12月 2009 のアーカイブ

初日の出on魚見山

2009年12月31日

初日の出at魚見山
 素晴らしいご来光が拝めました。操山の南端辺りより昇り、児島湾さらに虫明の瀬戸内の海を背景として輝しい初日の出でした。古来より吉備に入り来る船を見ていたであろう光景で感慨深いものでした。
 6時半頃より大野コミュニティーより急傾斜ながらながら登り、45分頃にはすでに大勢の人が待ち構えていました。朝焼けの岡山平野を見ながら待つこと、7時20分頃少しの雲の上に現れました。前日の強風が嘘のような静かな日の出でした。
 

初夢

2009年12月31日

  あけましておめでとうございます。

初夢

2010年 元旦

☆北長瀬駅北口の水路に川舟を浮かべ、平安朝の衣装で尺八と琴を演奏している。

☆矢坂山は里山とし手入れが進み散歩する人が多く、富山城跡は平安朝の御殿が建っている。

☆駅よりバイパス入口までショッピングセンターができ、人、車の利用が多い。

☆駅北付近は住宅、文教地として歩行者専用道路が整備されている。水辺公園、交通公園ができていると共に、家近くの公園では乳幼児が遊んでいる。

☆北長瀬駅東に南北地下道ができ、バスが通っている。

☆駅南にはワールドメディカルセンターができ、救急診療設備も充実し地域はもちろん世界中の医師、患者も利用している。

 ☆世界的人材交流が進み、日本人としての特権がなくなっている。

 

 
 

 

 

 

青パトのパトライト 電球切れ

2009年12月30日

青パトのパトライト 電球切れ
 青色パトロールを始めて2年余りになりますが、11月下旬になってパトライトは回転していますが、ランプがついていないとかで、裏を空けて確認したところ電球切れとわかりました。
 世話役に連絡したところ修理が終わるまでパトロール休止とかで、担当警察署の生活安全課に連絡したとろ、予備ランプはなく購入店で直してもらうしかまいとのこと。近所の電気屋とホームセンターで電球を買いに行ったところ、100V用はあっても12v,35W、先端扁平の回転灯用は無く、取り寄せを一応依頼する。一方購入店を聞き、依頼したところ大阪に修理を依頼するため2週間程度かかるとのこと。3日程度するとホームセンターより電球が入りもらいに行き300円余り払ったが、パトライトハは修理に出しているため交換できず。3週間青パトが休止となっているため、この間に事故でもあったらどうしてくれるのだとクレームを付けると翌日宅配便で届けられ3000円余りの振込用紙で払い、青パトを再開する。
 (ちなみに、パトライト一個 約1万円、補助金約7千円)
 民間だと修理部品は用意していて自分で治しますが、警察の組織を疑いたくなります。災害、事故の迅速に対応に為にはいちいち専門家に頼っていては間に合わないはずです。金と時間雄のムダを省き、不測の事態に対応するため日ごろから備える必要性を自らも戒めなければなりませんが。安全、安全安心の原点を思い知らされました。ついでに言うとコンセントとパトライトの間にスイッチがあると使い易いのですが。
 予備球があるため連絡いただければ、今後は直ぐに安く直せます。

そば打ち納め

2009年12月30日

そば打ち納め
 改築のため広々としたテーブルと流しのみある台所で一日早い年越しそばを打ちました。朝9時より始めて20人前を2回に分けて12時頃できあがりました。1回が1時間のペースで、プロフーズと広島で買ったそば粉を打ちました。ちなみに、前者は信州の更科蕎麦に、後者は蕎麦の実から粉にした玄蕎麦の黒っぽい出雲蕎麦に近くその特徴を味わえます。
 各地旅行したさい買ってきたのを打つのが楽しみです。四国のかずら橋で有名な祖谷のそば粉がもっともこくがあり美味しかったです。さらに自宅でそばを栽培し、新そばを石臼で粉を引き、打つのが最大の贅沢です。また挑戦してみたいのです。
 まだ真四角に伸ばせず、きった太さもばらばらで「人様様に食べていただくには程遠いと」。修行を積みます。
 
良いお年を!
 
