3月 2013 のアーカイブ

譲と八重(新島譲の密航) 2 幕末の密航者

2013年3月19日

前回 「行くも帰るも天国か地獄」に書いたように、板倉勝静は、幕末の高梁藩主であり幕府老中であった。
幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前藩に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。
  今回 「幕末の密航者」をインターネトで検索すると、橘耕斎に関して記しています。出身は掛川藩士、つまり静岡県人です。伊豆沖で難破したディアナ号の船員がロシアに帰る際、その便船でロシアへ密航。サンクトペテルブルグでロシア語を学んだあとに、後年ロシアの外交官として活躍した人物です。1870年にはペテルブルク大学初の日本語の講師にまでなっています。1873年、岩倉使節団としてロシアを訪れた岩倉具視に説得され、日本に帰国。しかしその後高輪の源昌寺に籠り世に出る事なく1885年(明治18年)生涯を閉じました。
  「薩英同盟」の締結を機に薩摩藩から幕府の定めでご法度であった、「密航」を藩ぐるみ画策。藩内の厳しい選抜で14名もの俊英を選び、これに藩の監督官や通訳など5人を加えて、合計19名がイギリスに密航しました。一方、薩摩藩のライバル、長州藩も1861~1864年の文久年間に5人の藩士をイギリスに秘密留学させています。これが有名な「長州ファイブ(5)」と呼ばれる面々で、その5人こそが、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉です。この5人の秘密留学に際して、長州藩は費用として約5000両を用意したといいますが、これは現在の価値に換算すると5億円以上になります。
  他に密航した著名人中に新島襄の名があります。 大木喬任:文部卿として近代的な学制を制定 森有礼: 明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施 近藤真琴:攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍 中村正直: 同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊 新島襄: 同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育 福澤諭吉: 慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名 の中の新島譲は、上州(現群馬県)安中藩の人で、江戸生まれ。元服した際に友人からアメリカの地図書を見せられたことがきっかけで、アメリカの制度を知るようになり、アメリカに憧れを持つようになります。 その後、幕府の軍艦操練所などで洋学を学んでいましたが、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。 そしてアメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、箱館に潜伏。その折、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、カサートキンによってより聖書に興味を持つようになります。 これに対して、カサートキンは自分の弟子になるよう勧めましたが新島はこれを拒否。アメリカ行きの強い意思は変わらなかったため、逆にカサートキンがその密航に力を貸すことになり、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に密出国の計画を練るようになります。 1864年(元治元年)の6月、新島ら3人は、函館港から秘密裡に米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号という別の船に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後アメリカではその名を使い始め、後年の帰国後も「譲」「襄」と名乗るようになります。
  譲が函館より密航した年には、方谷60歳 6月、勝静、老中職を免職。11月、方谷、長州征伐出兵をした後の留守部隊の指揮を任命されています。 (続く) 写真 玉島 羽黒神社     橘耕斎     板倉勝靜
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羽黒800px-Haguro_Shinto_shrine_sanctuary 橘044_01 勝静436px-Katsukiyo_Itakura

「山田方谷の足跡を辿る」ビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=7qIvQZVDU-g

コメント

1 野崎のさん  [削除] 2013年03月18日 11時35分
ジョン万次郎や大黒屋 光太夫など遭難により出国した人しか知りませんでした。松陰の密航失敗は長州ファイブの何年前でしょう。たった6年くらいのものです。先見の明があった長州藩、もっと早く松陰を頭に密航させていたら、松陰の悲劇はおこらず、維新後の状態も変わっていたかもしれません。
2 あきちゃんさん  [削除] 2013年03月19日 04時54分
松陰の密航を企てたのは1864年ですので、新島譲の密航の5年後の事です。松陰のことについてはよく調べてまた載せます。今の感覚では、国対国の交渉を妨害した面もあり今でも同様なことが多くあるのではないでしょうか。松陰のパファ-マンスで、高梁藩の方が色んな面で進んでいたようです。長州藩すなわち毛利の人材が勝ったことによる後世への曲解もあるでしょう。長州ファイブは伊藤博文など5人を藩が横浜よりヨーロッパに密航させたのですね。 「譲と八重」では高梁藩から60名もの密航ができたか検証します。ご意見をよろしく。 野崎のサンにはいつも勉強させられます。 ありがとうございます。

 木村のマーチャンさん
 2013年03月20日 23時49分
安中藩の藩主と板倉勝静とは、兄弟だったのですか?その縁で、新島襄は快風丸に乗れたのでしょうか?
新島襄が1864年に密航し、1872年に岩倉使節団にアメリカで会い、通訳をして欧州に渡り、木戸孝允と知己になったのも幸運のひとつなのでしょうね。
その後、1874年に宣教師として帰国するわけですが、「八重の桜」でどのように展開するのか楽しみです。
それと、大阪城の金蔵の説明で、幕末に大金が盗まれたとの話がありました。これは、函館戦争か、海外渡航費用に使われたようなニュアンスがありましたが、少しつながってくるように思われます。
 あきちゃんさん
 2013年03月21日 04時57分
安中藩は板倉家の分家筋にあたり、板倉 勝清から3代続きました。今の群馬県上野あたりです。元は三重亀山藩に徳川の松平家から養子にいったとか、京都守護職を務めました。新島襄が航海術を習っていて、その練習がてらに、快風丸に乗せてもらったのが縁です。
この物語の結論を言ってしまうことになりますが、板倉勝静の海外逃亡に用意した2000両が藩士の逃亡費用に流用されたかもしれません。その時、山田方谷はどのようにかかわったか、創作になるでしょう。

