1月 2014 のアーカイブ

備前軍記6

2014年1月29日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第4回「新しい門出」は、越前浅井家に逃れていた足利義昭が全国の諸大名に三好を討ち上洛の誘いの訴状を送ったことにより、御着城主小寺と共に、家来の黒田にも訴状が来た。小寺の嫡子は赤子の若さで黒田に疑心暗鬼となる。

小寺城主の狩の下調べの時、播磨国印南郡(現在の兵庫県加古川市志方町)の志方城主・櫛橋伊定の娘お光に出会う。永禄10年(1567年)頃、櫛橋伊定の姉娘は目薬屋の黒田に嫁ぐのを嫌がり、妹のお光を養女とし、官兵衛に嫁がせる。その時、小寺官兵衛と名乗り、父より家督を譲られる。

 信長は美濃の稲葉城を秀吉の策にとり手に入れ、岐阜城とし、天下布武を宣言する。永禄11年(1568年)に越前の足利義昭を招き上洛を成す。

この頃、備前では明善寺合戦があった。 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2013/03/20/%e6%98%8e%e7%a6%85%e5%af%ba%e5%90%88%e6%88%a6/

 これに至るまで宇喜多直家は、天文3年(1534年)、祖父・能家が島村盛実らによって暗殺されたとき、わずか6歳だった直家は父・興家と共に放浪の人生を送ったという。砥石城で能家が打たれ、父と共に鞆に逃れと云われているが、草戸千軒であったと思われえる。さらに、備前福岡の阿部禅定に匿われていたころ三村元勝の娘に一目惚れし、備中まで赴くが家柄が違うと見もほろほろに断られたところからとも云われる。

 黒田家”礎”の備前福岡に、永正8(1512)年に近江の黒田村(現、滋賀県長浜市木之本町)を追われた黒田官兵衛の曽祖父・高政と祖父・重隆が移住する。そしてこの地で黒田家再興の基礎を築き、父・職隆が生まれて間もなく播磨に移住し、官兵衛と子・長政の代には大名、大大名へと発展する。

備前福岡について長船町史で見てみる。

古代において、町域は邑久郡に属し、律令時代に設定された「郷」は、戸数を単位として定められ、もともと地理的な範囲や境界をさし示すものではなかった。中世の荘園・公領は、郷・保の内実はもちろん古代のものとは大きく異なっており、荘園と同様の性格をもつ。いまその分有状況を概観すると、この町城では中枢部はほとんど国衛領であり、荘園は周縁部に位置していた。

福岡庄は平安末期に成立していたが、平氏没落後は、平氏ゆかりの荘園ということで頼朝の管理下に入った。

福岡庄は全体のごくごく一部であり、そしてその古井村分の一部が、長船町に属している。謙倉時代の市が確認でき、また、刀鍛冶史料としても興味深い貴重な史料も含んでいる。古備前太刀銘文が残っている。

  備前国土師郷住(以下欠)/宝治二年戊中八(以下欠)

刀剣鑑定家の間では「古備前」といえば平安時代末期から鎌倉時代初期をいい、代表的な 刀鍛冶として実作も確認されている。この後、福岡一文字や少し遅れて吉岡一文字、そして長船鍛冶も一大流派を築くことになり、「日本刀の黄金時代」を形成する。

福岡一文字の刀鍛冶「鍛冶成宗」が、荘園内における鍛冶だとすると、鋤・鍬・鎌などの農具生産や修繕が考えられるが、その保有田地の面積をみると、押領使や「樋ロロロロ」がそれぞれ五反、四反であるのに比べ、その五倍近くも年貢が免除される控除分が圧倒的に多い。

備前福岡市については、鎌倉時代に作成された絵巻物の傑作『一遍聖絵』のなかに活写されており、大変有名である。一遍が、この地に布教に訪れたのは弘安元(1278)年の冬のことであった。絵の場面では吉備津宮神主の息子は従者二人を率いて一遍に襲いかかろうとしている。彼の妻が夫の不在中、一遍にすすめられて無断で出家してしまったことに怒り、一遍を追跡してきたのである。

「市」に関係する最も早いものとしては、正喜元(1257)、次いで、元弘3(1333)年の史料になると、はっきりと「市場」が登場してくる。市場の開設や運営にあたって、福岡庄の荘園領主が何らかの管理権をもっていた。福岡市というのはこれら福岡庄にいくつかあった市の集合名詞であった。吉井川と山陽道の交差するあたりの交通上の要衝にあった。

鎌倉後期の福岡庄には、新しく台頭してきた武士や農民たちの活動に、しだいに旧来の荘圈制の枠にはおさまらなくなってきた。もっぱら地頭吉井氏の力に頻って年貢収入を確保するのみであり、しかもその年貢額も大幅に減少していた。胎動は社会体制全体をも揺るがす大きな動きとなり、確かに南北朝内乱の時代へと向かっていた。

