1月 2012 のアーカイブ

学び舎の地

2012年1月29日

岡山市北区北長瀬の白鬚宮の創建が平安時代中期であり、其当時の村の名前が「市久保」で干拓、開墾して誕生しました。大安寺庄、鹿田庄、野田保は記述が多いのですが市久保はその名前が記されるのみでした。中仙道以南は戦国時代、江戸時代に入って前田、斉藤、虫明、長瀬、和気氏などが一族郎党によって干拓、開墾を進め村を形成した様です。其様子は、昭和22年まで御南中学の佐藤勲先生が「あけゆく郷土(御南4ケ村)」に書かれています。さらに、昭和65年に操山高校の教諭のとき「目で見るあけゆく郷土(岡山市御南学区)」の中で、御南中学辺りを「平吉」が開墾し、昭和13年に笹ガ瀬川の水路を直線にすることにより今保より切り離されたことを知りました。

50年ぶりの同窓会の後、平吉の南端あたりの墓地にそのいわれを書いた案内板があるとのことで訪れました。「平吉村の由来 平吉は嘉永19年頃(330年余り前)は、芁々たる葦原洲であった。ここに斉藤平左衛門氏が開墾を始められ、そこに奥州仙台 白石の家中で、知行600石の鉄砲組頭、足軽30人を預かる浦田新左衛門氏が大阪城へ出陣の帰途立ち寄られ、斉藤氏と協力して開拓、10町歩余りを、完成させたが、斉藤氏は、浅口郡只見の新開地へ転居され、浦田氏のみ農耕に励まれたのであった。浦田氏は、奥州仙台 白石の生まれの為、白石平吉と名を改められた。平吉の開墾を永く讚賛する為其の名を地名として平吉(ひらよし)と称する様になった。 明治7年地方改正で平田村に改号して以来現存します。時は流れ拾し、平成17年8月岡山西バイパス工事の開通にともない、この橋の麓に眠ることなく先人達の苦労に思いを至し相恩感謝の誠を捧げ、その偉業を讃える次第です。平成17年8月吉日 世話人 浦田三郎」と記してありました。はるばる奥州より帰農したことは驚きでした。墓は白石姓が多く浦田姓も見かけます。前者が花の家紋で粋なものです。笹ガ瀬川の対岸には、戦国時代から江戸時代には繁栄していたと思われる「今保港」跡があります。やはり江戸時代から繁栄した「米倉」に養子に行った家には二層の櫓門があり関が原の合戦の後、帰農して米倉を開墾したと聞いていますが米倉史にはでてきません。

その墓地の南東に笹ガ瀬川の面影を残す河川がありました。川岸には雁木が多数打ち込まれています。大野学区にあった笹が瀬川の三日月湖の「大川」が昭和35年ごろ区画整理により埋めて立てられるまで見かけた光景です。小学校に通学する時袂の道を寒風にさらされて通った思い出があります。懐かしい光景で鴨も多数泳いでしました。おかやま福祉の郷、岡山西養護学校、健康づくり財団、ポリテクセンター、御南中学校、の南側手をぐるっと回ってまた西に路をたどって笹ガ瀬川の土手に出ました。この地域が平吉村であったのでしょうか。50余年前に通学していた頃は思いもよらないことでした。

50年ぶりの同窓会

2012年1月24日

昨年110月28日に御南中学の50年ぶりに同期同窓会が開かれ、1月21日に山陽新聞に載りました。目立たない小生が大きく映っているのでびっくりしました。活躍されている方(出席している人がそうではないではなく)、亡くなれた方、体調のすぐれな人、お会いできないのが残念で月日のの流れが長かったことを偲びました。

学区編成により石井、綾南、鹿田、芳田など別れ、小学校区も違うため全く会うことはありませんでした。

御南、今学区(卸センター、西部副都心)からも北に見える大野山と呼びしたしまれていたことがよくわかります。東南海巨大地震による津波が到来すると岡山平野は海と化し避難場所として広域的に考える必要がありそうです。

