2月 2013 のアーカイブ

富山大掾の末裔

2013年2月14日

IMG三倉屋 IMG三倉屋_0011-2 IMG三倉屋_0023-2矢坂山の富山城主だった松田氏の子孫の方から面白い情報をいただきました。御津の金川の玉松城にちなんで玉松会が全国の主従で組織されています。松田氏は富山城主を滅ぼしたことになっていますが、北向八幡宮宮司さんを始め富山姓を名乗るにとは見受けます。その中で、松田氏と運命をともにした人もいるようで、滅ぼされた宇喜多軍に従い松田氏と共に高松城水攻め、朝鮮進軍、関ヶ原合戦そして共に讃岐に地を下して活躍してようです。その一例が「三倉屋物語」だそうです。その当主が富山大掾の子孫と書いてあります。
これらに関して沢山の資料を送っていただいたので、四月一三日(土)九時三〇分より大野コミュニティーハウスで一時間講演をお願いしたところ快く引き受けてくださいました。桜、ツツジが満開のころなのでこの後矢坂山に登り昼食と散策をします。

三 倉 屋 物 語 

藩政時代の高松に、七人衆と呼ばれる七軒の豪商があっだが、三倉屋はその一人である。

  松が見えます高松さんが

   あれは御城の三倉屋か

  あの三倉屋に過ぎたる物が

   三つあるのを御存知か

  一に茶杓に二にかかあ

    三に灯ろう大名なみだ

 天保ごろから明治にかけて、うたわれたこの俗謡は、三倉屋の八代目市大夫の在世時代から流行(はや)りはじめ、九代目久兵衛、十代目甚太郎とうたいつがれた。

 当時の三倉には天下の財宝が集まっていたといわれる全盛時代で、その家宝のなかでも俗謡にまでうたわれた宗湛の手づくりの茶杓と、利久から伝わっていたという灯ろうは有名であった。

 俗謡のなかの″かかあ゛というのは、何代目かは不詳であるが、三倉屋の内儀が京都から輿入れした公卿の娘だったというので″過ぎたるもの゛の一つにうたわれた次第。

 三倉屋は屋号で、姓は富山(とみやま)という。先祖は、備前の富山城主、富山大禄という豪族であったので、毎年秋になると、備前の所有田地から莫大な年貢米が海を渡って運ばれて来ていた。だから、農村などで、土木工事や寺社の造営などが行われるときには、三倉屋に頼めば、二つ返事で費用の大半は負担してくれたので、地方の人たちからも、「三倉屋のお大尽(だいじん)」と尊敬されていた。

 しかし、このお大尽三倉屋も、十一代目の克堂の時代になると、悪い番頭が酒色におぼれて、主家の財産をつまみ食いするような事件もあって、次第に落ち目になった。明治四十年ごろには、讃岐随一の豪族とうたわれた財閥も、ついに、五千坪(亀井町から南新町にわたる)を越えた大邸宅を人手に渡たす羽目になり、その屋敷あとは、大正から昭和初期にかけて、南新町の空地(あきち)という地名のみを残し、大相模の地方巡業やサーカス、見世物小屋の具業場所に使われるようになった。

 ところで、全盛時代の三倉屋には、有名な俳人蕪村にまつわる話が伝わっている。時は、約二百年前の高松城主、五代松平頼恭の治世のこと、当時の高松藩は財政が逼迫し、領民の派手な遊芸なども法度となったため、ひそかに趣味を楽しむ風流人たちの間で、俳諧が流行した。高松でも、三倉屋の五代市太夫宗有やその親族の奈良屋権三郎有柳(屋敷は、現在の丸亀町旧百十四銀行本店角のあたりにあった)などが中心になり、同好者を集めて、よく俳諧茶事の会を行った。

 宝暦十一年(一七六一)招かれて初めて讃岐を訪れた与謝蕪村は、琴平を経て、高松の三倉屋に逗留した。当主宗有の厚遇を受けた蕪村は、その情誼と旅情が忘れられなかったと見え、五年後の明和三年(一七六六)の秋、再び三倉屋を訪ねて翌春までとどまり、帰京後、さらに三たび讃岐路に足跡を印している。三倉屋のもてなしとこの国の風土が、蕪村には余程、心にしみたのであろう。

 だが、時の高松藩は、他国者の領内における長い滞在を禁止していた。蕪村もこのご法度にそむくことは出来なかった。三倉屋では、蕪村の身を案じて、俳諧の門弟だちと協議して、同宗の分家(現在の錦町にあった) へ蕪村をかくまったが、それも藩庁に探知されて、蕪村召し捕りの役人が差し向けられることになった。情報をキャッチした三倉屋では、やむなく蕪村を領外へ送り出した。

 蕪村は淋しく高松城下をあとにして、西の丸亀領に向った。高松の西はずれを流れる郷東川の渡しに到着したとき、そこまで送ってきた三倉屋の番頭と、別れを惜んで、蕪村が書きのこした一句がある。

   水鳥や つぶてにかわる 波のあと

 このてんまつは、乾木水著「蕪村の金比羅詣」のなかに詳記されている。

 三倉屋に長い間滞在した蕪村は、いろいろの句や画を書き残して行ったはずであるが、それらの作品はほとんど散逸してしまった。三倉屋の没落後、人手に渡って所在不明となったのであろう。琴平や丸亀には、現在でも蕪村来讃中の句画が、たくさん残っている。

高松今昔記 昭和54年 歴史図書社

恩徳寺 火渡り祭

2013年2月5日

P1060355 P1060362 P1060365 P1060372 P1060379操山ウオークの時立ち寄った恩徳寺の火渡り祭りを見に行きました。
恩徳寺は奈良時代の750年に僧行基が等身大の薬師如来をきざみ創建した真言宗の寺院。太陽の道上にあり、備前最上稲荷大権現を合祀しています。
まず、本堂で大般若転読が行われました。
境内に檜の枝葉を積み上げた中に供物を入れ、火がつけられ、祈願を書いた護摩木を投げ込むと火勢が強まってきます。木組みが出てきて檜の葉がほとんど燃え尽きたとき、長竹で焼残った炭を叩いて広げてゆきます。
住職が「熱くない訳が無い」と云って素足で徐に炭火の上を歩いてゆきました。
続いて信者が続々と火の中を渡ってゆきました。一人も熱いと悲鳴を上がる人はいませんでした。