7月 2016 のアーカイブ

郷土の偉人 化学会の初代会長「久原躬弦と津山」

2016年7月19日

坂崎出羽守(浮田詮家)の2冊目が出来上がり、「Akiie Sennhime Ivent,Proburem」国際展開となり岡山県立図書館に寄贈し審査中である。
続いて裏の「岸一太物語」を編集するつもりだったが、偉人過ぎて語る方を探している。
今日も学生時代より入会しいる会の会長が津山の出身とは驚きだあった。
認定化学遺産第035号 化学会の初代会長「久原躬弦と津山」下山純正(津山洋学資料館元館長)
幕末,代々津山藩医を勤める久原家に生まれた久原躬弦(1856~1919)は,東京大学理学部化学科の最初の卒業生となり,日本化学会の前身となる化学会の初代会長に推された。京都帝国大学第4代総長まで務めた躬弦は,終生有機化学の講座を担当,「実験は化学の基本である」を信念に多くの論文や著訳書を残した。
久原家は,津山藩主森家の家臣・久原宗清良政(?~1666)に始まる。その養子となった甫雲良賢は,幕府医官の西玄甫から西洋流外科術を学び,「阿蘭陀流外科免許状」を授けられている。この免許状の日付が「延宝5年(1677)10月吉日]であることから『解体新書』刊行の実に97年も前であることに驚く。
その後,藩主の森家は改易されて松平家に代わるが,外科術の腕が認められ,1708年に松平藩の藩医に召し出されている。以後,明治維新まで9代160数年にわたって藩医を勤めることになる。
躬弦の父9代宗甫(洪哉,1825~%)は,華圖流の大坂分塾・合水堂に入門したほか,京都の石川元翠について西洋流医術を,広瀬元恭の時習堂で蘭学を修めた。コレラ治療や天然痘予防のための牛痘種痘を津山藩で広めた名医として知られる。特筆すべきは,1870年,藩主夫人・儀姫の乳癌摘出手術を実施し,見事に成功させたことである。執刀にあたっては,イギリス人医師ウィリスにも見解を打診し,「患部は切除した方が良い」との回答を得て決断したのだった。続く
化学と工業 69.8.2016 日本化学会

 

岸一太

2016年7月19日

つるぎ号つるぎ号

北長瀬本町の偉人を紹介する。

表町(旧大野辻)は土光敏夫氏が有名だ。

所が、あまりに近くに戦前で、しかも日本初の民間飛行機を赤羽飛行場を作り、飛ばした人物がいたとは驚きである。三菱重工が初のゼットを飛ばしす。

三菱自動車が日産自動車の翼下にはいる。

戦前の中島飛行機、何れも一太の遺産を継いだといわれ、米軍により赤羽刀ともに消去されたと思われる。

大野村誌

岸一太

明治7年10月28(1870)年岸熊次郎の長男として本村北長瀬に生まれる。性敏感聡明。研究心旺盛。創造力旺盛。中学通学中、農家の稲扱い機を改良。

明治26年(1893)第三高等学校医学部に入学。30年に卒業在学中龍眼を発見、金杉英五郎教授から厚く賞賛される。医学出身の後藤新平に愛され共に影のごとく従う中となった。明治32年文部省から選ばれ、ドイツに留学。34年「ドクトルメディチーネ」の学位を授与された。台湾総督府民生部長官だった後藤新平は、34年帰国と共に台湾総督府に勤務せしめた。35年総督府医院医長及び医学校教授に任命されたときは28歳であった。医学博士となり、11月に退職。後藤新平は満鉄総裁で40年に関東軍督府技師兼満鉄大連病院長に任用3年勤務。院内に胸像を建てられた。露国皇帝より神聖アンナ2等勲章を授与される。

