4月 2013 のアーカイブ

譲と八重5 高梁藩快風丸購入

2013年4月19日

七五三太は五歳のときの十一月十五目に、袴着初祝をしてもらい、その1ヵ月後の十二月十四日に弟双六が生まれた。
 七五三太が五歳のとき、母とみが夢を見た。
 七五三太が不忍池に落ち、ほとんど死んでしまったかのようになっているのを抱き上
げ、水天宮のお守りで撫でたら息を吹き返した。
 以来、母とみは七五三太に「けっして海に入らないでおくれ」と頼んだので、七五三太は生涯金槌だったという。
 父民治は安中藩江戸屋敷で藩主の右筆を務め、家では、藩の子女の手習師匠(寺子屋のこと)をしていた。書は大橋流だった。
七五三太(譲)が函館より密航するのは20歳の時である。
方谷はこの間高梁藩の藩政改革に取り組むこととなる。世継ぎのいない藩主勝職の元に養子として陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)・松平定永(松平定信の嫡男)の八男勝静がやって来ることとなり、方谷は勝職から直々に養子勝静の教育係を任命される。
嘉永2年 1849年方谷 45歳の時 藩主板倉勝職が引退し勝静が藩主となり、元藩主 板倉勝職没し、勝静に元締め役兼吟味役を命じられる。46歳 この年から藩政改革を断行する。
財政状況を調査すると公称五万石の松山藩の実高は二万石に足りないこと、そして藩の借金が10万両に登ることが判明。
帰国した勝静が藩政改革の大号令を出す。大阪に出向いて銀主と交渉し、藩の借金の返済期間をのばしてもらう。1851年板倉勝静、江戸幕府の奏者番に命じられる。
1852年 郡奉行の職もかねる。江戸産物方を設置する。買い上げていた旧藩札を高梁川河川敷にて焼き捨てる。
1853年 干害のため藩の貯倉をあけて米を緊急無料配布し餓死者を防ぐ。
ペリー浦賀に来航した安政元年 1854年 藩の総理大臣(参政)に就任、元締役と兼務するが、 1857年に53歳 元締役をやめている。
方谷マニアックによると、この年、安中藩主・板倉勝明が死亡し、安中藩の教育政策が大いに後退したことがあった、このとき新島は藩に意見し、藩の祐筆補助を命じられた。その後も藩の教師・尾崎直記、添川廉斎らから漢学を学び、漢学(朱子学・儒教)を中心とする江戸当時の学問の習得に努めていた。そんな最中、敬愛する添川廉斎が1858年に死去、悲嘆に暮れていた新島の新しい漢学の先生となったのが親戚藩・備中松山藩の藩儒「川田甕江」だった。
川田甕江は備中の国玉島の港問屋の次男として生まれた、幼少より学問に励み、1857年には江戸で近江大溝藩の「百石取りの藩儒」として使えることが内定していた。将来を約束されていた身であるはずの川田をイバラの道(備中松山藩)に引き込んだ張本人が山田方谷である。
川田甕江という人材がどうしても欲しい方谷は、学生時代、川田と交流があり同郷倉敷出身の三島中洲をヘッドハンターとして江戸に送り込んだ。三島は川田の説得に際し、江戸松山藩邸の藩儒として50石取りで使えてくれ(なんと、大溝藩の半額!)という条件で川田を口説いた。さらに驚くべきは、このとき川田は方谷のもとで働けることを嬉々と喜び松山藩入りを快諾したという。
そんなことで江戸松山藩の藩儒として在籍していた川田は、親戚藩・安中藩の藩儒不在の穴を埋めるため、江戸安中藩の臨時講師として新島襄らに漢学を教えることとなった。川田との出会いはその後の新島の人生を決定づけた出会いといえる。
この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていたのではないだろうか。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入した。
船 名 快風丸  原名 ゴーウルノルワラス     船形  スクーナー   船質 木 馬力  帆船  幅7.2    長32.4  
屯数180   製造国  米国

