3月 2010 のアーカイブ

桜本樋門

2010年3月30日

桜本樋門
 大野村誌によると、「桜本分木」北長瀬の大角と矢吹田との間を笹が瀬川に流出する悪水分木で、昭和4年8月に改築した。と記されています。明治25年の道路河川溝図には、桜の印があります。
 「中樋 水門」北長瀬の大角地先に在り、この樋門は、笹が瀬川改修のの結果、昭和11年3月現位置に移転改築したのである。旧樋門の北に福浦水門があたが、昭和10年度末に廃止した、
 「新分木」 北長瀬の市久と矢吹田との間を笹が瀬川に入る悪水分木で、昭和14年1月に改築したものである。この時樋門を高さ巾共に6尺5寸に拡大した。
 「新樋」北長瀬の南端今村との堺を流れる村堺溝の悪水が笹が瀬川の流出する所にある樋門で、1名汐樋門とも言ったもので、笹が瀬川改修の際改築したものである。因に大安寺水門以下の各樋門は県費支弁の樋門である。
  
 桜本樋門には、古老によると桜の木が3本程度あった記憶があるそうです。樋門の改築のとき切られたのかもしれません。昭和20年代まで桜の咲く時分には、川舟でこの樋門まで行くのが風習となっていました。
 北長瀬切図によると、野殿界の中洲が「一番ノ内」で、「壱番字大角」、笹が瀬川を南に下ると「弐番字矢吹田」「三番字一久」と続きます。野田界の「弐四番字下得」が最も番数の高い字です。
 笹が瀬川の土手沿いに日吉町内会が8年生の桜の木を80本植え、花が満開となったため花見会が開かれました。植えたことに対して異論もあるようですが、歴史的景観の復元と町内、近隣の憩いの場として、さらに新幹線、山陽本線の乗客が岡山に桜並木が後楽園のみでなく眺望できることは岡山に立ち寄る人が増えるのではないでしょうか。
 帰りに難波工務店さんの雛飾りを見せていただきました。平安調の素晴らしいもので、季節的に華やいだ気分なり風習の素晴らしさを感じました。ちなみに、小生の家で10何年か前に、手作りのお雛を飾ったところ、海外の人も見に来て楽しんでいただきました。
 

川舟修理3

2010年3月30日

川舟修理3
 川舟の内面の修理をしました。どうしてヒックリ返すか悩んでいたところ、中国シール㈱の西山社長に連絡するとフォークリフトで中野さんが簡単に表にしてくださいました。
 1.コールタールなど傷んだり、汚れているのを全面、サンダーにワイヤーブラシで取り付け磨き上げました。
 2.目地のコーキングなど取り除きました。
 3.目地をサンダーで汚れを取るとともに、Vカットを溝を掘りました。
 4.目地にプライマーを塗ったあと、シリコーンコーキングしました。上塗りのポリエステル樹脂と材質が異なるため、密着に疑問がありましたが、底板の伸縮に対応するためコーキングとしました。
 5.手すりを取り付けました。木の温もりを残すため、塗装しないこととし、マスキンイングしました。
 6.ポリエステル樹脂塗装をしました。底のみは砂を入れて滑らないよう工夫してみました。
 黒船が出来上がりました。4月2日(金)午後1時より中国シール㈱のフォークリフトで川辺の柵越しに川舟を浮かべていただく予定です。大勢の人に案内しました。着物を着てきてくださるご婦人もいるそうです。
 環境教育として、水質検査を子供たちに教えたいため岡山市市役所 環境保全課に検査キットを依頼、大安寺中等教育校の化学の先生に中高生の教育の状況をお聞きしました。
 
 

「芋煮会」記事

2010年3月30日

「芋煮会」記事
 今朝、3月30日にやっと山陽新聞の「つどい」に3月遅れで「市久会の芋煮会」の記事が掲載されました。
 4月2日(金)午後1時より、川舟を北長瀬駅北口水路に浮かべて楽しむ予定です。
 

