11月 2017 のアーカイブ

新幹線祭 柿

2017年11月30日

11/27妙丹柿を配ろうと自転車で出かけると青山前で電池が少ないことに気付き、新幹線祭の中を帰った。バテリーを付替えしようとすると鍵が見つからない。駅前のコムスを予約し、大安寺東町より矢坂東町まで1時間程で配り終えた。1050円だった。28日の福島の電気自動車の試みをNHKがしていた。三菱i-MiEVだ。天井に太陽光パネルも取り付けいる。3時間500円と割安だ。
新幹線祭は毎年の北長瀬の行事だ。岸一太が飛行機を目指しいたのもわかる。
事前に申し込んだ家族連れら約7千人 (主催者発表)が写亭撮影や車両見学などを楽しんだ。
 東海道・山陽新幹線で2編成しか走っていない黄色い車体の検査車両「ドクターイエロー」や、人気アニメ「新世紀エヴァングリオン」のデザインをあしらった500系こだま号など5種類が会場に並んだ。子どもたちは、運転士の制服を着て先頭車両の前で写真を撮ったり、運転席や床下の機器を見学したりした。ラクター「カンセンジャー」のショーや点検時に使われる「レールカード」の乗車体験も人気を集めた。(山陽新聞)
幼少の子供連れの夫婦が駅より会場まで網がっていた。
植物は、自然状態では、毎年開花・結実する植物でもその量は大きく変化することがよくあります。なぜでしょうか?1つめの理由は、光合成での稼ぎと、最適な開花・結実の規模の関係の不一致があります。日本のようなところでは、ほとんどの植物は1年に1回花を咲かせ実をつけます。しかし、1年という時間が、植物の繁殖のリズムに最適なのかどうか、というのは別の話です。植物が花をさかせ実をつけるのには、いろいろな理由から、ちょうどいい規模、というのがあるような気がします。ちょっとしか花を咲かせなければ、花粉を運ぶ虫に見向きもされず花粉媒介がうまくいかないかもしれませんが、たくさんつけすぎると、こんどは虫が足りなくなって無駄が多くなるかも知れません。
1年の光合成の稼ぎと、1回の開花・結実に最適な光合成量に差があると、稼ぎを1年以上ためておいて、実をつけるは2年に1回でいいや、とか3年に2回くらいでいいかな、となったりします。しかし、なり年でない年も花が全く咲かないことはあまりありません。それは、植物がそんなにうまく開花をコントロールできないこともあるかもしれませんし、来年の開花まで生きていられるとは限らない、とか、稼ぎがあまるんだったらつかっちゃおうとか、いろいろな理由が考えられます。また、種子を食べる害虫との関係でも、コンスタントに種子を生産するのは、得策ではないと考えられています。不作と豊作が交互にあれば、不作の年に害虫の数が減るので豊作の年の種子を食べきれずに残してしまうかもしれませんが、コンスタントに毎年種子を生産していれば、毎年全滅させてしまうかもしれません。
2つめの理由は、不確定な要素がいろいろあることです。花芽が寒さでだめになってしまったり、花が咲いても咲いた時期に天候不順で受粉がうまくいかなければ、結実量が減ります。実が付かなければ、その分稼ぎを使う量が減りますから、来年の花や実の量はぐっと増えることになるかもしれません。結実量が増えた次の年は、木も疲れて、またぐっと減ってしまうでしょう。農家の方々は、毎年コンスタントに実がなるように手入れをされるのだと思うのですが、それでも変化してしまうのですね。あまり手をいれていない木では、その差はさらに大きくなると思います。
・隔年は、距離が離れた地域でも同期しているのでしょうか。同期しているならば、なぜでしょうか。
植物の種類や距離にもよりますが、広い地域でなり年が同調する現象はよくみられます。同期には、植物が積極的に同調させている場合と、天候など(上で述べた寒さや天候不順など)が広域で同調するために植物の豊作・凶作も同調する場合があります。後者については、あまり説明は必要ないと思います。前者については、次のように説明することができます。植物が花を咲かせるのは、花粉を交換するという目的があるのですが、たくさんの木がたくさんの花を咲かせていたほうが花粉の交換がうまくいく確率が高くなります。したがって、花が多い年と少ない年があるのなら、自分もそれにあわせた方が得なのです。また、上にのべた種子を食べる害虫との関係を考えても、豊作の年に自分もたくさん実をつけたほうがよさそうです。そのため、たくさんの植物で開花を同調させる仕組みを持っている植物がいます。たとえば、5月がとても寒い年には花を咲かせよう、とか、夏が暑ければ次の春に花を咲かせよう、というわけです。でも、同調のメカニズムはあまりよくわかっていません。
酒井 章子(京都大学・総合地球環境学研究所)
https://deraumafuyugaki.wordpress.com/2017/07/
