3月 2014 のアーカイブ

矢坂山花便り2014

2014年3月28日

今日岡山後楽園の桜標準木が開花宣言が出ました。染吉野が1週間程度で満開となります。
矢坂山でも染井吉野が1分咲きとなっていました。P1020908
又、鯉ヶ池では鯉(直盛)桜が満開となっていました。P1020902
隣の恋(千姫)桜は先端部に花が残っていました。P1020905
与太郎桜(学名カスミ桜)は蕾がまだ固いようでした。
富山城三丸跡のやまとしろ桜(学名オオシマ桜)は1輪咲いて数輪開きかけていました。P1020897
ツツジはすべり山で東向きで10輪以上が開いていました。P1020896

備前軍記14

2014年3月25日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第12回「人質松寿丸」は、毛利攻めが秀吉に下り、姫路城でも善助に子が生まれると喜んでいた。ところが、天正5(1577)年8月。大和の国主・松永久秀が突如信長に反旗を翻して居城の信貴山城に立てこもり、播磨出兵は再び取りやめとなり、播磨の城主に人質を求めた。

信長の執着するその名物茶釜『平蜘蛛』を、久秀は絶対に差し出さなかった。武家社会に茶の湯が流行していたこの時代、「名物」と呼ばれる茶道具は一国一城に匹敵する価値があり、富と権力の象徴であった。信貴山城は落城し、久秀は名物「平蜘蛛」もろとも火薬で自らを吹き飛ばした。

赤松と別所が人質を出しても、小寺は嫡男・斎の容態が思わしくないと言うばかり。もともと斎は病弱な質で、最初は仮病だったのが本当に病になってしまった。

久秀の謀反以来信長は疑り深くなって、秀吉より官兵衛に矢の催促であった。

官兵衛は松寿丸を小寺の人質として、織田家に差し出と覚悟を決め、光に言った。

光の顔から血の気が引いた。信長の人質になっていた久秀の息子たちが、市中引き回しのうえ首をはねられたばかりであった。政職が信長を裏切れば、松寿丸は殺されてしまう。

光が反対する中、松寿丸が人質を申し出た。松寿丸はジジより聞いた話より「黒田は小さな家なので、みんなで支え合わねば、生き残れませぬ。私も死を覚悟してお役に立ちたい。」 官兵衛と光は、見聞を広めたいと云う松寿丸の成長に驚いていた。

官兵衛は松寿丸を連れ、信長に謁見すると、家老の子に不満を感じながらも、「命に代えても小寺家を織田様に従わせると」云う官兵衛の言葉に松寿丸は秀吉のあずかりとなった。

「官兵衛、秀吉を助け、毛利を滅ぼせ!」と信長の命が下り秀吉が姫路に来た。

  • ☆ 前回に続き「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」によると、備前勢は打ち負けて敗走し、上月城もまた陥落した情報が岡山に達すると、直家は自ら八千余騎を率いて出陣し、まず播州姫路の支城である別府(現加古川市別府町)の阿閉城を攻めた。その夜、黒田宮兵衛は五百騎を率いて姫路を発し、阿閉城に入って指揮をとった。

この城は守るに弱い城であるから、敵はそこを侮って攻めて来るに違いない。その時味方は無念に思い、彼は直家に上月城に押し寄せ城を取り戻したいと願った。直家は、

次郎四郎に三千の軍勢を授け上月城に向かわせた。

次郎四郎は、兄彦九郎の恥辱をすすがんと決死の覚悟をかため、妻子に今生の別れを告げ、南無妙法蓮華経の跳題目を笠印に書きつけ、天正6年の正月末岡山を進発し、その翌日には上月城下の手前六十町余に布陣した。その夜は同地で夜を明かし、明日の城攻めに備え馬の鞍をはずし、具足を脱いで休息した。

この情報を得た上月城の山中鹿之介は、真壁次郎四郎が、兄の恥辱をすすがんと覚悟を決めて来たからには、相当烈しい合戦を挑むに相違ない。ここは一番、この方から逆に夜討ちをかけるが上策であろうと精兵八百余人を選抜し、合印・合言葉を定めて出発した。ほかに加藤彦四郎に三百余人を付けて一町余の前に備えさせ、また神西三郎左衛門に五百人を付けて五町ばかり手前に布陣させ、これを予備の部隊とし、もし自分の主力が討ち損じた時は、入れ代わって討つよう申し含めた。そして鹿之介は真壁の陣の近くに攻め寄せ、その近辺に火を放ち、鬨をつくって斬り込んだ。

