3月 2010 のアーカイブ
桜本樋門
2010年3月30日川舟修理3
2010年3月30日「芋煮会」記事
2010年3月30日川舟修理2
2010年3月26日花三重奏
2010年3月26日カイドウ枯れる
2010年3月25日土手焼き 県河川課の回答
2010年3月20日お尋ねいただきました件について下記のとおり回答させていただきます。
(廃棄物処理法)によって禁止されているところですが、
国又は地方公共団体がその施設の管理を行うために必要な廃棄物の焼却に
ついては例外として認められおり、河川敷における野焼きはそれに該当します。
(当該場所については備前県民局)に相談していただくとともに関係市町村役場、
消防、警察等と密に連絡・調整を行ったうえで安全な条件下のもと実施されますよう
お願いいたします。
「おかやまアダプト」推進制度を実施しており、県が認定したアダプト団体が実施す
る
河川美化活動等に対して活動費を助成するとともに、美化活動によって生じたごみは
地元市町村が回収・処分しておりますので、当制度の活用についても
ご検討いただきますようお願いいたします。
ご注意いただきたい点について、一部を例示させていただきますので、
実施の際にはご留意願います。
○一方的な都合によって日程変更しないこと
○乾燥注意報発令時や強風等の悪天候下においては実施しないこと
○安全を監視する人員を確保すること
○近隣住民の方々への事前連絡をしておくこと
○防火用の水・資機材を準備すること
(河川水を使う場合は、水量が少ない場合は実施しないこと)
○終了後は、確実に消火の確認を行うこと
○風向き等を考慮し、煙による付近の交通に支障を生じさせないこと
棟上げ
2010年3月18日棟上げ
昔の新築の場合、骨組みを組み上げ、棟を持ち上げる当日は、親戚を呼び、近所の人にもふれ回り、餅や賽銭を投げて大々的にお祝いしていました。江戸時代末期の180年前に立てられた当時は、そういった事をしたでっしょう。
昨朝母屋を覗くと、7mもある柱様のものがあり聞くと、棟として木組みして用意して上げるとのことで見物することにしました。意外と簡単に3人で頂部に持ち上げました。長いように見えた棟木も半分の中央部のみでした。
1月より取り掛かった母屋の改築工事もここまで来たかと感慨無量でした。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると
上棟式(じょうとうしき)とは、日本で建物の新築の際に行われる神道の祭祀である。棟上げ(むねあげ)、建前(たてまえ)、建舞(たてまい)ともいう。なお仏教でも上棟式は行われる。
竣工後も建物が無事であるよう願って行われるもので、通常、柱・棟・梁などの基本構造が完成して棟木を上げるときに行われる。式の方法や次第には神社の祭祀のような規定はなく、地域による差異もある。屋上に祭壇を設けそこで祭祀を行うものや、祭壇のみ屋上に設けて祭祀は地上で行うもの、祭壇も祭祀も地上のものの区別もある。神社本庁では「諸祭式要鋼」で上棟式の基準を示している。それによれば、祭神は屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)および当地の産土神である。まず、他の祭祀と同様に修祓・降神・献饌・祝詞奏上が行われる。次に、上棟式特有の儀礼として、曳綱の儀(棟木を曳き上げる)、槌打の儀(棟木を棟に打ちつける)、 散餅銭の儀(餅や銭貨を撒く)が行われる。最後に、他の祭祀と同様に拝礼・撤饌・昇神・直会(なおらい)が行われる。
建前、棟上とは普請を生業にする職人がいる地域では、棟梁(大工)が中心になり大工の作成した番付表(組み立て手順書の様な物)を見て鳶職が軸組みの組み立てを行い一番高い棟木を設置する一連の作業を指す。その最後の作業からその後の儀式を上棟式、棟上式という。
北長瀬村の曽平治屋敷
2010年3月18日覚善院
2010年3月14日〒700-0825 岡山市田町1-3-33 TEL086-223-9875
蓮昌寺塔頭寺院覚善院と称す。正慶(1332~34)年の創立。開山龍華樹院日像上人、開基檀越松田左近将監元喬、中興開基知鏡院日遙上人。
妙善院を昭和40年に合併。同じく不善院を昭和46年に合併、今日に至る。奠師法縁。
第二章 江戸時代中期の蓮昌寺