川舟修理2

2010年3月26日

川舟修理2
 御南水辺の会より川舟を頂いてきて、傷んでいた舳先の交換、腐っていた部分のあて木が終わり、いよいよ船底のFRPライニングに取り掛かることにしました。佐藤芳範会長にライニイング・マニュアル(SkyDrive/パブリック/御南/FRPライニング)を見せていただき、材料を頂いて来ました。当初現地指導いただけるとのことでしたが、年度末で多忙のためマニュアル片手に行うこととなりました。
1.下地処理ーワイヤーブラシ・サンダーでコールタール塗装表面を除去。 
2.パテ補修ープライマーのサンドーマに約1:1でタルクを混ぜ、硬化剤のパーメックスを樹脂に対し2%加え、200gづつ混ぜ穴を埋めて行きました。粘性も適当となり上手く補修できました。硬化してから、サンダーで表面を平滑にしました。
3.プライマー塗布ーサンドーマに硬化剤を2%混ぜ、前面に塗布しました。浸透性もよく強度確保にも役立ちそうでした。
4.ガラスクロスをまず船底にひき、ポリ-ホ-プにパーメックス硬化剤を2%混ぜ、ローラーブラシで塗ってゆきました。空気が入り、又周辺部が押せ切れませんでした。後で気がついたことですが、材料が4年ほど経過しているため一部ゲル化して粘土が高く、硬化剤も加えすぎた傾向がありました。
 側面も同様に行いましたが、同様に空気が抜けきらない部分が発生しました。
5.サンダーで空気が入ったり、浮いている部分を削り取って行きました。1日以上かかりました。
6.さらに補強を要する部分に重ねてガラスクロスをポリホ-プでライニングしました。
7.仕上げとして、パラフィン入りのポリエステル樹脂に黒い色トナーを5%加え、硬化剤1%を混ぜ、部分的にガラスクロスを貼り、塗り上げました。これは粘性が低く、空気も入ることはありませんでした。黒くすべてを覆い隠した仕上がりとなりました。
 舟をひっくり返し内部を修理する予定です。
 なお電源は隣の中国シール㈱よりお借りしました。

花三重奏

2010年3月26日

花三重奏
 朝の散歩から白髭宮の前の野上光正さんの畑まで帰ると、杏の花が真っ白に満開でした。その奥には、白髭宮の桜が寒波で一部開花のままで待ちわび、手前には桃の花がピンクの蕾が開き始めていました。一斉に満開とは行きませんが、信州の山一面の杏の里、岡山の桃の里が見られるのも間近でしょう。
 岸洋一さん宅初め庭先を覗くと、名も知らない花々が彩どっていました。
 

カイドウ枯れる

2010年3月25日

カイドウ枯れる
 昨秋、落葉の季節になっても葉が付いたままで、枝に皺が目立つ様になった、幹を見ると鉄砲虫が入っていて殺し、殺虫剤を塗布して、芽が出ることの一抹の期待をもっていましたが、花芽も無く枯れたとあきらめました。
 毎年、桜、桃よりあでやかで楽しましてもらいました。

土手焼き 県河川課の回答

2010年3月20日

土手焼き 県河川課の回答
 2月7日にブログで取り上げた土手焼きに関して岡山県河川課に問い合わせましたところ下記のように回答がありました。
 土手焼きの自然再生、水浄化への寄与への観点からの回答はありませんでした。

 河川の美化活動への助成制度はあるようです。

 
平素は県行政に御理解、御協力を賜り誠にありがとうございます。
お尋ねいただきました件について下記のとおり回答させていただきます。
一般廃棄物の野焼きについては、廃棄物の処理及び清掃に関する法律
(廃棄物処理法)によって禁止されているところですが、
国又は地方公共団体がその施設の管理を行うために必要な廃棄物の焼却に
ついては例外として認められおり、河川敷における野焼きはそれに該当します。
ですので、美化活動に伴い河川敷で野焼きをする際は、事前に河川管理者
(当該場所については備前県民局)に相談していただくとともに関係市町村役場、
消防、警察等と密に連絡・調整を行ったうえで安全な条件下のもと実施されますよう
お願いいたします。
また岡山県では、行政と町内会等とが協働して美しいまちづくりを目指す
「おかやまアダプト」推進制度を実施しており、県が認定したアダプト団体が実施す