大連より引き上げた後、東京都京橋区明石町に、耳鼻咽喉科医院を開設大正2年より僅か4年で惜しまれつつ廃業。

大正6年(1917)、医道に精進20年で断然終止符を打った。働き盛りの44歳、「聴診器を手にして俗〃としているときではない。医術をもって国家社会に貢献する以上に、国家の大問題で、しかも焦眉の急を要するものがある。将来この問題を解決することが、正に自己にかせられた天職である。」と考え決断に至った。大正6年空軍充実は国家安泰の絶対用件なれど事態は幼稚極まりないものであった。財閥浅野総一郎などの後援で東京都赤羽根に民間航空機製作所を創設した。その前に、岸科学研究所を創立し、鉄の精錬方法を研究し特許を得た。第一次世界大戦後の再軍備熱があふれ、軍備拡張に全力を挙げていた。大正12年に佐賀県呼子で、アルミニュウムに関する研究所を立ち上げた。

大正12年9月1日未曾有の大震災で、東京、関東葉甚大なる被害を受けた。帝都復興院が置かれ、技師として参画し、道路計画にも創意し「最新舗装学」を刊行した。特許も合わせて数十種に達した。昭和12年(1937)に惜しむべく、脳溢血で他界された。

公表資料

1.没後61年の歳月を経た1998(H10)第二つるぎ号の試験飛行を撮影した映写フィルムなどが遺族によって国立博物館に寄贈された。 <昭和物故人名録> <人事興信録> <『朝日新聞 1998.12.9夕刊』> <MATSU様より情報提供>. きし かずた *岸一太墓石の裏面 www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kishi_k.html – 4k –

2. http://www.bk1.jp/webap/user/SchAuthorBibList.do?authorKana=キシ+イチタ&adultFlg=0&authorId…岸+一太 – 24k – キャッシュ関連ページ庶民宗教民俗学叢書

真の日本精神 古事記真釈 上巻 氏神と八幡 教確立論 国教叢書 第1  神道の批判

神霊と稲荷の本体 東京の工学的地質研究 生物学的都市経営論 実験鉄冶金学 上巻

 

3、岸飛行場は、大正5年築地明石町の耳鼻科医岸一太博士が開設したものである。風洞から電気溶鋼炉まで備えた併設工場は中島飛行機の創設者中島知久平が参考したという。 この工場では発動機まで製作されて、アルマン六型機4機を陸軍に納入した。 http://www.kitaku.info/view/akabane2.htm – 20k

4.医学博士の岸一太(耳鼻咽喉科医)小黒部鉱山(富山興業)の経営にあたる。 1916, 大正5年, 小黒部鉱山最盛期を迎え事務所など 1918, 大正7年, 岸一太の資材・原料をすべて国内産に依拠するこだわりが、裏目となり、飛行機製作事業は破綻(赤羽飛行機 www18.ocn.ne.jp/~wow046/nenpiyou.html – 7k

5.岸飛行場跡 大正5年に築地の耳鼻科医、岸一太が建設した飛行場と工場。陸軍に飛行機など納入したが、時代を先取りしすぎて2年で閉鎖。その後は陸軍の照空灯(サーチライト)陣地。戦後は理研の工場。現在は北運動公園 神谷公園 この公園付近では早死に uranokazuo.com/kazuopro/kazuoday/2007/20070311/20070311.html – 23k

6.岸一太(九七年卒)は台湾総督府からハレ大学耳鼻科に留学し台北医専の教授を勤めた。 東大同級生の大西克孝は、岡山の眼科教授であった大西克知の兄で、エルランゲンやベルリンに留学して千葉の教授を勤めた。千葉稔次郎はブレスラウに留学し、のち東大 http://www.ibaraisikai.or.jp/information/rekisi/h12_10_1/121001.htm – 29k

7.ファイルタイプ: PDF/Adobe Acrobat – HTMLバージョン [ 一太・述]. 都市問題 1・ 8 大14.12. 市政の興発と市民の自覚. 後藤新平. 都市問題 2・ 1 大15. 1. 復興事業進捗状況(東京の部). 平野真三. 都市問題 2・ 3 大15. 3. 復興事業進捗状況(横浜の部). 平野真三. 都市問題 2・ 4 大15. 4 www.timr.or.jp/kanto-daishinsai-mokuroku.pdf

8.大正5年築地明石町の耳鼻科医岸一太が開設したのでその名がある。岸町とは無関係だ。 風洞から電気熔鉱炉まで備えた併設工場は中島飛行機(解体後富士重工業やプリンス自動車→日産自動車になったが本体はない)の創始者中島知久平が参考にしたという。 http://www.geocities.jp/pccwm336/sub8.html – 557k