1 野崎のさん
 [削除] 2013年04月19日 20時29分
川田甕江が方谷とも襄ともに関わりもち、方谷と襄がむすびついてまいりましたね。
川田甕江全く知りませんでした。ネット検索をして驚きました。歌人の川田順が彼の三男で歌手の佐良直美が玄孫なんですね。木戸孝允等にまつわるエピソードもおもしろいです。
快風丸の母港は玉島だったのでしょうか。この船の運命もおもしろいです。

2 あきちゃんさん
 [削除] 2013年04月20日 06時40分
野崎のさん
 川田甕江の廻船問屋だったとは話が面白くなりそうですね。
圓通寺の近くの玉島市民交流センター内に玉島歴史民俗海洋資料室あるそうで近く行って見ようと思っています。
快風丸は3年程度運行した後、岡山藩に没収されました。

3 木村のマーチャンさん
 [削除] 2013年04月27日 12時16分
七五三太は、快風丸を購入して、2年後に密出国をしているのですね。
結果的にみて、七五三太が川田甕江に巡り会えたことは、本当に幸運であったと思います。
山田方谷は、川田甕江の能力を的確に見抜く目もあったのですね。

4 あきちゃんさん
 [削除] 2013年04月28日 08時18分
木村のマーチャン
 人の巡り合いは面白いですね。特に幕末から夜明けの時代はチャンスが多かだようですね。
川田甕江の生い立ちが廻船業の生家に着目し、方谷が高梁藩の物産を江戸、函館まで販路を直接取引で財を得ようとしたは明らかです。

矢坂山 ツツジ祭2013

2013年4月16日

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P1070485矢坂山の桜、ツツジが楽しむため企画しました。桜の開花が1週間早くなり染井吉野は終わってしまいました。ツツジは寒さ戻りで満開前で止まっていました。
山の散策の前に講演会の時間を設けました。
恒例となり来年も4月12日(土)に開く予定です。

1部 講演会
演題:落城後の松田氏と冨山氏の後裔
講師:玉松会会長(松田家主従の会、香川県詫間在住)
場所:大野コミュニティーハウス
受付:平成25年4月13日(土)9時より
定員:28名
会費:500円(資料代)
講演:9時30分より10時30分
 演題はダイシチャンに書いていただきました。達筆でビックリしました。
 
2部 桜・ツツジ散策会
集合:大野コミュニティーハウス
会費:無料
昼食・飲み物:各自持参 20名参加
出発:平成25年4月13日(土)11時
行程: →魚見山 →すべり山 →富山城二丸跡(昼食) →本丸跡 →鯉ケ池 
→野山尾根 →野山見晴台 →法事古墳 →大安寺駅方向 →ハウス帰着14時 

2013.4,13
落城後の松田氏と冨山氏の後裔
 香川県三豊市詫間町
 玉松会会長   松田 充弘

[落城までの経緯]
 松田氏は藤原氏で関東の御家人であった。承久の乱(1221)の戦功に依り 足利将軍より相模の国松田郷と将軍家の紋章「二引両」と姓を賜り松田城の城主になる。松田氏は 「奉公衆」で室町幕府足利将軍直属の軍事力で幕府を支えていた。
 その後建治2年(1276)横浜神奈川(金川)の七曲山城・城主になる。
 建武元年(1334)松田十郎盛朝が備前国守護職になる。
 矢坂山の冨山城を冨山氏から奪い城を整備し本拠とする。
 2代城主元喬は大覚大僧正と出会い法華宗に帰依し、真言宗から法華宗に改宗。
備前に法華宗を流布し善政を布く。
 8代元成は本拠を金川に移し守備を固める。
 永正6年(1509)9代元勝は京都公卿の三条西実隆公に命名を依頼し「玉松・麗水」の二書を賜り玉松城と命名する。
 永禄11年(1568)宇喜多直家の謀略に依り玉松城は落城。13代元賢の弟左門盛明(元脩)冨山城主は急を聞き、混乱に紛れ玉松城に入り防戦をするが父親の元輝は討死、兄の元賢と元脩は命運を悟り城を脱出。然し雑兵に元賢は討死、元脩は備中方面に落行。元脩は毛利家に属す。

