6月 2014 のアーカイブ

高松城水攻めの築堤した岡豊前守の子孫に会う

2014年6月29日

高松城水攻めの築堤の策を指示した黒田官兵衛とされている。

当然備前の治水技術は、古代より干拓のために吉備津彦神社あたりにも土手が多く築かれていた。高松では、宇喜多家臣の岡豊前守が土建担当で岡山(石山)城を築城し、直家を招き入れた。そして、岡豊前守は宇喜多忠家や若手の16歳のニューヒロー宇喜多詮家と協力して築堤したことは下記にも伝えられている。

今は、北長瀬の浜街道同様に早島小学校前の道となっている。その先は、近世まで海であった。

宇喜多堤(うきたつつみ)は、岡山県倉敷市及び都窪郡早島町にあったとされる汐止め堤防である。戦国大名である宇喜多秀家の命により岡豊前守と千原勝利によって天正17年(1589年)頃、児島湾の干潟を新田開発するために築かれたという。 堤防のルートは二つあり、一つは酒津(倉敷市酒津)から浜村(倉敷市浜町)経由で向山山麓(倉敷市船倉町付近?)。もう一つは塩津(都窪郡早島町)から宮崎(都窪郡早島町)の鶴崎神社経由で向山山麓の岩崎(倉敷市二日市付近?)に築堤された。さらに、高梁川の水を干拓地に引くため酒津から八ヶ郷用水が開削された。これにより現在の総社市東部・倉敷市中心部・早島町北部が耕作可能地となった。

戸川家は家祖達安の父秀安<友林と号す>の代から宇喜多家に仕え、備前児島の常山城を預かるなど、宇喜多家の重臣としてその役を担ってきた。しかし、達安の代になって宇喜多家のお家騒動から達安は遠ざけられ、徳川家康に預けられた。その縁で関ヶ原の合戦には東軍として参戦し数々の武勲を立て、その功によって29,000石を与えられ、備中庭瀬に居城を構えた。

ここ早島は、江戸時代の初め1631年(寛永8年)に達安の次男安尤(やすもと)が3,400石で封じられて以来・安宅(やすいえ)の代まで、干拓によって開かれた豊かな土地といぐさ産業を背景に、旗本戸川家の陣屋町として発展してきた。

さて、この陣屋は元禄年間、2代安明の代に普請にとりかかり17年の歳月を費やして1709年(宝永6年)に完成した。陣屋は敷地全体が堀と塀によって囲まれ、東西約65メートル、南北約120メートル、約7,800平方メートル(約2,500坪)の広さを有し、その中には役人たちが仕事をする役所や裁判を行う白洲をはじめ、道場や年貢を納める米蔵などが置かれていた。また、主だった家臣たちの住居も敷地内に定められ、陣屋の裏山には家祖の戸川達安を祭る達安大明神の社もあった。

しかし、この陣屋も明治の初めごろ取り壊され、現在ではここにある堀の一部と石橋、陣屋の飲料水として使われた井戸などを残すのみとなったが、旗本領の陣屋の遺構として貴重な史跡である。

岡豊前守の4男の子孫が戸川家で代々岡五郎左衛門を名乗って来ている。その方に案内頂いた。

 

 

 

 

右岡屋敷は、早島小学校内となっている。P1010001 P1010009 P1010127 P1010128

津和野城主 詮家

2014年6月28日

詮家が津和野の活躍したなど岡山ではほとんど知られていない。津和野町史を岡山県立図書館を通じ取り寄せ読んだ。
関ヶ原の戦で、吉見氏は萩へ退転した。津和野藩は一時期幕府直轄領となり大森銀山奉行が支配した。
その後、慶長六年(一六〇一)十月、坂崎出羽守直盛(成正、成政、直行、重長、信顕、詮家、左京亮)が津和野藩三万石城主として入城した。元和二年(一六一六)「千姫事件」で廃絶になるまで、津和野における坂崎氏の治世は、一代十六年間である。直盛については町史第二巻で詳しく考証されているが、この町史第四巻の目的は日本史とのかかわりにおいて編纂することである。そのことからすると直盛の「千姫事件」ほど日本中はおろか世界にまで知られた事件は少ない。特に幕藩体制の確立期に、時の権力者に抵抗した事件に対しては、ことの善悪によらず批判は厳しく、時代の声におもねった先入観と偏見にとらわれた史料がなしとしない。
来年は吉田松陰の妹が大河ドラマとなるため萩の隣の島根県津和野にも観光客が増加するだろう。
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2006年秋
下関 水族館 萩毛利墓地 津和野

