4月 2014 のアーカイブ

備前軍記18

2014年4月25日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第16回「上月城の守り」は、毛利の安国寺恵瓊の調略により別所の三木城を始め寝返り播磨は分断された。秀吉は西の毛利と東の別所、双方に備えるため、姫路の北にある書写山に本陣を移した。石田三成が本陣づくりの兵士たちの指揮をした。援軍として来た村重は、信長に命じられたとおり自分の兵は三木城攻めに使うと言う。竹中半兵衛は病床にあり、また鮮血を吐いた。

越後の上杉謙信が急な病で命を落とした翌4月、信長は右大臣、右近衛大将というすべての官職を辞任した。

毛利はまず、お家再興を願う尼子勢が守りを固めている西の上月城を取り戻そうと、山陰道からは吉川元春、山陽道からは小早川隆景。宇喜多と合わせ、総勢五万の軍勢が取り囲んだ。宇喜多直家は岡山城で仮病を使い弟の忠家を派遣した。籠城の尼子は鹿之介1人気勢を上げるが700名でしたなかった。官兵衛は、脱走兵を装った九郎右衛門を敵陣に送り、言葉巧みに毛利軍の一部を上月城に誘い込んで、だまし討ちにした。城門は閉めず逃した。敵を皆殺しにすれば、怒り狂って全軍で攻め寄せてくるが、さらに策があるのではと疑い、時を稼ぐことにした。

天正6(1578)年5月、信長の下知を受けて、信忠率いる明智光秀、滝川一益、丹羽長秀、佐久間信盛ら、織田家中のおもだった武将たちもすべて三万の援軍が書写山に到着した。官兵衛は懸命に信忠に訴えたが、援軍は全軍三木城に向かった。

籠城からひと月半、上月城は飢えと戦っていた。秀吉は上月城を遠望できる高倉山に陣を構えた。なすすべも無く信長に救援を求めると、信長の返答は簡潔かつ明確だった。

「猿。上月は見捨てよ」

☆ 一宮の毛利軍の宿陣へ、宇喜多直家のもとより使者が到来した。口上の趣は、直家が重病のため病床に臥し出陣仕り難いというものであった。直家は人数ばかり差し出せと命じ、長船又右衛門・岡平内・戸川平右衛門・明石三郎左衛門・浮田七郎兵衛・花房助兵衛・岡剛介・沼本新右衛門・中村三郎左衛門・足立太郎左衛門・高取備中・伊賀左衛門・富山半右衛門・市五郎兵門・芦田五郎太郎・延原内蔵允・浮田河内・小原孫次郎人道親明・楢原監物・江原兵庫など一万五千余騎が岡山を出発し、毛利勢の先陣となって進軍した。

こうして寄せ手の総勢六万五千余騎が上月城を幾重にも包囲して陣を取った。そして二宮佐渡守が鬨をなしたのを皮切りに、全軍これに続き怒濤のように攻め寄せた。秀吉は

4月晦日、上月城の後詰めとして四万余騎をもって向かい、高倉山に布陣したが、備前勢はこの秀吉の後詰めの軍を押さえるため、高倉山の尾根続きに陣を取った。先陣は中村三郎左衛門、二陣は浮田七郎兵衛・富川平右衛門、その次に明石・長船・岡が控え、合わせて一万五千余騎が配備された。

隆景は山上に備え、元春は上月城の麓の平地に布陣した。そのころ毛利勢は、南蛮渡来の台無しの大砲を持っていたが、5月10日、杉原常陸の部隊より水の手櫓を砲撃して撃ち壊し、吉田三郎左衛門を撃ち殺した。ある夜のこと、城中から忍びの者を出し、その大砲を奪取しようとしたが、何分重量があって持ち運びができず、城下の谷へ転落させた。寄せ手はこれを取り戻そうと、夜中に侍、雑兵を動員したが、城内から寺本市之丞勝重と名乗る侍が櫓から矢を矢継ぎ早に射ちかけた。夜ではあったがその矢に当たって射殺されるものが少なくなかった。

このような小競り合いのつづくうちに、京都から信長の二男北畠信雄、三男神戸信孝を大将とし、八万余騎の大軍が加勢として出発した。

また信忠も5月7日、三万騎をもって出陣し、摂津国に控えているという情報が毛利・宇喜多側に伝えられたから、上月城の後詰めの軍に攻め掛かることも、城攻めに掛かることも軽率にはできなかった。