虫害の場合
○「ヘタ虫」と言う害虫が発生すると、虫が付いた場合、6,7月の花芽期、また、9、10月に発生し、ひどいときは、ずべての実が「ヘタ虫」に負けて落下します。スミチオン剤の1000倍を、6、7月、9,10月に散布すれば、大丈夫です。カイガラムシの場合もあります。
強風、長雨の場合
○長雨で受精期の未受粉が起きます。柿の花は受精しなくても結実しますが、長雨で、花粉を運ぶ虫が飛来しない場合、実が未受精で、落下しやすくなります。
品種によって、雄、雌異株の柿も有ります。その場合、雌だけですと、近所に雄木があったものが、突然無くなった場合、突然結実しなくなります。
雌雄異株がどうか、確認してください。雌だけの場合、雄株を一緒にうえれば解決します。
○6,7月、9、10月に強風がありませんでしたか。未熟な実が落下した可能性があります。
人為的な場合
○昨年、収穫した時、実がなっていた枝ごと、もぎ取りませんでしたか。
柿の実がなっている枝の、先端から3,4番目が、来年実がなる花芽です。よく高枝きりバサミを使っている方で、このようなケースがみられます。来年の花芽まで切ってしまうからです。また、柿の木はおれ易いので注意してください。
収穫の際は、必ず、来年の花芽は残すよう注意してください。
○肥料過多
あまり、窒素が多い肥料をあげますと、地中の窒素が過剰になって、ある年、突然全く結実しなくなります。若木に多いケースです。カリウム、燐酸を主体とした肥料に切り替えましょう。
この中の原因の何れかだと思います。
わたしの家の柿では、そのような事は幸いにも有りませんでした。
今年は雨が多かったですが、実が大きい傾向にあります。
宜しく参考になさってください。
 多くの果樹は、子孫を残すために実をつけます。
土壌が良すぎれば、幹や枝を伸ばします。微妙な力関係があります。
逆に果樹農家の立場から、コントロールの術を記します。
柿は、前年に伸びた枝に、花芽をつける芽をつけます。
つまり、その年に伸びた枝に実をつけます。
前年に実をつけた枝には実をつけません。
また、ひこばえとかシュート=とちょうしと呼ばれる力強く伸びる枝も花芽をつけます。
この枝は、横に伸ばすように曲げれば、花芽をつける枝をつけやすくなります。
同じ場所からでる一番元気な枝は基から落とします。逆に細すぎる枝も落とします。
土壌が良いとシュートが伸びて、実は少なくなるのです。
シュートを切り、実のなる枝を伸ばすのです。2年目、3年目で実をとったら、基から切り落とします。
このように、主幹から3本ほど支幹を伸ばし、先の方でさらに2~3の副支幹を少しだけ伸ばします。
副支幹と支幹に実をつける枝を伸ばし、3年過ぎたら基から落とすのです。
全ての幹は、手の届く高さに抑えます。
次第に、副支幹まで、太くなってその先の枝が極端に細い(3年生位まで)形状になります。
強い風にも比較的強いのです。摘果は7枚前後の葉に実を一つ位残します。
実が多すぎたり、剪定が強すぎたりすると、柿は自ら実を落としてしまいます。『今年は、実は少なくして枝葉を伸ばそう!』とするのだそうです。6月頃末までは、要注意です。
では、どうするか?
概ね、何個の柿が採れたか、柿の木一本毎に記帳するのです。過去3年くらいの平均の実数+αを、当年の実の数として、摘果すると、妥当な数の柿の実が当たり外れなく収穫できます。α分だけ、終了は増加します。
収穫後と、春先の芽が出る前に、肥料を与えます。
  詳細は柿の施肥でググってください。
http://kakinosaibai.web.fc2.com/hiryo.html
  大粒の甘柿を生産するコツの一部を、私の尊敬する先生の教えを基に記しました。
干し柿用の数を頼みとする小粒の渋柿は、自然の伸びに任せてもよいようです。
 採果するときに、枝毎もぎ取り、翌年の花芽をつける枝数を、経験でコントロールしているようです。
施肥(肥料を与える)
肥料を与えるのは、開花中や生育中、実を付けるときと
実を付けた後(お礼肥)です。お礼肥として収穫後に乾燥鶏糞、油かす、化成肥料、硫酸カリの複合肥料を与えると良いでしょう。
また、柿はカリウムを多く必要とするため、8月末~9月に塩化カリを施すと肥大した甘味の増した果実が実ります。
一般的に植え替え直後には肥料は上げない方がよいとされています。
植え替え直後に肥料を与えると柿の木にダメージを与え傷んでしまうからです。
同じく、植物が弱っている時に肥料をあげるのも枯れる原因です。
植物が弱っているときに肥料を与えるのではなく、日の当たり方や水分などを見直しましょう。
 皆で芋ほりとピーナツを収穫、乾燥しているとN君が散歩の途中、手押し車を直してくれました・
写真 
1.駅模様
2.近所の富有柿
3.安穏芋