 

剣豪大名詮家

2014年6月26日

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詮家は忠家の子で基家が長男であったとも言われ基家は直家に養子に入ったが、秀家が生まれた。また、基家は八浜合戦で凶弾に倒れた。その直前の直家が亡くなる直前の三星城合戦に元服した。詮家は、16歳で大人として認められ素晴しい若武者であった。剣豪としても武蔵、柳生などと並ぶ剣豪とした、また、3万石の富山城主として小早川との辛川合戦に勝利し当時のニューヒーローの登場に若い娘は憧れであったでしょう。当時すでに結婚していたが定かでない。直家の家来の戸川逵安の妹君妙円と結ばれた。

由  諸

庭瀬の領土公の妹君は、備前宇喜多忠家の嫡男左京亮詮家に嫁がれたが、不幸にして若くして亡くなられた。

母堂の妙承尼(常山城主友林院殿の室)は大変嘆き悲しまれ、新しくお寺を建てて姫君(真了院殿妙円大姉、慶長八年十月一日逝去)の冥福を祈ってやろうと思いたたれた。逵安公も又、妹君の死を哀れむと共に、ご母堂の心のうちを察してその願望を叶えてあげようと思いたたれ、三千余坪の土地を寄付して、当山を開創して日鳳上人を開祖に迎えて啓運山盛隆寺と名付けた。

昔この地方は、殆どが真言宗だったが、戸川公の勢威と開祖の徳化によって寺も檀家も改宗させて、所謂『妹尾千軒皆法華』の基礎を築いた。

それ以来四百年余りである。今日、大坊、上寺、今寺、善性寺などの地名が残っているのは、真言宗時代の各寺院の旧跡である。

妙円は早くなくなり何歳で結婚したか、年齢も位牌に書いてなっかった。

仁王門縁起

現在のものは宝暦12年(1761)日領上人の代に改築されたものである。なお、仁王像は日蓮宗にはないもので、これは、この寺が真言宗であった当事のものである。

仁王尊は、力が強く、勇気があり、外敵を払って仏教を守護するもので、向って右の像を「密迹金剛(みっしゃくこんごう)」向って左を「那羅延金剛(ならえんこんごう)」と称している。

密迹金剛は、口を開いて「ア」と発声し、万物の表を意味し、那羅延金剛は口を閉じて「ウン」の形をあらわし、万物の裏を意味し、一切の言語の発声は、この二音に帰することから、「アウン」とは相対する二つのものの意味である。万物はすべて表裏あり、これを見ぬいて仏を保護し、仏を信じない者は山門を入るを許さず、門前で追い払うものだと言われている。

続いて早島の戸川記念館で更に詳しく聞くつもりが休日しか開いてなとのことで日曜日午前中に庭瀬の不変院で聞くこととした。

 

 

備前軍記27

2014年6月25日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第25回「栄華の極み」は、明智光秀は信長家臣の中で最高の地位ととなり公家から正親町天皇の悩みとして相談を持ちかけた。信長は、左大臣の任を受ける代わりに帝の譲位を迫り、兼和を激怒させることになる。

官兵衛は、山陰攻めに明智光秀の助力を仰ぐため比叡山麓の坂本城を訪れた。村重の嫡男・村次に嫁いでいたお倫は信長に震えていた。五万石で自分の右腕にと誘われるがキッパリと断る。