[秀吉の中国毛利攻め]
 天正10年(1582)3月豊臣秀吉の毛利攻めが始まり、高松城水攻めの時、元脩は冠山城に籠もる。天正11年宇喜多秀家は父直家の松田家に対する不義を悔やみ松田氏の再興を念じ元脩の妹の夫、直家の弟・春家の病死に伴い、遺児・右衛門丞の後見人を依頼され、奥郷(児島)の小串城八百石の城主になる。余談であるが秀家の正室は前田利家の娘・豪姫である。

 〔壬辰倭乱〕
  文禄元年(1592)元脩は秀家に随い嫡子の元起と共に出陣。その時元脩は52歳、元起が19歳になっていた。

〔関ヶ原合戦〕
 慶長5年9月15日(1600)秀家は西軍の総大将、西軍は敗戦により元脩は翌月10月に一族郎党25名で直島に逃れる。

 〔讃岐に移住〕
 慶長7年10月 讃岐高松城主・生駒一正を頼り香西堀之内に遁世する。時に元脩60歳、元起29歳になっていた、落城時元脩は26歳であったが34年間お家再興のために生涯を尽くした。

 〔詫間村の開発〕
 丸亀藩生駒氏より詫間村の新田と塩田開発を命じられ元起の次男・傅内を香西に残し長男甚右衛門尉元明は干拓工事にて60町歩の新田と30町歩畑の潅漑工事、7町歩の塩田開発を行い半農半漁の寂れた郷の繁栄の礎を成す。後に45町歩の松田塩田を開発・地域の基幹産業と成り、大庄屋・塩田王・近代では代議士・県会議長・村長・町長・三越百貨店社長など各産業で尽力す。一方香西の傅内の子孫は高松市鶴市の松田孫三郎で五か村の大庄屋になり、文化5年(1808)伊能忠敬の測量の案内を務めた。
現在「海岸測量日記」活躍ぶりを克明に記されている。

 〔詫間・高松・冨山氏〕
 讃岐詫間冨山家の系図に依ると、遠祖は藤原氏で紀州湯浅姓である。備前に来て矢坂山山頂の小字・冨山・の地名を名字にしたようである。備前松田氏が冨山氏の城を奪い松田氏本拠の城と成り、冨山氏と主従関係で治世す。落城後・冨山六兵衛重信は松田氏と同様に讃岐高松城主・生駒一正公を頼り高松に来讃。その後重信は生駒氏より詫間村に知行(高65石)を与えられ、また高谷山を馬の牧草地にする事を許された。生駒氏より再三にわたる仕官の勧めを断り、松田氏と共に詫間村の開発を行う。詫間に移往時重信は弟の六良右衛門と甚三郎の二人を高松に残した。詫間に住した冨山氏は産土神の浪打八幡宮に元禄三年(1690)冨山市郎右衛門と冨山多左衛門は末社九宇を寄進。享保八年(1723)に御輿三躰造営時に五ヶ村の庄屋として、また天明二年(1782)に御殿上葦、拝殿等再建時に作事奉行をしていた。宝永三年(1706)冨山安兵衛が津島神社を建立。(古今讃岐名勝図絵参照)寛延三年(1750)西讃百姓一揆時に冨山安兵衛(襲名)は多度津藩の代官であった(多度津町誌参照)幕末には医師・冨山謙益(号・凌雪)は勤王家としで著名な琴平の日柳燕石と親交かあり和歌連歌を嗜む。(詫間町誌参照)等々地域の産業文化に貢献現在に至る。
 囚みに讃岐初代冨山六兵衛重信の娘は詫間住初代松田甚右衛門尉元明に嫁いでいる。
 一方、高松に残した重信の弟、冨山六良右衛門と冨山甚三郎の子孫冨山家(法華宗)は、高松城下で豪商「三倉屋」と分家の「西三倉屋」を営み讃岐随一の豪商と称される隆盛ぶりである。
 三倉屋は明治末期まで11代続く豪商で、宝暦11年(1761)5代目市太夫宗有は与謝蕪村を招き、蕪村は琴平を経て三倉屋に逗留した。当主宗有の厚遇を受けた蕪村は、5年後明和3年の秋、再び三倉屋を訪れ翌春までとどまり、更に三たび讃岐路に足跡を印している。

