T亭でのカーデーンパーティーのとき、Y氏が話していた松田家に関する話に興味があり電話連絡しました。早速岡山市史中世編91pをファックスで送って下さいました。
西野田庄城(岡山市史中世編p91)
今村宮の旧社後録の「神田」の条に西野田庄城という城名がでている。城主としてあげた能勢大和前司範光については何等記るところが無いが、旭川下流の沿岸に土着した多田源氏の能勢の一族であろう。西野田庄とは西長瀬、中山道、田中、辰巳の諸村をいう。今村宮の旧社後録の「神田」の条つぎの通り。
神田、正親町院御宇平信長卿(注、織田信長)の時、西備前西野田庄城主能勢大和前司範光并屋久利(刺)斎宮介重雄、同州富山城主松田豊後守等一戦ノ刻、燈油料八段五畝範光ヨリ寄附也、然ルニ慶長六年羽柴中納言秋秀ヨリ被召上 今ニ今村ノ内。神子用ト云。
(利)刺の誤りあると調査結果判明
屋久利(刺)斎宮介重雄はY氏のご先祖様で、本家は当地でご健在とのことでした。久米のYさんにお聞きしたところ、西野田庄城は田中城とも云い犬養さんが調べ本にされているとのことで御南公民館に行きましたが見つかりませんでした。田んぼ中に城と云うより屋敷跡があたそです。その場所を改めて確認できたらと考えています。
富山城を築いたのち御津の金川を本城とし200年続いたのち宇喜多直家に滅ぼされました。その当時の話と思われます。金川城を襲撃した宇喜多の軍勢は城主を殺し、一族は流浪することになります。富山城主だった家老横井は留守だったことと無血開城してように地元では伝えられています。松田と宇喜多にそれぞれついた土豪城主がいたことは十分考えられます。また背景に富山家が神職であったのを滅ぼし、信仰面で日蓮宗を布教を後押しすることにより勢力を伸ばした面があり、今村宮などは快しとしていなかったのかもしれません。
西野田庄は吉備津彦神社の荘園として開墾され、辰巳はその神主の王籐内家の方位により名付けたてとされています。王藤内家は平家討伐により曽我兄弟物語のも登場するように滅亡します。市久保などにも影響があったはずです。
御南中の佐藤勲先生(退官時 操山高校)の「あけゆく郷土」によると西長瀬、田中、野田は長く「槐ノ島」として扱っていて島の城であったでしょうか。吉備の穴海、旭川、笹が瀬川の乱川の中で開墾が進んだ様子がよくわくります。禁転載となっていますが先生の偉業を伝えれるために載せさせていただきます。
T氏からの情報
田中の「城」というのは「条」のことではないでしょうかね。田中の中の古い地区名に条(じょう)があり、Yさんのご実家あたりです。Yさんのご本家は明治23年の岡山県地主録では田中では一番、今村でも有数の大地主で大きな構えの御屋敷でした。そこが条の中心で、Y家は田中地域の西南端に位置していて、大昔はその前を西から東に笹が瀬川が流れていて(これは佐藤先生の本で確認できます)岡山西南部の防衛最先端として不審者が笹ケ瀬川をわたって侵入したり逃亡したりするのを見張っていたと言い伝えられております。Yさんの御本家そのものが城(今は条)だったのではないでしょうか? Yさんに直接聞かれた方が早いですよ。Yさんの御実家にはかなりの古文書などがお有りだと思いますよ。ご本家は最近まで旧宅が残っておりましたが、没落して今はマンションが建っております。家系図や古文書などが残されているといいのですがね、いずれにしてもYさんに会われると相当進みますよ。
追記 下記のように松田が備前から消滅した時でなく、浦上宗助殿合戦で宇喜多直家の父、能家が参戦し、富山城が唯一攻略された事例として残っている。
松田豊後守は8代目の松田元成(1484没年)であり、
文明16(1484)松田元成討死 大村出雲追腹 松田1門死者過半菅被官14人
明応 6(1497)浦上宗介 富山城を攻める 松田元勝 金川から出陣 伊賀勝隆 赤坂郡より高倉山へ
備前軍記 土肥常平著 浦上宗助と松田と合戦の事 に記録あり