 

ダンボール堆肥始めました

2009年12月28日

ダンボール堆肥始めました  
 御南水辺の会よりダンボール堆肥一式をもらってきて始めました。
 「身近なバオマスエネルギー」を編集し徐々にやってみたいとは思っていましたが、なかなか実行は難しいです。田舎に住んでいる小生にとっては、コンポストに投げ込むのがやっとでした。
 まず出口において毎朝家内が渡してくれる流しコナーの生ごみを入れスコップで混ぜることにしました。時期もあり、みかんの皮が多いこと。いつになったら腐るのだろうと、とりあえず構わず放り込み混ぜる。遅まきながら、方法を読むとぬかを混ぜて入れるとか、コイン精米ででも取ってこないと。さらに、水分調整のためとぎ汁を入れると書いている。とろあえず水を汲んできて水分補給。徐々に調整してゆくつもり。今日出た生ごみは三角コーナー山盛りで、発酵するのか、最初のネタつくりが重要なのにと。さらに難題は冬は保温のため湯タンポを準備したほうが良いとかで、春になって始めればよかったと反省。副読本の「生ごみを減らそう」を家内に見せると「こんなこと常識よ」と、失礼しました。3日坊主にならないよう頑張ります。
(参考資料はスーペス/公開ホルダー/御南/作り方・生ごみ減量)

初日の出on魚見山

2009年12月27日

初日の出on魚見山

 魚見山から岡山平野が一望でき、7時10分頃、操山の南端辺りより日の出が見られます。矢坂山の東西南北より6時30分頃より登り、魚見山で会いましょう。(『北長瀬駅より大野学区歩こうロードマップ』参照、大安寺東町より岡山市貯水場経由の人が多い。)

 来年は、区画整理、医療センターなど未来のまちづくりのスタートの年です。古来より魚見山のコウの岩が大野ヶ原を見守っていた気分を味わいましょう。

芋煮会in白髭宮

2009年12月24日

 

芋煮会in白髭宮

芋煮会in白髭宮

平成211220日(日)10時より、北長瀬本町の白髭宮で「芋煮会」が市久会メンバーの男女18人で開かれました。当日は寒波到来で晴れていても北風が強く寒い一日でした。しかし芋煮釜戸の焚き火と全員の熱気(酒)のお陰で寒さを感じませんでした。

まず、野上さんが近所の休耕田で作っていた里芋を前日6株掘らしてもらい、里芋の皮をむき始めました。里芋皮むきも5~6人の男女で、30分ほどで4キログラム以上がむけました。

一方、釜戸の火おこしは境内の大枝を薪代わりに使ったため中々燃え上がらず煙は出るはで、おお騒動でした。鍋は昭和初期に使っていた鋳物の30人前程度の大鍋です。やっと湯が沸いて昆布を入れる頃には、寒さも手伝い待ちきれず、酒をヤカンで一升一気に沸かしても直ぐに無くなり、さらに沸かす始末です。 

鍋奉行の岸さんの味付けもよく、ふっくらとした食べたことも無いような美味しい里芋で一人3杯以上食べられました。

重用問題の北長瀬駅北地区の区画整理(含む、日吉町組合施行)の話で盛り上がり、大型ショッピングセンター、駅東南北地下道、駅南の24時間医療センター、バイパス開通、ダルマガエルと尽きることはありませんでした。中でもダルマカエルは地域保護活動ををしていますが、それは「78起」のダルマニに繋がり、当地域の現状にあり「市久会」のシンボルマークに決めます。

北長瀬のみでなく、大安寺や日吉町からも参加くださり盛会で、黒字決算だったため白髭宮に賽銭しました。来年は11月末ごろ北長瀬駅北口広場へ出て、尺八、琴の演奏を合わして企画したらとの意見も出ました。

