3月 2013 のアーカイブ

矢坂山花便2013 5

2013年3月30日

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暖かくなるのが一時中断し、染井吉野の開花も一機の満開とは行かない様です。
鯉ヶ池の恋(千姫)桜は、葉桜となり花も僅かした残っていません。葉も中々綺麗です。
鯉(直盛)桜は満開となり花びらが風に吹かれて空を舞うのも優雅なものです。展望台より見ると真っ白な雲が山に浮かんだようです。奈良の吉野山の桜も上から見る景観が素晴らしい所です。
野山の尾根を通り富山城跡への山道でもチラホラとツツジが開いていました。
南の出丸跡の手前の山桜も葉桜となっていました。
二の丸と本丸の間の山桜も少し開きだしました。

矢坂山花便2013 4

2013年3月26日

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P107013125日に鯉ヶ池のツツジが1本咲きました。
26日には奥の恋(千姫)桜は、既に葉桜となり始め、鯉桜(直盛)桜は満期となりました。
染井吉野は1部咲きにも至らず開花がストップしたようです。
 商工会議所に14時まで行くため北長瀬駅より13時前にバスに乗ると平田周りで、次に待っているバスに乗るように云われました。直ぐ来たバスに乗ると一人ばかりで運転手と話しながら行きました。
帰りは北長瀬駅行きがあり寒い風に吹かれながら待っていて、来たバスに乗ると中仙道で降りる羽目になりました。全く当てにならない時刻表です。
 駅前では市民病院の基礎工事の杭打ちが始まっていました。杭打ちは、ボウリングで穴を掘り、セメントを注入する工法で無騒音です。

譲と八重3 譲の誕生

2013年3月25日

学士会館DSC08351b

安中武家屋敷pic09aP1040875

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写真 譲誕生地 学士会館
   安中市武家屋敷
   牛麓舎跡
   備中松山城
       
山本八重は大河ドラマで今放映されていますので、楠本誠一郎著の「新島八重と新島譲」によると七五三太の誕生につて書いています。
『会津が開城した明治元年(一八六八) からさかのぼること。二五年前の天保14年(1843)1月14日午前、のちの新島譲生まれた。「新島」の姓は新しいものだった。譲の祖父にあたる弁治はもともと「中島」姓だったが、この家を養子に譲ると、母方の姓「新野」を介わせ、「新島」家を立てたという。生まれた場所は、江戸神田一橋外の小川町にある安中藩邸内の新島家。五人目の子が生まれるとき、弁治は「どうせまた女だろう」とあきらめていた。そこへ産婆が飛んできた。「ご隠居さん、お生まれになりました」「どうだい、また女か」「いえ、こんどは坊っちゃんでした」「しめた!」 弁治は、手を叩いて喜んだ。その日は一月十四日。まだ七五三縄が飾られていたので、祖父の「しめた!」と叫んだ言葉と、七五三縄と合わせ、幼名は「七五三太」と名付けられた。老中水野忠邦が断行する天保の改革の厳しさに江戸の人々が辟易していたころのことだった。』
 七五三太が生まれた二年後、遠く会津で山本八重が生まれている。
 方谷マニアックスによると、この5年前の天保9年(1838年)山田方谷は 34歳 家塾「牛麓舎」を開校する。
江戸から帰藩した方谷に待っていたのは「藩校有終館の学頭を命ずる」という藩主からの辞令だった。方谷は百姓だった自分をここまで引き上げてくれた藩主板倉勝職に改めて忠誠を誓う。その翌年、「大塩平八郎の乱」が起こる。世が混乱してきたことを肌で感じる方谷、そんな中方谷は藩の許しを経て「私塾牛麓舎」を開校する。
童門冬二は「山田方谷」の章「白河楽翁の子孫が養子藩主に」に方谷のこの時代のことを「天保七年(一八三六)九月、安五郎(方谷)はそれまで学んでいた佐藤一斎の塾(同門に別れを告げ松山に戻ってきた。藩ではただちに安五郎を有終館学頭に任じ邸宅を御前町に与えた。
 安五郎ははじめて落ち着き、 「これからは学業をもって君恩に報いよう」
 と生き方を定めた。そこで城のある臥牛山の麓に塾を開き、「牛麓舎」と名づけた。門弟に三島中州や矢吹久次郎など様々な入門者が方谷の元に集ってくる。
 同じころ、かれにとってさらに大きな転機が訪れる。それは、天保十三年(一八四二
六月十日に、藩主板倉勝職が桑名藩主松平定永の八男勝静を相続人として迎えたからである。勝静を世子とした直後、藩主の勝職はすぐ安五郎を呼び出し、 「世子の指導を頼む」 と命じた。指導を頼むというのは、学問的な指導だけではなく行政面の指導もしてほしいということだろう。
方谷が教育係をしていた勝静公が江戸にて藩主に就任、勝職は隠居した。また京都で医者の勉強をしていた方谷の弟平人が帰藩し城下で開業した。ようやく近い身内をえた方谷はかねてから折り合いの悪かった妻進と悩んだ末に離婚することにした。それからの方谷はまさに仕事の鬼となる。隠居間もない自分ではあるが、少しでも藩主への恩義を返そうと松山藩の軍備の近代化や戦術の研究などに邁進する。そんなとき、病で床に伏せていた前藩主勝職の様態が急変、方谷は平人を怒鳴りつけ発破をかけるが死の病はすでに勝職を覆っていた。平人らの努力もむなしく勝職はこの世を去り、方谷は深い悲しみに満ち50日の喪に服す。

