12月 2015 のアーカイブ

大野小 土光敏夫さん紹介コーナー

2015年12月26日

P1090094-2P1090096-2 P1090101 P1090100-2 P1090099-2 P1090098-2 P1090097-2 IMG_20151225_0002

オセラ 1-2 2016に載った「追悼のモニュメント 79 文と写真/石津圭子」を転載する。
土光敏夫先生記念苑・顕彰碑

改革と率先垂範の財界人
企業再建、行革を遂行した。 『昭和』を代表する経営者。
2015年は、大企業の不正・偽装が相次いだ一年だった。そんななか、岡山市出身の土光敏夫が改めて注目されている。「個人は質素に、社会は豊かに」をはじめ、数々の名言を遺した土光は、東芝会長、経団連会長、臨時行政調査会長を歴任。企業再建、行財政改革などの重責を次々と担い、人々の支持を得ながら結果を出した。『土光敏夫の世界』の著者・猪木正実さんは「土光さんは率先垂範の人。今こそ見習うべきリーダーのあるべき姿」と話す。
土光敏夫は1896年(明治29年)、現在の岡山巾北区北長瀬表町で生まれた。実家は約1ヘクタールの田畑を耕す農家だった。1903三年、大野尋常小学校に入学。当時の校舎は、魚見山や矢坂山の麓にあり、土光少年は山や畑を走り回って遊んだ(小学校は、のちに移転)。ところが、土光の小学校卒業前に父親が腕を痛めて農業を辞め、米穀類やイ草・肥料などを商う仲買商を始めたため、土光は家業を手伝うように。勉強の途中でも、頼まれれば岡山市街まで荷物を運んだ。掘割に小舟を浮かべて米や肥料などを載せ、陸から綱で引いて歩いた。「矢坂山を語る会」の坪井章会長は「この周辺には、かつて網の目のように掘割が広がり、西川まで用水が引かれていました」と教えてくれた。市街まで徒歩で往復2時間。土光は肩に綱をかけて舟を引き、本を読んだ。しかし、県立中学の受験に3回失敗し、私立の関西中学に入学。ここで土光が「偉大な人格」と賞賛する山内佐太郎校長に出会い、影響を受けた。卒業後は大野尋常小学校の代用教員を務めながら勉学に励み、1917年、東京高等工業学校(東京工業大学の前身)機械科に入学。卒業後、石川島造船所に技術者として入社。その後、同社長に就任。播磨造船所との合併を実現し、石川島播磨重工業社長に就任。成長軌道を築いた。この手腕を買われて東芝社長に就任し、経営危機を救った。「財界の名医」と呼ばれた土光のモットーは「社員は3倍、重役は10倍、僕はそれ以上に働く」。無駄は省いても社員は解雇しなかった。「沈まない船はないし、つぶれない企業もない。すべては人間しだい」と土光は対話を重んじた。オイルショックで景気が落ち込んだ一九七四年、経団連会長に就任。夜の宴会を断り、朝七時の朝食会を開いて政策を議論。日本経済に活気を取り戻した。土光の日課は朝晩の読経。朝4時~5時に起きてバスと電車で通勤。自らを厳しく律した。1981年、第二次臨時行政調査会(通称・土光臨調)会長に85歳で就任。
「増税なき財政再建」に挑み、三公社民営化などを実現し、政府の赤字に歯止めをかけた。この頃テレビ番組で、木造の質素な自宅で夕食にメザシを食べる土光の姿が放映されたノメザシの土光さん」と呼ばれ、その暮らしぶりが国民の支持を得て行革を後押しした。土光は慎ましく暮ら すいっぽう。
給料のはんぶんを、母の登美が70歳で創立した学校橘学苑」(横浜市)に注ぎ込んでいた。晩年、岡山市名誉市民、岡山県名誉県民に推され、1986年に勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988年、92歳で他界した。
2014年、岡山市立大野小学校の図書館の一角に「上光敏夫さんコーナー」が開設された。同校の開校記念講演会で土光が話題に上ったが、児童はもちろん、土光敏夫の名前を知らない保護者も多かったからだ。上岡弘明校長は「子どもたちが故郷を愛し、夢を持って羽ばたくきっかけになれば」と話している。
土光は、殷王朝の創始者・湯王の自戒の言葉「日新」を胸に「きょう一日を有意義に」、全力投球で生き抜いた。北長瀬から西川まで歩いてみるだけでも、85歳で国の大手術に挑んだ、その情熱の一端を感じられるのでは。
大野小学校 図書室 土光敏夫さん紹介コーナー
土光敏夫さん紹介本(小学生向きの本)
土光敏夫さん記念碑(土光敏夫記念館)

赤磐市探訪

2015年12月23日

古代に備前の中心地だったと思われる赤磐市を探訪した。
https://www.youtube.com/watch?v=09uasBhkINI
当日の案内デジメを転載。