矢坂山花便2014⑤

2014年4月20日

4月12日がツツジ最盛期でした。15日には矢坂本町のオオソマザクラが咲き始めていました。
山は日陰に奥の方までツツジの蕾が開き、谷の奥までツツジ見られました。最初に咲いた木は既に新緑に蔽われていました。富山城跡本丸北のアズキナシに白い蕾が沢山ついていました。P1030147
南の出丸から鯉が池に降りる道より野山の尾根に群生するツツジが見事でした。P1030150
各道の傍や少し奥にはツツジの苗が群生している個所が増えてきました。P1030146昨年ツツジの種を蒔いたのが多少効果があったでしょうか。P1030163自宅で水蘚に蒔いたツツジは5~10cmに成長しました。
今年も11月ごろツツジの種を収穫し来年4月に蒔き歩くことを続けると全山ツツジの絨毯に蔽われるのではないかと夢が膨らみます。

野崎のさん

次々に花が開いて、楽しめますね。ツツジは花も色もやや地味ですが、きれいですね。
全山ツツジに覆われる、姿私も想像しております。頑張ってください.

あきちゃんさん

野崎のさん、
ミツバツツジは咲き始め紫色で、やがてピンクとなります。現種で地味ですが、花後葉が出る山ツツジは少ないです。
RSKのアナウンサーが岡山には見山霧島ツツジより素晴らしツツジがあると宣伝していました。矢坂山と今開花している高梁市の奥の弥高山と間違われます。ここはレンゲツツジで売り出したのですが、最近テレビ、新聞でミツバツツジの名所として報道されています.

みどりさん

新緑の中の躑躅・・・桜とは又違った魅力があります。
小さな苗にも花が咲くのですね。
躑躅の種・・・じっくり見た事がありません。
種を蒔いて、育てる・・・山がピンク色になるでしょうか・・・
楽しみですね。
何年位で人の背丈を超すのでしょうか・・・

あきちゃんさん

みどりさん、
桜も日本古来のものでしょうがミツバツツジも固有のもののようです。山火事の後、最初に咲き始めると云われ強い植物です。
花の後、5mm位の実が付き、その中に多数の種があります。背が低いので山の外からは見られないでしょう。2~4mなると云われ背の高さには2~30年かかるのでしょう。日当たりが悪いと背のみが高くなり貧弱で先に少ししか花を付けません。

 

マッチャンさん

全山ツツジの山いいですね。種から育てるのもいいですが、親株近くに今たくさん生えている小さな苗を人海戦術で散策道沿いに植えこむと数年は早いのでは? その気になれば1000本なんて比較的簡単では?

あきちゃんさん

マッチャンさん、
奥の方の群生していた苗を持って帰って植えて見ましたが、失敗しました。ツツジの根は浅く親株から根を張って株が大きくなっています。乾燥に弱ようです。挿し木にした見ましたがこれも失敗しました。王子が岳はそこのツツジの種を採取して岡山大学の農学部の研究室で栽培して現地の学生が植樹しているそうです。水やりが大変だと思います。
幸い矢坂山は落ち葉が多く、梅雨前の春先に蒔いておくと芽が出るようです。
持ち山が多いため地権者の許可が要りますが、反対者はいないと思います。如何に根回しするか良い案がりましたら教えて下さい。

 

 

 

 

備前軍記17

2014年4月17日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第15回「播磨分断」は天正6(1578)年元日安土城に信長が家臣を招き茶会が開かれた。秀吉は播磨攻略により毛利攻め大将に命じられ、毛利攻略に成功すれば播磨を与えると云われる。秀吉は播磨の地大名に信長につけば領地安堵の気でいた。一方、村重は石山本願寺との和睦がならず、失敗を信長に報告すると秀吉の配下として毛利攻をするよう命じられた。

このころ播磨では、官兵衛の義兄の志方城の左京進が安国寺恵瓊の調略もあり毛利に付くと対立がはっきりしてきた。信長の残獄なやり方に恐怖と毛利の領地の安堵に靡いた。

二月、秀吉は播磨へ戻り、加古川城において毛利攻めの評定を開いた。三木城当主の別所長治の名代の賀相が秀吉を差し置いて場を仕切った。毛利の調略により播磨が秀吉の領地となる噂に多くの地大名が寝返っていった。

