3月 2013 のアーカイブ

矢坂山花便2013 5

2013年3月30日

P1070183

P1070185

P1070162

P1070163

P1070172

P1070176
暖かくなるのが一時中断し、染井吉野の開花も一機の満開とは行かない様です。
鯉ヶ池の恋(千姫)桜は、葉桜となり花も僅かした残っていません。葉も中々綺麗です。
鯉(直盛)桜は満開となり花びらが風に吹かれて空を舞うのも優雅なものです。展望台より見ると真っ白な雲が山に浮かんだようです。奈良の吉野山の桜も上から見る景観が素晴らしい所です。
野山の尾根を通り富山城跡への山道でもチラホラとツツジが開いていました。
南の出丸跡の手前の山桜も葉桜となっていました。
二の丸と本丸の間の山桜も少し開きだしました。

矢坂山花便2013 4

2013年3月26日

P1070137

P1070070

P1070071

P1070074

P1070127

P107013125日に鯉ヶ池のツツジが1本咲きました。
26日には奥の恋(千姫)桜は、既に葉桜となり始め、鯉桜(直盛)桜は満期となりました。
染井吉野は1部咲きにも至らず開花がストップしたようです。
 商工会議所に14時まで行くため北長瀬駅より13時前にバスに乗ると平田周りで、次に待っているバスに乗るように云われました。直ぐ来たバスに乗ると一人ばかりで運転手と話しながら行きました。
帰りは北長瀬駅行きがあり寒い風に吹かれながら待っていて、来たバスに乗ると中仙道で降りる羽目になりました。全く当てにならない時刻表です。
 駅前では市民病院の基礎工事の杭打ちが始まっていました。杭打ちは、ボウリングで穴を掘り、セメントを注入する工法で無騒音です。

譲と八重3 譲の誕生

2013年3月25日

学士会館DSC08351b

安中武家屋敷pic09aP1040875

P1040823
写真 譲誕生地 学士会館
   安中市武家屋敷
   牛麓舎跡
   備中松山城
       
山本八重は大河ドラマで今放映されていますので、楠本誠一郎著の「新島八重と新島譲」によると七五三太の誕生につて書いています。
『会津が開城した明治元年(一八六八) からさかのぼること。二五年前の天保14年(1843)1月14日午前、のちの新島譲生まれた。「新島」の姓は新しいものだった。譲の祖父にあたる弁治はもともと「中島」姓だったが、この家を養子に譲ると、母方の姓「新野」を介わせ、「新島」家を立てたという。生まれた場所は、江戸神田一橋外の小川町にある安中藩邸内の新島家。五人目の子が生まれるとき、弁治は「どうせまた女だろう」とあきらめていた。そこへ産婆が飛んできた。「ご隠居さん、お生まれになりました」「どうだい、また女か」「いえ、こんどは坊っちゃんでした」「しめた!」 弁治は、手を叩いて喜んだ。その日は一月十四日。まだ七五三縄が飾られていたので、祖父の「しめた!」と叫んだ言葉と、七五三縄と合わせ、幼名は「七五三太」と名付けられた。老中水野忠邦が断行する天保の改革の厳しさに江戸の人々が辟易していたころのことだった。』
 七五三太が生まれた二年後、遠く会津で山本八重が生まれている。
 方谷マニアックスによると、この5年前の天保9年(1838年)山田方谷は 34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
江戸から帰藩した方谷に待っていたのは「藩校有終館の学頭を命ずる」という藩主からの辞令だった。方谷は百姓だった自分をここまで引き上げてくれた藩主板倉勝職に改めて忠誠を誓う。その翌年、「大塩平八郎の乱」が起こる。世が混乱してきたことを肌で感じる方谷、そんな中方谷は藩の許しを経て「私塾牛麓舎」を開校する。
童門冬二は「山田方谷」の章「白河楽翁の子孫が養子藩主に」に方谷のこの時代のことを「天保七年(一八三六)九月、安五郎(方谷)はそれまで学んでいた佐藤一斎の塾(同門に別れを告げ松山に戻ってきた。藩ではただちに安五郎を有終館学頭に任じ邸宅を御前町に与えた。
 安五郎ははじめて落ち着き、 「これからは学業をもって君恩に報いよう」
 と生き方を定めた。そこで城のある臥牛山の麓に塾を開き、「牛麓舎」と名づけた。門弟に三島中州や矢吹久次郎など様々な入門者が方谷の元に集ってくる。
 同じころ、かれにとってさらに大きな転機が訪れる。それは、天保十三年(一八四二
六月十日に、藩主板倉勝職が桑名藩主松平定永の八男勝静を相続人として迎えたからである。勝静を世子とした直後、藩主の勝職はすぐ安五郎を呼び出し、 「世子の指導を頼む」 と命じた。指導を頼むというのは、学問的な指導だけではなく行政面の指導もしてほしいということだろう。
方谷が教育係をしていた勝静公が江戸にて藩主に就任、勝職は隠居した。また京都で医者の勉強をしていた方谷の弟平人が帰藩し城下で開業した。ようやく近い身内をえた方谷はかねてから折り合いの悪かった妻進と悩んだ末に離婚することにした。それからの方谷はまさに仕事の鬼となる。隠居間もない自分ではあるが、少しでも藩主への恩義を返そうと松山藩の軍備の近代化や戦術の研究などに邁進する。そんなとき、病で床に伏せていた前藩主勝職の様態が急変、方谷は平人を怒鳴りつけ発破をかけるが死の病はすでに勝職を覆っていた。平人らの努力もむなしく勝職はこの世を去り、方谷は深い悲しみに満ち50日の喪に服す。

