5月 2012 のアーカイブ

「京」見学

2012年5月29日

振動技術懇談会の見学会に参加しました。8:45 岡山大学を貸切りバス出発しました。11:30 神戸ポートアイランド着き高度計算科学研究支援センター(財団法人計算科学振興財団)でFOCUSスパコン見学、FOCUSスパコンを活用した産業界でのスパコン利用推進活動の取組みを聞き、12:00 昼食(FOCUSレストラン)13:00 計算科学研究機構(独立行政法人理化学研究所)、「京」およびそれを支える耐震技術を含む設備の見学、スパコンとは何か,その歴史や今後の動向。 14:20 神戸大学統合研究拠点 ・3次元可視化装置「π-CAVE (パイ・ケイブ)」見学/体験「π-CAVE (パイ・ケイブ)」:「京」で計算されたシミュレーションデータなどを可視化する日本最大の立体可視化装置。

14:50 神戸大学統合研究拠点発15:30 カワサキワールド(神戸海洋博物館内)  17:00 カワサキワールド発  19:00頃 岡山大学津島キャンパス到着 1日盛りだくさんでした。

往復の車内でもミーティグがあり、振動にうといですが勉強になりました。  「京」については事業見直しで有名になりました。3月に1秒間に1京回の計算を行うことを達成し世界1位の性能を立証しました。 これから稼働率をあげ研究、産業界に貢献してゆくことが課題です。神戸市が積極的にそれを推進していて既に成果が出始めています。しばらくは世界の技術革新の推進役となるでしょう。半導体性能は勿論、配線、発熱を冷やす巨大な設備、京を支える基礎、免震構造あらゆる技術を掻くしして完成しています。  カワサキワールドは川崎重工がスポンサーとなり運営している神戸海洋博物館の展示施設で、船の模型展示は勿論、電車、新幹線、バイクと川重のものつくりが学べました。ポートタワーの下です。

大高檀紙

2012年5月22日

大高檀紙が高梁ゆかりの地とは今では知る人は少ないでしょう。その紙は、徳川幕府の庇護のもとに作られていました。今でも宮中でで命名の儀式で使われます。 5月20日にその本家を訪問する機会がありました。 江戸幕府の消滅とともに紙漉きは終わっています。河内谷八幡宮より宝林坊あたりまで領地で、広瀬駅は紙漉き場でしたが伯備線の開通のため山川のみとなり、小堀遠州作と云われた庭園も一部となっています。高梁川と成羽川が合流てんより少し下ったところにあり、ダムができるまで再々洪水に会っていました。京都に紙漉き場を移すように云われたそうですが、河内谷の水でないとできないと断ったと云われています。その水路は一部残っています。そもそも小堀遠州が松山藩の家老をしていた関係で江戸城が焼けたさい蔵の紙が無くなり送ったのが始まりとされています。備中は紙漉きが盛んでしたがその中で最高高級の紙で一子相伝で、現存する紙は少なくその技術も不明のままです。 当主が岡山市内から通いながら片づけられています。貴重な物は高梁市に委託されているとのことです。各所に昔の面影の屏風絵など感慨深いものです。ツツジ庭園越しに伯備線が走りそのすぐ先が高梁川が流れ赤い橋があります。避暑に暮らしたい気分になりました。

児島・倉敷探訪会参加

2012年5月22日

5月19日岡山歴史研究会主催の倉敷・児島方面(新熊野神社、由加山と蓮台寺、藤戸古戦場など)史跡めぐりに参加しました。

岡山駅西口より52名で8時45粉に出発し、9時40分ごろ五流尊瀧院に着きました。修験道の祖と言われる役小角(役行者)は義学・義玄・義真・寿玄・芳玄ら5人の弟子達を中心に熊野本宮大社よりいわゆる五流が児島に流れ着き行者の修験場となった。石造り宝塔、護摩堂、役行者像、大久保利通公が襲撃されたときの血染めの馬車など案内頂いた。  続いて新熊野神社に移動し、後鳥羽上皇御影塔、五重の塔、5棟の社殿を拝し、この日は春の大祭の行事が行われていました。

