9月 2014 のアーカイブ

備前軍記40

2014年9月26日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第38回「追い込まれる軍師」が、放映された。

秀吉の命により宇都宮1党を成敗することに悩んでいた官兵衛の留守中長政は鎮坊始め家臣も切った。

人質の朝房は官兵衛が断腸の思いで切った。又、鶴は光ら女子たちの意見を長政も聞き入れ逃げたことにした。

秀吉は人が変わった。茶々に三成の意見により新たに築城することとなった。

官兵衛も中津井に居れば黒田家を守るため長政と同じようにしたであろうと。

豊後で失敗した佐々成政は切腹となった。その後を、小西行長、加藤清正に分配となりおねも喜んだ。秀吉は三成、清正、正則、長政の4名が切磋琢磨し豊臣家にためにつくすと、また、将棋の駒の様に自在の操っていると思い上がって来ていた。

そして、明の制服の夢に官兵衛は秀吉に大反対した。

家康が上洛し官兵衛にわざわざ合った。秀吉が無き後天下を取るのは官兵衛と云って居ると腹の探り合いとなった。官兵衛は暗い闇に落ちて行く錯覚を見た。

☆戸川家記によりこの時代を記す。

一、戸川肥後守達安ハ、永録10年丁卯に生る、初の名は助七郎と言、成人に及んて、人体健に逞して、太く、長高く、力量あって、若きうちハ相撲を好む、爰に寺尾作左衛門ハ、大鹿の角を引折、高畠平八ハ、8人舁の石一方に荷ひ、後ニ持もの挫くる程の強力のものを、前相撲にして不劣、足を取りける、年老て歯など落、自髪に成てハ、二王杯の様ニ見へたり屠る、其後、備前津高郡辛川表へ押込、其時、備前多兵打出て大成る合戦あり、毛利勢敗北す、是を辛川陣といふ、肥後守13才初陣なり、敵近く馳す、依之、家人討取首を出ス、若年故首帳に付る、猶原彦右衛門18、9計ニ而、能武者鑓付首取にけり

一、    天正10年4月に、秀吉公備中表江御出陣、時に備前味方申、先手す、手合に備中宮地の城(今足守山の上)備前一手にて責落す、其外、冠城を屠り、其後、高松城水攻、此儀ハ書々にあり不及記、肥後守達安(時に16才)父平右衛門ハ、関東草津へ入湯して留守ゆへ、家老先手役をして高松へ相詰、軍役を勤む、此時分、助七郎秀吉公へ御目見申、御帰陣の時、毛利家より差出す備中川東9万石余、此度の忠に八郎殿に被下(八郎殿、10歳)、6月、明智合戦にも備前より加勢す、人質(右衛門娘明石掃部幼少)此時播州姫路にあり一、天正11年、秀吉公柴国修理亮勝家と合戦、志津嶽七本鑓此時に有り、佐久間玄蕃敗北し、柴田勝家逃去、越前北の庄迄追詰給ヘハ、勝家妻子郎(党)等悉く自害す、この時 備前加勢可有

一、    同12年、織田信雄郷を秀吉攻め給ふ、神君大勢を卒し、信雄を救ひ玉よ、長久手にて大に戦て、池田勝入父子・森武蔵守討取、此時、秀吉公大軍10万余之勢、小牧に発 向、備前より大勢登りしと也

一、    同13年、秀吉公根末寺を攻玉(給)ふ時、和泉国子石堀にて備前勢軍功あり、根末寺滅却して已後、紀州雑賀へ御発向有て、諸勢を分て長堤を築き、水攻めの時、備前之丁場堤切、湛たる水落、秀吉公御機嫌悪し、浮田之家臣岡豊前守御前江出て、私無念にて堤切申候、切腹可被仰付与申上、秀吉公御機嫌直り、ケ様の事ハ不意に有るもの也、何卒、早く水溜可申与上意也、則、大勢して早速水留堤出来、水湛て無程落城、其時、助七郎家臣にて向ふ、若年故、豊前守申付(秀安ハ病気、長船ハ死す故ニ、豊前守壱人ニ而備前野仕置も公用も、勿論車川之事も勤)