1 木村のマーチャンさん  [削除] 2013年03月25日 18時35分

新島襄は、方谷が39歳のときに生まれていることになりますね。
新島襄が1864年に21歳で函館から米国に密航する直前に、方谷との接点があるのでしょうか? 続編が楽しみです。

2 野崎のさん  [削除] 2013年03月25日 21時21分

しめしめの「しめた」で「七五三太」という名になったのですか。いろんな名前の付け方があるものですね。
安中藩とのかかわり合いで、方谷と新島襄が結び付いていくのでしょうか。

3 あきちゃんさん  [削除] 2013年03月26日 08時52分

木村のマーチャン
 新島襄が1864年に21歳で函館から米国に密航する時、函館まで高梁藩の快風丸で行っています。方谷は前年59歳には老中板倉勝静の顧問をしていました。
両人が会ったとしてもおかしくないですね。
昨日「山田方谷大河ドラマ放映100万人署名」事務局主催の交流会がありました。方谷マニアックのかたも期待していただきました。
 
野崎のさん
  方谷は新島襄の動きはなんらかで知っていたかも知れせん。ただ、譲が高梁に来たころは方谷は亡くなっていました。

矢坂山花便2013 3

2013年3月24日

P1070045

P1070038

P1070044岡山地方の開花宣言は3月23日の予測の日に出ませんでした。東京の墨田川の桜の満開はヒートアイランドの影響でしょうか。
鯉ヶ池の鯉恋桜は確実に開いてきています。手前の鯉桜も開いてきました。染井吉野は2~3輪咲きました。後楽園の園内の標準木江も同様でしょう。
ウグイスの泣き声も谷にコダマするようになってきました。庭先では対を求めて鳥が追っかけていました。
スベリ山のミツバツツジガは紫色が濃い蕾も見られました。
魚見山では岩井の方から来た人や、麓の大安寺から来た4人の家族連れが、岩の上で市街地を見ながら弁当を食べていました。

矢坂山花便2013 2

2013年3月23日

P1070013P1070021

P1070010

P1070014 孫二人連れて3月31日の植林用モミジを持って鯉ケ池まで上りました。下の孫はまだヨチヨチ歩きです。何回か滑って転んで鳴いていました。途中マツボックリやドングリを拾っていました。遠くでウグイスが「ホーケキョケキョ」鳴いていました。
 鯉ヶ池の鯉恋桜は鯉恋桜はさらに開花が進みました。元気のよい枝から開花するようです。染井吉野に1輪咲いていましたので明日岡山の開花宣言が出るでしょう。山道の染井吉野は矢坂本町が10年前ごろ植樹したもので今頃染井吉野を植えたことは失敗したとの意見があります。矢坂山固有の山桜から増やしたほうが良かったかもしれません。富山城跡付近には花の違う山桜が沢山見られます。
 開花宣言が出て1週間で満開となるため矢坂山登山道は花吹雪が始まっているかもしれません。ツツジその頃より咲はじめ、1週間が見ごろとなります。そのころ遅咲きの与太郎桜が満開となります。
4月13日をツツジ祭りを予定しているためチラホラになってしまっているかもしれません。
 2対の鯉恋桜のどちらを鯉、直盛に、また恋、千姫とするか悩んでします。映画、小説をもう一度検証する必要がありそうです。
 池の鯉は餌に群がって飛び跳ねます。小さいため孫たちに見たか不明です。

矢坂山花便2013 鯉恋桜

2013年3月22日

P1060984

P1060987

桜 052
矢坂山の鯉ヶ池の土手の手前北側にある早咲きの山桜通称「鯉恋桜」の奥の枝に花が見られるようになってきました。
 2本の対なっている「鯉恋桜」は千姫に恋した坂崎出羽守すなわち宇喜多直盛とにちなんでつけました。
入口の山桜を「恋桜」と呼んでいましたが、これは八浜合戦で亡くなった与太郎直盛にちなんで「与太郎桜」と呼ぶことにします。
 富山城跡の山桜はまだ咲く兆候は見られません。
登山道に植えてある染井吉野もつぼみが大きくなってきています。
 鯉ヶ池の鯉は時たま飛び跳ねてちっちゃな波紋を広げています。
 