岡山城では宇喜多直家が死の間際、秀吉、官兵衛と合い、八郎の行く末の補償として奥方の「お鮮」を差出し、寝屋を共にした。

新しい姫路城におねがやってきて、松寿丸と再会し、長政として元服する。

安土城では天正9(1581)年頭の挨拶が開かれ、信長は地球儀を手に、未知の世界のすべてを手に入れたいと大きな夢に酔っていた。

三原城に集まった毛利家臣は、秀吉の中国攻めの先鋒となった高松城主清水宗治も居た。

☆新釈備前軍記 宇喜多直家が死去する事

宇喜多和泉守直家は、近ごろ腫物を煩い出陣することもならず、浮田与太郎元家・浮田七郎兵衛忠家を名代として各地に出陣させていたが、病気は次第に重くなり、天正9年(1581)2月14日、享年53歳でこの世を去った。法名は涼雲星友という。

嫡子に亀松がいたが幼少のうちに死に、九歳になる二男の八郎を家督とした。しかし戦国の世のこととて直家の死を秘し、そのまま病中と称して城外には葬らず、岡山城の地続きの東の山、即ち現在天守閣のある丘陵に埋めておいた。後に平福院に改葬し、堂を建て木像を安置したが、それはいまも存在する。

その後は、浮田与太郎元家が事を処理し、隣国との交渉なども直家の生前通りに行ったが、直家死去のことは自然と外に漏れ、噂さが立つようになった。

その翌年の天正十年(一五八二)正月九日、初めて直家の喪を発表し、秀吉に宇喜多家の被護を頼んだ。当時八郎は幼年であったので、岡平内を名代とし、正月十六日信長へ直家の遺品吉光の脇差、黄金千両を進上することにした。秀吉は、岡平内を召し連れて近江の安上城に伺候し、ことの由を言上し、遺品などを奉ったので、直家の旧領すべて、父の時代同様八郎が支配することを許され、使者の岡平内には馬を賜って岡山に帰された。

注 一説によると、直家の腫物というのは「尻はす」という病気で、多量の血膿が出た。硬着しか衣類を水で浸して取り、血膿の付着した衣類を城下の旭川に流し捨てたが、下流の額ヶ瀬の辺りで乞食たちが度々拾っていた。それが二月中旬ごろからぴたりと流れて来なくなったので、直家の死去を察知し、城外では皆噂さしていたということである。

作州岩屋城陥落の事

作州久米北条郡坪井村(現久米町坪井)の岩屋城主大河原大和守は、無二の毛利方の武将であった。ところがどのような訳があったのか、その家臣の茅田備後守が、主君の大和守を偽って招き、馳走の席でこれを殺害した。大和守の家臣の加藤伊子守は、茅田が主君を干にかけたことを無念に思ったが、病中で進退さえ思うにまかせぬほどであったから、鬱憤のあまり岩屋寺の本堂に行き、腹十文字に掻き切って自害した。このことはすぐ岡山に伝わった。

そこで大正九年三月下旬、岡山勢は戸川・長船・沼本の諸将を出陣させ、茅田備後守を討ち取って岩屋城を奪い、直家の伯母聟にあたる浜口某にこの城を守らせておいた。

ところが、苫西郡山城村(現鏡野町山城)の葛下城に、毛利の部将の中村大炊介頼宗がいた。彼は岩屋城を奪取するため、兵を集め六月二六日葛下城を発した。軍勢を二手に分け、一手は桜井越中守を大将とし、大蔵・片山・林屋・金屋の諸将の他、中村の家僕本村勘兵衛ら二百人をもって岩屋城の大手に向かわせた。他の一手は大原主計・加籐兵部を大将とし、立石孫市・武元又三郎・大林久介・片山有馬允ら若者三十二人を選んでこれに付け、搦手の難所を岩根伝いによじ登り、塀を乗り越えて潜入させた。この搦手勢は城内に入り、建物に火を放って鬨の声をあげた。大手勢もこれを合図に攻め入ったので、城はひとたまりもなく、浜口は討ち死にし、城兵は我れ先にと逃げ散り城は落ちた。中村大炊介は、葛下城の兵の一部を割いて岩屋城を守らせた。