時は余寒厳しい季節であったから、備前勢はみな身を縮めて伏していたが、そこへ不意討ちを掛けられたから、太刀を手にする暇もなく我先にと逃げ散った。それを尼子勢は追い詰め追静まり返って敵を城の近くに引きつけ、一斉に鉄砲で撃ちかかれ。そして敵が周章狼狽するところをみて太鼓を打つ。それを合図に斬り込むのだ

阿閉の城側は、このように申し合わせて備前勢の到来を待ち構えた。そうとは知らぬ備前勢は、ただひと揉みに揉み潰してしまえと、楯を片手に攻めかかった。待ち構えた城方は、石垣に迫った備前勢に向かい、盛んに弓・鉄砲を放った。備前勢は大勢討たれて、ためらっているところへ、兼ねて合図の太鼓が鳴り、城兵三百人ばかりが城門を開いて斬ってかかった。備前勢の先陣は、ひとたまりもなく崩れて引き退いたが、城兵に追討され多くの兵が討ち取られてしまった。この勢いに呑まれた宇喜多の家来梶原平三兵衛・明石左近らは、黒田宮兵衛に降伏した。

備前軍記13

2014年3月18日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第11回「命がけの宴」は、石山本願寺戦で毛利水軍が織田水軍を撃滅させた報が毛利の勢いを増していた。

官兵衛は播磨はじめ小寺さえ毛利になびく状況に思惑どおりには進まなかった。

半兵衛が、上杉、武田、北条が和睦し、背後をつかれる恐れがなくなった上杉謙信は、必ず上洛の兵を挙げようとしていて、今は播磨に兵を割く余裕はない旨を姫路城に伝えに来た。そのため、信長に頼るのでなく、織田のために働くことを求めた。

宇喜多直家の調略のため、お光の姉の嫁ぎ先の上月城の上月景貞を訪ねた。そこで待ち受けていた直家に見破られていた。直家の勧めで恐る恐る酒を飲み干した。その後、口から泡を吹いて絶命したのは、上月の家老・内藤平八郎だった。信長に通じていることを直家は見抜いていた。

官兵衛は摂津の荒木村重を訪ねたが、本願寺包囲に手一杯で播磨へ援軍は出せないと断れる。そこで、裏切りや憎しみのない国をつくりたいと言う高槻城主、高山右近を官兵衛は驚きの目で見つめた。

秀吉が勝家と仲たがいして北国から無断で兵を引きあげ、謹慎を申しつけられていた。

官兵衛が長浜城で目にした光景は秀吉が広間でどんちゃん騒ぎをし、おねや家臣はもとより、猿楽師、相撲取り、遊女までが入り乱れ、飲めや歌えやの大騒ぎだった。

このどんちゃん騒ぎは、逆心などないということを信長に証し立てるための宴だ。

ついに信長から毛利攻めの命が下った。

☆   1年先のことになるが「羽柴秀吉と宇喜多勢が播州で合戦の事」による、天正5年10月、羽柴筑前守秀吉は、信長公より播磨を賜り、西国征伐の命をうけて同国に下向し、まず書写山に陣取ったから、国中の武将は相次いで秀吉に降参した。

しかし御着(現姫路市御国野町御着)の城主小寺藤兵衛政職は、秀吉に降参しながら、毛利家を通じて摂津の荒本村重のもとへ人質を差し出すなど、秀吉を裏切る振舞いなどあって、御着の城に居りづらくなって安芸の国へ落ちのびた。しかし、小寺の家臣の姫路城主黒田美濃入道宗園(もとは備前国福岡の人)は、主君と扶を分かち秀吉に属し、その先鋒となって働き、居城の姫路を秀吉に差し出したら、秀吉は城普請の後にここに移った。

さて秀吉の上方勢は、播磨の直家の所領を侵しその諸城を攻めたので、播州佐用郡上月の城(現兵庫県佐用郡上月町)から、岡山の直家のもとへ加勢を乞うた。そこで直家は長船又右衛門・岡剛介に三千の兵を授け、上月城の後詰めに発向させた。彼らは秀吉の先鋒黒田官兵衛の後詰めの軍勢と戦ったが、秀吉勢の第二陣堀尾茂介・宮田喜八郎が前進して、備前勢の側面を攻めた。しかし備前勢の第二陣がこれと戦ったから、秀吉の先手は追い立てられ、宮田喜八郎は討ち死にし、堀尾茂介も重傷を負ったが、その郎党の松山小右衛門が、これを馬の背中に担ぎ乗せて退いた。秀吉もこれをみて、堀尾を討たすなと命じ、直属の旗本組を前進させ、備前勢に斬りかからせたので、ついに備前勢は打ち負けて敗走し、上月城もまた陥落した。