 三倉屋のもてなしと、この国の風土が、蕪村には余程、心にしみたのであろう。そして八代から十代、天保ごろから明治にかけて、うたわれた俗謡がある。
「松が見えます高松さんが  あれば御城の三倉屋か
  あの三倉屋に過ぎたる物が  三つあるのを御存知か
   一に茶杓に、二にかかあ   三に灯龍は大名なみだ」
 と流行り唄が盛んであった。「かかあ」とは三倉屋の内儀が京都公卿の娘であったので¨過ぎたるもの¨ の一つにうたわれた次第。そして毎年秋になると、備前の所有田地から莫大な年貢米が海渡って運ばれて来ていた。(不自然な面もある)だから農村などで、土木工事や寺社の造営などが行われるときには、三倉屋に頼めば、二つ返事で費用の大半は負担してくれたので、地方の人たちからも、「三倉屋のお大尽」と尊敬されていた。
 その三倉屋も11代克堂の時代になると、悪い番頭が酒色におぼれて、主家の財産をつまみ食いもあり次第に落ち目になった。明治40年ごろには讃岐随一の財閥も、ついに、高松城下繁華街の五千坪を越えた大邸宅を人手に渡す羽目になり、その屋敷あとは、大正から昭和初期にかけて、南新町の空き地という地名のみを残し、大相撲の地方巡業やサーカス、見せ物小屋の興業場所に使われるようになった。
                      (著者・荒井とみ三●高松今昔記を参考)
 〔金川屋佐平太〕
 讃岐琴平・表参道「一の橋」のたもとに、造り酒屋を営む、豪商「金川屋」があった。
菅佐平太は、菅暮牛のことで、菅家は代々俳人を輩出している。この家は備前金川の出身の菅氏である。金川に菅神社(すげ)があり古い時代に松田氏の城が有り同族と推測される。菅家の菩提寺は丸亀妙法寺である。妙法寺は落城後来讃した松田氏と冨山氏の菩提寺であった。寛文6年(1666)日蓮宗不受不施派の法難で妙法寺は天台宗に改宗している。しかし改宗しても内実は不受不施の信者が出入りしていた。私家に幕末に寺子屋を開いた金川屋佐平太(松田竹二郎)の短冊がの残され俳号は「水寿海」で俳諧でも菅家と交流が親密であったようである。

〔与謝蕪村〕
前述の三倉屋と金川屋に俳諧で著名な与謝蕪村が関わっている。現在蕪村寺と称される、丸亀市の妙法寺に蕪村の描いた「蘇鉄の図」が国の重要文化財に指定されている。
蕪村は高松(三倉屋)~丸亀(妙法寺)~琴平(金川屋)を往来逗留しているが、宗門改めての厳しい折から、蕪村を通じ信仰の交わりと結束を垣間見ることができる。

[吉備津神社本殿造営と松田氏]
 2009年玉松城命名五百年記念公演で岡山市出身の東京大学資料編纂所所長・榎原雅治教授のお話しがありました。岡山県に国宝建造物が吉備津神社と閑谷学校の二つありますが、榎原教授のお話しに依りますと、吉備津神社本殿に松田氏が造営者であることを記す、棟札が発見されました。松田氏は足利幕府直属の武士団「奉公衆」でありました。
応仁の乱以降は足利将軍権力は弱体化し、松田氏は将軍から細川氏との関係が次第に強くなりました。松田氏の名前に・元・がつくのは、細川勝元の一字を賜ったものです。
                                 (他、資料参照)

 [八千草薫さんは備前松田氏末裔]
 女優の八千草薫さんは、映画監督の谷口千吉氏と結婚し谷口瞳さんですが、旧姓は松田瞳さんで詫間松田氏であります。
 この事実を私達は全く知らず、昨年3月に福岡市在住の松田公男氏(玉松会会員)より私に東京から二人お宅にお邪魔したい旨の電話がありました。その後お手紙で女優の八千草薫さんと俳優の松田隆男さんと判り驚きました。八千草さんの慈父は27歳で亡くなり、当時八千草さんはわずか二歳でありました。
丸亀市の妙法寺に慈父が葬られていることを知り初めて、妙法寺(松田氏の菩提寺)にお参りされました。次の日4月17日に私宅に来られ和やかな歓談のあと御先祖が眠る基地にお参りしました。
 八千草さんの家祖は繁栄を極めた松田家で、娘も嫁に出さず、分家する為、詫間・冨山家より養子・元祐・を迎え分家分産しました。初代元祐は天明元年(1781)に没している古屋であります。この分家は落城後の松田家・冨山家・両家の親交の深さを物語る象徴であります。
 本日この矢坂山麓の会場で松田氏・冨山氏両者の血脈を祖とする、八千草さんのお話しを御披露目できること何かの、ご縁ではと嬉しく思います。