その後、荒神山城の花房助兵衛は、兵を出して岩屋城を攻めたが、直家の死後のことで猛攻することもせず、そのままに差し置いたが、天正十年の備生局松の陣の後、秀吉の下知で花房・中村は和解し、中村大炊介は芸州へ帰った。

中國大返し案内板

2014年6月24日

IMG_5855 野殿大返し図最終_edited-2 ime_0002 ime_0004 ime_00056月4日高松城水攻め後、当日中国大返しの夕方には宇喜多忠家・詮家の屋敷に秀吉・官兵衛が立ち寄り重要な軍議を開いた。後に千姫事件を起こす詮家(あきいえ)は、幼時、人質として芸州毛利家にあったが、直家が織田方に翻ると毛別輝元の恩赦によって帰国した。そして、作州の三星城合戦で初陣を飾り、柳生宗矩と並ぶ若き武将であった。詮家の父は忠家で、宇喜多直家の実弟で若いときから兄を扶けて度々戦場に臨み活躍した勇士であります。四万石を与えられて、宇喜多家の筆頭家老となり、富山城主となりました。妻は、戸川達安の妹君です。富山城は、毛利に対する備えなえの城で直家、忠家が築城したとも言われますが、忠家・詮家は秀家に気を使い野殿に御殿を築いたことでしょう。水郷の中にあった屋敷は、洪水で再々ながされ当時をしぶものは一切なくなっています。
関ヶ原の戦で、吉見氏は萩へ退転した。津和野藩は一時期幕府直轄領となり大森銀山奉行が支配した。
その後、慶長六年(一六〇一)十月、坂崎出羽守直盛(成正、成政、直行、重長、信顕、詮家、左京亮)が津和野藩三万石城主として入城した。元和二年(一六一六)「千姫事件」で廃絶になるまで、津和野における坂崎氏の治世は、一代十六年間である。直盛については町史第二巻で詳しく考証されているが、この町史第四巻の目的は日本史とのかかわりにおいて編纂することである。そのことからすると直盛の「千姫事件」ほど日本中はおろか世界にまで知られた事件は少ない。特に幕藩体制の確立期に、時の権力者に抵抗した事件に対しては、ことの善悪によらず批判は厳しく、時代の声におもねった先入観と偏見にとらわれた史料がなしとしない。
後代の藩主は前代の藩主の事跡を学び、教訓とする。いわゆる「歴史に学ぶ」のである。例をあげれば、三代亀井茲親の勅使などへの接待役としての対応の仕方、幕末の動乱期に無傷で藩を守った十一代藩主亀井茲監の生き方などは、直盛の生き方が少なからず反面的教訓となって影響を与えていたのではないかと思われる。津和野に土着した吉見氏の遺臣の多くが庄屋に取り立てられたこと津和野へお預かりとなった秋田横手城主・小野寺遠江守義道(三万石)への温情など、地元の津和野の視点で直盛像を見直すと、人情味にあふれた一面が見えてくる。熱烈な日蓮宗の宇喜多家の出でありながら、浄土宗への帰依などむしろ信長に近い革新的な一面も発見できる。
直盛が津和野で行った事業とは何か
一、津和野城の大改築
一、城下の町の形成と整備
一、防火用水路の開発と整備
一、産業開発、特に石見半紙の原料である椿の植え付けなどである。
短期間に大事業を次々に手がけている実績や今日の町並みの遺構を見ると、むしろ卓越した行政手腕を持つ藩士といえよう。もちろんその陰には、この事業を支え遂行した農民や商工業者のエネルギーがあったことを忘れてはならない。いずれにせよ、既存の史料により直盛像も一見定着しているように見えるが、改めて津和野の視点で、かつての史料も含め直盛の津和野における事跡等を通して直盛像を見てみたい。
直盛は最初、浮田左京亮を名乗った。父は宇喜多忠家(号安心)で、岡山城主・宇喜多直家の異母弟である。直家の子秀家(岡山五大老の一人、関ヶ原の戦ののち、八丈島へ流罪)とは従弟に当たる。直盛は父の跡を継ぎ、備前岡山藩の支城・富山城主となった。主家の秀家に従っていたが、主家の重税に対する農民の反抗に直盛も同調し、さらに秀家のキリシタン改宗による宗教対立などからくるお家騒動から、重臣戸川達安らと主家を去り、徳川家康に仕えた。関ヶ原の戦では主家・秀家が西軍に与したのに対し、直盛は家康に従い戦功をあげ、戸川達安の三万九千石に次ぐ津和野三万石を与えられ入城した。
入城後、宇喜多直盛は宇喜多の名を避け、坂崎と改称、対馬守、のち出羽守となった。(津和野町史)