備前軍記12

2014年3月14日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第10回「毛利襲来」は、信長の天下布武に対し、鞆に逃れた足利義昭が毛利の先鋒小早川が西本願寺と組んで天下取りを狙っていた。
天正4(1576)年5月、海を埋め尽くす船が、姫路城の南方に位置する英賀の浜に次々と着き、武装した毛利車の5千の兵士が上陸してきた。
播磨における一向宗の一大拠点・英賀御堂に毛利車の大将・浦宗勝が本陣を構え、近隣の門徒衆が続々と集結していた。小寺側の軍勢は千にも足りず、織田の援軍もいつになるかわからない。
そのころ、天王寺砦で石山本願寺を包囲していた信長の軍勢も、一向宗の門徒衆の猛攻に苦しんでいた。 信長自ら戦場に打って出、足に銃弾を受けて落馬したところへ秀吉の鉄砲隊が到着し、門徒を一気に蹴散らした。
別所と赤松からの援軍はなく、官兵衛は5千の敵を倒す策が無く悩んでした。太兵衛はひとりで千人を倒すと豪語していた。善助は敵陣に潜り込んで様子を探っていた。
毛利が総攻めを仕掛けてくる霧のかかった明け方に官兵衛は、打って出た。寝込んでいた毛利軍は崩れ始めた所へ、年寄りの領民たちが間髪入れず「おーつ!」という鬨の声とともに、いっせいに旗が上げ、勇ましい太鼓とほら貝の音が聞こえてくる。援軍とかん違いして、毛利車は撤退を始め、敵は逃げ去った。
一刻も早く秀吉様の出陣を待っている所に、7月、摂津の木津川の河口で、石山本願寺に兵糧を運び込もうとする毛利の水軍と、それを阻止せんとする織田の水軍が激突し、織田軍は大敗を喫し、水軍は壊滅した報が官兵衛に入った。
☆ 時代がもどって、備前の国中戦乱のないところはなく、東は浦上政宗・同宗景兄弟が領地を奪い合い、西は松田が所領を固め、尼子に属して浦上勢や毛利摩下の備中勢と戦った。その頃児島郡の諸豪族は、讃岐国の細川家に従い、胸土城(現玉野市胸上)や小串城(現岡山市小串)には高畠和泉守・同源太兵衛、利生の城(現玉野市和田)には四宮隠岐守などが在城し、また西児島の諸将は毛利家に従って城を固く守って互いに攻める隙をみせなかった。
海上では、児島の南の海上には無数の島が点在して島陰が多く、昔から海賊の巣窟となり、瀬戸内海を航行する船で海賊の難に遭うものが多かった。まして当時は乱世であり、海賊の横行は特に著しく、被害はたえなかった。その海賊の最大の拠点は、児島郡の日比と邑久郡の犬島であった。そのため当時はここを日比関・犬島関と呼んで海路通行の難所とされていた。 しかし当時大黒丸・夷丸という大船があって、この船で航行すると海賊の難を逃れることができた。その他の船でも、大黒丸・夷丸の配下と称し金銀米銭を海賊に差し出すと、無事に通行することができたという。
いつの頃のことか、周防の国号戸板某という人が犬島に船を泊めたとき、海賊たちがこれを殺害して財宝を奪い取った。そこで戸板某の子は親の仇を討つため多くの兵船を揃え、犬島に押し寄せ、海賊が隠れ住んでいた岩穴の辺りを取り囲み、薪を岩穴の口に積みあげ、火を放って海賊を悉く焼き殺してしまったという。この話は有名で謡曲にもなった。『戸板』という謡曲がそれである。
その他、安芸の穂田備中守が嵐に遭って犬島に船を寄せたところ、海賊に殺されて財宝を奪われたという。また永正「1504~1521)の頃のことであろうか、安芸の武田判官元信の家臣に温科左衛門家親という者部あった。
かれは京都から安芸に戻る途中、夜中にこの犬島を押し通った。例によって海賊たちは左衛門の船に漕ぎよせ、その財宝を奪い取ろうとかかった。しかし左衛門は世上で30人力と評判されたほどの豪の者であったから、帆柱の桁を手にし、船に乗り移ろうとする海賊を打ち倒し、帆桁を取り直して海賊船を二艘までも突き沈めてしまった。この強力には海賊も手も足も出ず残る船はみな島陰に逃げ隠れてしまったので、左衛門は何の被害もなく安芸国へ帰り着いた。
注 一説には、この時温科左衛門は、京都から千里の浜という名石を持ち下り、安芸国可部郡の福王寺に納めたという。しかし福王寺の寺記によると、この名石が同寺に納められたのは、これより遥か以前の崇光院の時代のことで、この当時のことではないので、このことについては記述しない。
注 昔にも海賊が横行していた。『源氏物語』の玉葛の巻に海賊のことを書いているが、これもこの日比の海でのことである。その他、楽人茂光が相模の使いで西国に下った時、ひかたの禅師という海賊に襲われたが、篳篥の小調子を吹いたところ、海賊たちはその笛の音に感勤し、茂先に贈り物をして引き揚げた。また門部の府生という者が、よもぎ矢をもって海賊の眼をねらい、これを射ち退けたという昔の物語など、いずれもこの海上でのことである。