矢坂山は荒れ放題で、山道も一般の人が訪れると道が分かりにくく2度と来たくないと思うようだと苦言を呈されました。近郊にあり、眺望もよく、桜、ツツジが楽しめるため整備すべきだとの意見でした

大野とんど祭

2012年1月20日

1月14日(土)に恒例となった「とんど祭」が大野小学校で大人も含め300人ほど集まり行われました。お飾り、習字、餅を持ち寄り、甘酒も振舞われました。10時に点火され、餅が焼けるまで「じゃんけん大会」が行われました。

富山城 水の手井戸周り 間伐など

2012年1月13日

1月13日にも久米の佐藤さんが加わり、4名で間伐、ベンチ造りをを行いました。まづ富山城の水の手の井戸と言われている場所の周りの間伐や下草を刈りました。うっそうとしていて暗く入り口もはっきりしなかったのですが、見通しがよくなりました。

 

さらに、鯉ケ池に上がり土手の上に前に切っていいた樫の木でベンチを作りました。矢坂本町や吉備の中山も眺められる位置です。広場にも焼肉が囲んで出来るようベンチを作っていくださいました。

鯉恋ケ桜周りの間伐もさらに進みました。

岡山歴史研究会 矢坂山探訪

2012年1月9日

1月7日に岡山歴史研究会が総勢65名、矢坂山を語る会からも13名が9時に北向八幡宮に集合して矢坂山および万成山を探訪しました。この行事は昨年5月が雨のため日延べされていたものです。

3班に分かれ10時出発~10:30(クジラ岩)~11:00(富山城跡)~11:20(方位岩)~12:20(魚見山)山頂昼食~13:00(出発)~13:30(万成山登山)~13:45(笑い岩・怒り岩)~14:00(万成稲荷磐座)~14:30(北向八幡宮の元宮)~15:00(北向八幡宮)解散と概ね予定通りでした。

頂いた資料を添付します。なお、役員の方が何度も下調べ、ゴミ拾い、下草刈り」、登山道の倒木の片づけなどしてくださり、また当日ゴミ拾いなどしてくださり感謝しています。

備前富山城史考

矢坂山(万成山・魚見山)界隈の探訪

               実施日 平成24年1月7日

主催  岡山歴史研究会第2回探訪会

()初期の富山城

平安時代、矢坂山の南面は近くに吉備の穴海が迫り、葦原と山裾の開には大安寺(奈良)の荘園が吉備の中山までつながる条里として開け、この地方の中では拓かれた土地柄でした。現存する北向八幡の宮司である富山道常氏の遠い、遠いご先祖に当たる「富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)」が光孝天皇の仁和年間(平安中期885~9)に矢坂出に城を築き、富山城と名付けたことが富山家の家譜に残って(岡山市史39年度版)います。

光孝天皇(58代31世)は高齢で天皇になり短期間の在位でしたが、日本に初めて関白の職位を設て、成人天皇の補佐職としたことが有名です。(天皇が幼年の場合には従来通りの摂政と称した)富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)の大掾(だいじょう)とは律令制の職位で、地方行政官(三等官の判官)である。当時、この地方の有力な豪族からは一歩進んだ武士クラスで、中央政権の一翼を担っていたことになる。

その後、同じ富山家の家譜によると「時の城主富山備中長頼、文明年中松田勢の攻撃を受け防御ならず城に火を放ち自害す」とあることから、応仁の乱(1467~77)まで富山氏がこの城を守っていたことになる。そうすると富山氏は築城以来今日まで約1100年も続いたことになり、吉備津彦神社の大守家などに並ぶ名門の社家となる。江戸時代、池田光政により寛文9年に現在の北向八幡宮が再興され、以東富山家が神官を続けている。

