24年(1949)牛窓鹿忍の宝光寺の本堂を移築。 国神社 延喜式榊名帳に記載のある式内社とされる。社殿は明治36年(1903)に焼失。 随身門は19世紀後半の建築で石段・鳥居には元禄15年(1702)の銘がある。 松山長昌寺地蔵石仏……:………岡山県指定 花樹岩、自然石の南面に花頭窓風に龕部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永1 0年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったゲと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。 しかしながら、天保7年には大地震の記録が見当たちず、台風などの風水害で転落しだ可
能性が指摘されている。 写真 1 体内より見つかった木札 2 石井寺にあったとされる立像 3. 石井学区西部・東部(石井寺跡谷万成付近) DVD撮影
吉祥寺石井寺
岡西公民館で石井学区の歴史を講演した岡山市埋蔵文化センター高橋氏に会い石井寺について聞いた。 早速一宮近くの矢吹さんの案内で見に行った。ちなみに共に電動自転車だった。 胎内銘札の検討 長柄葦原は,おそくとも古代末~中世初頭には一応の開発が終り,大安寺の荘園として早くから開墾か展開されていったようである。鎌倉中期には,一時皇室御料となったようであるが,その後の動向については判然としない面が多い。時代はずっと下がるが元文二年に成立した岡山藩の地誌「備陽国誌」」によれば,江戸時代の大安寺村,正野田村,矢坂村の三村を合わせて大安寺荘であったと記され,古代~中世にかけてこの地域か大安寺荘であったことは確かである。大安寺庄内の石井山吉祥寺とは,いかなる寺院であったか詳らかではないが,近世の文献資料にその名をとどめるものがある。現在の旧大安寺荘の推定地域内には石井山吉祥寺と称する寺院は存在しない。しかし,文禄四年の金山寺文書「備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録」によれば「石井山拾石」と記され,当時石井山(おそらくは吉祥寺)の存在を知ることができる。その後,寛文六年に池田光政によって強行された寺社整理に合って退転,廃寺となった寺々の書上げによれば,三門村に吉乗山石井寺と称する日蓮宗の寺があったことが知れる。この吉乗②山(吉祥山の誤記か)石井寺は,寺名と山号が逆転してはいるものの石井山吉祥寺に相違なく,寺院の変遷過程一般の中では寺名と山号が転倒する例がしばしばみられることや寺の在った三門村も旧大安寺荘内であったことからしても,天文年間における石井山吉祥寺と吉乗(祥)山石井寺は同一寺院であったに違いない。 石井山吉祥寺は,寛文年間に強行された池田光政による寺社整理に合って廃寺となり,その後再興せられることなく,現在まったくその跡をとどめていない。しかし,石井山吉祥寺に関するいくつかの文献資料と寺跡と推定される地域で古瓦の採集が行なわれ,吉祥寺が存在したことを裏づけている。 石井山吉祥寺に関する最古の文献資料は,現在のところ今回の修理で発見された胎内銘札である。それによれば当時の三野郡大安寺庄内に石井山吉祥寺があり,その南谷の住僧実蔵房の弟子実相房日永によって天文二年に毘沙門天の修理が施されている。銘文中の実蔵房の肩書きを記した部分にわざわざ南谷と但し書きが付してある点が注意される。このことは,実蔵房が吉祥寺そのものやあるいは本房の僧ではなく南谷の院ないしは房の住僧であったことを示し,当時吉祥寺を一山とする数院によって塔頭が形成されていたことを暗に示している。 この資料以前の状況を物語る資料としては,記年が不明のためその成立時期が判然としないが,「備前国金川臥竜山城主松田左近将監権頭元隆伝記」には,「当時他宗に改宗を迫りし寺山は下の如し」と記して「石井山○○寺」を初めとして日応寺,幸福寺等々の合計11ヶ寺の名を書上げている。この石井山○○寺は,おそらく石井山吉祥寺に相違なく,備前松田氏の十代に当る元隆によって吉祥寺が改宗されたことを伝えている。松田元隆は,松田氏系譜によれば寛政四年正月二十二日生,天文四年二月二十日卒となっており,その間73年を数え,当時とすれば非常に長命であったようである。元隆は,大永二年に左近将監に任じられ,権守を称している。彼に関する信頼できる文献資料としては,備前吉備津彦神社資料の中に文明二月六月四日付の「松田元隆花押下知状」があり,系譜に伝える④。時期に存在した人物であることが知れる。とすれば,彼が備前,備中で改宗を迫った時期は,彼の生存期間中であり,彼の没した天文四年以前であることは確かである。毘沙門天胎内銘札からしても少なくとも天文元年以前に石井山吉祥寺は松田元隆によって日蓮宗に改宗せられていたようである。改宗前の吉祥寺が何宗に属したいかなる寺院であったかについては一切不明である。(根木 修)仏像保存修理報告書より 写真 大覚大僧正が佐渡に島流の絵(祖粗堂) 石井寺跡近く A宅 美術館 妙林寺うえ辺りの古墳跡また富山城主弟の城跡