由加山蓮台寺客殿で管主さんの池田城主の祈願訪問の様子と各部屋を案内頂きました。白狐など屏風絵は見事でした。  石造総願寺跡宝塔、熊野道延命地蔵あたりで万葉集のコノハサクヤヒメと云われてもよくわかりませんでした。清田八幡宮ではNHKの平の清盛に出てくる西行法師の詩が刻まれていました。  藤戸寺では奥の方にある石造5重層塔を見て、京ケ島など源平藤戸合戦史跡を案内頂き、場所さえ分からなかったところを丁寧な解説のもとに1日有意義でした。

2012.6.2清掃活動のご案内

2012年5月19日

矢坂山を語る会各位

清掃活動のご案内

平成24年5月18日

薫風の候、時下ますますご清祥の段、お慶び申し上げます。毎度格別のお引き立てを賜り、厚く御礼申し上げます。

さて、お陰様で富山城跡、鯉が池付近が、下草刈、間伐、倒木処理により見違えるほど綺麗になり、桜、ツツジが見事に鑑賞できました。今後ともこれを維持するため昨年同様清掃活動をしたいので、下記のようにご案内いたします。なお当日、昨年活動概要について報告させていただきます。

日 時 :平成24年6月2日(土) 9時~12時

集合場所:鯉が池下駐車場

活動場所:登山道、鯉が池、富山城跡

道機具 :軍手、かま、熊手、選定鋏、草刈り機、鋸、チェンソー、保護具

(各自持参)

食べ物 :飲み物、昼食(昼過ぎまで参加いただける方各自持参)

天 候 :小雨決行

 

以上

「矢坂山 富山城跡の春」ビデオ作成

2012年5月19日

「矢坂山 富山城跡の春」ビデオ作成のため、一宮のN氏宅を訪問しました。一宮の紹介ビデオを10人のスタフで2年がかりで完成しています。また、NHKなどにビデオ投稿されたり色んなグル-プの活動を撮影、編集されていて、趣味とは云え完成されたものです。編集テクニックを一部見せてい頂きまあした。  下記のようなカットとナレーションを考え、淡い期待を持って、この春撮影して1時間ほどに繋ぎ合わせたビデオを見て頂いたところ、動き回って撮影しているため、小学生などに5分も見せると全員ひっくりひっくりかえると云われ、玉砕しました。静止画中心に編集し直さなととのことでした。桜、ツツジの季節は過ぎ今年のことにはならないかもしれません。 ビデオ原稿20120516  大野小学校119周年記念式典 6月19日 5~10分  大野学区ふれあい会 11月頃  15分以内 カット、ナレーション案 矢坂山の春 ②  富山城跡辺りを4月8~19日に収録しました。 ② 矢坂本町の3本杉より鯉が池を通り登りました。 ③  今年は寒さの勢で桜、ツツジの開花が遅れました。 ④ 残土処理場を過ぎたあたり山道、井戸付近の展望台辺りで盛にウグイスなどの小鳥が鳴いています。 ⑤ 富山城の水の手と云われる鯉ヶ池では2本の山桜があり池側が真っ先に咲き、入口の山桜は最後にツツジとともに散ります。野山の尾根よりみると一層艶やかに見えます。 ⑥ 富山城跡への登り口にツツジが群生しています。 ⑦ 階段を上ってゆくと松田時代の石段が少し残っています。御津の金川城に行くのに使われていたのでしょうか。 ⑧ まず西の出丸に着きます。2~300㎡広さがありますが調査発掘されていません。 ⑨ その横を歩くと切掘り跡に出ます。橋があったと古絵図にあります。 ⑩ 城門跡らしき石跡を過ぎ登ると開けたところが二の丸跡の矢坂山山頂です。北側手の大きな岩が評定岩で吉備津彦が陣を張って温羅を退治する評議をしたと伝えられています。展望もよく岡山ドーム、岡山市街地、操山、児島湾、京山、岡山大学、商科大学、一宮高校が眼下に見えます。尾根の遠方にはすべり山も見えます。 ⑪ 崖の下にツツジが群生しています。 ⑫ 3月3日に皆で清掃、下草刈、間伐、倒木処理をしました。年4回行っています。 江戸時代の中期に書かれた富山城跡の絵図を張ってあります。宇喜多の時代の最盛期の頃と思われます。 ⑬ これより奥は、石切りにより道が断崖となっています。子供の頃はハッパ(火薬)が下でかけられていたため立ち入り禁止でした。  多くの種類の山桜が見られます。 ⑭ 本丸跡には城跡の礎石が残っています。富山城主の松田家主従の子孫が700年ぶりに4月8日に太然寺で法要され塔婆を立てられました。鎌倉時代より宇喜多に滅ぼされるまで200年間西備前を統治していました。 ⑮ 本丸石垣跡付近にもツツジが群生しています。その奥にはアズキナシを中心として多く咲いています。この先は断崖となっていて遠くに北の丸跡が猫の額ほど見えます。ここからは一宮高校、矢坂大橋、吉備津彦神社や、遠くには岡山空港、鬼ノ城も見えます。 ⑯ 戻り道での山桜の辺りでは3鳴野鳥のオオルリが鳴いていました。 ⑰ すべり山の手前にはツツジに囲まれたツツジ街楼があり、めおと岩辺りにも多くのツツジがあり日当たり良いためか早くに咲きます。 ⑱ 野山変電所から登ると中腹より多くツツジがあり野山展望台も見事です。 ⑲ 野山の尾根に行く途中の鉄塔手前には古墳がありました。 ⑳ 鯉ケ池の上の尾根には100㎡程度にツツジが群生しています。これを過ぎたあたりに鯉ケ池の山桜が眼下に見事に見えます。 (21) この道をたどると急傾斜なところがありますが井戸付近に出ます。  (22) 魚見山を含めて矢坂山全山に山桜、ツツジ群生地があります。手入れをすることにより、より楽しめる里山となるでしょう。

