9月 2015 のアーカイブ

小堀遠州

2015年9月20日

「岡山人物銘々伝を語る会」第109回 例会(9月)に参加した。
8月の第108回例会は、矢坂山を語る会の坪井 章さんに「坂崎出羽守(浮田詮家の生涯」について語っていただきました。当日はとても盛況で会場は満員でした。やはり、映画・講談でおなじみ の、意地と面子にいきた硬骨の武将ということで、ファンの方が多いのでしょう。矢坂山は大安寺駅の北側にある小さな山ですが、戦 国期ここに、宇喜田忠家(詮家の祖父)によって築かれた(?)富山城がありました。その後、浮田詮家は津和野城主時代を経ますが、何といっても、生涯の中でハイラ イトといえるのは、大坂夏の陣の翌年におきた、千姫奪還未遂事件のことでしょう。坪井さんのお話は、このことのくだりについて、 各種の資料を詳しくあたっておられ、初めてお聞きする事項が多くありました。当時のイギリス東インド会社のリチャード・コックス の日記(1616年10月:和暦10月)によれば、「あくまで も風評として聞いた」こととして、千姫の婚礼行列のものものしい警備ぶりとその後の篭城事件のことが記されていたとのこと。確か に“風評”ゆえのゆがみがありますが、当時の英人をして関心を起こさせたほどの事件であったのは確かでしょう。坪井さんにおかれ ては、見やすくて簡潔なスライドを交えてのご説明とお手間をかけていただきいただきましたこと、ありがとうございました。
今回は、 テーマ: 小堀遠州        講師:福田 明正 氏
小堀遠州は関ヶ原の戦いの戦 功により父政次が備中松山城を賜り、1604年に父政次の死によりその遺領を受け継いだ。彼は茶の湯、華道、日本庭園に独自の流儀を展開 し、江戸時代初期のきっての文化人であります。
しかし高梁では頼久寺の創建 と重要文化財の庭園が有名であります。高梁での小堀遠州の情報は多くありません。当時の歴史文化の華である京都などでの活躍が華々しかっ たと言われています。
従って今回の講演は備中高梁の歴史の流れ、その中の小堀遠州の時代も一時期あったという筋書きでいきます。
遠州の生涯が親の英才教育により「茶の湯」道に初まった。年譜によると、1579(天正7)年 1歳
近江国坂田郡南郷里村大字小堀第九番屋敷(現・滋賀県長浜市小堀町)に小堀家の長子として生まれる。父・小堀新介正次、母・磯野丹波守員正女。幼名は作介、元服後は正一または政一。小堀家は浅井家と姻戚関係にあり、父・正次は出家中も浅井長政に時折出頭。浅井氏滅亡後、秀吉に出頭。のち、大和大納言秀艮に附属し。3千石拝領。
1588(天正16)年    10歳
大和大納言秀長の居城、郡山城にて千利休に初めて会い、その翌日、太閤秀吉への茶の給仕を務める。
1597(慶長2)年    19歳
藤堂高虎の養女を正室として迎える。
所が父が亡くなり、
1600(慶長5)年    22歳
父と共に関ヶ原の戦いで家康の旗本として参じる。家康より1万石加増あり。1万4千4百6十石余を領す。父・正次。命により備中の国務を司り。備中松山城を預かる。
実際に、備中高梁に来るのは、1614(慶長19)年  36歳である。
備中松山城下の頼久寺書院を仮の宿とし。松山城を修理。頼久寺庭園をつくり、御根小屋書院及び池庭もつくる。大坂冬の陣に出陣。家康の旗本に属す。
1619(元和5)年    41歳
9月、備中の領地を、郷里の近江国井郡小室に移される。
1628(寛永5)年 50歳
二条城二の丸作事奉行。嫡子・正之が京都所司代板倉重宗に伴われ、中宮御所に参内し、揮毫して上覧する。板倉重宗、松花堂昭乗などを招いて。茶会を35回催す。
1647(正保4)年   69歳
2月1日。伏見の茶亭で茶会を催したという説あり。2月6日、伏見奉行屋敷で没す。紫野 大徳寺孤蓬庵に葬られる。号・孤篷庵大有宗甫居士。
高梁の備中松山城が遠州に取って初めての築城差配である。わずか2年のことであり、実際には東北より着任した水谷城主が城の完成、玉島港の干拓など行う。
荒廃いていた松山城を再生し、吹屋の銅・鉄鉱業、備中和紙として大高檀紙の振興とその業績は大きい。
記録に残る茶会は37回そのほか年の分からない茶会が50回ある。
(講演DVD)IMG_20150919_0028 IMG_20150920_0004-2 IMG_20150920_0004-3 IMG_20150920_0004-4 IMG_20150920_0005-2