写真
  鯉恋桜の1部咲き
  2対の鯉恋桜
  手前 与太郎桜 奥 鯉恋桜

[ 拡大 ]

[ 拡大 ]

[ 拡大 ]

明禅寺合戦

2013年3月20日

P1060923-2

P1060926

IMG

IMG宇喜多_0001-2操山歴史ウオークのビデオ18分を公開しました。
テロップとナレーション「明禅寺城は東に8km離れた宇喜多直家の沼城(亀山城の出城として1566年に築城し備中松山城主の三村元親勢に占拠され、直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝ぶりが明禅寺崩しと呼ばれています。
2万の三村・毛利軍が引き帰すのに混乱し、宇喜多軍は5千の兵にも拘らず千丁の鉄砲により逃げる兵を背後より撃ちまくり16000人の死体が無残に野に並ぶことになった日本歴史上残虐な戦いとなりました。」
一段落した所で、明禅寺合戦に焦点を絞った作品の作成の衝動に駆られました。
先日沼公民館で沼城の岡山市歴史保存地区になった記念講演がありました。多くの歴史資料・写真が展示してあり全て写しました。集めきれない貴重な資料です。歴研会長に関係者を紹介いただきました。
講演では、残念ながら明禅寺合戦については触れられませんでした。そこで最後に鉄砲の入手について質問した所、「明禅寺合戦に否定的で鉄砲についても射撃精度からして1600人もでたことは考えられないとのことでした。」「高梁市史に3000人ぐらいしか戻らなかたと記し、備前軍記にハッキリ記してありますし、当時の福岡の安部禅定を通じて可能ではなかった」と質問した所コメントがありませんでした。 
その後中島城主中島大炊の子孫にお会いする機会がありそのことについて話すと、地元に碑があり、全く小規模な合戦であったと記してあるとのことでした。
高梁市史でも3000程度しか戻って来なかたとしています。また、三村がそののち滅亡しますし、方谷の祖先が関係している庄一族も同様です。また、高梁市松山の柳井家は幕末まで幕府に大高檀紙を収めてきたとは云え、高梁藩が戦いとなれば1番に従軍したと云われ影響があったはずです。この戦いが前哨戦となり、高松城水攻め第一の功労者なり、秀家の5大老に繋がっていると見ています。
この辺りを最と調査しいと思っていたところ、庄一族の城であり、方谷の先祖縁の佐々井城跡の近所の先生よりはがきをいただきました。「 今年で12回目を迎える「備中中津井雛の文化祭り」が3月30日(土)、31日(日)に開催されます。真庭市北房地区の中津井は、古くから備中と美作を結ぶ往来の中継地で、代官所のある陣屋町として栄えた歴史のある往時の面影を残してします。  
「雛の文化祭り」では、お寺や民家約50戸に江戸時代後期から現在までの内裏雛などが飾られ、文化協会員の短歌など文芸作品も展示され、町中は青竹や菜の柑でのオブジェで山里の春を演出、温かいおもてなしで人々を迎えてくれます。また、江戸時代末期の輿入れ道中が再現され馬に揺られて輿入れをする花嫁の優雅な時代絵巻はまさに圧巻です。」
 話題が広がりそうです。

木村のマーチャンさん
 2013年03月20日 11時01分
だんだん線から、面に情報がつながってきましたね。いろいろと昔のことがわかってくるのは、どんどん興味が広がります。代官所のある陣屋町は、史跡として一般公開されているのでしょうか?

 野崎のさん
 [削除] 2013年03月20日 11時34分
当時千丁の鉄砲を造るのにどれくらいの資金が人数が日数がいったことでございましょう。連続発砲はできないでしょうから、戦いの時間も相当の時間を要したことと思います。どちらのご意見が正しいともわかりませんが、大変な戦であったことは、想像にかたくなにありません。

 あきちゃんさん
 [削除] 2013年03月21日 05時13分
木村のマーチャン
  代官所のある陣屋町は江戸時代のことで板倉家の亀山藩の分地でした。今は陣屋跡として広場と看板のみでした。資料館があったかもしれません。

野崎のさん
 公式には鉄砲が種ヶ島に渡って数年後のことです。そり以前家族が使っていたとの説もあります。信長は堺より鉄砲を買いました。それを供給したのは、備前福岡すなわち今の長船であったかもしれません。刀鍛冶は、鉄砲を津kらなっかっとの説も有あります。歴史を振り返り、現場検証も必要でしょう。