1 木村のマーチャンさん  [削除] 2013年03月25日 18時35分

新島襄は、方谷が39歳のときに生まれていることになりますね。
新島襄が1864年に21歳で函館から米国に密航する直前に、方谷との接点があるのでしょうか? 続編が楽しみです。

2 野崎のさん  [削除] 2013年03月25日 21時21分

しめしめの「しめた」で「七五三太」という名になったのですか。いろんな名前の付け方があるものですね。
安中藩とのかかわり合いで、方谷と新島襄が結び付いていくのでしょうか。

3 あきちゃんさん  [削除] 2013年03月26日 08時52分

木村のマーチャン
 新島襄が1864年に21歳で函館から米国に密航する時、函館まで高梁藩の快風丸で行っています。方谷は前年59歳には老中板倉勝静の顧問をしていました。
両人が会ったとしてもおかしくないですね。
昨日「山田方谷大河ドラマ放映100万人署名」事務局主催の交流会がありました。方谷マニアックのかたも期待していただきました。
 
野崎のさん
  方谷は新島襄の動きはなんらかで知っていたかも知れせん。ただ、譲が高梁に来たころは方谷は亡くなっていました。

矢坂山花便2013 3

2013年3月24日

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P1070044岡山地方の開花宣言は3月23日の予測の日に出ませんでした。東京の墨田川の桜の満開はヒートアイランドの影響でしょうか。
鯉ヶ池の鯉恋桜は確実に開いてきています。手前の鯉桜も開いてきました。染井吉野は2~3輪咲きました。後楽園の園内の標準木江も同様でしょう。
ウグイスの泣き声も谷にコダマするようになってきました。庭先では対を求めて鳥が追っかけていました。
スベリ山のミツバツツジガは紫色が濃い蕾も見られました。
魚見山では岩井の方から来た人や、麓の大安寺から来た4人の家族連れが、岩の上で市街地を見ながら弁当を食べていました。