マッチャン

拝見したCDは編集前の歩きながらの撮り流しだったので歩かれたルートがイマイチよくわかりませんでした。短く編集される場合ははじめにルート解説をしたうえでルートに沿ってポイントポイントの映像をだして解説をしていくか、矢坂山の見所を自然と史跡の二つに分けて、先に春の自然として桜やツツジ、ウグイスやオオルリなどをだし、後から歴史と史跡として富山城跡や鯉ケ池などの映像と解説、最後に展望台として、また操山や吉備の中山にも匹敵する潜在価値や今後の方向性などを説明されるのもいいですね。うまく編集するば動画でもできそうですが、静止画にした方が説明はしやすいでしょうね。動画の場合は撮る前に編集方針を決めて撮ると編集しやすいですね。私はしゃべりながら撮るのでよく立松和平と言われました。

アキチャン

なにでもされるのですね。ご指導をあおがないといけないでしょう。とりあえず5~10分で仕上げたいと考えていますが、編集方針も決まっていません。ビデオ編集adobe premiamu pro CSの試用版がいまいち分かりません。創立記念ようとしては新に歴史編として少し桜、ツツジを入れて構成した方が良いかもしれません。5月28日9時より一宮のN氏に現地指導を仰ぎます。

 

西野田庄城

2012年5月16日

T亭でのカーデーンパーティーのとき、Y氏が話していた松田家に関する話に興味があり電話連絡しました。早速岡山市史中世編91pをファックスで送って下さいました。

西野田庄城(岡山市史中世編p91)

今村宮の旧社後録の「神田」の条に西野田庄城という城名がでている。城主としてあげた能勢大和前司範光については何等記るところが無いが、旭川下流の沿岸に土着した多田源氏の能勢の一族であろう。西野田庄とは西長瀬、中山道、田中、辰巳の諸村をいう。今村宮の旧社後録の「神田」の条つぎの通り。

神田、正親町院御宇平信長卿(注、織田信長)の時、西備前西野田庄城主能勢大和前司範光并屋久利(刺)斎宮介重雄、同州富山城主松田豊後守等一戦ノ刻、燈油料八段五畝範光ヨリ寄附也、然ルニ慶長六年羽柴中納言秋秀ヨリ被召上 今ニ今村ノ内。神子用ト云。