応仁元(1467)年、将軍足利義政のあとの相続問題で、応仁の乱が勃発した。いわゆる戦国時代である。備前統一に向かう福岡合戦が文明15(1483)年から翌年にかけての浦上方と松田方の攻防戦が起こっている。

備前軍記5

2014年1月23日

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第3回「命の使い道」は、広峯神社の「おたつ」が浦上に嫁ぐとき官兵衛の父黒田職隆の養女とした。官兵衛が室津城に着いたとき既に赤松に殺されていた。

御着城に帰っても赤松を討てず失意のどん底であった。美濃では、稲葉山城を、竹中半兵衛らが占拠していた。

父の案により、小寺城主より堺に鉄砲購入の命が出る。この時祖父より「命の使い道」の言葉を貰う。1543年のは種子島への火縄銃伝来している。1506年(永正3年)には北条早雲が松平方の西三河の岩津城を攻撃した際に、四方鉄砲を放つとある。備前でも宇喜多直家が三村家親の暗殺、明善寺合戦で鉄砲隊を組織した。この鉄砲は備前福岡の阿部善定に命じ鉄砲を大量に買い入れさせた。善定の船は堺、西は北九州博多を往復して火薬とともに鉄砲を仕入れてきた。

永禄の変が永禄8年(1565年6月17日)、三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)と松永久秀らの軍勢によって室町幕府第13代将軍足利義輝が京都二条御所に襲撃され、討死した事件が起こり無政府状態となっていた。

 堺への旅路で盗賊に会い荒木村重に助けられその道案内で堺に着く。今井宗久より鉄砲購入を約す。またこの時、教会で悩みから解かれ、後に入信することとなる。

 この頃を前回同様「備前軍記」より転記する。

『「宇喜多と根田の和睦の事並びに三村家親が備前へ侵入する事」

 文明(一四六九~一四八六)の初め、松田左近将監元成が、守護赤松に叛いて西備前を治めるようになって以後、松田氏は出雲の尼子氏と結び、代々浦上氏・宇喜多氏と戦塵の収まる暇もないほど合戦を繰り返してきた。

 しかし近年尼子氏が衰えたため、松田氏もまた勢力が衰えた。この形勢をみた直家は、松田左近将監に和議を申し入れた。松田は早速了承し、以後は浦上宗景の先鋒となり、左近将監自身天神山城へ出仕した。直家には二人の娘があったが、宗景の命令でその一人をこの左近将監に嫁がせ、他の一人を美作の三星城主後藤摂津守勝元の妻とした。

 また備中の成羽城主三村紀伊守家親は、年来毛利元就の摩下となって、伯耆の不動ヶ嶽や法性寺の城にあって、休む暇なく尼子勢と合戦に明け暮れていた。そのため自国の防衛が行き届かず、それに乗じて松田氏らがしばしば備中に兵を出して領地を侵犯した。

 しかし当時は尼子の勢力が衰え、僅かに出雲の富田城ひとつを維持するに過ぎなくなったから、三村家親は暫く本国に帰って領地を固め、松田氏を討ちたいと毛利元就に願った。元就もその願いを了承し、望みにまかせて備中へ帰した。

 さて宗親が備中へ戻ってみると、松田は宇喜多と和睦し、浦上宗景の摩下として備中進出を企いるという。このことを知った家親は、先手を取って備前に進出して岡山城を攻め、ついで舟山城(現岡山市原)を討ち、金光与次郎・須々木豊前らを降参させて備中へ引き揚げた。』

備前軍記4

2014年1月17日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第2回は、御着城主小寺 政職に仕え、父と共に龍野城主赤松と戦い戦功を上げた。この当時、信長は美濃の稲葉城を攻略していた。軍師竹中半兵衛は秀吉の知略に驚く。一方、官兵衛は、広峯神社の「おたつ」と恋仲であったが、室津の浦上清宗に嫁いだ夜、赤松に攻められた(1564年)。

備前でも松田、宇喜多など浦上との覇権が続いていた。「備前軍記」によると赤松政則の元服と備前国打ち入りの事(1462年)、松田左近将監が赤松家に叛く事(1483年)など続き、当時の合戦として次の記述がある。

『「浦上政宗父子が殺害され、ついで浦上清宗が殺害される事」

浦上宗景の兄の掃部助政宗は、播州室の城にあったが、生まれつき暗愚であったので、弟宗景に圧倒されて振るわなかった。

この政宗の嫡子を小次郎といった(一説には与四郎という)。小次郎は姫路城主黒田官兵衛の娘を妻に迎え、永禄七半(1564)正月11日婚礼を行った。その夜小塩の赤松晴政は、婚礼の騒ぎに乗じて忍びの者を放ち、政宗・小次郎を殺害させた。しかしその家臣の江見河原五郎らは、小次郎の弟三郎九郎清宗という者を擁立し、室の城を取り仕切っていた。

