7月 2013 のアーカイブ

襄と八重11 勝清の渡航の企て2

2013年7月9日

1860年(万延元年)、日米修好通商条約の批准書を交換するため遣米使節団一行がアメリカ軍艦ポーハタン号にて太平洋を横断。咸臨丸はポーハタン号の別船として、旧暦1月13日品川を出帆。その年に帰国している。
 文久3(1963)年8月頃、尊攘の気勢は一朝にしてざ折し、時勢は一時的とはいうものの公武合体に逆転した。こうした政情の下にありながら、攘夷の叡慮は依然変わらず、堂上・諸侯の攘夷熱も減退しなかったため、幕府は何とかして当面をつくろい、違勅の責を免れようと、開港した港のうち横浜だけでも閉鎖しようとし、1964年9月14日老中板倉勝静らは築地の操練所で、米・蘭二国の使臣と横浜鎖港の談判を開始した。一方仏国公使館員の勧めで、その鎖港談判使節を欧州に派遣することにして、池田筑後守長発らを仏国に渡航させることにした。パリに着いた一行は皇帝ナポレオン3世に謁見した。しかし横浜の鎖港に関する交渉は、横浜を対日貿易・交渉の拠点と考えるフランスの抵抗にあい失敗に終わった。また長発自身も西欧の文明の強大さを認識して開国の重要性を感じ、交渉を途中で打ち切り、5月17日(6月20日)、フランス政府とパリ約定を結んだ。一行は他の国には寄らずそのまま帰路に就き、同年7月22日(8月23日)に帰国した。新島襄が密航した年である。
 西郷熊三郎らは谷地頭へ赴き勝静の無事であることを確認し、今後の対策を協議した結果、
 一、御当地にこのまま滞在しておられたなら、ますます朝敵としての賊名を免れることは出来ない。
 二、今更降伏なさる事も出来ないとしたら西洋へ亡命なさること。但し現在は四人の者が帰る旅費400両しか持っていないから、今すぐにというわけにはいかない。
 三、御無事であることと居所がはっきりしたので早々松山へ帰り、亡命の費用3、000両を三月中には送り届ける。
という事になって2月27日横浜への便船で四人とも帰途についた。
 洋行の決心をした勝静は、感慨無量であった。ところが熊三郎からは、三月末になっても一向に音沙汰がない。西郷は東京に帰ってから金策に奔走、例のスネルに頼んで、スネルの船を函館に向けることにし、費用として二千両を渡したが、スネルは約束を破って行かなかった。後日この二千両のことで松山藩が談判したが、スネルは愛人お島と子供を連れて新潟に逃げていたという話もある。
 九日の昼頃には、すでに官軍は江刺を攻略し、乙部へも上陸したという情報である。善後の策をいろいろ講じ、便船を求めて東奔西走、不安と焦慮の幾日かを過ごし、ようやく英国船に乗って、ひとまず蝦夷地を離れることになった。ところが乗組人員に制限がある。そこで依田織衛らは、我が君さえ脱出できれば、我等は死んでもよいと、依田を初め、乙部剛之進・本武権平・鈴木量平・高田一錠之助・河村八十右衛門・小島造酒之烝・千葉栄の八入は蝦夷地に踏み留まり、勝静には、辻七郎左衛門・伊藤安右衛門など六人が従って、4月23日朝乗船して即日出航した。
 さて4月23日に英国船に乗って函館を脱出した勝静らは、29日仙台沖勝見浦に停泊した。勝静は月代を剃って町人体になり、小笠原長行は町医者に変装していた。金には随分困ったらしく、出帆前には時計を売り払って酒を買い側近の藩士をねぎらったこともある。その上船中は物騒で紛失物が多く、勝静は懐中の金子一五匁ばかりと双眼鏡を、その他の者も所持品のピストルやシャボン(石けん、当時は貴重品)、時計から所持金・食糧品に至るまで、随分盗難にあったと記録されている。
 勝静の側近として函館に至り、その脱出後、踏み留まった依田織衛・鈴木量平・高田錠之助・小島造酒之烝・本武権平・河村八十右術門・千葉栄・乙部剛之進の八名の中、討死した乙部剛之進のほかは、函館陥落後官軍に降伏し、津軽藩に預けられていたが、許されて明治二年十一月十九日に高梁藩へ引き渡されることになって国元に送られ、内山下御蔵坂寄りの平野左門屋敷跡、当時化物屋敷と呼ばれていた長屋に禁固されたが、勝弼入藩後間もなく恩赦になった。これも武士道に殉じた気の毒な人々であったが、時勢はすでに大きく転回しており、高梁藩では優遇の措置もとられず、その後はそれぞれ自らの道を選んで生きて行った。