一、同年6月に、四国退治、諸勢先阿波国に向ふ、長曽我部元親弟親安一の宮城に籠る、諸勢攻之時、肥後守家人青井善兵衛といふもの一番に城に人、敵落て人無故、井の釣瓶を取て帰る、高名に成ると言、四国平均して9月開城となん

一、同15年3月、秀吉公九州へ御発向、毛利輝元・浮田秀家(初陣)御先へ九州江下向す、前年より、黒田如水・豊後大友・長曽我部元親・伊千之衆中、下て城等拵へ、浮田・毛利至て都喜枝城を築き、その以後、秀吉公渡海ましまして、豊後・日向の境高城を惣勢攻之、備前の攻口肥後守手より一番に打破る、宮部善祥坊陣に至て、夜、島津義弘来り攻ム(島津・中務攻るという説有)、暁に至で大に戦よ、島津勢死人山のことくし而引去、此外、豊後府内岩石城を責(豊前筑前の堺)、小能城を責、方々城、九州の城不残攻屠り、大隅・薩摩へ攻入けれハ、島津修理太大義久降参す、筑前博多に暫く御逗留あって御帰陣なり、秀家御供あり、所々におゐて励軍忠、肥後守かせき、夜も不寝、白身夜廻りもせしとなり

備前軍記39

2014年9月21日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第37回「城井谷の悲劇」が放送された。

馬ケ岳城では、長政の出陣を知り、官兵衛、善助、太兵衛、九郎右衛門が軍議を開いた。

一本道で待ち伏せし、包囲壊滅する作戦だろう。援軍は出せないと判断した。

長政の軍勢は袋の鼠のように追い詰められていた。小弁は長政を守るため敵兵に向かい槍で突かれ死んだ。一成のみが連れて帰った。

官兵衛は、長政に頭を冷やし、策を立てるよう命じた。

鎮坊と家臣たちは酒宴を開いていた。

馬ケ岳城に、隆景と恵瓊が応援に駆け付けた。長政の策は、城井谷の入り口に付城を築き、兵糧攻めとする。毛利の援軍により、豊前の一揆は次々と制圧され宇都宮のみとなった。、

宇都宮家は黒田の家老となり、太平台城の城代を務め、嫡男、朝房は官兵衛に、娘の鶴は光に仕える事となった。

恵瓊が秀吉に会うと、黒田が宇都宮を召し抱え和睦して事に怒っていた。長政は決断した。そして、宇都宮を一刀のもとに斬り伏せた。

☆詮家の従弟秀家について、岡山城築城400年祭資料より転載する。

豊臣家五大老宇喜多秀家の挫折と暗転

宇喜多直家の晩成の子で嫡男となった秀家は、天正10年(1582)に毛利氏攻略(高松城水攻め)に出陣してきた羽柴秀吉(後に豊臣秀吉)に幼小の時から寵遇され、天下人となった秀吉の下で57万4千石の大大名となり、秀吉の養女豪姫(前田利家の娘)と結婚しました。豊臣政権内で一族的な立場を与えられ、若年ながら文禄の役では総大将を務め、秀吉の晩年には政権の最高機関である五大老の一人に抜擢されました。大大名となった秀家は、父親譲りの石山の城が手狭になり、秀吉の指導の下で新たな居城の岡山城を、8年の歳月を掛けて慶長2年(1597)に竣工させました。

しかし、慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦では西軍の主力となって敗軍の将となり、宇喜多家は滅亡しました。敗軍の将となった秀家はわずかな近習とともに伊吹山南東山麓へ敗走しました。敗走先で地元の有力者矢野家の庇護をうけて、徳川方の敗残兵の追跡と在地民の落武者狩りを免れ、人目を避けた山地に潜伏をした後に、大坂へ脱出できました。その後、西軍で唯一自力で帰還を果たして健在であった島津家を頻って、さらに薩摩国へ落延びて行きました。