身延山久遠寺

2017年11月27日

10/20 浜松駅より大井川の先の島田駅に降りた。S君が車で待っていてくれた。早速静岡市に向けて走りながら聞く。奥さん看病して先立たれている。結婚式の時は参列させてもらった。町内会長の役職は終わったが、この日も、臨済宗のお寺の世話があると。
中心部の駿府城が近づく、赤い鳥居が目に入る。静岡浅間神社に今川館があったとの事。
南西の坤櫓から南東の巽櫓と駿府城の周りを一巡りした。
二ノ丸南東の巽櫓(たつみやぐら)が、1996年には東御門(櫓門)と続多聞櫓が日本古来の伝統的在来工法によって復元された。天守閣は無く公園として市民が楽しんでいる。この中が今川館跡と云われているようだが違うらしい。
静岡駅に送ってもらい身延線に乗る。駿河湾沿岸部から甲府盆地にかけて、富士山と赤石山脈(南アルプス)に挟まれた富士川の流域を走る山岳路線である。全線にわたり富士川の左岸(東側)を通り、本流を渡ることはない。北側は甲府盆地内の鰍沢口駅、南側は西富士宮駅付近まで地形が開けており、沿線人口が多い両端部での区間運転も多い。また中京地方以西と山梨県を行き来するには最も利用しやすい鉄道ルートで、静岡駅で東海道新幹線と接続する特急「ふじかわ」が運転され長距離輸送も担う。
見延駅よりタクシーで久遠寺に向かう。降りたところが奥の院へのロープウェイ乗り場だった。天候も悪く見合わせる。境内を回って行くと五重塔見え、納骨に桜の時期来た人がうらやましかった。
修行の集団が南無法蓮華教を唱えながら10組ほどあり壮観であった。
本堂前を回り報恩閣で先祖供養の祈祷のお願いをする。納骨の人がほとんどであった。
仏殿で10何名かが祈祷していただく。
また、タクシーで見延駅に戻り甲府に宿をした。
項中に650年前の日蓮上人直筆の曼荼羅があり、建治2年となっていて、何時土産に買って帰たか分からない。各家庭にある曼荼羅には和尚の名前と年号が書いてある。
日蓮は自らをイメージする宗教的世界を紙上に筆書した曼荼羅本尊を描き、礼拝、受持の対象として門弟や信者に与えたといいます。
鎌倉時代、疫病や天災が相次ぐ末法の世、「法華経」をもってすべての人々を救おうとした日蓮聖人は、三度にわたり幕府に諫言(かんげん)を行いましたが、いずれも受け入れられることはありませんでした。当時、身延山は甲斐の国波木井(はきい)郷を治める地頭の南部実長(さねなが)の領地でした。日蓮聖人は信者であった実長の招きにより、1274(文永11)年5月17日、身延山に入山し、同年6月17日より鷹取山(たかとりやま)のふもとの西谷に構えた草庵を住処としました。このことにより、1274年5月17日を日蓮聖人身延入山の日、同年6月17日を身延山開闢(かいびゃく)の日としています。日蓮聖人は、これ以来足かけ9年の永きにわたり法華経の読誦(どくじゅ)と門弟たちの教導に終始し、1281(弘安4)年11月24日には旧庵を廃して本格的な堂宇を建築し、自ら「身延山妙法華院久遠寺」と命名されました。
武田信玄も隠れ湯に浸かりに来ていたそうだ。(納豆博士)
写真
1.本殿
2.修行団
3.報恩閣 右枝垂桜