襄と八重11 勝清の渡航の企て1

2013年7月6日

板倉勝静は、備中松山藩第7代藩主。桑名藩主松平定永の第8子で、奥州白河城で生まれた。1812年(天保13)備中松山藩主板倉勝職の養嗣子となり、1849(嘉永2)襲封した。また、陽明学者山田方谷に出会い、元締役兼吟味役としてその才を用いた。 安政の大獄では、寛典を主張したため大老井伊直弼により奏者番兼寺社奉行を罷免された。
1862年(文久2)老中となり幕政を担当したが、内外問題を抱え、幕議との意見の対立をみて辞職を請うた。1864年(元治元)罷免されたが、同年長州征伐で凱旋し、翌年再び老中に復した。 将軍徳川慶喜の信任厚く、慶応の藩政改革にあたってはよく補佐し、大政奉還にあたっては不満ながらも実現に種々努力した。
備中松山藩の藩主板倉勝静は、幕末、筆頭老中として将軍徳川慶喜を補佐して薩長諸藩と戦ってきた。鳥羽伏見の戦いに敗れたあと、慶喜とともに江戸に逃れた。 
領地の備中松山藩は、藩老山田方谷が恭順の方針をつらぬき、鳥羽伏見戦のとき在阪の部隊の責任をとり自刃した熊田恰以外は一名の犠牲者も出さずに藩領を守っていた。
 勝静と長男の勝全は藩國に帰らず、日光に滞在していたところ、新政府軍が進撃してきて捕らえられ宇都宮城に拘束されていた。ところが、幕府脱走軍の攻撃で宇都宮城が落城すると脱出して東北方面に逃れた。
5月白石で、新政府軍に対抗する奥羽越列藩同盟が成立したとき、勝静はこの会議に参加し、新政府軍に敵対する姿勢を示した。
その後、会津が落城すると榎本艦隊に同乗して函館まで逃亡した。この際にも家臣が蝦夷地行きを思い止まるよう説得したが、「徳川家に殉ずる」と云って聞かなかった。そして、函館の榎本政権に加わっていた。
国元の松山藩はすでに恭順しており、藩主が新政府軍に刃向かっていることは新政府に対して説明のつかないことであり、藩の存立にかかわる大問題であった。
藩としては、勝静の逃亡をいつまでも放っておくわけにいかず、藩主父子を連れ戻す必要があった。しかし新政府軍の監視下にあったので、明治2年7月岡山藩を通して藩主探索の嘆願書を提出、許可が下りると、早速、3人の藩士が任命され商人に変装して東北地方に向かって旅立った。
東北、北海道と逃走する藩主を追っていた家臣たちは、函館に潜入。脱出すべく藩主を説得したがやはり勝静は応じなかった。
やむを得ずいったん東京に戻り、藩首脳と協議の上、奇計をもって藩主の拉致を計画し、プロシャ商船の船長に1万ドルで救出を依頼した。勝静と面識のある船長ウェーウは懇親したいとその船中に勝静らを招き、そのまま出帆。その後、船を乗り継いで東京に帰ってきた。 一万ドルの大金が積まれた。藩倉の大金を右から左へと一瞬の内に動かせるのは方谷しかいない。
松山藩は、即刻、外遊させる予定であったが方針が変わり、勝静は自訴。8月死罪一等を減ぜられ安中藩への永預けに処せられた。備中松山藩も安泰となった。
勝静の自訴を知った山田方谷は「これは吉報である」と言ったという。藩士全員の偽らざる思いだったであろう。
 勝静の函館脱出はそう簡単なことではなかったようである。