備前軍記11

2014年3月7日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第9回「官兵衛試される」は、信長の拝謁し播磨の攻略により毛利攻めの足掛かりの任を官兵衛に与られたところから始まった。

長浜で石田三成に信長に仕えることは命懸であると釘を刺される。早速、初めて竹中半兵衛に合いその資質が試されることになる。播磨の地侍を織田方に付ける策の具体策を聞かれ、御着の小寺、三木の別所、龍野の赤松を信長に拝謁させることを約させられる。

岐阜城では本願寺の攻略の軍議が開かれていた。勝家ら重臣の強行派に対して、秀吉は知略により毛利の本願寺支援を断つため播磨攻めと述べる。

官兵衛が御着城に戻ると、播磨を出たことがない政職は敵の領地を通るのが怖がっていた。小寺、別所、赤松3家で信長の合いに行くことで納得させた。

早速、三木城の別所長治は齢十八。ふたりの叔父の賀相と重棟が後見役として万事を仕切っていた。長治は織田につくのが最善の道と決めて、操り人形だった甥の豹変ぶりに、賀相と重棟はあ然とさせた。官兵衛は書状出をして「『人に国柄を貸すなかれ』。『六韜』という兵法書により君主は臣下に統治の力を貸してはならぬ」と道理を説いてた。

 一方、龍野城の赤松政秀は小寺への恨みが強く、官兵衛は争うつもりがないという意思表示のため丸腰で訪れた。赤松は備前の宇喜多に攻められている。織田につけばその利ははかり知れない。播磨の形勢を説き、若い広秀をすんなり調略した。

「信長が上洛する十月に合わせて京にのぼるように」と、秀吉からの文が届いたが、御着城主小寺は動こうとしない。大軍を引き連れた荒木村重が、信長の命で官兵衛の加勢に来た。半兵衛は以前から間者を放って播磨一円のことを調べていて、官兵衛を助けた。

天正3(1575)年10月に播磨3家が信長に合い、播磨は信長に靡いた。

翌年の4月、石山本願寺に大勢の一向宗の門徒が、親鸞の子孫である本願寺十一世法主・顕如の元に集結した。毛利の後ろ盾で決起した。

織田方についた黒田家では、一向宗の門徒である三人の侍女が城を去った。

英賀の港におびただしい数の船が押し寄せて来た。

☆   天正3(1575)年備前では、常山落城の年で、毛利と宇喜多とは和平の時期であった。

天神山城主浦上宗景は織田家と結んで直家を討とうと思い、直家も宗景を滅ぼして備前一円を掌中に収めようと企てていた。播磨の小塩に、浦上清宗の子で当時九歳になる久松という若者がいた。この久松は、官兵衛は妹の子と云われ黒田家で扶養しているところを直家は浦上の正統として奉り、岡山城に向え入れる。天神山城の宗景の追討に成功する。浦上美作守宗景の家は、代々赤松家の老臣で、『太平記』にもしばしば浦上・小寺と註記されている。殊に文和4年(1355)赤松則祐が備前守護職を賜ったとき、浦上はその守護代に任ぜられ、代々三石に在城した。

 なおそれ以前のことを考えると、播州古来の地侍であったようである。桓武天皇の時、播磨に移された蝦夷の浮因の長、去返公島子に、浦上の姓を賜ったことが『類聚国史』にみえるから、宗景の浦上家はその子孫であろう。