 

浜松 気賀 大河ドラマ直虎

2017年11月25日

10月19日にのぞみ4号で名古屋に行き乗換、豊橋で東海道線に乗換て、新所原で降りて天竜浜名湖線で気賀へむった。新所原ではウナギの匂いがして食べなかったのが残念だった。天竜浜名湖はンマン運転の列車が各駅停車で運転される。単線かつローカル線であるために、完全な等間隔運行ではないが、昼間はほぼ1時間に1本の割合で列車が運行されている。全線を通して運転される列車のほか、天竜二俣駅発着列車、朝夕には掛川駅 – 遠州森駅間・天竜二俣駅 – 宮口駅間、金指駅 – 新所原駅間、夜間には掛川発金指行きの区間運転列車が設定されている。
12番目の気賀駅では大河ドラマの幕が多く飾ってあって駅舎もの改札口も木造で歴史を感じた。
ローカーに荷物を置き大河ドラマ館に行くと大勢並んでいた。
切符売り場に行くと龍潭寺行のバスが直ぐ出るので先に行く。
『井伊谷城主である22代直盛の一人娘として誕生。直盛には男児がなく、従兄弟の23代直親を娘の許嫁として家督を継がせる予定だった。ところが直親の父親が今川義元に殺され、直親の命も狙われたため信州に身を隠させたが、幼き直虎は直親が死んだと思い、自ら出家し次郎法師と名乗り、生涯未婚を通した。
その後成人した直親は井伊谷に戻る。しかし直盛の戦死と、直親の殺害により、井伊家は存亡の危機に直面。龍潭寺の南渓和尚の計らいもあり、1565年、井伊直虎と名乗り、5歳の虎松(24代直政)の後見人として、政治手腕を発揮し、井伊家を支えました。
1575年、15歳に成長した直政を、浜松城主の徳川家康に出仕させ、見事に井伊家の再興を果たします。』
龍潭寺に着くといきなりバス降りる人が赤い血を出しいて救急車を手配した。
観光バスも危ない。
龍潭寺の寺伝によれば天平5年(733年)、行基によって開かれたとされ、当初の寺号は地蔵寺であったが寛治7年(1093年)に井伊共保が葬られた際にその法号から自浄寺と改められた。
平安時代から井伊氏の菩提寺であったとされる。元中年間(1384年 – 1392年)、宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの寺を中興したともいう。
戦国時代の永禄3年(1560年)に戦死した井伊直盛がこの寺に葬られると、直盛の法号から龍潭寺と改められた。ちなみに龍潭寺のある井伊谷は井伊谷川と神宮寺川が合流する流域にあり、水が豊富にある。龍潭寺の「龍」は水神の龍でもある。直盛の死後井伊家の当主となった井伊直親、直盛の娘で直親の死後の永禄年間に井伊家を取り仕切った井伊直虎の墓もあり、直親と直虎の墓は隣り合っている。
 井伊家伝記によると、小牧・長久手の戦いにおいて井伊直政が先手大将として出陣する際に、寺に伝わる「日月松有之金銀の扇子」を陣扇として授けたとされる。
関ヶ原の戦いの戦勝にともない、井伊氏が近江国に転封となってからも井伊氏の外護を受け、江戸幕府からも朱印状を与えられた。』
雨中をカッパを羽織って山門に登ってゆく。
庭園は高梁 頼久寺と同じく小堀遠州作だ。
元祖 井伊共保公より24代 井伊直政公までの墓地が境内奥にあった。
元祖共保公出生の井戸も見物した。
おんな城主 直虎 大河ドラマ館は、閉館間際でもあり、撮影もできず素早く見て出た。
気賀に帰り、遠州バスで浜松に行く。これが随分時間がかった印象だった。
浜松駅のロータリーは正十六角形の円形バースで乗り場が16番まであり、大きく、付いた場所からタクシー乗り場が分からず、駅前の東横インなのに苦労した。
周辺企業が多く静岡市より発展している。
 中野君によると龍潭寺の和尚が熱心に大河ドラマを働き掛け実現した。彼の家は浜松にもある。
写真
1.小堀遠州庭園
2.丈六の釈迦牟尼仏
3.直虎甲冑
4.元祖共保公出生の井戸 