☆    毛利・宇喜多勢上月城にて羽柴秀吉の上方勢と合戦の事

尼子勝久は、当年2月戦わずして上月城を明け渡し、世上の嘲りを受けたことを悔み、この度の上月落城を機に、再びこの城に籠城し防戦しようと、家臣を集めて評議した。

立原源太兵衛は膝を進めて反対した。

「その議は当を得ておりませぬ。世の嘲りは尤もでございますが、もともとこの上月城は要害の城ではなく、守り抜ける砦ではございませぬ。そのうえ今度は秀吉の加勢もあることゆえ、宇喜多側も毛利・小早川へ加勢を頼み、定めて大軍をもって攻めかかるであろう。このようであれば、この城に拠って尼子家の御運を開くことは無理でありましょう。当家の御運を開くためには、当面はどの御働きをなされているのが得策と存じます。

今後の局面の展開を考えまするに、毛利の御三家(毛利・古川・小早川)は織田家を敵とし秀吉と戦うでありましょう。しかし天下を治める織田の兵権には力及ばず、ついに毛利は織田に和睦を請うて服属いたしましょう。その時当家は、天下を掌握する織田家の威光を後楯に、本国出雲に打ち入ったならば、何の困難がありましょう。その時節到来までは、何とぞ危険な戦さは謹しみなされて然るべきかと存じます」

山中鹿之介は、これに反対し上月籠城の策を主張した。

「この度上月城に籠城すれば、必ずや毛利・小早川、さらには宇喜多も出陣するでありましょう。この連合軍と戦えることは幸いであります。暫く上月に籠城して防戦していれば、秀吉にしてもどうしてここを放置し、後詰めをせずにおられましょうや。もし秀吉の応援でなお危いようならば、必ずや信長公の出馬となりましょう。この大軍をもって毛利を討てば、どうして勝てないことがありましょうや。今こそ御家開運のときでございます」

勝久をはじめ、皆鹿之介の意見に賛成したので、勝久は秀吉に、再び上月城に籠り防戦致したいと願ったので、秀吉もこれを許した。

勝久はその家臣山中鹿之介・立原源太兵衛・亀井新十郎・吉田三郎左衛門ら二千三百騎を率いて上月城に楯て籠った。

この情報を得た直家は、直ぐにも兵を出し上月城の攻略にかかろうとしたが、秀吉が大軍をもって後詰めする心配があるため、軽率に攻め掛かることはためらわれた。そこで直家は、毛利勢の援軍を求めて、使者を小早川隆景のもとへ送った。

「尼子左衛門尉勝久は、二千余騎を率いて播州上月城に籠りました。これを討つことはいと易いことではありますが、攻め掛かれば羽柴筑前守が後詰めするは聞違いなく、そのうえ織田信長の上方勢が応援すれば大変な戦さになるものと考えられます。一刻も早く御出陣を願います。その時は某が先陣を承ります」

