9月 2011 のアーカイブ

宇喜田忠家の息子と姫

2011年9月19日

 富山城を松田家より攻略した宇喜田直家は岡山(石山)城主となるに伴い弟の浮田忠家は6万石(領地の範囲は不明)を与えられ富山城主となった。

その息子の基家は天正7年(1579年)、宇喜多氏織田氏と和睦する際に直家の名代として織田信忠と面会したと伝わる。天正10年(1582年)1月、毛利氏との備前八浜合戦に宇喜多忠家と参加するが、流れ弾に当たって討死した。宇喜多勢は総崩れとなったが、後に八浜七本槍と呼ばれる者達の活躍で戦場からの退却に成功する。

 次男の直盛(後の坂崎出羽守)は、いとこの宇喜多秀家に仕えた(知行2万4,000石)が、折り合いが悪かった。そのため慶長5年(1600年)1月に宇喜多氏においてお家騒動が発生すると、秀家と対立することとなる。同年、会津上杉征伐に秀家の名代として出陣、直後に発生した関ヶ原の戦いでは東軍に与し、戦後、その功績により石見浜田藩2万石を与えられ、後に石見津和野藩に3万石(のち大坂の陣の功により加増され4万3,468石)を与えられた。この時、宇喜多の名を嫌った家康より坂崎と改めるよう命があり、これ以降「坂崎直盛」と名乗るようになった。

元和元年(1615年大坂夏の陣による大坂城落城の際に、直盛は徳川家康の依頼を受け、家康の孫娘で豊臣秀頼の正妻である千姫を大坂城から救出した。この事件は秀頼死後、寡婦となった千姫の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいたところに、突然姫路新田藩本多忠刻との縁組が決まったため、面目をつぶされた直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる。しかし幕府に露見し、一族によって自害させられたとも、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われている。

元和4年(1618年)、千姫と本多忠刻の間に一人娘の勝姫が誕生した。

元和9年(1623年)7月、池田光政の元服を機に徳川秀忠の養女となり婚約。

寛永5年(1628年)1月16日、江戸城を出て池田家上屋敷にて輿入れした。

寛永9年(1632年)8月18日、光政と共に備前国に入国した。また水害などで財政的に危機に見舞われ、母天樹院(千姫)に頼み、黄金五万枚、銀二万枚を光政に寄付した。

矢坂山「鯉ガ池」清掃

2011年9月18日

9月3日8時より鯉ガ池周辺と登山道の矢坂本町の草刈、清掃に「矢坂山を語る会」も参加しました。6月に行った後も何度か草刈を行ったようでした。汗を流し、歓談し散会しました。