初霜、初冠雪

2017年11月25日

初霜は12/5の予報が早くなり既に岡山は霜が降りたようだ。
我が家の妙丹柿が初霜の頃と楽しみにしていた。
鳥取の『花御所柿は、鳥取県東部の因幡地方でのみ栽培される甘柿で約200年前、旧郡家町花の野田五郎助翁が大和の国から枝を持ち返り接ぎ木したのが始まりと伝えられています。明治42年、農林省園芸試験場長の恩田鉄弥博士がその風味を激賞し、地名から花御所柿と命名されました。花御所柿は、日本一の甘柿として全国的に高く評価され進物用として広く親しまれています。』
花のように数珠成りとなっていたが残念ながら数えるほどしか取れなかった。
その上、鳥が食べてしまい、早く熟し落ちてしまったようだ。
 吉備妙丹柿として増やすのも良いが。祖母は庭瀬川入小西の脇本家の出だ。子供時分は祖父と仲良く今の隠居部屋に住んでいた。
庭先の普通の甘柿も全くならなった。こんな年は初めてだ。
 ツツジを取り寄せ庭に植えた。4000円と高かった。
来春が楽しみだ。種を矢坂山に取に行かなくても蒔けるだろう。そして2m以上に何時成長するであろうか。
昔、小庭に同様なツツジが植えてあったが地が低くいつの間にか枯れた。
写真
1.妙丹
2.コバノミツバツツジ苗