隆景は直ちに承知し、毛利拝元・吉川元春と共に兵を催し、天正6年3月12日、安芸国吉田を発し、同26日には備前国の一宮(現岡山市一宮)に宿陣した。

注 この時、隆景が出した制札が今も一宮に残っている。

矢坂山ツツジ祭講演会

2014年4月14日

野崎のさん

昨日、あきちゃんさんが、企画された「矢坂山ツツジ祭 講演会」へ行かせて頂いた。
午前中の矢坂山の散策には間に合わなかったが、午後の講演会、柴田元就実大学学長の「浮田忠家-宇喜多軍団の団結と分裂」のお話をお聞きした。P1030049 P1030050 P1030051
高校時代日本史を選択していたものの、苦手の時代が多く、戦国時代の群雄割拠の時代はもっとも苦手であった。歴史講演会も「虎頭要塞」を誤って聞きに行って以来、敬遠していた。「虎頭」の話、私は北満の生活、戦闘、逃避の話と思って出かけたが、「要塞」そのものの話でちんぷんかんぷんであった苦い思い出がある。
昨日は、能家~興家~直家~秀家と続いた「宇喜多家」の話である。忠家は岡山城を築城した直家の異母弟である。彼の乳母「妙珠」は女傑であったようで、彼女の周りの人々により、忠家を盛り立て、宇喜多家の礎を築いていったのである。直家死去の後、9才であった秀家の後見を勤め朝鮮にも出兵したという。その忠家の子、詮家が千姫との逸話で有名な坂崎出羽守である。
直家のあとを次いだ秀家は順調に出世し前田利家の娘豪姫をめとる。これがまた賢夫人で大坂に在住していた。ため秀家も岡山に住むことなく大坂にいて、秀吉の五大老のひとりまで上り詰めるが、宇喜多家では大坂組と岡山組の間に溝ができはじめていたという。
関ヶ原の合戦後、秀家は八丈島に遠島、豪姫は夫の遠島にも細心の心遣いをし、金沢に帰る。宇喜多家は分断され衰亡へと進む。忠家の働きで詮家は徳川勢の大名になり、秀家の家来の一部も旗本になった。
古くは有名な高松城水攻めの折も幼い秀家の代わりに家来が出陣し功をたてている。
とのお話であった。
あきちゃんさん言われるように、山ごとに城があるような時代が、だんだんと淘汰されていった時代にはじまり、関ヶ原合戦で徳川の天下となるまで宇喜多家であった。
門外漢の私にもわかる話であった。
コミュニティハウスで行われた講演会の会場の演題等はだいしさんの筆になる見事なものであった。皆、感心していた。
山にはところどころ、ツツジの色があった。同級生のSさんは散策にも参加され、満開できれいであったと言われた。P1030032 P1030034 P1030037
往きは徒歩で1時間かかった会場から、Sさんに同乗させて頂き10分で帰宅できた。
勉強した半日であった。
あきちゃんさんありがとうございました。

矢坂山花便2014④

2014年4月10日

矢坂本町登山道の染井吉野は花吹雪で登山道が花弁が広がっていまた。風が強く吹くと花弁が舞い散ります。
鯉が池の与太郎桜(学名カスミザクラ)は満開で少し散り始めていました。P1020979野山尾根からの例通り真っ白な花が広がり見事でした。 P1030018
富山城跡へ上がる道はツツジが満開で特に南の出丸手前は見事でした。 P1020981 P1020983
三丸跡のやまとしろ桜(学名オオシマサクラ)は満開で少し散り始めていました。葉が当初より緑で遠くから見ると花に緑が反射するため全体が緑の花に見えます。 P1020994 P1020995
本丸北のツツジは満開が多くなりバックのアズキナシの緑が一層映えましたP1030004

備前軍記16

2014年4月10日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第14回「引き裂かれる姉妹」は天正5年10月播磨の福原城を1日で攻め落とし、上月城のみとなった。この城には、官兵衛の妻の光の姉が嫁いでいた。城主の上月景貞は宇喜多直家を裏ぎるつもりはなく、官兵衛と激突することとなる。

深追いした所を山名の麒麟児・山中鹿介に助けられた。しかし、上月は籠城をした。

鹿介は山名再興の為、上月城攻めの先鋒を願い出た。

宇喜多勢が背後に詰め攻めあぐねている所、7日目に家老の高島吉右衛門ら側近が、主君景貞の首を手土産に降伏してきた。官兵衛は直家よりに岡山城に招かれ、直家の策略であったと明かされた。直家は勝ち目のない戦いをしないし、信長にもつかないと豪言した。

裏切るような家来は信用できないと、信長の命により、主君を裏切った家来すべて焼き殺してしまった。無残なものであった。

☆新釈備前軍記によると、宇喜多の大軍を派兵する備前の動きは、上月城に立ち帰った尼子方の忍びの者によって報告された。尼子勝久・山中鹿之介・立原源太兵衛らは評定の末、この城に直家の大軍を引き請けては防ぎ続けることはできず、そのうえ長く籠城するには兵糧が乏しくとても支えることはむずかしいと判断し、天正6年2月、勝久は上月の城を去って摂津へ引き取ってしまった。

この報を受けた直家は、敵方が上月城へ兵を寵める以前にと、家臣の上月十郎・矢島某に人数を添えて尼子方が捨てた上月城を守らせた。

この上月城の動静は忽ち姫路にもたらされた。秀吉は、「城を捨て敵に城を明け渡すとは、何と尼子勢は言い甲斐のない者共かな。この上は、自ら出陣して立ちどころに備前勢を追い落としてやろう」