以上

矢坂山花便8 ツツジ満開

2013年4月16日

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P1070661-2再び春の陽気が戻り、ミツバツツジの残っていた蕾が一斉に開きました。遅咲きの山桜も彩っています。
鯉ヶ池の与太郎桜は赤茶けた若葉に覆われていた。鯉恋桜は既に緑のはとなっている。池にはツツジのピンクが水面に写っていました。展望すると山の各所に桜の雲が顔を出しています。
 野山尾根のツツジ広場もピンクで覆われていました。
大安寺・太然寺に降りる道の十字裂石までに道の奥に群生地が広がっていました。
野山鉄塔や三角分岐点付近には、種が落ち広がっている苗に花をつけ始めています。
 三の丸跡には葉が緑のミヤマザクラ(白桜)がまだ花をつけていていました。遅咲きの山桜も満開を向えていました。
 本丸の奥はアズキナシの緑とツツジのピンクのコントラストが艶やかです。
 南出丸跡から鯉ヶ池に降りる階段付近も満開でした。
兵庫県の広田神社の境内にはコバノミツバツツジの群落があり、総数2万株に及ぶ。このツツジ群落は兵庫県指定天然記念物であるそうですが矢坂山の方が多いのではないでしょうか。

矢坂山花便7

2013年4月9日

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P1070433矢坂本町の登道の染井吉野は葉桜となってしまいました。
鯉ヶ池の与太郎(基家)桜は満開となっていました。展望台からは、白い雲のように浮かんでいました。山桜は山腹に葉桜、咲き始めてた木多く見られるようになってきました。
山道のツツジは満開状態ですが、群生地のスッポトは、蕾が多く今1歩です。一部散り始めたのもありました。
山頂付近は散行く桜とこれから咲く桜が混在していました。
ウグイスの声がコダマし、桜の枝に群がり、枝渡りしていました。