島津家は鹿児島の対岸で桜島の向こう側の牛根麓の郷士平野家に預け、秀家はその山裾で隠棲の生活を3年間送った後に、島津家や正室豪姫の実家で隠された秀家の娘秀家と豪姫の子どもは二男一女という定説に対し、[歴史に隠された二人の姫がいた]とする説があります。二人の生い立ちは、関ヶ原で敗れた秀家が逃亡中に大坂か伏見で豪姫と会い、その折に双子を宿したのではとも推測されています。秀家が流刑となった際、男子二人は共に流され、豪姫は娘一人を連れて実家の加賀藩前田家に戻りました。この三人以外に前田家に引き取られたとされる二人の娘のうち、一人は「伏見宮御系譜」(大日本史料第十二編)に出てくる「おなくの方」。同系譜によると、おなくの方は「宇喜多秀家女(娘)]で、前田家の養女として伏見宮邦尚親王に嫁いでいます。

もう一人の娘「ふり」は、金沢市・善福寺の文書に記述があります。明暦2年(1656)に善福寺の住職と老女が結婚しており、文書はこの老女を「久福禄(秀家)ご息女]の[おふり様]と紹介しています。「ふり」が末期に至って、金沢藩主から与えられていた百石の知行を、前亡夫との間に設けた息子と娘に相続できるように、藩の奥向き(勝手方=藩主の私的生活)を取り仕切る女性二人に嘆願した書状があります。知行の相続を藩政公務たる公事方ではなく、勝手方の役職者に嘆願しようとしたのは、「ふり」が藩主家系の勝手方に処遇される立場の身分であったことを反映しており、金沢藩主前田利常をして「見捨不被為成」と言わしめた立場を物語っています。

出生の記録が残されていない「ふり」ですが、藩祖前田利家の四男であって、宇喜多秀家の正室豪姫の弟である利常が、身内の二人(姪)と認識していたことの現れと理解すべきでしょう。

備前軍記38

2014年9月14日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第36回「試練の新天地」が放送された。

秀吉は、バテレン20日以内の国外退去の追放令を出した。官兵衛と対立した。

右近は、信長に続き信心を偽れなかった。ルソンに渡りマニラで生涯を閉じた。

官兵衛には豊前7郡が与えられ4万石より12万石となった。

天正15年9月、強引なやり方の肥後の成正の所で造反の火の手があがった。

宇都宮の豊前城井谷が不穏な動きを始めた。長政が逸るのを官兵衛は抑えた。

しかし、長政は城井谷の入り口が開いたままであるのを知り出兵した。罠とは知らず。

☆戸川家記によると

一同18年、小田原御退治として、3月御発向也、浮島ケ原に於て、備前秀家と武者競可有との上意にて、秀吉公異形成る出立也、備前の勢潔白なる出立、肥後守逞敷行粧也、御手勢より備前軍粧甚宜との上意なり、此陣ニハ岡豊前守ハ不立、肥後守一家老として進発す、山中の城責落、翌日、湯本迄責寄、秀吉公松出御本陣なり、肥後守ハ備前の先手にて、湯水之北の山によぢ登り、小田原城首尾に至る、城近し、城内より鉄砲を打て山の峯へ不被

出し、鉄砲可放様なし、中吉与兵衛百挺之頭にて、足軽召連来りて、前二者不被出故空へ放ちける、是ニ而合戦始る音す、天下の御旗本ハ向ふの松山なれハ、近ふして聞へ、則、為上意御使被ド、糒・酒樽卓散に拝領す、堅固に可持固よし御掟也、備前三家老ハ  日替りに先手す、今度ハ押掛りの事なれハ、肥後守首尾(尾首)の山へ押詰陣を取る、長船紀伊守其日の先手に当る故、延原土佐守組頭にて旗印足軽とも押立来る、戸川玄蕃(肥後守弟、後助左衛門)跡勢が具して来る、延原言、今日ハ紀伊守番日なり、玄蕃殿待給へといふ、玄蕃鎚を取て怒て言、何と申そ土佐、敵に向て跡役とて可退か、戦ニ向て戦ニハ当番等にす迚、其場を可渡様なし、宿老歴々なれとも、一足もやるましと鎗を取 て馬より下る、玄蕃(16才也)佐功者ニて、玄蕃殿若して強情なり、尤とて拍て先へ押しむ、中村弥右衛門といふもの旗奉行ニて来る、始紀伊守組子に居たる者也、土佐組の内より言、弥右衛門ハ昨今迄同組ニ居て、今此定を破り不知顔に押と言、弥右衛門返答に、紀伊守殿組ならハ其趣ニすべし、今肥後に従ヘハ不用、武士道不知して申かと言て、旗を進めて尾首山に登り、旗を建けり、是より後此寄口を不去して、柵を振り井楼を上ヶて大筒を打ける、以後金堀を呼て穴を掘、櫓へほり付けるニ内より砂を炒て懸ける也、諸手ともに如此落城迄相詰攻之、其後、小田原滅却して埓明き、奥州へ御進発、備前宰相秀家も御供也、しら川におゐて検地承り、肥後守組家人等を出し、急に検地調ひ、御帰陣の後、賞美金銀等被下、此小田原陣ハ、所々の手様々の城責ニ品あり、備前の手の構ハぬ事ハ不戴之