と二万の大軍をもって押し寄せ、何段にも城を包囲し、これを攻め立てた。

上月・矢島も命の限り防戦したが、多勢に無勢でとても守り抜けるように見えなかった。その兵卒達は止むを得ぬと思つたのであろうか、

「城将上月・矢島を討ってその首級を差し出します故、何とぞ諸卒の一命だけは助けて給われ」

と降参を願った。

しかし秀吉は聞き入れず、城中の兵を搦め取り、上月十郎には切腹させ、その首級を江州安土の信長のもとへ送った。残る宇喜多の侍には、上総躍をさせてみようといって、残らず蓑笠を着せて磔の木に登らせ、その下に焼き草を積み、ひとり残らず焼き殺してしまった。大勢の侍どもの苦しむ姿は目も当てられぬ無惨なものであった。これ以後、この場所を張付谷と呼ぶようになったという。

矢坂山花便2014③

2014年4月8日

大野コミュニティーより魚見山、すべり山、富山城跡、鯉が池、野山尾根、十字列石、大安寺駅ルートで大野コムニティに戻り、12日のルート時間確認しました。
歩行速度の遅い小生でもゆったりと3時間で帰着できそうでした。
ツツジは満開の所が多くなってきていました。P1020972まだ固い蕾も多く見られました。山桜が多く咲き始めていました。P1020955
鯉が池に降りる道の途中の右側手の奥に大きな山桜があり、そばまで行くと4~5本ありました。周辺の雑木を切り遠くから見るよう試みましたがまだ手入れを要するようでした。いま
与太郎桜は蕾が緩んできて開き始めてした。P1020966

矢坂山ツツジ祭新聞に

2014年4月3日

4月12日の矢坂山ツツジ祭の申込者が締切1週間前に講演会に残席が少数あり、散策会は定員の半数を超えた程度であったため報道機関に周知の依頼をしました。
山陽新聞より掲載するとの連絡があり今日の朝刊の催物欄に掲載されました。
締め切りを過ぎているため散策会は申し込み不要としましたが、チラシには書いたのですが、駐車スペースがないことを忘れていました。
当日押しかけて近所の道が混雑したり、無断駐車が無ければよいのですが。気がかりです。
以前の講演会でも事前申し込み要としていたんですが、当日来れれた方が右往左往して困ったことがありました。

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備前軍記15

2014年4月3日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第13回「小寺はまだか」は、松寿丸が人質となって長浜に行き、天正5年(1577)年10月に秀吉が播磨にやってきた。

そして官兵衛は姫路城を秀吉に明け渡し、秀吉は官兵衛に義兄弟の契りを結ぶ誓いの誓紙を与えた。

姫路では、官兵衛が秀吉に拝謁するよう播磨じゅうを説いて回ったため、おもだった地侍たちが続々と城を訪れていた。所が、三木城主の別所と御着城の小寺は、当主がはやり病だと言って名代を送ってきて、当然秀吉は気分を害した。

本願寺攻めに手を焼いていた村重が和睦を提案したのに対し、信長は鉄甲船に大砲を積んで毛利水軍と門徒を根絶すると息巻く信長にぞっとした村重であった。

官兵衛は義兄弟の契りを結んだ誓紙で秀吉への心酔ぶりを危うくなっていることに危惧した半兵衛は誓紙を燃やしてしまった。

官兵衛は目の前の霧が晴れ、秀吉を御着城に連れてゆき、小寺に合した。

秀吉率いる八千の軍勢は西播磨へ兵を進め、毛利に与する福原助就の居城・福原城を攻撃が始まった。

乱世を終わらせる天下統一に向けて軍師官兵衛が誕生した。

☆阿閉城で秀吉勢の先鋒黒田官兵衛の勢いに負けた。直家は敗残の兵をまとめ、阿閉の城下を引き払い、直ちに上月城に攻め寄せ、その後詰めの軍勢が到来するまでにと、一挙にこれを攻め落とし、真壁彦九郎に兵を授けて城を守らせ、そのまま岡山へ引き揚げた。