(利)刺の誤りあると調査結果判明

屋久利(刺)斎宮介重雄はY氏のご先祖様で、本家は当地でご健在とのことでした。久米のYさんにお聞きしたところ、西野田庄城は田中城とも云い犬養さんが調べ本にされているとのことで御南公民館に行きましたが見つかりませんでした。田んぼ中に城と云うより屋敷跡があたそです。その場所を改めて確認できたらと考えています。

富山城を築いたのち御津の金川を本城とし200年続いたのち宇喜多直家に滅ぼされました。その当時の話と思われます。金川城を襲撃した宇喜多の軍勢は城主を殺し、一族は流浪することになります。富山城主だった家老横井は留守だったことと無血開城してように地元では伝えられています。松田と宇喜多にそれぞれついた土豪城主がいたことは十分考えられます。また背景に富山家が神職であったのを滅ぼし、信仰面で日蓮宗を布教を後押しすることにより勢力を伸ばした面があり、今村宮などは快しとしていなかったのかもしれません。

西野田庄は吉備津彦神社の荘園として開墾され、辰巳はその神主の王籐内家の方位により名付けたてとされています。王藤内家は平家討伐により曽我兄弟物語のも登場するように滅亡します。市久保などにも影響があったはずです。

御南中の佐藤勲先生(退官時 操山高校)の「あけゆく郷土」によると西長瀬、田中、野田は長く「槐ノ島」として扱っていて島の城であったでしょうか。吉備の穴海、旭川、笹が瀬川の乱川の中で開墾が進んだ様子がよくわくります。禁転載となっていますが先生の偉業を伝えれるために載せさせていただきます。

T氏からの情報

田中の「城」というのは「条」のことではないでしょうかね。田中の中の古い地区名に条(じょう)があり、Yさんのご実家あたりです。Yさんのご本家は明治23年の岡山県地主録では田中では一番、今村でも有数の大地主で大きな構えの御屋敷でした。そこが条の中心で、Y家は田中地域の西南端に位置していて、大昔はその前を西から東に笹が瀬川が流れていて(これは佐藤先生の本で確認できます)岡山西南部の防衛最先端として不審者が笹ケ瀬川をわたって侵入したり逃亡したりするのを見張っていたと言い伝えられております。Yさんの御本家そのものが城(今は条)だったのではないでしょうか? Yさんに直接聞かれた方が早いですよ。Yさんの御実家にはかなりの古文書などがお有りだと思いますよ。ご本家は最近まで旧宅が残っておりましたが、没落して今はマンションが建っております。家系図や古文書などが残されているといいのですがね、いずれにしてもYさんに会われると相当進みますよ。

追記 下記のように松田が備前から消滅した時でなく、浦上宗助殿合戦で宇喜多直家の父、能家が参戦し、富山城が唯一攻略された事例として残っている。

松田豊後守は8代目の松田元成(1484没年)であり、

文明16(1484)松田元成討死 大村出雲追腹 松田1門死者過半菅被官14人

明応 6(1497)浦上宗介 富山城を攻める 松田元勝 金川から出陣 伊賀勝隆 赤坂郡より高倉山へ

備前軍記 土肥常平著 浦上宗助と松田と合戦の事 に記録あり

矢坂山のツツジ毛虫退治

2012年5月12日

6時ごろより矢坂山山頂の看板の補強のため上がりまいた。透明ビニールで覆っているのが弛みを取るため両側に当て棒を取り付けるため。

麓に白い花を付けた大きな木がたくさんありました。栗の木でしょうか。黄色い可愛い花を付けていたヘビイチゴはイチゴ同様のちっちゃな赤い実をつけていました。食べても無味で蛇ぐらいしか食べないでしょう。またもや知らない黄色な花の野草が群生していまた。  石切池を少し上がった野山尾根への入り口では、いつもどうり小鳥のさえずりが聞こえてきたのでビデオで鳴き声を録音しました。ホトトギス、オールリでしょうか。鯉が池でも呼応するように鳴き、相手を探しているのでしょうか。