河川美化活動等に対して活動費を助成するとともに、美化活動によって生じたごみは
地元市町村が回収・処分しておりますので、当制度の活用についても
ご検討いただきますようお願いいたします。
最後に、河川敷における野焼きについて、関係者への連絡・調整以外に
ご注意いただきたい点について、一部を例示させていただきますので、
実施の際にはご留意願います。
○住宅地が隣接している箇所では十分注意すること
○一方的な都合によって日程変更しないこと
○乾燥注意報発令時や強風等の悪天候下においては実施しないこと
○安全を監視する人員を確保すること
○近隣住民の方々への事前連絡をしておくこと
○防火用の水・資機材を準備すること
(河川水を使う場合は、水量が少ない場合は実施しないこと)
○終了後は、確実に消火の確認を行うこと
○風向き等を考慮し、煙による付近の交通に支障を生じさせないこと
以上、よろしくお願いします。

棟上げ

2010年3月18日

棟上げ

 昔の新築の場合、骨組みを組み上げ、棟を持ち上げる当日は、親戚を呼び、近所の人にもふれ回り、餅や賽銭を投げて大々的にお祝いしていました。江戸時代末期の180年前に立てられた当時は、そういった事をしたでっしょう。

 昨朝母屋を覗くと、7mもある柱様のものがあり聞くと、棟として木組みして用意して上げるとのことで見物することにしました。意外と簡単に3人で頂部に持ち上げました。長いように見えた棟木も半分の中央部のみでした。

 1月より取り掛かった母屋の改築工事もここまで来たかと感慨無量でした。

 

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によると

上棟式(じょうとうしき)とは、日本で建物の新築の際に行われる神道祭祀である。棟上げ(むねあげ)、建前(たてまえ)、建舞(たてまい)ともいう。なお仏教でも上棟式は行われる。

竣工後も建物が無事であるよう願って行われるもので、通常、などの基本構造が完成して棟木を上げるときに行われる。式の方法や次第には神社の祭祀のような規定はなく、地域による差異もある。屋上に祭壇を設けそこで祭祀を行うものや、祭壇のみ屋上に設けて祭祀は地上で行うもの、祭壇も祭祀も地上のものの区別もある。神社本庁では「諸祭式要鋼」で上棟式の基準を示している。それによれば、祭神は屋船久久遅命(やふねくくのちのみこと)、屋船豊宇気姫命(やふねとようけひめのみこと)、手置帆負命(たおきほおいのみこと)、彦狭知命(ひこさしりのみこと)および当地の産土神である。まず、他の祭祀と同様に修祓・降神・献饌・祝詞奏上が行われる。次に、上棟式特有の儀礼として、曳綱の儀(棟木を曳き上げる)、槌打の儀(棟木を棟に打ちつける)、 散餅銭の儀銭貨を撒く)が行われる。最後に、他の祭祀と同様に拝礼・撤饌・昇神・直会(なおらい)が行われる。

建前、棟上とは普請を生業にする職人がいる地域では、棟梁(大工)が中心になり大工の作成した番付表(組み立て手順書の様な物)を見て鳶職軸組みの組み立てを行い一番高い棟木を設置する一連の作業を指す。その最後の作業からその後の儀式を上棟式、棟上式という。