さて尼子勝久は、そのころ京都に上って信長に属し、明智日向守光秀の摩下にあったが、このたびの秀吉の播州下向にはその軍に属し、出陣して再起を図り、秀吉に上月城の奪回を願い、勝久自ら二千金騎を率いて攻め寄せた。真壁彦九郎は生まれつき臆病者であるうえ、先日の合戦に味方が敗北したことで弱気になり、敵がまだ城を取り巻かない先に、城を捨てて岡山へ逃げ帰ったので、尼子勢が代わって上月の城を守った。

真壁の弟の次郎四郎は岡山にあったが、兄の彦九郎が上月城で一戦も構えず逃げ帰ったことをを無念に思い、彼は直家に上月城に押し寄せ城を取り戻したいと願った。直家は、

「よくぞ申した」

と称揚し、次郎四郎に三千の軍勢を授け上月城に向かわせた。

次郎四郎は、兄彦九郎の恥辱をすすごうと決死の覚悟をかため、妻子に今生の別れを告げ、南無妙法蓮華経の跳題目を笠印に書きつけ、天正六年の正月末岡山を進発し、その翌日には上月城下の手前六十町余に布陣した。その夜は同地で夜を明かし、明日の城攻めに備え馬の鞍をはずし、具足を脱いで休息した。

この情報を得た上月城の山中鹿之介は、

「真壁次郎四郎が、兄の恥辱をすすがんと覚悟を決めて来たからには、相当烈しい合戦を挑むに相違ない。ここは一番、この方から逆に夜討ちをかけるが上策であろう」

と精兵八百余人を選抜し、合印・合言葉を定めて出発した。ほかに加藤彦四郎に三百余人を付けて一町余子前に備えさせ、また神西三郎左衛門に五百人を付けて五町ばかり手前に布陣させ、これを予備の部隊とし、もし自分の主力が討ち損じた時は、入れ代わって討つよう申し含めた。

そして鹿之介は真壁の陣の近くに攻め寄せ、その近辺に火を放ち、鬨をつくって斬少込んだ。

時は余寒厳しい季節であったから、備前勢はみな身を縮めて伏していたが、そこへ不意討ちを掛けられたから、太刀を干にする暇もなく我先にと逃げ散った。それを尼予勢は追い詰め追い詰め討ち取った。真壁は逃げ行く味方をおし留め、なにとぞ一戦構えようと、床机に腰掛け下知したが、そこへ腹巻も着けぬ素肌の徒武者が駆け寄り、真壁に斬ってかかった。真壁は床机から立ち上がりざまに抜き打ちに斬り返し、真向から唐竹割りに斬り捨てた。つづいて安達治兵衛が斬りかかった。真壁は同様に一太刀に折り捨てようと斬り掛かったが斬り損じた。それに乗じて安達は真壁の両膝を共に薙ぎ払った。真壁が流れるように倒れるところを安達が押さえ、その首級を挙げた。安達はこれまで数度の武勇のある者であったから、弟の安達慶松も彼と共によく働いたので、その首級を弟に与えて手柄を譲り、勝久へは慶松が討ち取ったと披露した。

その一夜の間に討ち取られた備前勢は七十余人に及んだ。その他討ち死にを免がれた者たちは岡山へ逃げ帰り、直家に敗軍の次第を報告した。直家は再度の敗け戦さに大層立腹し、今度こそは、自ら出陣して上月城を攻略しようと軍勢を集めた。

矢坂山花便2014②

2014年4月2日

大安寺東町より岡山市貯水池横を通り尾根を縦走しすべり山に出ました。所々満開となったツツジが見られました。それでもまだ1割程度で蕾が硬いのが多いようでした。
すべり山のツツジはほぼ満開となっていました。P1020923
鯉が池に降りると鯉恋桜はは葉桜となり淡いピンクの葉のみとなっていました。池に花が漂ていました。P1020928
染井吉野は満開でした。
与太郎桜は葉芽を出し始めていました。P1020931
野山ツツジ広場では一株に花を付けていました。
大安寺駅に降りる道では、法事古墳への道の少し降りた右側手の通称八畳岩(2~3畳だが)の下に群生地が広がり、昔岩の上から酒盛りをしながらツツジを楽しんでいたのであろうか。小さなツツジの苗が芽吹いている。P1020934 P1020935
中腹を過ぎるとツツジは、まばらとなった。