矢坂山花便2013 2

2013年3月23日

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P1070014 孫二人連れて3月31日の植林用モミジを持って鯉ケ池まで上りました。下の孫はまだヨチヨチ歩きです。何回か滑って転んで鳴いていました。途中マツボックリやドングリを拾っていました。遠くでウグイスが「ホーケキョケキョ」鳴いていました。
 鯉ヶ池の鯉恋桜は鯉恋桜はさらに開花が進みました。元気のよい枝から開花するようです。染井吉野に1輪咲いていましたので明日岡山の開花宣言が出るでしょう。山道の染井吉野は矢坂本町が10年前ごろ植樹したもので今頃染井吉野を植えたことは失敗したとの意見があります。矢坂山固有の山桜から増やしたほうが良かったかもしれません。富山城跡付近には花の違う山桜が沢山見られます。
 開花宣言が出て1週間で満開となるため矢坂山登山道は花吹雪が始まっているかもしれません。ツツジその頃より咲はじめ、1週間が見ごろとなります。そのころ遅咲きの与太郎桜が満開となります。
4月13日をツツジ祭りを予定しているためチラホラになってしまっているかもしれません。
 2対の鯉恋桜のどちらを鯉、直盛に、また恋、千姫とするか悩んでします。映画、小説をもう一度検証する必要がありそうです。
 池の鯉は餌に群がって飛び跳ねます。小さいため孫たちに見たか不明です。

矢坂山花便2013 鯉恋桜

2013年3月22日

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桜 052
矢坂山の鯉ヶ池の土手の手前北側にある早咲きの山桜通称「鯉恋桜」の奥の枝に花が見られるようになってきました。
 2本の対なっている「鯉恋桜」は千姫に恋した坂崎出羽守すなわち宇喜多直盛とにちなんでつけました。
入口の山桜を「恋桜」と呼んでいましたが、これは八浜合戦で亡くなった与太郎直盛にちなんで「与太郎桜」と呼ぶことにします。
 富山城跡の山桜はまだ咲く兆候は見られません。
登山道に植えてある染井吉野もつぼみが大きくなってきています。
 鯉ヶ池の鯉は時たま飛び跳ねてちっちゃな波紋を広げています。
 
写真
  鯉恋桜の1部咲き
  2対の鯉恋桜
  手前 与太郎桜 奥 鯉恋桜

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明禅寺合戦

2013年3月20日

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IMG宇喜多_0001-2操山歴史ウオークのビデオ18分を公開しました。
テロップとナレーション「明禅寺城は東に8km離れた宇喜多直家の沼城(亀山城の出城として1566年に築城し備中松山城主の三村元親勢に占拠され、直家は奪還を果たすと共に三村軍を迎え撃って完勝し、その大勝ぶりが明禅寺崩しと呼ばれています。
2万の三村・毛利軍が引き帰すのに混乱し、宇喜多軍は5千の兵にも拘らず千丁の鉄砲により逃げる兵を背後より撃ちまくり16000人の死体が無残に野に並ぶことになった日本歴史上残虐な戦いとなりました。」
一段落した所で、明禅寺合戦に焦点を絞った作品の作成の衝動に駆られました。
先日沼公民館で沼城の岡山市歴史保存地区になった記念講演がありました。多くの歴史資料・写真が展示してあり全て写しました。集めきれない貴重な資料です。歴研会長に関係者を紹介いただきました。
講演では、残念ながら明禅寺合戦については触れられませんでした。そこで最後に鉄砲の入手について質問した所、「明禅寺合戦に否定的で鉄砲についても射撃精度からして1600人もでたことは考えられないとのことでした。」「高梁市史に3000人ぐらいしか戻らなかたと記し、備前軍記にハッキリ記してありますし、当時の福岡の安部禅定を通じて可能ではなかった」と質問した所コメントがありませんでした。 
その後中島城主中島大炊の子孫にお会いする機会がありそのことについて話すと、地元に碑があり、全く小規模な合戦であったと記してあるとのことでした。
高梁市史でも3000程度しか戻って来なかたとしています。また、三村がそののち滅亡しますし、方谷の祖先が関係している庄一族も同様です。また、高梁市松山の柳井家は幕末まで幕府に大高檀紙を収めてきたとは云え、高梁藩が戦いとなれば1番に従軍したと云われ影響があったはずです。この戦いが前哨戦となり、高松城水攻め第一の功労者なり、秀家の5大老に繋がっていると見ています。
この辺りを最と調査しいと思っていたところ、庄一族の城であり、方谷の先祖縁の佐々井城跡の近所の先生よりはがきをいただきました。「 今年で12回目を迎える「備中中津井雛の文化祭り」が3月30日(土)、31日(日)に開催されます。真庭市北房地区の中津井は、古くから備中と美作を結ぶ往来の中継地で、代官所のある陣屋町として栄えた歴史のある往時の面影を残してします。  
「雛の文化祭り」では、お寺や民家約50戸に江戸時代後期から現在までの内裏雛などが飾られ、文化協会員の短歌など文芸作品も展示され、町中は青竹や菜の柑でのオブジェで山里の春を演出、温かいおもてなしで人々を迎えてくれます。また、江戸時代末期の輿入れ道中が再現され馬に揺られて輿入れをする花嫁の優雅な時代絵巻はまさに圧巻です。」
 話題が広がりそうです。