譲と八重4 方谷の蓄財

2013年4月8日

中銀新島譲すなわち七五三太が誕生した所で、山田方谷の高梁藩10万両蓄財に話を逸らす。
おかやま財界 2013.3.5「山田方谷の藩政改革“10万両蓄財”の根拠は?」 郷土史研究家赤井 克己さんが興味あることを掲載している。
 方谷の改革により松山藩は財政的にゆとりが出来たことは事実。文久2(1862)年米籍の中古洋式帆船を7150両(18000両説もある)で即金購入していることでもその潤沢ぶりが裏づけられる。だがこれだけで「10万両が蓄財され藩庫に千両箱が山積みされた」証拠にはならない。「蓄財10万両」が一人歩きしているのではないかの疑問がある。
 岡山近世史に詳しい山陽学園大太田健一特任教授によると、“借財10万両8年で返済、蓄財10万両”が初めて活字化されたのは明治44(1911)年刊行の『岡山県名鑑』(杉謙二郎編纂発行)という。山田方谷の項にこの記述があるが、明確な出典根拠はなく聞き書きと推定している。
方谷研究第一人者とされ多数の著作がある岡山市在住の朝森要氏(方谷研究会会長、元関西大学非常勤講師)は「備中松山藩は幕末に朝敵となり多くの資料を焼却した。このため方谷の資料もとぼしく”10万両蓄財”の根拠はあいまいであることは確か」という。 しかし次の2つの事由からある程度の蓄財があったのではないかと推定する。
 第一は三島中洲がまとめた『方谷先生年譜 完』 (編集兼発行者山田準、高梁方谷会刊行)。明治38(1905)年初版、その後版を重ねている同書に方谷が元締役を辞任した安政4年の項に「蓄財10万両のくだりがある」と教えられた。岡山県立図書館所蔵の和綴じの同書にその記述はあったが、「蓄財の記述が正確かどうかを確認する術はない」 (朝森氏)という。
 朝森氏はもうひとつの根拠として方谷の漢詩を挙げる。松山藩は元治元(1864)年の第一次長州征討に従軍、方谷は[十万の貯金 一朝にして尽く]と蓄財を費消してしまったことを詠んでおり 「10万両蓄財があったかどうかは別としても、かなりのカネがこの遠征で消滅した]と推測する。
 『入門 山田方谷』も長州征討のほか幕府から命じられた沿岸警備の海防費、安政2(1855)年に焼失した江戸藩邸の復旧費などにも多額のカネが使われたと見ている。
「10万両は今日の価格でいくらに換算するのか」。太田教授は方谷研究に不可欠のこの根源的な問題も解明されていないと指摘する。確かに10万両の時価換算は研究者によりまちまち。方谷子孫を名乗る研究者は「600億円相当」とし、この巨額の借財を短期間に完済、さらに同額の蓄財をしたことは驚異的、江戸時代半ばの米沢藩主上杉鷹山の改革を上回ると言い切る(『山田方谷に学ぶ財政改革』)。
 上記が概要であるが、1871(明治4)年6月27日、新貨条例が公布された。それまでの、『両』が『円』に名称変更となった。デノミネーションである。1両が1円である。通貨単位として、『両』と『円』は連続している。
 また、中国銀行高梁支店百二十周年記念によると、
第八十六国立銀行は明治十一年12月9日「政府が認めた民間銀行」として、備中松山藩主で老中首座を務めた板倉勝静や同藩出身で司法官、漢学者として活躍した三島中州らが発起人となり創業した。初代頭取は同勘定奉行だった堀周平。によって高梁市に設立した。その後、第一合同銀国との合併などを経て、昭和5年、中国銀行創立に伴い、同銀行高梁支店となった。中国銀行に統合された銀行の中で最も歴史が古い。(山陽新聞)
 その開業検査によると下記の資本となっている。
 金8万円 3,200株之高(但1株ニ付25円 一時入金済)
     内
     金16181円40銭  通貨
     金3440円     起業公債証書 仮証券管理
     金65378円60銭  金録公債証書79730円 但100円ニ付82円 
  『岡山県史 第10巻』には,明治11年11月に国立銀行創立願が出され,翌12年5月高梁市に資本金8万円をもって設立されたとある。金禄公債証書を株式として銀行に吸収することで,旧高梁藩士族の保護・救済に役立てようとしていた。株主の中に,200名近い士族の名を見ることができ,設立の中心的役割を担ったのは旧領主板倉家と若干の側近士族および高梁の大商人であった。 『中国銀行五十年史』によると,第86国立銀行設立の中心的な役割を果たしたのは,三島毅であるとしている。そのほか,初期の経営などについて詳細に掲載されている。
 経済学者ではないが、高梁藩の蓄財は第86国立銀行に継承されたと見るべきではなかろうか。

木村のマーチャンさん
新島襄は、1864年6月に函館より密航で脱国していますが、快風丸で函館に行ったとすると、方谷はそれ以前に船を購入しているわけですね。
松山藩と軍艦操練所との接点はあったのでしょうか?

2 野崎のさん
 2013年04月08日 20時16分
蓄財10万両、本当に今日の貨幣価値になおすといくらでしょうね。方谷の時代が中国の白髪三千丈の頃とは違いますので、それだけの蓄財が本当にあったと思われますね。借財も10万両、これだけどこから何のために何年間で借りたのでしょう。長州征伐には多くの藩が出兵したと思います。どこの藩もこんなにつかったのでしょうか。

3 あきちゃんさん
 2013年04月09日 07時12分
木村のマーチャン
 次回書きますが、譲が成長するころ、方谷は老中板倉勝静の元で藩の財政改革に取り組み成功します。その時高梁藩の物産を運ぶため快風丸を購入します。
方谷は佐久間象山、勝海舟、八重の兄とも親交があり、幕府の軍艦操練所で快風丸の操船術を学び、また譲も学びました。

