5月14日(土)に元岡山市教育委員会文化財課の出宮徳尚課長(昭和43年富山城跡発掘担当)の案内いただきました。発掘調査に基づく貴重な話が聞けました。
- めおと岩:祭祀をおこなっていた磐倉で、矢坂山でも村ごとの山で祀られていた。弥生時代に供えられた土器がすべり山付近より出てくる。
- 南の出丸:石垣でなく土塁で積み上げてある。発掘調査していないが、松田期のものか。松田期は、本城の御津の金川城との往来のためにも矢坂本町の側に大手があった可能性がある。
- 空堀
- 汲み水用池、風呂跡
- 二の丸
- 本丸入口:今は石垣の下のみしか残っていないが、小早川の廃城の証しとして3~4m積み上げられた石垣の上に土塀があったのを全て取り潰している。入口には立派な櫓門があったと推定される。
- 本丸:2列の礎石があることより2層のかまえの大きな天守閣に類する大きな建物があった。
- 構え:毛利などの西に対する守りの要素が高く、断崖の上に4つの櫓があり、見るからに難攻不落の構えであった。
- 発掘当時にはすでに北の丸との間は切り取られていた。全般的に発掘当時と変わっていない。