《関連写真は写真コーナー)

田舟を訪ねて(写真追加)

2009年12月24日

下段は、水辺の会の様子を写した写真です。

田舟を訪ねて

2009年12月24日

 本日、久米の佐藤さんの案内で田舟を見せていただき、一宮周辺の2重樋門を見せていただきました。前回の新比丘尼橋の隣の樋門は紹介されたものでなく、吉備線とすぐ南にありました(訂正いたします)。ただ、吉備線付け替え工事に伴って、石造であったろう、昔の面影は残っていませんでした。
 中山小学校の北側手の吉備津より笹が瀬川に出ていた砂川ないし西川の隣に津田永忠が築いた石造堤防約500メートルを見ました。正に閑谷学校の塀そのものでした。其の隣に吉備線の「北一宮川橋梁があり一久川橋梁を思い浮かべました。笹が瀬川東岸にも2重樋門があったはずで日吉町の桜本樋門がその形跡があり、大川の南端、市久辺りであり、北には間の橋(現大安寺西町)辺りにあたのではないでしょうか。
 石造でなかったため其の面影のある樋門として今保水門を案内いただきました。今保鉄鋼センターの南端辺りにあり、大賀邸の隣にありました。今保港が備前藩の笹が瀬川で西側の米の出荷でにぎわっていた様子が分かります。江戸時代には米倉が笹が瀬川東岸の同様の機能を持っていました。
 水辺の会の田舟を見せていただき、10艘は在り、また修理の様子を聞きました。一艘北長瀬駅の北口水路に浮かべ、尺八・琴演奏している様子を描き新年の初夢のようでした。ただ、5メートルもあり持ち帰る方法、修理方法など難題が待ち構えています。日吉町には吉備の水軍の末枝が居るとかで田舟の改修など簡単なことと期待しています。

一久川が市久と一宮を結ぶ運河説

2009年12月22日

久米の佐藤さんより貴重な情報を頂きました。

 市久物語の一久川は一宮の吉備津彦神社により市久を干拓・灌漑するために作られた用水です。干拓のためには潮抜き用の川が必要で、旭川を水源とする丹比真人墾田や大安寺の庄で使われた雑用水を一久川に引き込みそれに当てていました。昭和37年頃、大川を埋めた際、いつの時代か浅瀬で難破したと思われる帆船が出てきたと聞き、白石・市久辺りで帆船より小船に乗り換えて一宮辺りに上っていて、賑わい、たまに市が開かれていました。

 ところが佐藤さんが話されるのに、黒住秀雄著の「尾上の田船の歴史を探る」(市久/SkyDrive/公開 参照)によると、津田永忠が津高堺江関係の干拓の時、笹ケ瀬川に堤防を作りました。其の時、内川より潮川に田舟が出るため比丘尼橋にハク樋(2重樋門)をつくり、満潮時でも田舟が通行できるようになりました。また、大安寺の三カ月湖を通って岡山市西川まで行くことが出来ます。一宮より岡山市街地に田舟で行けていたことより、当然市久にも行けていたはずで、その縁から一久川と付けられたとする説です。

この2重樋門は、玉島の高瀬通し同様にパナマ運河同様の構造をとり貴重な歴史遺産でした。少し笹ケ瀬川を下った西長瀬樋門にも2重樋門が残っています。

  市久誕生当時の古代末期には、自然堤防程度で淡水の流れる川辺で稲作が行われていたと考えられていて、市久より笹ケ瀬川の三ケ月湖になる前の大川を通って一宮へ行っていたとするのが妥当でしょう。

 時代は下りますが明治30年頃、土光敏夫《元日本経団連会長》伝によると幼少の頃、家が肥料を商いとしていたことより大野辻(現北長瀬表町)の生家より岡山に川舟を引いて売りに行っていたと書いています。此の川は能登川用水であったかも知れません。