備前軍記26

2014年6月17日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第24回「帰ってきた軍師」は、官兵衛が三木城の城主別所長春を地獄からの使者として説得にあたり、信長の有岡城の凄まじさに怯え秀吉に屈した。

お化けのでるような有岡城で宴をする信長の元に石山本願寺の顕如との和睦が成立したとの報が入った。本願寺を5年囲だ佐久間信盛は無能として追放となり、明智光秀が領地を預かった。

小寺政職は家臣より見放され子と共に隠れた。しかし、黒田の家臣に捕れられ、官兵衛が処分することになった。主君に裏切られ村重に切られていたかも知れない官兵衛の怒りは手討ちにできず見逃した。秀吉は蚊ほどでもなくなった憎い仇を斬らずに逃がした官兵衛を笑った。

官兵衛は秀吉の1万石の大名になり、姫路城の計画に係り、家紋を藤の花に決め家臣に披露した。

☆新釈備前軍記 辛川合戦で小早川勢が敗軍する事

天正7年(1579)8月のことである。小早川隆景が一万五千の大軍を率いて安芸を発し、備中に兵を進め、備前に侵入して岡山城を攻める、という報が岡山城の直家のもとに届いた。しかし、直家は当時まだ病床にあり、出陣することができなかったので、弟の浮田忠家らが大軍を率いて岡山を発し、富山城を過ぎ、矢坂村から一宮村までの間に七段の備えを設け、毛利勢の侵入を待ちうけた。

戸川平右衛門の子戸川助七郎達安(後に肥後守)は、辛川村(現岡山市辛川)辺りの物陰に兵を伏せ、合図ひとつで一斉に出撃するよう申し合わせておいた。

さて隆景は、大軍をもって辛川村を過ぎ、備前勢に攻めかかった。備前勢の先鋒は暫く合戦を試みたが、これはもともと敵を誘うための囮の部隊であったから、百人余の先陣はさも弱々しげに打ち負けて引き退いた。小早川の先手は勝ちに乗じてこれを追い、それに続いて後陣も備えを進め辛川を過ぎた。

そのときである。戸川助七郎の伏兵が山陰から一挙に起こり、小早川勢の後方より討ってかかった。助七郎は初陣の若武者で、真先に立って攻め戦った。そのとき、七段に備えた岡山勢は静かに押し出し討ってかかった。さすが大軍の小早川勢も前後の敵に斬り立てられ、色めき立ち、浮き足立ってしまった。それに乗じた岡山勢は隆景の旗本組を目指して斬りかかった。

隆景は采配を打ち振り、全軍の指揮に努めたが、岡山勢はその近辺の山上にも弓・鉄砲の部隊を配備していたから、この部隊も鬨の声をあげながら矢や弾丸を撃ちかけた。岡山勢の主力もしきりに追撃したから、小早川勢は総崩れとなって西に逃れ、ひと支えもせずに備中へ退いた。備前勢も、小早川勢が大軍であることを知っていたから深追いせず、辛川村まで追討し、そのまま兵を引き揚げた。この日の合戦で備前勢が討ち取った首級は、あまりに多すぎてその数はわかっていない。高名手柄の者も多かったが、殊に戸川助七郎は十三歳の初陣で采配を手にした部将を討ち取り、また楢原彦右衛門も十八歳の身でひとかどの侍の首を取り、勝ち鬨をあげて兵を引き揚げた。世に大正七年の「辛川崩れ」というがこの合戦である。

