NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第38回「追い込まれる軍師」が、放映された。
秀吉の命により宇都宮1党を成敗することに悩んでいた官兵衛の留守中長政は鎮坊始め家臣も切った。
人質の朝房は官兵衛が断腸の思いで切った。又、鶴は光ら女子たちの意見を長政も聞き入れ逃げたことにした。
秀吉は人が変わった。茶々に三成の意見により新たに築城することとなった。
官兵衛も中津井に居れば黒田家を守るため長政と同じようにしたであろうと。
豊後で失敗した佐々成政は切腹となった。その後を、小西行長、加藤清正に分配となりおねも喜んだ。秀吉は三成、清正、正則、長政の4名が切磋琢磨し豊臣家にためにつくすと、また、将棋の駒の様に自在の操っていると思い上がって来ていた。
そして、明の制服の夢に官兵衛は秀吉に大反対した。
家康が上洛し官兵衛にわざわざ合った。秀吉が無き後天下を取るのは官兵衛と云って居ると腹の探り合いとなった。官兵衛は暗い闇に落ちて行く錯覚を見た。
☆戸川家記によりこの時代を記す。
一、戸川肥後守達安ハ、永録10年丁卯に生る、初の名は助七郎と言、成人に及んて、人体健に逞して、太く、長高く、力量あって、若きうちハ相撲を好む、爰に寺尾作左衛門ハ、大鹿の角を引折、高畠平八ハ、8人舁の石一方に荷ひ、後ニ持もの挫くる程の強力のものを、前相撲にして不劣、足を取りける、年老て歯など落、自髪に成てハ、二王杯の様ニ見へたり屠る、其後、備前津高郡辛川表へ押込、其時、備前多兵打出て大成る合戦あり、毛利勢敗北す、是を辛川陣といふ、肥後守13才初陣なり、敵近く馳す、依之、家人討取首を出ス、若年故首帳に付る、猶原彦右衛門18、9計ニ而、能武者鑓付首取にけり
一、 天正10年4月に、秀吉公備中表江御出陣、時に備前味方申、先手す、手合に備中宮地の城(今足守山の上)備前一手にて責落す、其外、冠城を屠り、其後、高松城水攻、此儀ハ書々にあり不及記、肥後守達安(時に16才)父平右衛門ハ、関東草津へ入湯して留守ゆへ、家老先手役をして高松へ相詰、軍役を勤む、此時分、助七郎秀吉公へ御目見申、御帰陣の時、毛利家より差出す備中川東9万石余、此度の忠に八郎殿に被下(八郎殿、10歳)、6月、明智合戦にも備前より加勢す、人質(右衛門娘明石掃部幼少)此時播州姫路にあり一、天正11年、秀吉公柴国修理亮勝家と合戦、志津嶽七本鑓此時に有り、佐久間玄蕃敗北し、柴田勝家逃去、越前北の庄迄追詰給ヘハ、勝家妻子郎(党)等悉く自害す、この時 備前加勢可有
一、 同12年、織田信雄郷を秀吉攻め給ふ、神君大勢を卒し、信雄を救ひ玉よ、長久手にて大に戦て、池田勝入父子・森武蔵守討取、此時、秀吉公大軍10万余之勢、小牧に発 向、備前より大勢登りしと也
一、 同13年、秀吉公根末寺を攻玉(給)ふ時、和泉国子石堀にて備前勢軍功あり、根末寺滅却して已後、紀州雑賀へ御発向有て、諸勢を分て長堤を築き、水攻めの時、備前之丁場堤切、湛たる水落、秀吉公御機嫌悪し、浮田之家臣岡豊前守御前江出て、私無念にて堤切申候、切腹可被仰付与申上、秀吉公御機嫌直り、ケ様の事ハ不意に有るもの也、何卒、早く水溜可申与上意也、則、大勢して早速水留堤出来、水湛て無程落城、其時、助七郎家臣にて向ふ、若年故、豊前守申付(秀安ハ病気、長船ハ死す故ニ、豊前守壱人ニ而備前野仕置も公用も、勿論車川之事も勤)
一、同年6月に、四国退治、諸勢先阿波国に向ふ、長曽我部元親弟親安一の宮城に籠る、諸勢攻之時、肥後守家人青井善兵衛といふもの一番に城に人、敵落て人無故、井の釣瓶を取て帰る、高名に成ると言、四国平均して9月開城となん
一、同15年3月、秀吉公九州へ御発向、毛利輝元・浮田秀家(初陣)御先へ九州江下向す、前年より、黒田如水・豊後大友・長曽我部元親・伊千之衆中、下て城等拵へ、浮田・毛利至て都喜枝城を築き、その以後、秀吉公渡海ましまして、豊後・日向の境高城を惣勢攻之、備前の攻口肥後守手より一番に打破る、宮部善祥坊陣に至て、夜、島津義弘来り攻ム(島津・中務攻るという説有)、暁に至で大に戦よ、島津勢死人山のことくし而引去、此外、豊後府内岩石城を責(豊前筑前の堺)、小能城を責、方々城、九州の城不残攻屠り、大隅・薩摩へ攻入けれハ、島津修理太大義久降参す、筑前博多に暫く御逗留あって御帰陣なり、秀家御供あり、所々におゐて励軍忠、肥後守かせき、夜も不寝、白身夜廻りもせしとなり