 このように古い家であるのに、このとき滅亡して、子孫は永久に断絶してしまった。

 浦上宗景の先祖並びに赤松家滅亡の事よると、また主筋の赤松家も、代を重ねるにつれて衰えていき、ついに秀吉公の時には、播磨の赤松が総介則房(刑部小輔範房ともいう)は阿波へ移され、赤松左兵衛広範は但馬の竹田へ移された。ともに一、二万石の地を領したのであろうか。その後、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦のとき石田三成に味方したため、則房は同年10月1日大坂で切腹し、広範は11月29日因州鳥取で切腹した。広範には一男一女があったが、男子は出家して高野山赤松院の住職となり、女子は筑前黒田の家臣のもとへ嫁いだという。その子孫がどうなったかはわからない。こうして主従の家は共に滅びてしまった。(

宇喜多直家が播州に転戦の事によると、直家は宗景の領地を押領して、備前の国一円を治めるようになったが、まだ、かつて宗景に属した武将で、備前・美作の各地に籠城し、直家に服さぬ者も少なくなかった。しかし直家は、この領内の残敵の掃蕩はあとまわしにし、まず播磨小塩の赤松下野守を滅ぼし、その所領を併呑しようと考えた。

 そこで天正五年(1577)の春、岡山を発して片上に宿陣し、その翌日三石に兵を進め、さらにその翌朝には播磨に侵入し、直家の部将花房助兵衛職之らは鷺山で赤松軍と戦った。赤松勢は各地で防戦したが叶わなかった。備前勢は所々の砦を攻め落とした。直家は老臣岡平内に宇根の城(現赤穂市有年)を守らせ、また上月城その他の砦にも人数を配して守備させ、佐用・赤穂の両郡を奪って岡山へ帰陣した。

矢坂山ツツジ祭&講演会2014

2014年3月1日

ime_0001 ime_0002矢坂山ツツジ祭&講演会

主催 矢坂山を語る会   後援 大野連合町内会、岡山歴史研究会、市久会

矢坂山の桜、ツツジが楽しみな季節となってきました。群生地が多く見つかっています。午前中に散策の後、午後に講演会の時間を設けました。振ってご参加ください。

Ⅰ部 桜・ツツジ散策会

雨天:中止

集合:大野コミュニティーハウス 8時30分

会費:無料

昼食・飲み物:各自持参

出発:平成26年4月12日(土)9時

行程: →魚見山 →すべり山 →富山城二丸跡 →本丸跡 →鯉ケ池

→野山尾根 →野山見晴台 →法事古墳 →大安寺駅方向 →ハウス帰着(昼食)

Ⅱ部 講演会

演題:浮田忠家―宇喜多家の団結と分裂―

浮田忠家は直家の弟で、備前福岡で生まれた。富山城の城主となった。詮家(後の坂崎出羽守)に譲り隠居して安心と称し大坂に移り住んだ。その後の朝鮮出兵に、秀家が僅か19歳で総大将として渡海したので、安心は太閤秀吉から秀家後見を命ぜられ朝鮮に渡った。しかし帰国後ほどなく大阪で没した。その晩年、秀家・詮家・家臣団はキリスト信徒と日蓮衆徒、文治派と武断派が抗争し、宇喜多家の分裂に発展する。

「備前軍記」は土肥経平が宇治郷大安寺の別邸竹裡館で江戸時代中期の安永年間に18年かけて完成した。今年はNHK「軍師官兵衛」が放映されている。

講師:柴田 一 先生

岡山県下の高校教諭、岡山県教育庁文化課主幹、県立博物館主任学芸員、兵庫教育大学教授、就実大学学長などを経て、現在に至る。

主な著書に「新釈備前軍記」「近世豪農の学問と思想」「渋染一揆論」「岡山藩郡代・津田永忠」など。

場所:大野コミュニティーハウス

受付:平成26年4月12日(土)13時より

定員:50名(予約要)、定員になり次第〆切

会費:500円(資料代など)

講演:13時30分より

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散策会

参加      ・ 不参加

講演会

参加      ・ 不参加

Fax,E-mailで申込み願います。申込み締切:3月30日

駐車場が狭いため電車・自転車・徒歩でなるべく願います。

お問合せ、申込み先 矢坂山を語る会 事務局

Tel/Fax 086-252-0007 携帯 080-1930-62682  E-mail tsuboi@ballade.plala.or.jp