注 政宗の法名は実厳祐貴、小次郎の法名は寿盛という。

さて小次郎の妻に迎えた黒田官兵衛の娘を三郎九郎の妻とし、その間に一人の男児が生まれた。これが久松である。

ところが天神山城の浦上宗景が江見河原五郎をかたらい、清宗を討ち首級を差し出せば、恩賞に所領を与えようと利をもって誘った。 利に迷った江見河原五郎はこの誘いに乗り、永禄十年五月十八日の月待ちの夜、清宗を殺し、かれは天神山城へ遁走した。しかしかれは母親を室に残したため、母親は串刺しにされて殺された。その時の狂歌に、かれはかねて鼓の上手であったから、

三拍子そろひてけりな江見河原主うち親うち鼓さへうつ 三郎九郎清宗(法名を江月恵観という)の子久松は幼年であったから、室に住むことも出来ず小塩に移ったが、九歳のとき宇喜多直家の備前岡山へ迎えられたという。』

官兵衛は既に娘がいた事となる。永禄10年(1567年)頃、孝高は父・職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘の光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

冨山城の櫓道

2014年1月16日

富山城絵図によると二丸、三丸、本丸、北丸の城郭の少し下に4ヶの櫓が書かれている。

富山城松田2

現在、本丸に至るには三丸付近は採石により両側が断崖の狭い道となっている。

櫓の痕跡もないが、二丸入り口当たり本丸に行けるか探索した。

雑木林に入ると、落ち葉が積もっていて足をとられそうになる。シキビが多く生えていて、行く手を遮る木をノコ・ナタで切って前へ進む。ツツジも多くあるが葉も花も無いこの時期、間違って切らないよう気を付ける。直ぐ右手の上に本道が見える。

「やまとしろさくら(学名オオシマザクラ)」の大木の下あたりにツツジが群生している。又、ツツジの下に一面に苗が群生していた。昨年、矢坂山のツツジの種を鉢に水苔をひき蒔き芽が出た。この種より花が咲くまで10~20年かかる。

P1020329

少し行ったその先は、断崖絶壁で本道に上がった。ここまで2時間かかったが、本丸は程遠かった。

本丸の先で吉備の中山の吉備津彦神社を見ながら、昼食を食べた。

P1020346

帰りは、断崖の下に降り見上げると絶景であった。一部木と共に崩れていた。

P1020352 P1020364 P1020366

ジャノヒゲのヒスイ色の実が見られた。

P1020379麓は見られず、池の上に出ってそれを周ると墓地に出た。明治期ヒラタケ栽培に成功した太田○造翁碑が立っていた。P1020391

備前軍記3

2014年1月9日

今、北側 019 今、北側 022-1 今、北側 025 今村宮

NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」が始まった。

官兵衛の祖父・重隆の代に黒田家は備前・福岡から姫路に移り、広峯神社の御師(おし)が配る神符(おふだ)とともに黒田家秘伝の目薬を売って財を蓄え、黒田家発展の基礎を築いた。天文15年11月29日(1546年12月22日)に万吉が生まれ、永禄2年(1559年)、母親を亡くし、文学に耽溺したと言われる幼少時代が放映された。

誕生当時、備前では宇喜多直家が、浮田大和を攻め砥石落城させ活躍が始まった。

戻って、富山城より金川城に本城を移した背景を推測する。

松田元国鎌倉幕府崩壊の直前、神奈川七曲山城より備前国伊福郷に転じて、鎌倉9代将軍守邦親王に奉仕し、その功により備前国守護に任ぜられた。富山城を築き、本拠地とした。別の説では松田盛朝が1221年承久の乱に髄兵し、その功によって鎌倉幕府より備前国に領地を賜ったとある。松田元澄1467年応仁の乱が起こると、東軍の赤松氏方に付き、西軍の山名氏を追い落とした功績により、赤松氏の被官となり、伊福郷の守護代に相当する地位に就いた。1483年頃備前国西部に確固たる勢力を築いた。松田元成松田元澄の子。相模松田家6代松田直頼の次男ともいわれている。尼子義久の娘を室とした。官途は左近将監。備前松田家中興の祖と称され、1480年居城を富山城から金川城に移した。吉井川を境にして浦上氏に対抗していた。山名俊豊と結んで主家赤松氏や浦上氏に対抗し、浦上則国拠る福岡城を攻略。攻撃してきた浦上氏を1483年福岡合戦に於いて撃破した。その後元成は浦上氏本拠三石城まで追撃をしたが、浦上則宗の反撃にあい自刃した。元成は妙国寺を建立し、元成、元勝、元隆の三代は熱心な日蓮宗不授不施派で、備前に日蓮宗を興降させたといわれる。