案内板の補強が終わり、1昨年植えた桜の苗木には毛虫が群がり葉をかなり食べれていたため枝で落とし殺しました。北の丸が遠望できるところまで行くとアヅキナシ(ニレではありませんでした)は初夏のに白い花を付けるそうです。ツツジを見ると毛虫が群がり枯れかかっているのもありました。  一度帰り朝食を食べたのち、蚊取用殺虫剤を2本持って再び上がりました。オルトラン」などの殺虫剤の方が効果的かもしれませんが小鳥の餌が無くなるなど影響があると困りますので。鯉が池より富山城跡への入り口のツツジ群生地を手始めに、葉が食べられているのをよく見ると毛虫が1,2匹は居ます。吹きかけるともがきながら落ちます。周りにいると動き出すので発見できます。ツツジ以外にも毛虫がいるのですが、シャシャキに群がっているのが気になりましたが今回は程々に。 1本ずつ確認ながら殺虫剤を噴射しながら北の丸が遠望できる所に至り、此処が最も毛虫が多かったです。さらにすべり山に至る手前で子供3~4人が追っかけてきて来ました。大野幼稚園に通っているとかで2家族が一緒に滑りに来たようです。早速大喜び滑り始めたのでビデオを撮らしてもらいました。 さらに野山展望台、野山尾根を回り毛虫を見たつけては処理し16時過ぎに帰ってきました。  毛虫が夢に出てきそうです。

矢坂山より帰り夕食前に露天風風呂に入ると芍薬が見ごろとなってなっていました。こっから見えるのは八重の少しピンクがかた芍薬です。  左に白い椿は新芽を吹いています。中央は猩々紅葉でその奥は黄色牡丹が咲いていますが、これは花が重くて全てうなだれています。白いカラーと紫の菖蒲が咲いてます。例年ですと平戸ツツジがピンクで覆われるのですが、剪定時期が悪かったのかこんな年はありません。

幻の「鯉ヶ滝」

2012年5月6日

6時過ぎより鯉が池登山道を登りかけ、石切跡の池の袂を歩いていると滝のような音が聞こえるので覗き込んでも、それらしいのは見当たりません。よく見ると鯉が池からの溝を流れ落ちていることがわかりました。流れ落ちた波形のみが下の方で見えます。昨日の雨で水量が増えてたためのようです。鯉が池の水門を開くと流れが大きくなるでしょう。残念ながら対岸から見えないためおそらく落差10mの滝は見れません。滝と云えるか見てみたいものです。  相賀先生によると太然寺辺りに野殿滝があったと書いてありましたが、今はなく地元の人からも確認できていません。

そこより少し上がった辺りに「ヘビイチゴ」と思われるちっちゃな黄色の花を付けた群生地がありました。先日の花はこれであったかも知れませんが花ビラは散ってしまっていました。

「花王」1輪

2012年5月2日

真紅紫の大輪の牡丹が咲きました。一輪だけで、径を測ると20cmありました。実は蕾が下に隠れていました。父が植えたもので1度枯れかかりました。

吉備津神社の牡丹園に行ったところ最後になった「花王」であることがわかりました。  次にそこの名札に書いてあった名前を列挙してみます。満開を過ぎ散ったり、散りかけた牡丹でしたが真っ盛りと云ったところです。最初に交配に成功してイメージに適した名前を付けたでしょうが、作者の意図を読み取れるまで一株づつゆっくりみたいものです。 白神、聖代、島錦、越の無姫、明皇宝、談天門、初恋の夢、墨流し、麟鳳、八千代椿、芳紀、大胡紅、花王、連鶴、島大原、越の粉、景玉、島津紅、百花選、煙竜紫、島大臣、ハイヌーン、天空、黄冠、小町白、)聖代、蒲田藤、可瞳紅、太陽、綾衣、連鶴、島の藤、羽衣、玉竹簾、明宝、御国の曙、紅輝獅子、新田月、錦、趙粉、富貴満堂、新福神、華扇、花競、新扶桑、八重桜、紫紅桜、朝日港、冠世墨玉、皇嘉門、白王獅子、香玉、越の雪、大香、銀紅巧、シャントール、金閣

回廊にも牡丹を植え木蜂に並べていました。 ツツジが1本見事に咲いていました。