小早川隆景が児島へ進出の事

天正8年3月(一説に7月8月)小早川隆景は備前児島に出兵した。最前の辛川での敗戦に腹の虫が治まらず、今度は児島を切り取り、勢いに乗じて岡山城も攻め落とそうと計画しているとの情報が岡山に届いた。そのころ、児島の常山城を守備していたのは戸川平右衛門であった。

小早川の一万余の大軍は、常山の西方の各地に布陣し、近日中に常山を攻めるべく準備を進めた。 富川配下の組頭中島左近・広戸与右衛門は、この様子を岡山に注進し援兵を乞うた。これにより岡山では兵船五十艘を旭川の河口に浮かべ、加勢の兵を集めた。しかし、組頭両人からは注進して来たものの、城将の平右衛門からは、一度も注進してもこなければ援兵も乞うてこなかった。いかなるわけか不審であったので、暫く出船を留め、事情を問い合わせようとしたところ、その翌朝、平右衛門のもとから急ぎの使船が到着した。その口上の趣は、

「隆景は軍勢を催し、この城を攻めると見えますが、敵の計略を推察しまするに、去年早川へ出兵し岡山を攻めようとしたところ、思いもよらず敗退したので、今度は常山に攻めかかるようにみせ、岡山より加勢の軍勢が到着すれば、その後方に進出して通路を断つ。そして岡山城が無勢になったところへ軍勢を催し、再び岡山攻略を試みようとの策と考えられます。従って御加勢は御無用。この城は御見捨てなされて下さいませ。少しも御構い下さるな。くれぐれも岡山の城を堅固に守護して下され」

というものであった。これを聞いた直家は、「深慮遠謀、さすが平右衛門である。それでは彼の意見の通り、兵船は河口に集結させておくだけで、加勢の兵を送ってはならぬ」

と命じた。

備前軍記25

2014年6月12日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第23回「半兵衛の遺言」は、天正7(1579)年11月、有岡城は落城し、土牢から救出された官兵衛は、有馬の湯で湯治して体を癒してゆく。それでも足の不自由な官兵衛は、秀吉に連れられ信長に面会し、変わり果てた姿を晒し信長も官兵衛を許し、又松寿丸も半兵衛の策により生きていたことを信長も知り、半兵衛の死の策に驚いた。

尼崎城に籠った村重は女性の家臣も裏切りの見せしめのため信長により斬首の刑に処せられるのを聞き信長に負けるものかと気が狂ったようになって行く。だしも又、京で処刑された。

姫路に戻った官兵衛は家臣に支えられ又、松寿丸より半兵衛の形見の軍配を手にして軍師の役割の重さを担って立ち上がった。

☆新釈備前軍記 作州三星城攻め並びに落城ののち後藤勝基自害の事

花房助兵衛・延原弾正は、同じ天正7年4月上旬、倉敷村の南の倉掛山に陣を取り、三星城(現美作町明見)の攻撃に取り掛かった。

位田村の鳥奥山に陣城を築き、これを勝間城と名付け、ここに在城して岡山に援兵を乞うた。直家は浮田左京詮家を将として大軍を差し向けた。

詮家らは軍議を開いたが、三星の城内の事情を探るため、湯郷村の長光寺の住僧を招いた。その住僧は、

「三星の城中に、安東相馬・難波利介・柳澤太郎兵衛という勇士がございます。彼らが城を固めている限り落城するとも考えられませぬ。もし計略をもって、彼らを味方に付けることができますれば、落城すること間違いありませぬ」

と語った。

そこで長光寺の住僧に頼み、この三士のもとへ、味方に来たらば恩賞望みに任す旨を密かに申し伝えさせた。住僧は城に入り、密かに三人に会い使いの趣きを伝えた。安東相馬は承知したが、難波利介と柳澤太郎兵衛は納得しなかった。