八重と譲

2013年3月13日

P1030045P1040868 P1040871先週のNHK大河ドラマ「八重の桜」の最後に新島譲が函館より密航船に乗る様子が一瞬放映されました。この人が同志社大学を創立し、八重と結婚するとは気が付いた人は少なかったかもしれません。益してや高梁藩、山田方谷が関係しているとは思いよらないでしょう。さらに60人からアメリカに密航があったとしたら興味が湧きます。この辺りを含めて検証できたらと考えています。
高梁藩士の密航については南カルホルニア岡山県人会の慰霊碑の裏に「1869年 明治2年5月 函館戦争に敗れ 老中板倉勝静備中松山藩主警護の藩士ら64名は郷地無く 軍商人に従いオレゴン州オンタリオに入り農園と鉄道に就労した」と記されています。ガボチャンによると会津藩にも同様な話がありシアトルのコロシアムを作って生活していたと云われるが実態は把握されていないとのことです。
「行くも帰るも天国か地獄」に書いたように、板倉勝静は、幕末の高梁藩主であり幕府老中であった。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・7スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。
参考 You Tube
「山田方谷の足跡を辿る」
国会中継 平沼「備中聖人と称される山田方谷(やまだほうこく)とは」

(続く)

ご意見

 野崎のさん   2013年03月13日 20時46分
備中松山藩の60有余名が密航とは知りませんでした。新政府に敗れた人々が、渡航許可申請するはずがありません。いろんな絡み合いがあっておもしろいですね。勝った側の歴史ばかり習い知っておりましたね。
2 あきちゃんさん  2013年03月14日 06時31分
野崎のさん  博識の野崎のさんせえ知られなかったとは書きがいがあります。このシリ-ズの中でなんらかの面白し情報が得られればと考えています。ご期待下さい。昨年ロスアンゼルス訪問の収穫です。無政府状態でした。しかもご承知のようには五稜郭に新政府を樹立しょうとしたころですね。これから触れてゆきますが新島譲それ以前ですし、吉田松陰は密航に失敗しますね。

操山ウオーク 公開

2013年3月12日

操山歴史ウオーク「操山歴史ウオークを」You Tubeに公開しました。岡山県立図書館に3枚DVD, 岡山大学図書館に1枚寄贈しました。岡山デジタル百科に近日公開されるでしょう。審査会がありますが。
https://www.youtube.com/watch?v=X8c8cFVfJ7g に公開しています。
公開コメントは
「操山歴史ウオーク
平成25年1月12日に岡山歴史研究会主催の「操山歴史ウオーク」が開かれ、44名が参加した。恩徳寺、明禅寺城跡、萩の塚古墳、旗振台古墳・展望台、操山裏山古墳、八畳岩古墳、二股古墳、円山不動明王、妙見大菩薩・八大竜王、高倉山磐座、金蔵山古墳、沢田大塚古墳など探訪した様子を18分のビデオとした。
特に明禅寺合戦は、鮮烈な鉄砲戦、岡山城築城、高松城水攻めの前哨戦として着目される。沖新田も見逃せない。」
今回は難産でした。2ヶ月掛りました。とりあえず1月で出来て県立図書館でチェックいただいたところ、数日前に10数件の指摘があり、無理題もありましたが何とか修正しました。お蔭で満足ゆく作品が出来ました。特に、恩徳寺のミシンの扁額を説明を「へんがく」と聞き、テロップを額絵として、ナレーションもそれで入れてもらっていたところ、指摘があり、吹き込み直しました。教科書にも出てくる絵なので危ないところでした。感謝、感謝。
皆さん見ていただいてヒット数を上げてください。

矢坂山 ツツジ祭 平成25年

2013年3月9日

矢坂山ツツジ祭

ツツジ祭り20130413

平成25年3月5日

矢坂山を語る会

矢坂山の桜、ツツジが楽しみな季節となってきました。群生地が多く見つかっています。山の散策の前に講演会の時間を設けました。振ってご参加ください。

 

1部     講演会

演題:「落城後の松田氏と冨山氏の後裔」

講師:玉松会会長(松田家主従の会、香川県詫間在住)

場所:大野コミュニティーハウス

受付:平成25年4月13日(土)9時より

定員:50名(予約要)

会費:500円(資料代など)

講演:9時30分より10時30分

 

2部     桜・ツツジ散策会

雨天:翌週に順延

集合:大野コミュニティーハウス

会費:無料

昼食・飲み物:各自持参

出発:平成25年4月13日(土)11時

行程: →魚見山 →すべり山 →富山城二丸跡(昼食) →本丸跡 →鯉ケ池

→野山尾根 →野山見晴台 →法事古墳 →大安寺駅方向 →ハウス帰着15時

 

申込書

氏名

住所

Tel/Fax

E-mail

講演会

参加・ 不参加

散策会

参加・ 不参加

Fax,E-mailで申込み願います。

申込み締切:3月30日

駐車場が狭いため電車・自転車・徒歩でなるべく願います。

 

お問合せ、申込み先 矢坂山を語る会 事務局 坪井 章

〒700-0961 岡山市北区北長瀬本町25番15-5号

Tel/Fax 086-252-0007

E-mail tsuboi@ballade.plala.or.jp

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/