 牟佐大塚 古墳一一形 方墳(相撲取り山)
円墳(牟佐大塚)
前方後方墳(備前車塚)
前方後円墳(造山古墳)
〔前方後円墳は天皇家一族関係のお墓〕
一一埋葬方法 竪穴石室
(前期古墳)両宮山古墳
横穴石室 (後期古墳)牟佐大塚
お棺  木棺  (竪穴式埋葬に多い)
陶棺 ………(美作地方に多い)
(鶴山丸山古墳のが最初か)
石棺  亀の形(ヒンドゥー教か)
西播磨の竜山石が多い
阿蘇の凝灰岩贅もある。
牟佐の石棺は井原の浪方石。
以上のことから 6世紀(後半)この地域の支配者のお墓。

 両宮山古墳  造山古墳一一作山古橋一一に次ぐ大きさの古墳(県三番目)
時代的にも、造山古墳一作山古墳-に次ぐ。
(5世紀=雄略天皇頃)
葺石がない・埴輪がない⇒ ここことは、築造されただけで
埋葬はされていないことを意味している。
〔この頃、雄略天皇の命で、上道臣の田狭が任那の国司に飛ばされる〕
雄略天皇が、田狭が自慢していた「稚姫」を自分のものにするために、
田狭を国外に飛ばす。    田狭は任那で死んだ。
両宮山古墳は。田狭が吉備に居た時、自分で築造したお墓。

足王神社 足王とは「足尾銅山」の「アシヲ」の発音です。 山陰の方から、銅冶金の神社(ご祭神は大国主命・手名槌命・足名槌命)を勧請した。  奉納所に「鎌」が一杯納められている。
[足王と「足」の字があるから、鎌で足の痛みを切る]と云っているが・・・・・〔痛みが鎌で切り取られるのか〕
カマとは、熊山町では加真と書き、銅の取れる山がある。
〔カの発音は鎔かす。マの発音は銅〕=銅を冶金していた所。

岩田14号墳 後期の横穴式石室。 バスからその場所を確認。古墳から出土した「金銅製環頭太刀」が出土。(資料館に展示中)

資料館  見学

ゆるぎ岩 巨岩が集積しているのは、全体が一つの大巨岩だったのに、幾万年の風化で個々の巨岩になって現在の状態になっている。 ゆるぎ岩は偶然の形状。

宗形神社 宗像神社三神社〔沖津宮(ご祭神は田心姫神)中津宮(瑞津姫神)辺津宮(市杵島姫神)〕元は、玄海灘にある神社だから「海の神様」と一般には思われているが、沖津宮には三角縁神獣鏡が 多く奉納されているし、大己貴神が沖津島に行って田心姫神を娶り、銅鐸の神・昧粗高彦根(古事記では阿遅鋪高日子根神と書く)を生んでいるから金属(銅)の女神。(巫女か)なのに、千木は男性の縦切だった。
少し西には〔素菱嗚命が八岐大蛇を切った時に、その刀を洗ったという「血洗いの滝」もあるから金気(金属・当時は銅)に関係がある土地。
岡山市一宮にある宗形神社は、東側が「赤銅」西側がf大窪」の地名に接している。

石上布都魂神社
素戔嗚尊が八岐大蛇を斬った刀は、日本書紀によれば:
(第二の一書には)【その大蛇を切った剣を(ラマサ)と名づける。これは今石上(石上神宮)にある】と。
(第三の一書には)素戔嗚尊が蛇を断ち斬られた剣は、いま吉備の神部(カムトモノオ)〔神主のこと〕のもとに安置されている。尊が大蛇をきられた地は出雲の簸の川上の山である。
石上布津御魂神社とは書いてない。
だから当社では「吉備の神部の居られた神社」(吉備を代表する唯一の神社)(吉備の一宮)と主張さる。

天理市の「石上神宮」は、神武天皇東征の時偉功をたてた霊剣(師霊(フツノミタマ)とその霊力を「布都御魂フツノミタマ大神」と称し、又、饒速日命降臨に際し天神から授けられた鎮魂の主体である[十種の宝]と霊力を「布留御魂フルノミタマ大神」と称して二神を物部の遠祖・宇摩志摩治命に祭祀を命じた。 崇神天皇七年に物部氏に命じて現地に祭祀させた。

吉備では物部の伝承は、「交野の乙麻呂」として津山・国道53号付近に残る。
石上布津御魂神社近くには「中原」の地名もあり、ハタ氏族の方が多かったのではなかろうか。 [中原の地名の所はハタ氏族の居た地名・・・か]

三代天神 菅原道真(845~903)は、延喜三年(903)に太宰府に左遷され死亡する。都に災害が起こる。道真の崇りだと云って祀る。
ここの三代は祖父・父・本人の三代か 本人・子・孫・菅原平忠の三代かは不明。