北長瀬村の曽平治屋敷

2010年3月18日

北長瀬村の曽平治屋敷
 江戸時代に北長瀬村に曽平治屋敷があり、岡大の池田家文庫に屋敷図が収載されていることを知り、岡大の図書館に見に行きました。公開するためには許可が要りますが、写真を取らしてもらい、その概要を紹介します。
 17.5×12.5間(212.5坪)に13×6.5間(84.5坪)の母屋と土蔵、納屋、表門、授屋、便所が見受けられさらに屋敷外に土蔵、藁屋、灰屋、藪、や祖師堂が記入されています。母屋には、10畳一部屋、8畳4部屋、4畳5部屋、仏の間、牛室、下人部屋などがあり、4×3.5間の内庭がある豪壮な屋敷です。
 屋敷の南に川が描かれていることや、屋敷北東隅に祖師堂があることより、現在の岸洋一氏宅より墓地辺りに掛けて、曽平治屋敷があったのではないかと推定されます。
 なお、曽平治なる人は大野村誌や撮要録などにも記録が無く如何なる人か不明です。江戸時代初期には北長瀬村は備前藩でも有数の石高があったこと、さらに役割は不明だが弁当所なる名主の役割があり、不受布施のように池田家の干渉にあい消滅した可能性もあります。
岡山大学図書館 池田家文庫 屋敷図(小さすぎる)
 

覚善院

2010年3月14日

覚善院
 先日、覚善院の和尚にその由来についてお聞きする機会がありました。3代目蓮昌寺住職が初代とされ、妙善院・不洗院・実如院・本成院も同様に門弟の道場として開院したのが発端とのことです。また、蓮昌寺住職はそれらから選出され、妙善院からは3名の住職を輩出し、他も1名出しています。覚善院http://www.okayama-nichiren.com/jiin/kakuzen/kakuzen.htm

〒700-0825 岡山市田町1-3-33 TEL086-223-9875

地図

 蓮昌寺塔頭寺院覚善院と称す。正慶(1332~34)年の創立。開山龍華樹院日像上人、開基檀越松田左近将監元喬、中興開基知鏡院日遙上人。
 妙善院を昭和40年に合併。同じく不善院を昭和46年に合併、今日に至る。奠師法縁。

 北長瀬に多くの檀家があるのは不明ですが小生は、江戸時代に北長瀬を知行していた池田和泉守の関係ではないかと考えています。因みに、池田和泉守は三野の水源地辺りも知行しており、水利土木に関係した役職であったかも知れません。当時は備前藩有数の石高であったようです。
 蓮昌寺史をお借りしましたので、覚善院と妙善院に関係したところのみ転載します。妙善院跡のセントラルガレージも参照下さい。
 
 

第二章 江戸時代中期の蓮昌寺

第一節 寺中の変遷

 この時代の蓮昌与の関係する資料は、池田家文庫で見る限りそれほど重要なものは見当らない。その大分は寺中住職の交代とか(蓮昌寺・末寺を含む)寺院建物の修理など至って簡単な資料に過ぎない。以下年表的に時代を追って羅列することとするが、若干重複するものもある。

(覚善院・妙善院に関する項のみ転載)

一、寛文年中 不受不施禁制以前は寺家四十八軒を数えたが、右禁制以後寺家は一軒もなくなった。

一、元禄七年(一六九四)四月三日 寺家円寿院病気につき退院無住につき、同寺家妙善院を後住とし妙善院後住には大坂薬王寺の弟子利海を任ずることとする。この利海は磐梨郡仲村、伝右衛門と申す者の兄でたしかなる者として願いの通り仰せ付けられる。

一、元禄十六年(一七〇三)十一月九日 寺中覚善院無住につき、津高郡今保村宗善寺弟子恵教を以て後任とする。

 

 一、寺中覚善院右埓にて足守へ罷り越し候留守、五月四日の夜五ツ時、本家西の破風より出火仕まつり候。覚善院足守より帰り候て火の用心の事相尋ね候得ば、昨朝斎に罷り出宿にては火焼け申さざる由、左候はばもし付け火にても御座有るべきやの旨、五月五日蓮昌寺書付出す。同七日又蓮昌寺より市郎兵衛迄書付にて寺中林照院願い上げ来り、仰せ付け致し候内他所へ遣わし不意の儀出来、且覚善院出火方々以て迷惑遠慮仕まつり候由相断り六月十九日遠慮御免、覚善院は同二一日御免成さる由申し渡す。