今村宮の旧社後録の「神田」の条つぎの通り。

神田、正親町院御宇平信長卿(注、織田信長)の時、西備前西野田庄城主能勢大和前司範光并屋久利(刺)斎宮介重雄、同州富山城主松田豊後守等一戦ノ刻、燈油料八段五畝範光ヨリ寄附也、然ルニ慶長六年羽柴中納言秋秀ヨリ被召上 今ニ今村ノ内。神子用ト云。

(利)刺の誤りあると調査結果判明

https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2012/05/16/%e8%a5%bf%e9%87%8e%e7%94%b0%e5%ba%84%e5%9f%8e/

土光家は備前松田家松田元成の弟、備前富山城主松田親秀の子孫である。備前松田家が宇喜多氏に滅亡させられた後、落ち武者となり、帰農した。土光姓に改姓したが、土光という姓は日蓮宗の経文の中から引用した苗字である。土光敏夫(元経済団体連合会会長臨時行政調査会会長)は岡山県御津郡大野村北長瀬村字辻(現在の岡山市北長瀬)に生まれた。熱心な日蓮宗の信者で、「メザシの土光さん」と親しまれ、質素な生活と率先垂範の行動は多くの人々に感動と勇気を与えた。土光本家は大野村村長を務め、今でも北長瀬表町の南野育成園で貢献している。

初詣

2014年1月5日

NHKの出雲大社の大国主命より伊勢神宮の天照天照天神への国譲りのスペッシャルを見た後初詣に出かけた。
北向八幡宮、吉備津彦神社(獅子舞)、楯築弥生墳丘墓、王墓の丘史跡公園、造山古墳、千足古墳、3日に吉備津神社、御陵(中山茶臼山古墳)、再度吉備津彦神社(龍王太鼓)と参拝した。P1020023

大体の年代順に書く。
御陵(中山茶臼山古墳)宮内庁によって吉備津彦命の陵墓参考地として管理されている。
40年ぶり参拝すると周りは公園として整備されていた。

 

P1020183P1020187P1020191
楯築弥生墳丘墓は、王墓山丘陵の北側に弥生時代後期(2世紀後半~3世紀前半)に造営された首長の墳丘墓である。福山から来た夫妻に聞くと備後一宮の事を「いきゅうさん」と云い、市久の話しや、拝殿が朱で鮮やかな色で、建築関係の方で、母屋の柱、臍、外板にベンガラを塗っていたことを話すと古民家は防腐剤の役割で塗ってあり、外板に焼き板を使っていた。別れるとき奥さんが桜の蕾がすでに膨らんで来ているのを見つけた。P1020061P1020046P1020087P1020090P1020082P1020066P1020069
造山古墳の周濠は、平成22年に行われた岡山大学文学部考古学研究室の試掘調査で存在が確認された。幅約20メートルと推定されている。

P1020105
千足古墳には、石障(仕切り石)の表面には直弧文の装飾があった。現在テントに覆われている。石障が石室から取り外され、岡山市埋蔵文化財センターに運び込まれる。

P1020107P1020114
吉備津神社は、栄西の生誕地を庭園に 800年遠忌で整備が始まっている。この日は矢竪の神事が行われていた。

P1020139P1020142P1020163P1020177
吉備津彦神社では、吉備の中山のメンバーが紹介コーナー、甘酒を販売していた。

DSC03525
2日は獅子舞、3日には龍王太鼓があり大勢の見物人だった。

P1020202P1020225P1020226P1020229P1020234

ジャンボ椎茸

2014年1月2日

P1010976 P1010979 P1010985 P1010998 P1020016 DSC03493 DSC03495 DSC03500年末大掃除の時、榾木にシイタケが初めてあるのを見つけました。
そして、NHKの紅白終わると共に神道山に家内とお参りしました。遠くの除夜の鐘を終わると西の方で花火が上がってました。「おめどとう」の挨拶を交わしながら、神殿に着くと「おおー」の声と共に鏡開きの神事が行われていました。お供物を手渡しで厳かなものです。
正野田のFさんと魚見山に登りながら年ごとにたどり着くのに時間がかかりました。見山の初日の出は、例年通り7時17分に上がりました。大安寺西町のIさんとお孫さんは備前軍記の土井土肥経平縁の大安寺東町から上がって来たそうです。
雑煮共に大きなシイタケが出て孫の手と比較して写真にとりました。新年早々の自然のめぐみの味わいです。
年賀状の1枚の次の言葉に感動しました。
『みずから光る輝くロウソクは、どんな宝石よりも美しい マイケル・ファラデー』