DVD撮影公開

石井学区の歴史いろいろ 岡西公民館

2015年12月23日

岡西公民館で「石井学区の歴史いろいろ~身近な文化財の見方~」と題して岡山市埋蔵文化財センター 高橋伸二氏による講演があった。デジメを転載する。
はじめに
指定文化財について
国指定・県指定・市指定
1、埋蔵文化財の見方
・集落遺跡と貝塚
・古墳 (津倉古墳と青陵古墳、矢坂山の古墳群)
・古代~中世の寺院 (石井廃寺)
・城郭 (富山城)
2、神社仏閣と石造物
・妙林寺と常福寺
・国神社
・松山長昌寺地蔵石仏
3、山陽道
・古代中世の山陽道
・近世山陽道(西国往来)
石井廃寺
報恩大師開基伝承のある備前四十八か寺のひとつ。吉乗山(吉祥)石井寺もしくは石井山吉祥寺などの名が残る。寛文6年(1666)池田光政による寺院淘汰により廃寺となる。
石井寺末寺として廃寺となった寺院に、(万成村)正雲坊・自正院。 (島田村)住林坊、(上伊福村)福立山宗蓮寺教音坊・常林坊、(西崎)知仙坊、(高柳村)実相院などがある。
寺域は現在の妙林寺一帯であったとみられる。また、この寺に関する記録はきわめて乏しいものの、北区津寺のには石井寺にあったとされるが伝わっている。
富山城
矢坂山山頂に築かれた連郭式の山城で総延長300mにわたって、中心郭が南
北に連なる。昭和42 ・ 43 年(1967 ・ 1968)発掘調査。
富山城の概史
応仁元年(1467)  松田元隆 富山氏から城を奪い居城とする
文明15年(1481)  松田元成 金川へ帰り弟の元親を城主とする
文明17年(1483)  福岡合戦で元親戦死 親家が城主に
明応6年(1497)  備前国守護代浦上宗助(三石城主)に攻められるが撃退
永禄11年(1568)  松田氏宇喜多直家に滅ぼされる 直家の弟忠家が城主に
天正7年(1573)  毛利氏備前国侵攻 宇喜多忠家備前備中国境で撃退
慶長4年(1599)  忠家の子左京亮信顕(坂崎出羽守)家中騒動により出奔
慶長6年(1601)  小早川秀秋により廃城となる
※ 発掘調査で以下の変遷が明らかになった
明応・永正年間(1491~1521)頃
有事龍城型の中世山城
天文年間後半(1550)頃~永禄10年(1567)
小規模な石垣や一部に瓦葺建物のある戦国末期の山城
宇喜多期 永禄11年(1568)~慶長5年(1600)
石垣や土塀を備え瓦葺の建物の建つ本格的な近世的な山城
小生の調査によると天正17年(1583)岡山城築城の際、浮田詮家(後の坂崎出羽守)が破城・移築させられ家中騒動の原因の一つとなった。
妙林寺
本堂は元文元年(1736)、仁王門は宝暦4年(1754)の建築6池田光政国替の時、鳥取から僧日
意を伴い寛永9年(1632)山崎町(野田屋町)に創建。貞享3年(1686)現在地に移転。授法院・延寿院・観明院・清涼院の塔頭(たっちゅう)寺院がある。
常福寺
本堂は安永4年(1775)の建築。仏像を安置する厨子は。16世紀後半(桃山時代)の作で彫刻・彩色が施される。牛窓大工の作。
寺伝によると養老2年(718)創建。大覚院と称したが永禄年間に浦上宗景が富山城を攻めた際に兵火にかかり焼失。宇喜多氏により保護を受け長福寺と改めたが、小早川秀秋の代に寺領が没収され衰微する。享保元年(1716)常福寺に改められる。昭和24年(1949)牛窓鹿忍の宝光寺の本堂を移築。
国神社
延喜式榊名帳に記載のある式内社とされる。社殿は明治36年(1903)に焼失。
随身門は19世紀後半の建築で石段・鳥居には元禄15年(1702)の銘がある。
松山長昌寺地蔵石仏……:………岡山県指定
花樹岩、自然石の南面に花頭窓風に龕部を彫りくぼめ、半肉彫りにされた地蔵菩薩立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持つ。室町時代の応永1 0年から九年の歳月をかけて彫ちれたもめ。本来は現在地の上部にあった磨崖仏であったゲと言われるが、天保7年、(1836)の大地震で転落し横倒しになったものを、岡山藩から滑車を借りで引き起こしたとの伝承がある。
しかしながら、天保7年には大地震の記録が見当たちず、台風などの風水害で転落しだ可

能性が指摘されている。
写真 1 体内より見つかった木札
2 石井寺にあったとされる立像
3. 石井学区西部・東部(石井寺跡谷万成付近)
DVD撮影