()松田氏の時代

松田氏は鎌倉幕府の御家人で相模国(神奈川県)足柄郡松田郷から承久の乱(1221)の功により当地伊福郷へ地頭職としてきたのが備前松田氏の始まりといわれています。また他の説では南北朝時代の初め、松田元国が南朝方の新田義真に付き、軍功により正慶2年(1333)備前国御(三)野郡矢坂に住居(松田賢二氏備前松田氏系譜)とあります。諸説の中で鎌倉末期から南北朝の騒乱期に活躍し、足利尊氏に加担して富山城を築き、その後津高郡金川に本拠地を移し、応仁の乱(1467~77)に改めて富山城を再構築したのが松田元隆である。彼は文明5年(1473)に死亡し、1㌔離れた現在の妙善寺(日蓮宗)に埋葬されている。

その子、元成は再び文明12年(1480)に金川城に移り、富山城には弟筋に支城として守らせ、戦国の世を戦って行った。赤松傘下の浦上と松田は備前の守護代として東と西で勢力を拡大し、浦上の配下の宇喜多能家(よしいえ)(直家の祖父)らに何度も仕掛けられるが、その都度跳ね返し戦国大名に成長する。

時を経て宇喜多直家は浦上の配下から少しずつ離れ、松田勢と対峙するほどに成長し、対浦上で一致した政略で、直家の弟に松田から嫁を取り、直家の先妻の娘を松田に嫁がせる。両家が和した機を見て永禄11年(1568)に宇喜多直家は金川城を落城させてしまう。翌年永禄12年(1569)、支城の富山城も横井土佐守の守りもむなしく接収され、直家の腹違いの弟である忠家(浮田)が城主になる。

()宇喜多の時代

宇喜多直家は亀山(沼)城を本拠地に、浦上・松田・備中松山の三村を掌中に納め、備前・美作を統一します。当初、直家はこの富山城を居城にすべく考えていたようですが、天正元年(1573)岡山の石山城を居城にし、城下町を整備する一方で、備中国の備えの戦略的要衝として、国境に近い富山城に本確的な城郭を忠家に命じた。その成果は天正7年(1579)毛利方小早川軍を、富山城から出陣した宇喜多軍が辛川にて挟み撃ちにして撃退する大きな成果=辛川崩れとして後の世に伝えられております。また織田と毛利が戦った「中国の役」でも、富山城から撃って出た宇喜多直家側総大将忠家は一万騎を引き連れて、秀吉を助けます。(直家はこの時、既に死亡)直家の息子はまだ9歳の少年でしたが、見直家亡き後の宇喜多家を旨く支えました。結果として幼少の秀家は備前・美作・備中東部を領することとなりました。

戦いの後、浮田忠家は富山城の南西の笹ケ瀬川を旨く利用して「根小屋」と称する平屋敷(野殿城)に移り住んで笹ケ瀬川の水運を活用し集落を拓き産業を活性化させます。今でも「城の内」の地名が残っています。忠家は隠居し、息子の左京(さきょう)亮(のすけ)詮家(あきいえ)は2万4079石の城主として宇喜多本家を守ります。しかし従兄弟の宇喜多秀家は豊臣家の五大老として中央で活躍し、地元の旧臣との開で確執が生まれ慶長4年(1599)「宇喜多家中騒動]が発生します。浮田左京(さきょう)亮(のすけ)詮家(あきいえ)は、宇喜多を離れ徳川家康に属し、3万石で石見国(島根県)津和野の城主となり、名前も板崎出羽守直盛と改めました。大阪夏の陣(1615)に家康の愛孫千姫(後に天寿院、2代将軍秀忠とお江の娘で当時は豊臣秀頼の奥)を助け出し、1万石を加増されたが、千姫が本田忠患刻に嫁ぐことになり「約束違反」として婚儀を妨害しようとして、お家断絶した話がまことしやかに残っています本田忠刻(ただとき)と千姫の娘が勝子姫で池田光政の正妻。その子綱政は幼少のころ江戸屋敷ではお祖母ちゃんの天寿院=千姫に可愛がられ徳川一門として育ちます) 富山城のある矢坂山は別名万成山とも称され、花崗岩の万成石が産出されます。大正期に活発に採石され、地形が変わってきました。そこで、昭和42,43年に正式な学術調査がなされました。一次、二次の報告書が岡山市教育委員会から刊行されています。詳しくはそちらを是非参照下さい。