こうして四、五日を経るうちに、人々も安東の変心を察知したのであろうか、何となく城中は騒ぎ立ち、互いに疑心暗鬼となり、次第に結束は弱まった。大将後藤勝基は妻を招き、

「近ごろ城内の気風は変わり士卒の心は和合せず、互いに疑惑を深めている。これでは到底籠城を続けることはできぬ。余が一人自害し、城中の男女の命を助け、城を敵に明け渡そうと思う」

と語った。

妻はこれを聞き、越後という侍女を呼び、一緒になって誰基を諌めた。

「貴方の御覚悟は決して時宜を得たものとは存じませぬ。誠に無益の御自害と申せましょう。この期に及び、急に敵方に寝返るような武将は訊問して確かめ、罪状明らかならば、これを殺して生年の心を静めたならば、城を堅固に持ちこたえること、何で困難でありましょう。寝返った者を討ち取ることも簡単、なにとぞ妾におまかせ賜われ」

その後間もない或る晩のこと、奥方は城中の頭分の特に料理を振舞うと称し、安東相馬・難波利介・柳滓太郎兵衛及び長光寺を呼び、広間で料理を出し、囲碁などしている所へ、越後というかの侍女が菓子を持ち、

「奥様よりの下されものでございます」

とて安東相馬に渡した。相馬が座を退き、菓子を頂戴していたとき、勝基の妻が物蔭より急に現れ、一刀のもとに相馬の首を打ち落とした。しかし、これを他に漏らさず、密かにとり隠していたので、城中にこの一件を誰ひとり知る者はなかった。その翌朝、相馬の首を大手門外に曝したから、城内で敵方に寝返ろうと考えていたものも震えあがり、変心したものも、また決心を翻したのであった。そのため備前勢が押し寄せ攻め戦っても、倉敷村辺りまでも追い返しよく城を守った。

しかし、城内の裏切り者の仕業か、単なる失火であったのか、本丸より出火し、火の粉は四方に散り、所々の陣小屋は一度に燃えあがった。寄せ手はこの虚に乗じ、急に攻め寄せ城に乗り込んで来たので、防禦の城兵も騒ぎ立て、荒木田村を指して落ちのびたが、延原の軍勢に取り巻かれて討ち死にし、このとき柳澤太郎兵衛も討ち死にした。難波利介は蓮花寺村(現作東町蓮花寺)まで落ちのびた。

西の丸では、寄せ手の進入をここを先途と防ぎ戦った。しかし朝辰の刻(午前八時ごろ)より末の刻(午後二時ごろ)まで息もつかず戦ったため、城兵は戦い疲れ、二十四、五人が枕を並べて討ち死にした。そのため防戦も最早これまでと、皆火中に飛び込んで死んだのである。宇根太郎兵衛は、当時八十三歳の老武者であったが、若武者と同様に奮戦し、静かに具足を脱ぎ、腹掻き切って炎の中に身を躍らせた。

城主勝基は、城の一方を破って逃れ出て、家臣二十八騎を引き連れ、入田原(現同町人田)の山境まで退いたが、備前の兵の追跡が厳しく、家臣はすべて討ち死にした。その隙に勝基ただ一騎長内村(現同町長内)まで退いたが、なお延原の兵が追い掛かったので、最早逃れぬところと観念し、隠れ坂というところで自害して果てた。その首を延原の侍が打ち取って、延原の実検に供した。今も隠れ坂に後藤勝基の墓があるという。

備前軍記24

2014年6月7日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第22回「有岡 最後の日」は、幽閉された官兵衛は

窓の外に見える藤の花に微かな善助の声を聴く。牢番の加藤又左衛門に気づかれそうになる。

腰を上げない毛利軍に有岡城の家臣は焦りの色を濃くしていた。村重は激高し、太刀を振り回すようになっていた。

善助の官兵衛が生きている情報は姫路の官兵衛の父・職隆から、平井山の本陣にいる羽柴秀吉へと伝えられた。また、半兵衛から官兵衛の嫡男・松寿丸も菩提山の庵にかくまっていると伝えられた。竹中半兵衛は静かに三十六歳の若さでこの世を去った。