一同19年の頃、浮田宰相秀家成人ましまし、器量といゝ公儀人前熱申計、天下の御壻にて御威勢盛んなり、家老分ハ代る代る大坂へ詰る、岡豊前守宿老にて、勇武人に勝れ、才智有て、能臣と世にも言へり、秀吉公の御前能して、物事に付て言上して勤之、備前の国仕置、大坂屋鋪ともに一人して申付るに、異儀(議)言ものなし、公私ともに順に熟して、誠に秀吉公の全盛といふへし、肥後守ハ豊州壻たるに依て、家臣の内ニは打続て威あり、大坂幕下に奉進勤、其夏夜に、秀吉公秀家の亭に御成あって、涼所の茶屋に御座、小西摂津守御前にあり、明年高麗御進発の軍儀(議)、茶屋廊下に肥後守踞る、肥後守罷出此様子承り候へと御諚ニて、掾(緑)の上に畏る、小西朝鮮の事を手に取るよふに申上る、御機嫌不斜、御座鋪へ入御の時、茶屋と座敷の間に土檀あり、肥後守負候へと上意にて、奉負て掾に上る、扨々強き負様哉と御褒美なり

 

 

備前軍記37

2014年9月7日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第37回が放送された。

豊前の香春岳に陣を構えた官兵衛のもとに、長政と又兵衛が、秀吉の書状を携えて大坂からやってきた。秀吉が到着する前に、まずは九州の諸将に帰順を説いて戦を避けることが肝要だ。

家康は、秀吉の願いで諸将の前で秀吉の陣羽織をねだる芝居をうった。

天正15(1587)年3月1日、秀吉は出陣の日を迎えた。茶々が廊下で手をついている。島津以上の大物が軍門にくだったと、秀吉は手をたたいて喜んだ。

3月28日、秀吉率いる本軍は九州へ渡り、小倉城に到着した。秀吉の命で早速軍議が開かれ、官兵衛が地図を開いて説明する。

ひと月あまりで、総勢25万で薩摩に入り、島津義久は早々に降伏を願い出た。結局、秀吉は剃髪した義久を許し、領地を取りあげることもしなかった。

九州を平定した秀吉は、6月7日、博多近くの筑前・箱崎に凱旋。大友と島津の戦で焼け野原となった博多の復興を官兵衛と三成に命じた。

秀吉は突如、これまで許してきたキリシタンの布教を禁ずる書状を高山右近に書き送った。信者が増え、力を持ち始めたキリシタンを恐れた

二十日以内に帰国させるバテレン追放令を出した。

九州攻めの働きにより、官兵衛に右近をかばったため二郡減じ六郡豊前国となった。

官兵衛が城井谷城主・宇都宮鎮房に、味方になる代わりに本領を安堵すると約束していた、4百年続く名門・宇都宮一族がいる。

 

