1月7日に岡山歴史研究会が総勢65名、矢坂山を語る会からも13名が9時に北向八幡宮に集合して矢坂山および万成山を探訪しました。この行事は昨年5月が雨のため日延べされていたものです。
3班に分かれ10時出発~10:30(クジラ岩)~11:00(富山城跡)~11:20(方位岩)~12:20(魚見山)山頂昼食~13:00(出発)~13:30(万成山登山)~13:45(笑い岩・怒り岩)~14:00(万成稲荷磐座)~14:30(北向八幡宮の元宮)~15:00(北向八幡宮)解散と概ね予定通りでした。
頂いた資料を添付します。なお、役員の方が何度も下調べ、ゴミ拾い、下草刈り」、登山道の倒木の片づけなどしてくださり、また当日ゴミ拾いなどしてくださり感謝しています。
備前富山城史考
矢坂山(万成山・魚見山)界隈の探訪
実施日 平成24年1月7日
主催 岡山歴史研究会第2回探訪会
(-)初期の富山城
平安時代、矢坂山の南面は近くに吉備の穴海が迫り、葦原と山裾の開には大安寺(奈良)の荘園が吉備の中山までつながる条里として開け、この地方の中では拓かれた土地柄でした。現存する北向八幡の宮司である富山道常氏の遠い、遠いご先祖に当たる「富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)」が光孝天皇の仁和年間(平安中期885~9)に矢坂出に城を築き、富山城と名付けたことが富山家の家譜に残って(岡山市史39年度版)います。
光孝天皇(58代31世)は高齢で天皇になり短期間の在位でしたが、日本に初めて関白の職位を設て、成人天皇の補佐職としたことが有名です。(天皇が幼年の場合には従来通りの摂政と称した)富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)の大掾(だいじょう)とは律令制の職位で、地方行政官(三等官の判官)である。当時、この地方の有力な豪族からは一歩進んだ武士クラスで、中央政権の一翼を担っていたことになる。
その後、同じ富山家の家譜によると「時の城主富山備中長頼、文明年中松田勢の攻撃を受け防御ならず城に火を放ち自害す」とあることから、応仁の乱(1467~77)まで富山氏がこの城を守っていたことになる。そうすると富山氏は築城以来今日まで約1100年も続いたことになり、吉備津彦神社の大守家などに並ぶ名門の社家となる。江戸時代、池田光政により寛文9年に現在の北向八幡宮が再興され、以東富山家が神官を続けている。
(二)松田氏の時代
松田氏は鎌倉幕府の御家人で相模国(神奈川県)足柄郡松田郷から承久の乱(1221)の功により当地伊福郷へ地頭職としてきたのが備前松田氏の始まりといわれています。また他の説では南北朝時代の初め、松田元国が南朝方の新田義真に付き、軍功により正慶2年(1333)備前国御(三)野郡矢坂に住居(松田賢二氏備前松田氏系譜)とあります。諸説の中で鎌倉末期から南北朝の騒乱期に活躍し、足利尊氏に加担して富山城を築き、その後津高郡金川に本拠地を移し、応仁の乱(1467~77)に改めて富山城を再構築したのが松田元隆である。彼は文明5年(1473)に死亡し、1㌔離れた現在の妙善寺(日蓮宗)に埋葬されている。
その子、元成は再び文明12年(1480)に金川城に移り、富山城には弟筋に支城として守らせ、戦国の世を戦って行った。赤松傘下の浦上と松田は備前の守護代として東と西で勢力を拡大し、浦上の配下の宇喜多能家(よしいえ)(直家の祖父)らに何度も仕掛けられるが、その都度跳ね返し戦国大名に成長する。
時を経て宇喜多直家は浦上の配下から少しずつ離れ、松田勢と対峙するほどに成長し、対浦上で一致した政略で、直家の弟に松田から嫁を取り、直家の先妻の娘を松田に嫁がせる。両家が和した機を見て永禄11年(1568)に宇喜多直家は金川城を落城させてしまう。翌年永禄12年(1569)、支城の富山城も横井土佐守の守りもむなしく接収され、直家の腹違いの弟である忠家(浮田)が城主になる。
(三)宇喜多の時代