富山城は平安期から中世・近世の城郭の発展過程を、程よく残す守護大名から戦国大名までの重要な出城(支城・拠点城)でした。岡山城の西の丸、石山門は富山城の大手門でもありましたが、先の大戦で昭和20年6月29日未明の空襲で岡山城と共に焼失しました。今では江戸中頃の軍学者が作成したと推定できる古図(別紙)が往時を偲ばせます。

文責 岡山歴史研究会 副会長 山崎奏ニ

岡山歴史研究会「歴史探訪会]レジメ       2012年1月7日

矢坂山富山城と津和野藩主坂崎出羽守の千姫輿入れ襲撃事件

山陽新聞社OB 赤井 克己

千姫というと、戦国時代3大美女といわれる。母はNHK大河ドラマ「江姫たちの戦国」の主役お江、父は徳川2代将軍秀忠。姫路城で本多忠刻(ただとき)の妻(再婚)として過ごした10年間け、最も幸せな時だったといわれる。長女勝姫は岡山藩主池田光政の妻。

だが、千姫が忠刻に嫁ぐ時に輿入れ襲撃事件があった。その主犯がここ岡山市矢坂・富山城主だったこともある津和野藩主坂崎出羽守直盛、岡山時代の名は浮田左京亮詮家(あきいえ)。岡山城主宇喜多秀家のいとこ、父忠家の後を継いで2万4000石の家老だった。

秀家は大坂にいることが多く、領内統治は家老ら重臣に任せきりだったが、重臣が武断派と文治派に分裂、左京亮は武断派の筆頭格。両派の対立が高じて左京亮は「文治派を追放せよ」と大坂・備前屋敷に立てこもる事件をおこした。関ケ原の戦いの前年である。家康の調停で何とか納まったが、武断派は宇喜多家を離れ、関ケ原の戦いで東軍に属し、左京亮は功績大として津和野藩主(3万石)になった。この時名前を坂崎出羽守に変えた。

慶長20(1615)年、大坂夏の陣で大坂城が火に包まれて落城する時、徳川家康は孫娘可愛さから「千姫を救出した者には嫁にやる」と言ったとか言わなかったとか。この話を大正10年山本有三が戯曲で発表、映画や講談でもとりあげられ、人口に膾炙(かいしゃ)した。

千姫は美男の本多忠刻と再婚するが、坂崎は「約束違反をとがめるのでなく、武士の意地で襲撃する」と言いふらしていたから襲撃は失敗、切腹させられたとか、部下に殺されたとか諸説ある。 53歳。

千姫は坂崎が救出したというよりも、秀頼、淀君の命乞いのために送り出されたのを、坂崎が家康の本陣に送り届けたとする説が強い。また千姫が救出で顔面に大やけどをした坂崎を嫌って忠刻を選んだと言う説もあるが疑わしい。

矢坂山間伐

2012年1月8日

 1月6日に砂田氏、岸氏と3人で鯉ヶ池付近および富山城跡の山道の間伐を行いました。鯉ヶ池の広場からの眺望を邪魔している木を切ったり、鯉恋桜の背景を邪魔している木を伐採しました。鯉ヶ池を作るため谷に堤防を杵築さらに広場を設けたようです。そのため、広場の南の山の裾野を削り土砂崩れを防ぐ石垣を設け、広場を築くためにも石垣かありました。大きな自然石を積み上げていることより松田、宇喜多時代のものかもしれません。農業用水としては「大成池」と呼ばれ富山城の水の手としての少しさらに下ったところにある井戸まで水路がつながっています。城のとって水の手は重要な施設のはずでどうおように防御していたのか興味があります。

 富山城跡山道に多くの山桜の大木があることが分かり、日照を邪魔している木や手前の木を切ることによってどこに桜があるのか判らなかったのが見通しがよくなり4月の桜のシーズンが楽しみです。また、ツツジの日照を妨害している木やツツジと交錯している常緑樹を伐採することによってこれも4月中旬より楽しみです。

 

あけぼの

2012年1月1日