一、宝永三年(一七〇六)十月廿七日 寺中円寿院無住に付き同寺中妙善院を後住とし、円寿院の院号を改め不染院とすることを願い出許される。

一、宝永三年十一月九日 寺中妙善院無住につき菅能寺同宿 (テン)元と申す憎を後任にすることを願い出許される。

一、同年三月廿二日 寺中妙善院無住に付き正福寺弟子順貞と申す僧後住に仕まつり度き旨、願い奉り願いの通り仰せ付けられる。

一、同年十二月十八日 寺中覚善院儀天城正福寺後住に仕まつり度き旨申し越し候間、参り度き旨願い奉り候処、願いの通り仰せ付けられる。

一、元文五年八月十二日 蓮昌寺東側五袷間高壁の内北の方袷弐間此の度取り払い度き旨、并びに寺中妙善院北方袷弐間の高壁大破に及び申すに付き、此の度練壁に仕まつり度占旨、并びに鐘楼堂育り来りの所より辰巳の方へ四拾間引き再興仕まつり度き旨、蓮昌寺願いの通り仰せ付けられる。

一、天保八年(一八三七) 寺中妙善院良正儀十一月 法用に罷り出帰寺仕まつらざるに付き、処々心当たりの所相尋ね申し候え共行衛相知れ申さず候。寺内相改め申し候処、兼ねて心得違の儀も御座候て出奔仕まつり罷り帰り候様子御座無く候。左候はば寺内御帳面御除き下さるべく候。尤も妙善院無住中代判林照院へ仕まつらせ度く願い上げ奉り候。右願いの通り仰せ付けなされ下され候はば有難き仕合せに存じ奉り候。此の段宜しく願い上げ奉り候。以上

   天保八年酉二月一二日       蓮昌寺

    波多野弥蔵殿

  右願いの通り仰せ付けられる

一、天保一二年 寺中覚善院潮秀儀当月五目の夕出寺仕まつり罷り帰り申さず候に付き、心当たりの所々相尋ね候え共一向行衛相知れ申さず、尤も院内相改め候処所持の道具取片付け御座候。兼ねて不心得の儀御座候に付き度々教示等相加え申し候え共一向聴き入れ 申さず、方々以て右の趣に御座候えば全く退院仕まつり候哉に存ぜられ候。左候はば迚も帰寺仕まつり候趣にも御座無く候間、直に寺内御帳面御除き下され候様願い上げ奉り候。尤も指し当たり後任の人も御座無く候、無住代判拙僧仕まつり申し度く存じ奉り候。願いの通り仰せ付けられ下され候はば有難き仕合せに存じ奉り候。以上

   天保一二年丑六月七日       蓮昌寺

     千馬喜兵衛殿

   六月十三日願いの通り仰せ付けられる

一、嘉永七年(一八五四) 寺寄せ目録によれば蓮昌寺々中は不染院・大乗院・実如院・本成院・覚善院・林照院

 以上六院の書上げが見られる。

 

第一章 当代の概要

第五節 塔頭寺院の推移

 戦災により、本院同様、塔頭七院も悉く焼失した。その後、大乗・実如の二院は本院に合併、本成・覚善・不染・林照・妙善の五院はそれぞれ復興したが、後に本成院は市内立川町に移転し寺号を名のり本成寺となり、覚善院は妙善院を併呑、不染・林照の二院はお家の事情で消えた。ただし、不染院の檀家は本院につき、什器類は覚善院に納められた。また林照院の什器は明石の方の寺院に納められたという。そんなわけで、現在、仏住山の山内にあるもとの塔頭寺院は覚善院のみとなった。