オセラ 1-2 2016に載った「追悼のモニュメント 79 文と写真/石津圭子」を転載する。
土光敏夫先生記念苑・顕彰碑
改革と率先垂範の財界人
企業再建、行革を遂行した。 『昭和』を代表する経営者。
2015年は、大企業の不正・偽装が相次いだ一年だった。そんななか、岡山市出身の土光敏夫が改めて注目されている。「個人は質素に、社会は豊かに」をはじめ、数々の名言を遺した土光は、東芝会長、経団連会長、臨時行政調査会長を歴任。企業再建、行財政改革などの重責を次々と担い、人々の支持を得ながら結果を出した。『土光敏夫の世界』の著者・猪木正実さんは「土光さんは率先垂範の人。今こそ見習うべきリーダーのあるべき姿」と話す。
土光敏夫は1896年(明治29年)、現在の岡山巾北区北長瀬表町で生まれた。実家は約1ヘクタールの田畑を耕す農家だった。1903三年、大野尋常小学校に入学。当時の校舎は、魚見山や矢坂山の麓にあり、土光少年は山や畑を走り回って遊んだ(小学校は、のちに移転)。ところが、土光の小学校卒業前に父親が腕を痛めて農業を辞め、米穀類やイ草・肥料などを商う仲買商を始めたため、土光は家業を手伝うように。勉強の途中でも、頼まれれば岡山市街まで荷物を運んだ。掘割に小舟を浮かべて米や肥料などを載せ、陸から綱で引いて歩いた。「矢坂山を語る会」の坪井章会長は「この周辺には、かつて網の目のように掘割が広がり、西川まで用水が引かれていました」と教えてくれた。市街まで徒歩で往復2時間。土光は肩に綱をかけて舟を引き、本を読んだ。しかし、県立中学の受験に3回失敗し、私立の関西中学に入学。ここで土光が「偉大な人格」と賞賛する山内佐太郎校長に出会い、影響を受けた。卒業後は大野尋常小学校の代用教員を務めながら勉学に励み、1917年、東京高等工業学校(東京工業大学の前身)機械科に入学。卒業後、石川島造船所に技術者として入社。その後、同社長に就任。播磨造船所との合併を実現し、石川島播磨重工業社長に就任。成長軌道を築いた。この手腕を買われて東芝社長に就任し、経営危機を救った。「財界の名医」と呼ばれた土光のモットーは「社員は3倍、重役は10倍、僕はそれ以上に働く」。無駄は省いても社員は解雇しなかった。「沈まない船はないし、つぶれない企業もない。すべては人間しだい」と土光は対話を重んじた。オイルショックで景気が落ち込んだ一九七四年、経団連会長に就任。夜の宴会を断り、朝七時の朝食会を開いて政策を議論。日本経済に活気を取り戻した。土光の日課は朝晩の読経。朝4時~5時に起きてバスと電車で通勤。自らを厳しく律した。1981年、第二次臨時行政調査会(通称・土光臨調)会長に85歳で就任。
「増税なき財政再建」に挑み、三公社民営化などを実現し、政府の赤字に歯止めをかけた。この頃テレビ番組で、木造の質素な自宅で夕食にメザシを食べる土光の姿が放映されたノメザシの土光さん」と呼ばれ、その暮らしぶりが国民の支持を得て行革を後押しした。土光は慎ましく暮ら すいっぽう。
給料のはんぶんを、母の登美が70歳で創立した学校橘学苑」(横浜市)に注ぎ込んでいた。晩年、岡山市名誉市民、岡山県名誉県民に推され、1986年に勲一等旭日桐花大綬章を受章。1988年、92歳で他界した。
2014年、岡山市立大野小学校の図書館の一角に「上光敏夫さんコーナー」が開設された。同校の開校記念講演会で土光が話題に上ったが、児童はもちろん、土光敏夫の名前を知らない保護者も多かったからだ。上岡弘明校長は「子どもたちが故郷を愛し、夢を持って羽ばたくきっかけになれば」と話している。
土光は、殷王朝の創始者・湯王の自戒の言葉「日新」を胸に「きょう一日を有意義に」、全力投球で生き抜いた。北長瀬から西川まで歩いてみるだけでも、85歳で国の大手術に挑んだ、その情熱の一端を感じられるのでは。
大野小学校 図書室 土光敏夫さん紹介コーナー
土光敏夫さん紹介本(小学生向きの本)
土光敏夫さん記念碑(土光敏夫記念館)