宇喜多直家は亀山(沼)城を本拠地に、浦上・松田・備中松山の三村を掌中に納め、備前・美作を統一します。当初、直家はこの富山城を居城にすべく考えていたようですが、天正元年(1573)岡山の石山城を居城にし、城下町を整備する一方で、備中国の備えの戦略的要衝として、国境に近い富山城に本確的な城郭を忠家に命じた。その成果は天正7年(1579)毛利方小早川軍を、富山城から出陣した宇喜多軍が辛川にて挟み撃ちにして撃退する大きな成果=辛川崩れとして後の世に伝えられております。また織田と毛利が戦った「中国の役」でも、富山城から撃って出た宇喜多直家側総大将忠家は一万騎を引き連れて、秀吉を助けます。(直家はこの時、既に死亡)直家の息子はまだ9歳の少年でしたが、見直家亡き後の宇喜多家を旨く支えました。結果として幼少の秀家は備前・美作・備中東部を領することとなりました。
戦いの後、浮田忠家は富山城の南西の笹ケ瀬川を旨く利用して「根小屋」と称する平屋敷(野殿城)に移り住んで笹ケ瀬川の水運を活用し集落を拓き産業を活性化させます。今でも「城の内」の地名が残っています。忠家は隠居し、息子の左京(さきょう)亮(のすけ)詮家(あきいえ)は2万4079石の城主として宇喜多本家を守ります。しかし従兄弟の宇喜多秀家は豊臣家の五大老として中央で活躍し、地元の旧臣との開で確執が生まれ慶長4年(1599)「宇喜多家中騒動]が発生します。浮田左京(さきょう)亮(のすけ)詮家(あきいえ)は、宇喜多を離れ徳川家康に属し、3万石で石見国(島根県)津和野の城主となり、名前も板崎出羽守直盛と改めました。大阪夏の陣(1615)に家康の愛孫千姫(後に天寿院、2代将軍秀忠とお江の娘で当時は豊臣秀頼の奥)を助け出し、1万石を加増されたが、千姫が本田忠患刻に嫁ぐことになり「約束違反」として婚儀を妨害しようとして、お家断絶した話がまことしやかに残っています本田忠刻(ただとき)と千姫の娘が勝子姫で池田光政の正妻。その子綱政は幼少のころ江戸屋敷ではお祖母ちゃんの天寿院=千姫に可愛がられ徳川一門として育ちます) 富山城のある矢坂山は別名万成山とも称され、花崗岩の万成石が産出されます。大正期に活発に採石され、地形が変わってきました。そこで、昭和42,43年に正式な学術調査がなされました。一次、二次の報告書が岡山市教育委員会から刊行されています。詳しくはそちらを是非参照下さい。
富山城は平安期から中世・近世の城郭の発展過程を、程よく残す守護大名から戦国大名までの重要な出城(支城・拠点城)でした。岡山城の西の丸、石山門は富山城の大手門でもありましたが、先の大戦で昭和20年6月29日未明の空襲で岡山城と共に焼失しました。今では江戸中頃の軍学者が作成したと推定できる古図(別紙)が往時を偲ばせます。
文責 岡山歴史研究会 副会長 山崎奏ニ
岡山歴史研究会「歴史探訪会]レジメ 2012年1月7日
矢坂山富山城と津和野藩主坂崎出羽守の千姫輿入れ襲撃事件
山陽新聞社OB 赤井 克己
千姫というと、戦国時代3大美女といわれる。母はNHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」の主役お江、父は徳川2代将軍秀忠。姫路城で本多忠刻(ただとき)の妻(再婚)として過ごした10年間け、最も幸せな時だったといわれる。長女勝姫は岡山藩主池田光政の妻。
だが、千姫が忠刻に嫁ぐ時に輿入れ襲撃事件があった。その主犯がここ岡山市矢坂・富山城主だったこともある津和野藩主坂崎出羽守直盛、岡山時代の名は浮田左京亮詮家(あきいえ)。岡山城主宇喜多秀家のいとこ、父忠家の後を継いで2万4000石の家老だった。
秀家は大坂にいることが多く、領内統治は家老ら重臣に任せきりだったが、重臣が武断派と文治派に分裂、左京亮は武断派の筆頭格。両派の対立が高じて左京亮は「文治派を追放せよ」と大坂・備前屋敷に立てこもる事件をおこした。関ケ原の戦いの前年である。家康の調停で何とか納まったが、武断派は宇喜多家を離れ、関ケ原の戦いで東軍に属し、左京亮は功績大として津和野藩主(3万石)になった。この時名前を坂崎出羽守に変えた。
慶長20(1615)年、大坂夏の陣で大坂城が火に包まれて落城する時、徳川家康は孫娘可愛さから「千姫を救出した者には嫁にやる」と言ったとか言わなかったとか。この話を大正10年山本有三が戯曲で発表、映画や講談でもとりあげられ、人口に膾炙(かいしゃ)した。
千姫は美男の本多忠刻と再婚するが、坂崎は「約束違反をとがめるのでなく、武士の意地で襲撃する」と言いふらしていたから襲撃は失敗、切腹させられたとか、部下に殺されたとか諸説ある。 53歳。
千姫は坂崎が救出したというよりも、秀頼、淀君の命乞いのために送り出されたのを、坂崎が家康の本陣に送り届けたとする説が強い。また千姫が救出で顔面に大やけどをした坂崎を嫌って忠刻を選んだと言う説もあるが疑わしい。