高松城水攻めの築堤の策を指示した黒田官兵衛とされている。
当然備前の治水技術は、古代より干拓のために吉備津彦神社あたりにも土手が多く築かれていた。高松では、宇喜多家臣の岡豊前守が土建担当で岡山(石山)城を築城し、直家を招き入れた。そして、岡豊前守は宇喜多忠家や若手の16歳のニューヒロー宇喜多詮家と協力して築堤したことは下記にも伝えられている。
今は、北長瀬の浜街道同様に早島小学校前の道となっている。その先は、近世まで海であった。
宇喜多堤(うきたつつみ)は、岡山県倉敷市及び都窪郡早島町にあったとされる汐止め堤防である。戦国大名である宇喜多秀家の命により岡豊前守と千原勝利によって天正17年(1589年)頃、児島湾の干潟を新田開発するために築かれたという。 堤防のルートは二つあり、一つは酒津(倉敷市酒津)から浜村(倉敷市浜町)経由で向山山麓(倉敷市船倉町付近?)。もう一つは塩津(都窪郡早島町)から宮崎(都窪郡早島町)の鶴崎神社経由で向山山麓の岩崎(倉敷市二日市付近?)に築堤された。さらに、高梁川の水を干拓地に引くため酒津から八ヶ郷用水が開削された。これにより現在の総社市東部・倉敷市中心部・早島町北部が耕作可能地となった。
戸川家は家祖達安の父秀安<友林と号す>の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきた。しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、徳川家康に預けられた。その縁で関ヶ原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29,000石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えた。
ここ早島は、江戸時代の初め1631年(寛永8年)に達安の次男安尤(やすもと)が3,400石で封じられて以来・安宅(やすいえ)の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。
さて、この陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして1709年(宝永6年)に完成した。陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65メートル、南北約120メートル、約7,800平方メートル(約2,500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。また、主だった家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祭る達安大明神の社もあった。
しかし、この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなったが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡である。
岡豊前守の4男の子孫が戸川家で代々岡五郎左衛門を名乗って来ている。その方に案内頂いた。