9.大野村誌

10.岸一太(元大本). 神霊界にも執筆. 明道会を設立し、独自の. 神霊世界を樹立。 大本でもかなりの論客で. あり、その明道会の会報は. 民間の神道知識、古事記解釈などのうねりと. ともに、その時節の最新科学や医学をリミックス。 page6.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/f72449733 – 28k

 

 

参考

本多静六 – Wikipedia

推定樹齢400年。日比谷公園松本楼の脇。 本多静六博士育英奨学金 – 埼玉県に寄贈した山林に基づく。 四分の一天引き貯金 – 収入の4分の1を貯蓄に充てる、倹約して生きていく本多静六のやり方

人生計画の立て方 (単行本)

本多 静六 (著)

(18件のカスタマーレビュー)

価格: ¥ 1,050 (税込)

実業の日本社出版 本多健一監修

 

後藤新平

後藤 新平(ごとう しんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日) – 昭和4年(1929年)4 月13日)は明治・大正・昭和初期の ….. 後の満鉄総裁・松岡洋右が日ソ中立条約締結に訪ソした際、「後藤新平の精神を受け継ぐものは自分である」とソ連側から盗聴され ja.wikipedia.org/wiki/後藤新平 – 107k

伯爵(明治39年(1906年)男爵、大正11年(1922年)子爵、昭和3年(1928年)伯爵)。台湾総督府民政長官。満鉄初代総裁。逓信大臣内務大臣外務大臣東京市(現・東京都)第7代市長、ボーイスカウト日本連盟初代総長。東京放送局(のちのNHK)初代総裁。拓殖大学第3代学長。

計画の規模の大きさから「大風呂敷」とあだ名されたが、帝国主義日本の有能な植民地経営者で都市設計者。台湾総督府民政長官、満鉄総裁を歴任し日本の大陸進出を支え、鉄道院総裁として国内の鉄道の整備に貢献した。

また、関東大震災後に内務大臣兼帝都復興院総裁として東京の都市復興計画を立案した

16/7/17 11時31分4秒

  1. 第三高等学校 (旧制) – Wikipedia

1949年(昭和24年)、旧制京都大学(昭和22年まで京都帝国大学)、京都大学附属医学 専門部とともに新制京都大学に包括され、一般教養を担当する分校へ。 1950年(昭和25 年)、第三高等学校としての最後の卒業

ja.wikipedia.org/wiki/第三高等学校_(旧制) – 89k – キャッシュ関連ページ

  • 1869年(明治2年)、大阪に舎密(せいみきょく)設置。
  • 名称変更ラッシュ。
    • 1870年(明治3年)、化学所→理学所→開成所→
    • 1872年(明治5年)、第四大学区第一番中学※→
    • 1873年(明治6年)、第三大学区第一番中学→開明学校→
    • 1874年(明治7年)、大阪外国語学校→大阪英語学校。
  • さらに1879年(明治12年)、大阪専門学校。1880年(明治13年)大阪中学校。
  • 1885年(明治18年)、大学分校を経て、1886年(明治19年)第三高等中学校設置。
  • 1887年(明治20年)、岡山県立医学校を第三高等中学校医学部(岡山栄町)とした。本科(大学進学への予備教育)発足。
  • 1889年(明治22年)、第三高等中学校を大阪市東区(現中央区)から京都市上京区(現左京区)に移転。既存の医学部に加えて法学部の設置。
  • 1893年(明治27年)、第三高等中学校を第三高等学校に昇格。本科(大学進学への予備教育)、予科の廃止。工学部の設置。
  • 京都帝国大学の設立(1897年)に先立ち、大学予科の設置(大学進学への予備教育の復活)。法学部と工学部の廃止(1901年正式に発令)。医学部は岡山医学専門学校へ(1901年)。
  • 1949年(昭和24年)、旧制京都大学(昭和22年まで京都帝国大学)、京都大学附属医学専門部とともに新制京都大学に包括され、一般教養を担当する分校へ。

 