「岸一太」朝ドラ RSK映像センター

2017年11月24日

11/21コムスに乗り出かけた。県立図書館で本を貸しスタートしようとすると動かず、オカモビに問い合わせ等して約束の時間に20分遅れた。駐車場を隣に置かせてもらった。
『岡山映像ライブラリーセンターは、山陽放送が所有する映像や音声などの素材をデジタル化して保存するとともに、より多くの方に貴重な資料を視聴していただくため、2015年4月に開設されました。
当センターに保存されているのは、1953年の山陽放送創立時より残されている6ミリテープや16ミリ映像フィルム、アナログ・デジタルのビデオテープなどです。このほか、一般家庭や企業に眠っているフィルムをデジタル化する活動も行っており、それらの貴重な資料もあわせて分類保存されています。
センター内の視聴ブースでは、その保存されている映像を視聴準備の整ったものから順に公開しています。大正時代の倉敷の様子や昭和初年の笠岡港、戦後の豊かになっていく生活の様子など、人々に懐古と憧憬の念を抱かせる映像ばかりです。ぜひ一度、足をお運びください。』
 岸一太の朝ドラについて話すとRSKはNHK番組は競合していると兼もホロホロ。
趣旨を説明した。「岸一太を顕彰する事」
地方放送局として「どうにかならいか」を含め矢坂山をツツジ山、鉱物博物館、紙飛行機、ドロ-ンなど色んな課題を説明し、なにも金もなく、人脈の無い会に協力を依頼した。  山田方谷大河ドラマ署名活動は80万に達し、100万の目途はここでの論外だ。
画像工学と100カ国のスイス企業の情報網の利点をあげた。誇大かな?
岸一太について調べたが、地元に全く資料・映像が無い。
大阪には4時間で飛来した。また山口に行っている。
大正2年に父熊さんが亡って妙林寺5人僧を盛大に行って、列席。
山口へは山陰線で飛行機を運んだ。
1913年(大正2年)11月21日:出雲今市駅 – 小田駅間(9.6M≒15.45 km)が延伸開業。知井宮駅(現在の西出雲駅)・江南駅・小田駅が開業。
山陽本線は、神戸駅から下関駅までは、私鉄の山陽鉄道の手により開通した。1888年に兵庫駅 – 明石駅間が開業し、翌年に神戸駅・竜野駅まで開通。以後順次西へと路線が延びて、1901年に馬関駅(現在の下関駅)まで開通した。山陽鉄道は1906年、鉄道国有法により国有化され、官営鉄道山陽本線となった。
県立図書館に行き新聞を調べることとする。学芸員の協力を得て、主として、読売新聞の明治・大正時代で調べると47件があがってきた。飛行機以外に鉱物、ゼルマ夫人、神道に関する多岐に渡る。当時の地方記事を調べないとならない。山口、山陰と。山陽新聞には、熊さんが亡くなた記事以外は記録が無い。
山口の関連作品
「お嬢さん、空を飛ぶ: 草創期の飛行機を巡る物語」
写真
1.ドイツ 鉱山博物館 
2.静岡 身延山 ドロン 鎧
3.岡山県立図書館 飛行機書物展示

