NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第16回「上月城の守り」は、毛利の安国寺恵瓊の調略により別所の三木城を始め寝返り播磨は分断された。秀吉は西の毛利と東の別所、双方に備えるため、姫路の北にある書写山に本陣を移した。石田三成が本陣づくりの兵士たちの指揮をした。援軍として来た村重は、信長に命じられたとおり自分の兵は三木城攻めに使うと言う。竹中半兵衛は病床にあり、また鮮血を吐いた。
越後の上杉謙信が急な病で命を落とした翌4月、信長は右大臣、右近衛大将というすべての官職を辞任した。
毛利はまず、お家再興を願う尼子勢が守りを固めている西の上月城を取り戻そうと、山陰道からは吉川元春、山陽道からは小早川隆景。宇喜多と合わせ、総勢五万の軍勢が取り囲んだ。宇喜多直家は岡山城で仮病を使い弟の忠家を派遣した。籠城の尼子は鹿之介1人気勢を上げるが700名でしたなかった。官兵衛は、脱走兵を装った九郎右衛門を敵陣に送り、言葉巧みに毛利軍の一部を上月城に誘い込んで、だまし討ちにした。城門は閉めず逃した。敵を皆殺しにすれば、怒り狂って全軍で攻め寄せてくるが、さらに策があるのではと疑い、時を稼ぐことにした。
天正6(1578)年5月、信長の下知を受けて、信忠率いる明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛ら、織田家中のおもだった武将たちもすべて三万の援軍が書写山に到着した。官兵衛は懸命に信忠に訴えたが、援軍は全軍三木城に向かった。
籠城からひと月半、上月城は飢えと戦っていた。秀吉は上月城を遠望できる高倉山に陣を構えた。なすすべも無く信長に救援を求めると、信長の返答は簡潔かつ明確だった。
「猿。上月は見捨てよ」
☆ 一宮の毛利軍の宿陣へ、宇喜多直家のもとより使者が到来した。口上の趣は、直家が重病のため病床に臥し出陣仕り難いというものであった。直家は人数ばかり差し出せと命じ、長船又右衛門・岡平内・戸川平右衛門・明石三郎左衛門・浮田七郎兵衛・花房助兵衛・岡剛介・沼本新右衛門・中村三郎左衛門・足立太郎左衛門・高取備中・伊賀左衛門・富山半右衛門・市五郎兵門・芦田五郎太郎・延原内蔵允・浮田河内・小原孫次郎人道親明・楢原監物・江原兵庫など一万五千余騎が岡山を出発し、毛利勢の先陣となって進軍した。
こうして寄せ手の総勢六万五千余騎が上月城を幾重にも包囲して陣を取った。そして二宮佐渡守が鬨をなしたのを皮切りに、全軍これに続き怒濤のように攻め寄せた。秀吉は
4月晦日、上月城の後詰めとして四万余騎をもって向かい、高倉山に布陣したが、備前勢はこの秀吉の後詰めの軍を押さえるため、高倉山の尾根続きに陣を取った。先陣は中村三郎左衛門、二陣は浮田七郎兵衛・富川平右衛門、その次に明石・長船・岡が控え、合わせて一万五千余騎が配備された。
隆景は山上に備え、元春は上月城の麓の平地に布陣した。そのころ毛利勢は、南蛮渡来の台無しの大砲を持っていたが、5月10日、杉原常陸の部隊より水の手櫓を砲撃して撃ち壊し、吉田三郎左衛門を撃ち殺した。ある夜のこと、城中から忍びの者を出し、その大砲を奪取しようとしたが、何分重量があって持ち運びができず、城下の谷へ転落させた。寄せ手はこれを取り戻そうと、夜中に侍、雑兵を動員したが、城内から寺本市之丞勝重と名乗る侍が櫓から矢を矢継ぎ早に射ちかけた。夜ではあったがその矢に当たって射殺されるものが少なくなかった。
このような小競り合いのつづくうちに、京都から信長の二男北畠信雄、三男神戸信孝を大将とし、八万余騎の大軍が加勢として出発した。
また信忠も5月7日、三万騎をもって出陣し、摂津国に控えているという情報が毛利・宇喜多側に伝えられたから、上月城の後詰めの軍に攻め掛かることも、城攻めに掛かることも軽率にはできなかった。