備中倉敷学、龍の仕事展

2015年9月15日

倉敷公民館で倉敷備中学10周年記念講演会として「備中の漢学ー三島中州と渋沢栄一ー」シンポジュウムがあった。パンリストは三島中州創設の二松学舎大学より星泉寿郎ー三島中州、渋沢栄一、二松学舎の関係、浜野靖一郎(法政大学)ー渋沢栄一と漢学、于 臣(横浜国立大学)-中国よりも見た備中倉敷の漢学、丁(関西大学大学院)-朝鮮よりも見た備中倉敷の漢学

コメンテター:見城悌治(千葉大学)、司会:桐原健真(金城学院大学)

その現代的意味を考える貴重な機会だった。2j時間半のDVDを編集した。

さらに関東・東北と大水害があった。河川の恐ろしさは龍に例えらてきた。その脅威は、まだ入り口にしか過ぎない。

龍の仕事展とは、毎年9月に倉敷アイビースクエア内のアイビー学館を会場として高梁川流域のものづくり企業、約30社が企業文化の展示を行い、商品のPRや販売を行っている。2010年の国民文化祭から毎年開催され、今年で5回目を迎える。ます。

「龍」とは高梁川のことで、地域名を持つ川の名称ではなく、流域にあまたの恵みを与えた母なる川として、このイベントでは高梁川を龍と呼んでいる。また、高梁川は古代「吉備のくに」の中核として多くの文化を生み出し、多くの地域をつなげた。

この母なる川を「龍」というひとつのシビックプライドとして掲げ、広く同じ水で生かされている備中エリアの人々がつながり、協力しあうことを目指している。私たちが「龍の末裔」として、この地を愛し、さらに豊かにしていきたいと願うことが、この流域に暮らす人達が生涯に渡って誇り高く、心豊かな生活を営むために必要な生活具を残し、伝え、また新たに企画開発していくことに結びつき、そして固有のライフスタイルを実現していくことを目指したコンセプトだ。母なる川の恵みを受け、この地で「もの」を生み出すことを「なりわい」とする「龍の末裔」の仕事を集めた展示が「龍の仕事展」だ。

ものづくりに関わる企業は、その発生・発展・開発商品が地域特有の気候・風洞・歴史・文化に大きく影響を受けて派生している。すなわち、土着企業の生き残るための工夫こそが、地域と密接に結びつく固有文化を形成する。

資本も人材も弱い地方のブランドが、都市部と戦略的に差別化できる重要な切り口であり、地方にこそ都市のブランドが切り捨ててきた歴史・文化が強く残っている強みを再認識すべきである。今後、海外市場に対しても、日本が次に輸出すべき商品に「文化」=クールジャパンが期待されてる。企業文化の展示とは、商品を売らんがための展示・即売ではなく、しっかりと企業文化に焦点を当てた展示を行いる。企業自体も自らの足元を掘り下げることで、見落としていた自社の付加価値を見直し、「製品」から地域ブランドといった「商品」を生み出す切欠にもなる。

更に、全国から大勢の観光客が訪れる倉敷美観地区の中核的施設である倉敷アイビースクエアを会場として地域企業の展示・商品の販売を行うということは、地域のファンが集まる場所で地域ブランドをPRできる強みに加え、全国各地の人々に対し新商品のテストマーケティングを行うことも可能で、充分にコンベンション機能を有している。加えて、来訪者並びに地域住民には地域の文化を広く学ぶことのできる機会と場の創出として、広域観光学習、企業認知による就業企画の促進にもつながる可能性を持つっている。(龍の仕事展ホームページより)

岡山は三大河川に恵まれたが、治水との戦いであった。 明らかに新しい時代に入った。

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