  1. 国立大学法人岡山大学:沿革

21. 3, 岡山県医学校を第三高等中学校医学部に改称. 27. 9, 第三高等中学校医学部を 三高等学校医学部に改称. 31. 4, 岡山県尋常師範学校を岡山県師範学校に改称. 33. 3, 第六高等学校を創立. 34. 4, 第三高等学校医学部岡山医学専門学校に改称
科学技術コレクション

1916年には岸式つるぎ号が発表されました。岸一太氏は医学博士の学位を持ち病院を経 営していましたが、航空に関心を抱き赤羽飛行機製作所を創設して、岸式飛行機を製作し ました。

岸式つるぎ号、モーリス・ファルマン機が原型。

岸式は、その後6号機まで作られ、1919年には陸軍に納入もしましたが、軍の方針変更で 事業は拡大せずに工場は閉鎖されました。しかしながら殆ど独力で国産機を製作し、納入 実績を挙げたのは敬服に価します。

 

杜父魚文庫ブログ

つるぎ号とモリブデン 菊池今朝和

七月末から八月初めまで富山県宇奈月町(市町村合併で黒部市宇奈月温泉)の酒屋さんが経営する北アルプス裏剣岳の「池の平小屋」にいた。この小屋明けの手伝いをしていたのだが、涼しい標高2200メートルの地で一週間あまり過ごした。下界の猛暑が嘘にような別世界。 この小屋と関わりを持って十七年になる。大正年間の初めこの地で採掘された輝水鉛鉱(きすいえんこう・元素記号で表すとMoS2となりこのMo部分がモリブデンと呼ばれている)は、北陸線の滑川まで運ばれ、そこから東京の北区赤羽に移送している。 赤羽には耳鼻咽喉科の医師で後藤新平の信任を得ていた岸一太(きし・かずた )医学博士が、日本で初の民間飛行機製作会社となる赤羽航空機製作所を開設した歴史がある。近くには岸飛行場と呼ばれた民間飛行場もあった。 岸一太氏は岡山県出身。明治三十年に岡山医学専門学校を卒業、ドイツに遊学して帰国後、東京・築地明石町で耳鼻科院長で開業していたが、大正四年に自ら開発した発動機にモーリス・ファルマンの機体をつけた飛行機「つるぎ号」を製作している。 続いて「第二つるぎ号」を完成し、昭和六年に赤羽航空機製作所を設立したが昭和十年に倒産、失意の中で亡くなっている。 剣岳で採掘された、モリブデンは飛行機のエンジン部のもっとも力のかかるシリンダーの合金素材して使われ、「つるぎ号」として帝都の空を滑空、陸軍にも納入されたという。 日本で初めて飛行機が飛んだのは明治四十三年。アメリカからマースという曲芸飛行家が来日して、妙技を有料興行したのがきっかけとなって、民間飛行家も生まれ、小規模ながらも各地に民間飛行場が設けられた。 岸飛行場は四万坪を整地して、そこに風洞、電機溶鉱炉、乾燥室等を備えた飛行機製造工場を併設する本格的なものだったという。開場式には岸博士自作の「つるぎ号」でテスト飛行が試みられたという。明治、大正、昭和を駆け抜けた先覚者のことを知った。 る人も少なくな 参考 モリブデン (Molybdenum):原子番号 42 の元素。元素記号はMo。クロム族元素の一つ。銀白色の硬い金属(遷移金属)。常温、常圧で安定な結晶構造は、体心立方構造 (bcc) で、比重は 10.28、融点は摂氏 2620℃、沸点は摂氏 4650℃(融点、沸点とも異なる実験値あり)。空気中では酸化被膜を作り内部が保護される。高温で酸素やハロゲン元素と反応する。 アンモニア水には可溶。熱濃硫酸、硝酸、王水にも溶ける。原子価は +2 価~ +6 価。輝水鉛鉱( MoS2など)に含まれる。資源としては、アメリカで約30%、チリで約30%など、北南米で世界の過半数を産出している。 モリブデンは、人体(生体)にとって必須元素で、尿酸の生成、造血作用、体内の銅の排泄などに関わる。微生物の窒素固定に関しての酵素(ニトロゲナーゼ)にも深く関わっており、地球上の窒素固定量の70%以上は、モリブデンが関与していることになる。<フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』から引用>

author : 古沢 襄