☆この頃のことを「戸川家記」によると、

一戸川肥後守達安ハ、永録10年丁卯に生る、初の名は助七 郎と言、成人に及んて、人体健に逞して、太く、長高く、力量あって、若きうちハ相撲を好む、爰に寺尾作左衛門

ハ、大鹿の角を引折、高畠平八ハ、八人舁の石一方に荷 ひ、後ニ持もの挫くる程の強力のものを、前相撲にして不劣、是を取りける、年老て歯など落、白髪に成てハ、二 王杯の様ニ見へたり天正7年に、直家属信長公、輝元の敵として毛利家欝憤を合ミ、秋、小早川隆景備中へ出張して、備前と備中の境、忍城ハ宇喜多家の城なれハ、多勢を以て攻殺し城を 屠る、其後、備前津高郡辛川表へ押込、其時、備前多兵 打出て大成る合戦あり、毛利勢敗北す、是を辛川陣といふ、肥後守13才初陣なり、敵近く馳す、依之、家人討 取首を出ス、若年故首帳に付る、猶原彦右衛門18、9計ニ而、能武者鑓付首取にけり

大正10年4月に、秀吉公備中表江御出陣、時に備前味方申、先手す、手合に備中宮地の城(今足守上の山)備前一手にて責落す、其外、冠城を屠り、其後、高松城水攻、此儀ハ書々にあり不及記、肥後守達安(時に16才)父平右衛門ハ、関東草津へ入湯して留守ゆへ、家老先手役をして高松へ相詰、軍役を勤む、此時分、助七郎秀吉公へ御目見申、御帰陣の 時、毛利家より差出す備中川東九万石余、此度の忠に八郎殿に被下(八郎殿、10歳)6月、明智合戦にも備前より加勢す、人質(平右衛門娘、明石掃部幼少)此時播州姫路にあり

一天正11年、秀吉公柴国修理亮勝家と合戦、志津嶽七本鑓此時に有り、佐久間玄蕃敗北し、柴田勝家逃去、越前北の庄迄追詰給へハ、勝家妻子郎等(党)悉く自害す、この時 備前加勢可有

一同12年、織田信雄郷を秀吉攻め給ふ、神君大勢を卒し、信雄を救ひ玉ふ、長久手にて大に戦て、池田勝入父子・森武蔵守討取、此時、秀吉公大軍10万余之勢、小牧に発 向、備前より大勢登りしと也

一同13年、秀吉公根末寺を攻玉(給)ふ時、和泉国千石堀にて 備前勢軍功あり、根木寺滅却して已後、紀州雑賀へ御発 向有て、諸勢を分て長堤を築き、水攻めの時、備前之丁場堤切、湛たる水落、秀吉公御機嫌悪し、浮田之家臣岡 豊前守御前江出て、私無念にて堤切申候、切腹可被仰付与申上、秀吉公御機嫌直り、ケ様の事ハ不意に有るもの也、

何卒、早く水溜可申与上意也、則、大勢して早速水留堤出 来、水湛て無程落城、其時、助七郎家臣にて向ふ、若年故、豊前守申寸(秀安ハ病気、長船ハ死す故ニ、豊前守壱人ニ而故 豊前守申付備前之仕置も公用も、勿論軍用之事も勤

一同年6月に、四国退治、諸勢先阿波国に向ふ、長曽我部元親弟親安一の宮城に籠る、諸勢攻之時、肥後守家人青井善兵衛といふもの一番に城に入、敵落て人無故、井の釣瓶を取て帰る、高名に成ると言、四国平均して9月開 城となん

一同15年3月、秀吉公九州へ御発向、毛利輝元・浮田秀家(初陣)御先へ九州え下向す、前年より、黒田如水・豊後大友・長曽我部元親・伊千之衆中、下て城等拵へ、浮田・毛利至て都喜枝城を築き、その以後、秀吉公渡海ましまして、豊後・日向の境高城を惣勢攻之、備前の攻口肥後守手より一番に打破る、宮部善祥坊陣に至て、夜、島津義弘来 り攻ム(島津・中務攻るいという説)暁に至て大に戦ふ、島津勢死人山のことくし而引去、此外、豊後府内・岩石城を責(豊前筑前前の堺)、小熊城を責、方々城、九州の城不残攻屠り、大隅・薩摩へ攻入けれハ、島津修理太大義久降参す、筑前博多に暫く御逗留あって御帰陣なり、秀家御供あり、所々におゐて励軍忠、肥後守かせき、夜も不寝、自身夜廻りもせしとなり