有岡に毛利軍が来る気配はなく重臣たちの逃亡、自害者が出て、村重自身も毛利を迎えに行くと尼崎城に逃げた。

織田軍が城門を破ってなだれ込むのに合わせて善助らは官兵衛を背負って助け出した。

☆新釈備前軍記 備中忍山の落城並びに金川城夜討ちの事

天正6年(1578)11月中旬、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景は、三万余の軍勢を率いて出陣し、備中・備後の兵を先鋒として備中に進出し、高田村忍山(現岡山市上嵩田)の城に籠る浮田信濃・岡剛介を攻めた。

吉川民部大輔壮言は忍山の東に布陣し、伊賀与二郎は毛利勢の一部を加え、七百ばかりで津高郡勝尾山に陣を取り、毛利勢を後方から岡山勢が攻めることを予想してそれに備えた。毛利勢は精兵を選び昼夜を分かたず攻め立てたが、城内は少しも騒がず弓・鉄砲を放って防戦した。

しかし、信濃も剛介も小勢であったから岡山へ加勢を乞うた。そのころ直家はなお病床にあったので、岡平内・長船又三郎・片山惣兵衛らが加勢の大軍を率いて出陣し、忍山の北東に当たる鎌倉山に布陣した。

吉川経言は、手勢一千余人を二手に分け、岡山勢に攻めかかり、岡山勢が打ち負け浮き足立つところを、芸州勢は勇を鼓舞して切り崩した。城中よりこの形勢をみた浮田信濃は、自ら城を出て戦った。古川の先手が打ち負け、新手を繰り出して戦うところへ、岡剛介が城中から出て攻め立てた。小早川勢も城兵の側面から攻め込んだので、信濃も剛介も兵をまとめて城に入り、門を固く鎖して防戦した。そのため毛利勢も攻めあぐみ、備えを後方に移して年を越した。

明けて天正7年正月上旬、城内に毛利方に内通する者があって城に火を放った。時あたかも風が強かったので、火の粉は飛び散り、城中の小屋は一斉に燃えあがった。寄せ手は兼ねて合図のことであったから、この火を見ると一斉に四方の壁に取りつき攻め込んだ。城兵は防戦の術もなく逃げ散ったが、五百三十余入が討ち取られて城は落ちた。

伊賀与二郎は、去年から勝尾山に陣取って岡山の後詰めの軍勢と合戦し、遺恨を晴らそうと待ち構えていたが、直家は、近いうちに秀吉を語らい、上方勢と一緒に毛利を潰そうと計画していたので、忍山城の後詰めにはさほど意を用いず、さして大軍を送らなかったので、伊賀与二郎は働きをみせる場面もなく手をこまねいていた。とはいえこのまま引き揚げるのも残念に思い、兼ねて虎倉城周辺の地理をよく心得ていたから、自分の手勢だけを引き分け、金川城(現御津町金川)に夜討ちをかけた。しかし金川城を預かっていた宇喜多春家がよく防戦し、勝利を収めることが出来なかったので、与二郎は翌朝早く引き揚げた。しかし、これでは遺恨を晴らすことができず、或る夜、城中の油断を見はからって夜討ちをかけ、鉄砲を放ちながら城に攻め込んだ。城内の兵は皆寝入っていたところを不意討ちされたため、必死に防戦したが、五十余人枕を並べて討ち死にした。

しかしこの防戦の間に手筈を整え城門を鎖し、狭間から弓・鉄砲をもって防いだので、伊賀与二郎は城を乗取ることが出来ないままに引き揚げた。しかし、この五十余の首級を取ったので少しは遺恨も晴れ、この首級を毛利の陣に送った。彼は虎倉を出て備後の三原に赴き、小早川隆景の配下に属した。