第一節 寺中の変遷
この時代の蓮昌与の関係する資料は、池田家文庫で見る限りそれほど重要なものは見当らない。その大分は寺中住職の交代とか(蓮昌寺・末寺を含む)寺院建物の修理など至って簡単な資料に過ぎない。以下年表的に時代を追って羅列することとするが、若干重複するものもある。
(覚善院・妙善院に関する項のみ転載)
一、寛文年中 不受不施禁制以前は寺家四十八軒を数えたが、右禁制以後寺家は一軒もなくなった。
一、元禄七年(一六九四)四月三日 寺家円寿院病気につき退院無住につき、同寺家妙善院を後住とし妙善院後住には大坂薬王寺の弟子利海を任ずることとする。この利海は磐梨郡仲村、伝右衛門と申す者の兄でたしかなる者として願いの通り仰せ付けられる。
一、元禄十六年(一七〇三)十一月九日 寺中覚善院無住につき、津高郡今保村宗善寺弟子恵教を以て後任とする。
一、寺中覚善院右埓にて足守へ罷り越し候留守、五月四日の夜五ツ時、本家西の破風より出火仕まつり候。覚善院足守より帰り候て火の用心の事相尋ね候得ば、昨朝斎に罷り出宿にては火焼け申さざる由、左候はばもし付け火にても御座有るべきやの旨、五月五日蓮昌寺書付出す。同七日又蓮昌寺より市郎兵衛迄書付にて寺中林照院願い上げ来り、仰せ付け致し候内他所へ遣わし不意の儀出来、且覚善院出火方々以て迷惑遠慮仕まつり候由相断り六月十九日遠慮御免、覚善院は同二一日御免成さる由申し渡す。
一、宝永三年(一七〇六)十月廿七日 寺中円寿院無住に付き同寺中妙善院を後住とし、円寿院の院号を改め不染院とすることを願い出許される。
一、宝永三年十一月九日 寺中妙善院無住につき菅能寺同宿 (テン)元と申す憎を後任にすることを願い出許される。
一、同年三月廿二日 寺中妙善院無住に付き正福寺弟子順貞と申す僧後住に仕まつり度き旨、願い奉り願いの通り仰せ付けられる。
一、同年十二月十八日 寺中覚善院儀天城正福寺後住に仕まつり度き旨申し越し候間、参り度き旨願い奉り候処、願いの通り仰せ付けられる。
一、元文五年八月十二日 蓮昌寺東側五袷間高壁の内北の方袷弐間此の度取り払い度き旨、并びに寺中妙善院北方袷弐間の高壁大破に及び申すに付き、此の度練壁に仕まつり度占旨、并びに鐘楼堂育り来りの所より辰巳の方へ四拾間引き再興仕まつり度き旨、蓮昌寺願いの通り仰せ付けられる。
一、天保八年(一八三七) 寺中妙善院良正儀十一月 法用に罷り出帰寺仕まつらざるに付き、処々心当たりの所相尋ね申し候え共行衛相知れ申さず候。寺内相改め申し候処、兼ねて心得違の儀も御座候て出奔仕まつり罷り帰り候様子御座無く候。左候はば寺内御帳面御除き下さるべく候。尤も妙善院無住中代判林照院へ仕まつらせ度く願い上げ奉り候。右願いの通り仰せ付けなされ下され候はば有難き仕合せに存じ奉り候。此の段宜しく願い上げ奉り候。以上
天保八年酉二月一二日 蓮昌寺
波多野弥蔵殿
右願いの通り仰せ付けられる
一、天保一二年 寺中覚善院潮秀儀当月五目の夕出寺仕まつり罷り帰り申さず候に付き、心当たりの所々相尋ね候え共一向行衛相知れ申さず、尤も院内相改め候処所持の道具取片付け御座候。兼ねて不心得の儀御座候に付き度々教示等相加え申し候え共一向聴き入れ 申さず、方々以て右の趣に御座候えば全く退院仕まつり候哉に存ぜられ候。左候はば迚も帰寺仕まつり候趣にも御座無く候間、直に寺内御帳面御除き下され候様願い上げ奉り候。尤も指し当たり後任の人も御座無く候、無住代判拙僧仕まつり申し度く存じ奉り候。願いの通り仰せ付けられ下され候はば有難き仕合せに存じ奉り候。以上
天保一二年丑六月七日 蓮昌寺
千馬喜兵衛殿
六月十三日願いの通り仰せ付けられる
一、嘉永七年(一八五四) 寺寄せ目録によれば蓮昌寺々中は不染院・大乗院・実如院・本成院・覚善院・林照院
以上六院の書上げが見られる。
第一章 当代の概要
第五節 塔頭寺院の推移
戦災により、本院同様、塔頭七院も悉く焼失した。その後、大乗・実如の二院は本院に合併、本成・覚善・不染・林照・妙善の五院はそれぞれ復興したが、後に本成院は市内立川町に移転し寺号を名のり本成寺となり、覚善院は妙善院を併呑、不染・林照の二院はお家の事情で消えた。ただし、不染院の檀家は本院につき、什器類は覚善院に納められた。また林照院の什器は明石の方の寺院に納められたという。そんなわけで、現在、仏住山の山内にあるもとの塔頭寺院は覚善院のみとなった。