野崎のさん
 10万両は現在の貨幣価値で600億年ともいわれます。中国の白髪三千丈の頃については教えてください。
借財については各藩あったようですが、高梁藩は5万石に対して2万石しか米の実収穫はなく、また勝静の老中のバックアップのため金を要し、大阪商人から借財していました。
長州征伐は幕府は前尾張藩主徳川慶勝を総督、越前藩主松平茂昭を副総督、薩摩藩士西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ36藩15万の兵を集結させて長州へ進軍させる。となっていますがどの程度出費したか不明です。この時高梁では藩士が出兵し、方谷は農民の明農隊を組織し留守を守ります。

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2013年4月5日

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P1070344鯉ヶ池の鯉(直盛)桜が鮮やかな葉桜となっていました。表現できない彩です。
与太郎(基家)桜もやっと花芽が確認できるようになってきました。
池では1mを超える鯉が4匹ほど確認できました。子供を産んで稚魚が群がっていますがグレーで見にくいです。金魚のような小さな錦鯉があちこち泳いでいました。
山頂では矢坂山東町の10人ほど山登りを楽しんいました。4/3の雛祭りの翌日が恒例となっているようです。北長瀬では舟遊山と云い登ったあと川船に乗せてもらっていました。
二の丸奥の山桜は満開となっていました。新芽は緑で花も山桜としては大きいのが特徴です。
すべり山のツツジは満開となっていました。
魚見山に回るとコウノ岩西側に張り出している岩の下にはツツジが絨毯状にピンクの園となっていました。
連れ連れの山道は、2~3割のツツジが、開いていて林間にも多く界間見えます。
野山のツツジ広場はまだ大部分蕾も見れませんでした。
 

矢坂山ハイキング植樹会

2013年4月3日

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P1070242 3月31日朝方曇り昼より快晴となりました。御南中学校学区小中学校(今、白石、芳田、大野)同窓生12人が北長瀬駅南口に9時30分に集まりました。市民病院の杭打ち工事が本格化していました。駅前で各自好みの弁当など買いました。
西バイパスを通り、矢坂本町の3本杉祖師堂より山の中腹にある鯉ヶ池下の駐車場に付きました。
8分咲の染井吉野を見ながら、程なく歩いた富山城水の手井戸を見て、少し野山尾根の入り口の吉備路がよく眺望できる所に早速マッチャンが持ってきたイロハモミジを植樹しました。春には染井吉野、山桜が咲き、秋には紅葉が楽しめるようなるでしょう。
鯉ヶ池の入り口にはスミレが可愛く咲いていました。鯉(直盛)桜は、昨日の満開を過ぎ花吹雪となり湖面に花弁が漂っていました。ここにもモミジを植樹しました。湖面に紅葉が映えるのが楽しみです。
富山城跡への山道脇にはツツジが群生していて鮮やかなピンクに開いているのもありました。
山頂(130m)の二の丸跡に仮植えしてあったイロハモミジにガボチャン夫妻が土を被せ、水をやり記念立札と国旗のもとに記念写真を撮りました。昨年ロアンゼルス近郊のセレトス市を訪問させていただき、ロスアンゼル市街地、ラスベガス、グランドキャニオンなど案内、更に矢坂山を語る会に寄付をいただきました。今回夫人の和歌山での同窓会に合わせて来日し、桜はとても咲くには早すぎると心配していましたが、真っ盛りの時期となりました。
背景は岡山市街地駅付近です。すべり山からも紅葉が見える位置です。
市街地を眺望しながら昼食を食べた後、本丸跡を周って来ました。
すべり山ではツツジの大株が8分咲となっていました。
 魚見山では、市街地を間近に眺望し、コウノ岩の傍にモミジを植え、大安寺駅など裾野から見える位置に植えました。ただ、岩盤の上のため定着するか心配です。
この後、ガボチャンゆかりの法事古墳に寄りました。魚見山と大野山の谷間にあり、大安寺駅への道を少し東にはいったところにあります。奥法事の字名の所にあり、今の大安寺東町に上法事、大安寺南町に下法事の字名が見られます。矢坂山で唯一円墳形式を残した古墳です。
野山見晴台、野山尾根のツツジ広場、鯉ヶ池の桜を眼下に眺め降りて来ました。鯉が、餌に群がって来ました。
 9万歩いて15時過ぎでした。