中國大返しと富山城
高松城水攻めの後、太閤記などによると1日にして姫路ないし大阪に帰り明智光秀を討って天下人になったと書かれ語り伝えてこられた。可笑しいと思いながら当時凄いことが起こったとしか思っていなった。現実にはありえない事である。講談調の語りであった。
秀吉は毛利氏との和睦交渉を終えると、光秀を討伐すべく上洛の途についた。その直後、毛利氏は信長横死の情報を人手したという。これを知った吉川元春は、和睦を破棄して秀吉を追撃すべきであると息巻いた。しかし、小早川隆景は「誓書の墨が乾かないうちに和睦を破棄するわけにはいかない」と真っ向から反対したという(『川角太閤記』)。実際には、この時点で毛利方は信長の死を知らなかったというのが正しく、この逸話は単なる俗説として退けなくてはならない。
備中高松城を発った秀吉は、常識を超えたスピードで東上の途についた。これがいわゆる「中国人返し」と称されるものであるが、通説には疑義が認められる。最初に、これまでの通説を確認しておこう。秀吉は毛利氏と和睦を締結したのち、同月六日まで動くことができなかった。その理由は和睦を結んだとはいえ、毛利氏の軍勢が脅威として存在し、容易に動けなかったからである。ようやく毛利氏が撤退したのは、六日のことであった。
ここから秀吉の軍勢も一斉に上洛をめざすことになった。
ひとつの説としては、六日のうちに備中高松城を出発し、その日のうちに約二十二キロメートル離れた沼城に到着したという。そして、翌七日に秀吉軍は沼城を発ち、翌八日の朝に姫路城に到着したと伝える。沼城から姫路城までの距離は、約七十キロメートルもある。前者については問題ないと考えられるが、後者は相当な強行軍である。兵卒の装備は重たく、道も状態が良くなかったはずである。
ところが、秀吉の書状には、さらに厳しい強行日程が記されている。六月七日に備中高松城を出発すると、約九十キロメートル離れた姫路まで、わずか一昼夜で到着したというのである(「滋賀県立女土城考博物館所蔵文書」)。この書状は、本能寺の変からわずか四ヵ月後に書かれたものである。ただ、この書状は例のごとく、高揚した気分で大袈裟に書いており、一次史料とは言いながらも信用を置けないところがある。
ふたつの説が根本的に間違っているのは、備中高松城を離れた日を六月六日もしくは七日としていることである。『黒田家譜』には、姫路城における官兵衛の進言が記されている。官兵衛は姫路城へ立ち寄ることなく、すぐに合戦のために進軍すべきであると秀吉に意見を述べたという。しかし、後述するとおり、秀吉らが姫路城に滞在した事実が認められるので、この説は誤りと考えられる。{渡辺大門)
宇喜多直家が岡山(石山)城共に毛利に対する最前線であった富山城を忠家が築城し、忠家は6万石の治行を持っていた。直家が毛利より信長に従うことになり重要度が増した。増してや直家が亡くなった、当時は松田の時代からの野殿城は弟の忠家の屋敷として使われ、高松城水攻めの最前線作戦本部が置かれていた。
備前軍記によると、高松城水攻めのより毛利と和睦後、 さて6月6日の早朝、備前勢がまず岡山に帰陣し、次いで同日未の刻(午後2時ごろ)秀吉が陣を引き払って辛川村に至り、ここで人数を分け、主力は半田山の前の古道から旭川の釣の渡を越え、先陣から順次東進した。秀吉は旗本の人数だけを従え、矢坂を越えて岡山に赴いた。
東軍の大部分は、旧古山陽道に辛川から入り、宇喜多軍は矢坂大橋を渡り沼城への道を帰った。
宇喜多忠家は高松城水攻めの最大の功労者であった。東軍、秀吉、重臣と宇喜多重臣は野殿屋敷に戻り、毛利の動きと明智光秀の討伐の軍議を行った。そして、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して、事を自らの有利に運ぼうと画策した返書を送った。そして、まとまった所で岡山城に向かい八郎後の秀家に報告した。
宇喜多八郎は明石飛騨を従え、岡山城下の町口まで迎えた。秀吉は懇ろに挨拶して岡山城に人り、暫く八郎と対面した。八郎の家臣浮田七郎兵衛・浮田左京・明石飛騨・戸川助七郎・長船又右衛門・花房弥左衛門らも次の間に控えていた。このとき戸川平右衛門は関東の草津へ入湯に赴き留守であった。(備前軍記)
この辺りを検証する意味でも、富山城祭を野殿中心に6月4~7日に開くことを検討している。字図と現代図を重ねた。
笹ヶ瀬川は直線でなく大川を蛇行して野殿地区は備中領であった。
五輪の字当たりの南が野殿交差点、西署。大川沼の跡に大野小学校、大安寺中等校がある。
上に太然時があり、城ノ内に野殿城、忠家御殿があった。