信州旅行 小布施

2017年11月23日

10/21 12:30に新幹線長野駅で待ち合せした。
山梨県甲府に泊まり、懐かしいスパーあずさに乗り、ワクワクしていた。合宿などで何度乗ったか?
台風で中央線が塩尻で遅れ難儀した。
待合室に居ると次々と8名が集まってきた。東京長野間は新幹線で2時間とは?
駅構内の蕎麦屋で旨い信州ソバを食べた。大町で降りて食べたソバより腰があり格段の美味しくなっていた。
今回幹事は飯田市のT君だ。長野市内実家から離れ就職し 家庭を持っている。卒業後学園紛争などで学長代行 浜野裕司 1971年2月1日 – 1971年12月12日 となった。新橋で画廊など営んでいるM君、何時も鎌倉・熱海。伊豆など西部球場の近くの上尾に住んでいるY,A君など。更に東大に一緒に行ったY君、静岡で世話になり東京周りで帰りは軽井沢の友人邸に寄るS君だ。
近くの駐車場のレンタカーに乗り、小布施に至り、葛飾北斎館では、北斎の代表作ともいえる『北斎 漫画』に焦点を当て、北斎の描いた森羅万象の世界を堪能した。
また、上町祭屋台は、1階に囃子方が入り、2階は飾り舞台として仕立てられていた。
 つづいて、中島千波美術館では25周年で全国より作品を借りて展示したり、桜の花一弁まで丁寧に色鮮やかに描かれた作品に圧倒された。
 岩松院は、21畳敷もある迫力の葛飾北斎最晩年の大作天井絵「大鳳凰図」
岩松院21畳敷もある迫力の葛飾北斎最晩年の大作天井絵「大鳳凰図」
本堂の天井を実際に舞っているかのような迫力の「大鳳凰図」は八方睨みの鳳凰ともいわれその鋭い目はどこからみてもこちらを見据えます。
160年以上を経た今でも保持されている鮮やかな色彩にも心奪われます。
間口6.3m、奥行5.5mの大画面を12分割し、床に並べて彩絵した後、天井に取り付けられた「大鳳凰図」は、朱・鉛丹・石黄・岩緑青・花紺青・べろ藍・藍などの顔料を膠水で溶いた絵具で彩色され、周囲は胡粉、下地に白土を塗り重ね緊迫の砂子が蒔かれています。画面には絵皿の跡など制作時の痕跡が残っているそうです。 この「大鳳凰図」にはかくし絵として北斎が生涯敬慕してやまなかった富士山が描かれてる。
ここで、
ホテル水明館に撮影中のK君が合流した。彼は、お恩師が喜んだように10年前
「温泉に入るサルで有名な、長野県地獄谷野猿公苑。厳しい冬を耐え抜く姿、慈愛あふれる親子、温泉にいやされた表情など、サルたちの姿と自分の人生を重ねられずにはいられない作品集。」初めて温泉に入る猿を撮影した。
次の日も雨が激しくなる中、東山魁夷美術館が休館のため、善光寺横を通り、昼食後、水野美術館は、平成14年の開館以来、日本画専門の美術館として、蒐集・公開を積極的に行きた。今年7月に迎えた開館15周年を記念し、水野コレクションの中でも最も重要な位置を占める横山大観と菱田春草の二人に焦点をあていた。ともに東京美術学校(現・東京藝術大学)に学び、明治期、岡倉天心が目指した”新しい日本画”の創造に邁進した朋友である大観と春草。天心の理想を実現すべく生み出した「朦朧体」、日本美術院や海外渡航で行動を同じくし、互いに研鑚しあった二人の画業だ。
 立山アルペンルートのために松本に送てもらった。
地獄谷温泉の野猿公苑 http://jigokudani-yaenkoen.co.jp/photogallery
しゃしん
1.ホテル水明館
2.写真集
3.S42 卒業時

歴研サロン「岸 一太」

2017年11月21日


歴研サロンが11月16日(木)13時30分より「ゆうあいセンター2階」きらめきプラザ内で講演させてもらった。
テーマ:『日本初の飛行機を作った医師 岸一太』 
岡山出身(現岡山市北長瀬)で日本で初めての飛行機製造を始めた医師岸一太について語ります。
現在の岡山市北長瀬に生まれた岸一太(M30 ~S12)は第三高等学校医学部(岡大医学部)卒業後ドイツのハレ(塩)大学に留学、ゼルマと結婚し男子を生み、「ドクトルメディチーネ」の学位を得る。京都大学より博士をとり耳鼻咽喉科医となり、東京の築地で開業していた。大正4年、自ら開発した発動機にモーリス・ファルマンの機体を付けた飛行機「つるぎ号」を制作、続いて初の国産飛行機「第二つるぎ号」を制作、医師を辞め大正6年赤羽航空機製作所を設立しました。この会社は事業拡大に失敗して倒産(T10 )することとなりましたが、日本で最初に飛行機製造を手掛けたことで、日本の航空機製造に多大な貢献をしました。その後の日本の飛行機製造に大きな影響を与えたのです。岸一太は医学分野では台湾・中国大連の医学発展に貢献したことや金属研究の分野でも知られています。進取の精神に富んだ人物だった。
今年で赤羽飛行機製作所・飛行場の100周年となる。https://youtu.be/dju5lhHYyPYに公開。歴研案内より
柴田先生が亡くなったが、中世史は益々関心が深まる。
今回文化勲章を受賞した藤島 昭 東京理科大学学長も地域の先達を紹介することが重要と語り、川崎市の児童の指導をされている。
写真
1.一部 出席下ったK君
2.坂崎出羽守の歌舞伎
3.中野義夫君のゲルテクノロジー(県図書館 8月始め迄)