木村のマーチャンさん
 2013年03月20日 11時01分
だんだん線から、面に情報がつながってきましたね。いろいろと昔のことがわかってくるのは、どんどん興味が広がります。代官所のある陣屋町は、史跡として一般公開されているのでしょうか?

 野崎のさん
 [削除] 2013年03月20日 11時34分
当時千丁の鉄砲を造るのにどれくらいの資金が人数が日数がいったことでございましょう。連続発砲はできないでしょうから、戦いの時間も相当の時間を要したことと思います。どちらのご意見が正しいともわかりませんが、大変な戦であったことは、想像にかたくなにありません。

 あきちゃんさん
 [削除] 2013年03月21日 05時13分
木村のマーチャン
  代官所のある陣屋町は江戸時代のことで板倉家の亀山藩の分地でした。今は陣屋跡として広場と看板のみでした。資料館があったかもしれません。

野崎のさん
 公式には鉄砲が種ヶ島に渡って数年後のことです。そり以前家族が使っていたとの説もあります。信長は堺より鉄砲を買いました。それを供給したのは、備前福岡すなわち今の長船であったかもしれません。刀鍛冶は、鉄砲を津kらなっかっとの説も有あります。歴史を振り返り、現場検証も必要でしょう。

譲と八重(新島譲の密航) 2 幕末の密航者

2013年3月19日

前回 「行くも帰るも天国か地獄」に書いたように、板倉勝静は、幕末の高梁藩主であり幕府老中であった。
幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前藩に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。
  今回 「幕末の密航者」をインターネトで検索すると、橘耕斎に関して記しています。出身は掛川藩士、つまり静岡県人です。伊豆沖で難破したディアナ号の船員がロシアに帰る際、その便船でロシアへ密航。サンクトペテルブルグでロシア語を学んだあとに、後年ロシアの外交官として活躍した人物です。1870年にはペテルブルク大学初の日本語の講師にまでなっています。1873年、岩倉使節団としてロシアを訪れた岩倉具視に説得され、日本に帰国。しかしその後高輪の源昌寺に籠り世に出る事なく1885年(明治18年)生涯を閉じました。
  「薩英同盟」の締結を機に薩摩藩から幕府の定めでご法度であった、「密航」を藩ぐるみ画策。藩内の厳しい選抜で14名もの俊英を選び、これに藩の監督官や通訳など5人を加えて、合計19名がイギリスに密航しました。一方、薩摩藩のライバル、長州藩も1861~1864年の文久年間に5人の藩士をイギリスに秘密留学させています。これが有名な「長州ファイブ(5)」と呼ばれる面々で、その5人こそが、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉です。この5人の秘密留学に際して、長州藩は費用として約5000両を用意したといいますが、これは現在の価値に換算すると5億円以上になります。
  他に密航した著名人中に新島襄の名があります。 大木喬任:文部卿として近代的な学制を制定 森有礼: 明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施 近藤真琴:攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍 中村正直: 同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊 新島襄: 同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育 福澤諭吉: 慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名 の中の新島譲は、上州(現群馬県)安中藩の人で、江戸生まれ。元服した際に友人からアメリカの地図書を見せられたことがきっかけで、アメリカの制度を知るようになり、アメリカに憧れを持つようになります。 その後、幕府の軍艦操練所などで洋学を学んでいましたが、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。 そしてアメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、箱館に潜伏。その折、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、カサートキンによってより聖書に興味を持つようになります。 これに対して、カサートキンは自分の弟子になるよう勧めましたが新島はこれを拒否。アメリカ行きの強い意思は変わらなかったため、逆にカサートキンがその密航に力を貸すことになり、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に密出国の計画を練るようになります。 1864年(元治元年)の6月、新島ら3人は、函館港から秘密裡に米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号という別の船に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後アメリカではその名を使い始め、後年の帰国後も「譲」「襄」と名乗るようになります。
  譲が函館より密航した年には、方谷60歳 6月、勝静、老中職を免職。11月、方谷、長州征伐出兵をした後の留守部隊の指揮を任命されています。 (続く) 写真 玉島 羽黒神社     橘耕斎     板倉勝靜
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羽黒800px-Haguro_Shinto_shrine_sanctuary 橘044_01 勝静436px-Katsukiyo_Itakura

「山田方谷の足跡を辿る」ビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=7qIvQZVDU-g

コメント

1 野崎のさん  [削除] 2013年03月18日 11時35分
ジョン万次郎や大黒屋 光太夫など遭難により出国した人しか知りませんでした。松陰の密航失敗は長州ファイブの何年前でしょう。たった6年くらいのものです。先見の明があった長州藩、もっと早く松陰を頭に密航させていたら、松陰の悲劇はおこらず、維新後の状態も変わっていたかもしれません。
2 あきちゃんさん  [削除] 2013年03月19日 04時54分
松陰の密航を企てたのは1864年ですので、新島譲の密航の5年後の事です。松陰のことについてはよく調べてまた載せます。今の感覚では、国対国の交渉を妨害した面もあり今でも同様なことが多くあるのではないでしょうか。松陰のパファ-マンスで、高梁藩の方が色んな面で進んでいたようです。長州藩すなわち毛利の人材が勝ったことによる後世への曲解もあるでしょう。長州ファイブは伊藤博文など5人を藩が横浜よりヨーロッパに密航させたのですね。 「譲と八重」では高梁藩から60名もの密航ができたか検証します。ご意見をよろしく。 野崎のサンにはいつも勉強させられます。 ありがとうございます。

 木村のマーチャンさん
 2013年03月20日 23時49分
安中藩の藩主と板倉勝静とは、兄弟だったのですか?その縁で、新島襄は快風丸に乗れたのでしょうか?
新島襄が1864年に密航し、1872年に岩倉使節団にアメリカで会い、通訳をして欧州に渡り、木戸孝允と知己になったのも幸運のひとつなのでしょうね。
その後、1874年に宣教師として帰国するわけですが、「八重の桜」でどのように展開するのか楽しみです。
それと、大阪城の金蔵の説明で、幕末に大金が盗まれたとの話がありました。これは、函館戦争か、海外渡航費用に使われたようなニュアンスがありましたが、少しつながってくるように思われます。
 あきちゃんさん
 2013年03月21日 04時57分
安中藩は板倉家の分家筋にあたり、板倉 勝清から3代続きました。今の群馬県上野あたりです。元は三重亀山藩に徳川の松平家から養子にいったとか、京都守護職を務めました。新島襄が航海術を習っていて、その練習がてらに、快風丸に乗せてもらったのが縁です。
この物語の結論を言ってしまうことになりますが、板倉勝静の海外逃亡に用意した2000両が藩士の逃亡費用に流用されたかもしれません。その時、山田方谷はどのようにかかわったか、創作になるでしょう。

八重と譲

2013年3月13日

P1030045P1040868 P1040871先週のNHK大河ドラマ「八重の桜」の最後に新島譲が函館より密航船に乗る様子が一瞬放映されました。この人が同志社大学を創立し、八重と結婚するとは気が付いた人は少なかったかもしれません。益してや高梁藩、山田方谷が関係しているとは思いよらないでしょう。さらに60人からアメリカに密航があったとしたら興味が湧きます。この辺りを含めて検証できたらと考えています。
高梁藩士の密航については南カルホルニア岡山県人会の慰霊碑の裏に「1869年 明治2年5月 函館戦争に敗れ 老中板倉勝静備中松山藩主警護の藩士ら64名は郷地無く 軍商人に従いオレゴン州オンタリオに入り農園と鉄道に就労した」と記されています。ガボチャンによると会津藩にも同様な話がありシアトルのコロシアムを作って生活していたと云われるが実態は把握されていないとのことです。
「行くも帰るも天国か地獄」に書いたように、板倉勝静は、幕末の高梁藩主であり幕府老中であった。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・7スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。
参考 You Tube
「山田方谷の足跡を辿る」
国会中継 平沼「備中聖人と称される山田方谷(やまだほうこく)とは」

(続く)

ご意見

 野崎のさん   2013年03月13日 20時46分
備中松山藩の60有余名が密航とは知りませんでした。新政府に敗れた人々が、渡航許可申請するはずがありません。いろんな絡み合いがあっておもしろいですね。勝った側の歴史ばかり習い知っておりましたね。
2 あきちゃんさん  2013年03月14日 06時31分
野崎のさん  博識の野崎のさんせえ知られなかったとは書きがいがあります。このシリ-ズの中でなんらかの面白し情報が得られればと考えています。ご期待下さい。昨年ロスアンゼルス訪問の収穫です。無政府状態でした。しかもご承知のようには五稜郭に新政府を樹立しょうとしたころですね。これから触れてゆきますが新島譲それ以前ですし、吉田松陰は密航に失敗しますね。

操山ウオーク 公開

2013年3月12日

操山歴史ウオーク「操山歴史ウオークを」You Tubeに公開しました。岡山県立図書館に3枚DVD, 岡山大学図書館に1枚寄贈しました。岡山デジタル百科に近日公開されるでしょう。審査会がありますが。
https://www.youtube.com/watch?v=X8c8cFVfJ7g に公開しています。
公開コメントは
「操山歴史ウオーク
平成25年1月12日に岡山歴史研究会主催の「操山歴史ウオーク」が開かれ、44名が参加した。恩徳寺、明禅寺城跡、萩の塚古墳、旗振台古墳・展望台、操山裏山古墳、八畳岩古墳、二股古墳、円山不動明王、妙見大菩薩・八大竜王、高倉山磐座、金蔵山古墳、沢田大塚古墳など探訪した様子を18分のビデオとした。
特に明禅寺合戦は、鮮烈な鉄砲戦、岡山城築城、高松城水攻めの前哨戦として着目される。沖新田も見逃せない。」
今回は難産でした。2ヶ月掛りました。とりあえず1月で出来て県立図書館でチェックいただいたところ、数日前に10数件の指摘があり、無理題もありましたが何とか修正しました。お蔭で満足ゆく作品が出来ました。特に、恩徳寺のミシンの扁額を説明を「へんがく」と聞き、テロップを額絵として、ナレーションもそれで入れてもらっていたところ、指摘があり、吹き込み直しました。教科書にも出てくる絵なので危ないところでした。感謝、感謝。
皆さん見ていただいてヒット数を上げてください。