七五三太は五歳のときの十一月十五目に、袴着初祝をしてもらい、その1ヵ月後の十二月十四日に弟双六が生まれた。
七五三太が五歳のとき、母とみが夢を見た。
七五三太が不忍池に落ち、ほとんど死んでしまったかのようになっているのを抱き上
げ、水天宮のお守りで撫でたら息を吹き返した。
以来、母とみは七五三太に「けっして海に入らないでおくれ」と頼んだので、七五三太は生涯金槌だったという。
父民治は安中藩江戸屋敷で藩主の右筆を務め、家では、藩の子女の手習師匠(寺子屋のこと)をしていた。書は大橋流だった。
七五三太(譲)が函館より密航するのは20歳の時である。
方谷はこの間高梁藩の藩政改革に取り組むこととなる。世継ぎのいない藩主勝職の元に養子として陸奥白河藩主(伊勢桑名藩主)・松平定永(松平定信の嫡男)の八男勝静がやって来ることとなり、方谷は勝職から直々に養子勝静の教育係を任命される。
嘉永2年 1849年方谷 45歳の時 藩主板倉勝職が引退し勝静が藩主となり、元藩主 板倉勝職没し、勝静に元締め役兼吟味役を命じられる。46歳 この年から藩政改革を断行する。
財政状況を調査すると公称五万石の松山藩の実高は二万石に足りないこと、そして藩の借金が10万両に登ることが判明。
帰国した勝静が藩政改革の大号令を出す。大阪に出向いて銀主と交渉し、藩の借金の返済期間をのばしてもらう。1851年板倉勝静、江戸幕府の奏者番に命じられる。
1852年 郡奉行の職もかねる。江戸産物方を設置する。買い上げていた旧藩札を高梁川河川敷にて焼き捨てる。
1853年 干害のため藩の貯倉をあけて米を緊急無料配布し餓死者を防ぐ。
ペリー浦賀に来航した安政元年 1854年 藩の総理大臣(参政)に就任、元締役と兼務するが、 1857年に53歳 元締役をやめている。
方谷マニアックによると、この年、安中藩主・板倉勝明が死亡し、安中藩の教育政策が大いに後退したことがあった、このとき新島は藩に意見し、藩の祐筆補助を命じられた。その後も藩の教師・尾崎直記、添川廉斎らから漢学を学び、漢学(朱子学・儒教)を中心とする江戸当時の学問の習得に努めていた。そんな最中、敬愛する添川廉斎が1858年に死去、悲嘆に暮れていた新島の新しい漢学の先生となったのが親戚藩・備中松山藩の藩儒「川田甕江」だった。
川田甕江は備中の国玉島の港問屋の次男として生まれた、幼少より学問に励み、1857年には江戸で近江大溝藩の「百石取りの藩儒」として使えることが内定していた。将来を約束されていた身であるはずの川田をイバラの道(備中松山藩)に引き込んだ張本人が山田方谷である。
川田甕江という人材がどうしても欲しい方谷は、学生時代、川田と交流があり同郷倉敷出身の三島中洲をヘッドハンターとして江戸に送り込んだ。三島は川田の説得に際し、江戸松山藩邸の藩儒として50石取りで使えてくれ(なんと、大溝藩の半額!)という条件で川田を口説いた。さらに驚くべきは、このとき川田は方谷のもとで働けることを嬉々と喜び松山藩入りを快諾したという。
そんなことで江戸松山藩の藩儒として在籍していた川田は、親戚藩・安中藩の藩儒不在の穴を埋めるため、江戸安中藩の臨時講師として新島襄らに漢学を教えることとなった。川田との出会いはその後の新島の人生を決定づけた出会いといえる。
この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていたのではないだろうか。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入した。
船 名 快風丸 原名 ゴーウルノルワラス 船形 スクーナー 船質 木 馬力 帆船 幅7.2 長32.4
屯数180 製造国 米国
1 野崎のさん
[削除] 2013年04月19日 20時29分
川田甕江が方谷とも襄ともに関わりもち、方谷と襄がむすびついてまいりましたね。
川田甕江全く知りませんでした。ネット検索をして驚きました。歌人の川田順が彼の三男で歌手の佐良直美が玄孫なんですね。木戸孝允等にまつわるエピソードもおもしろいです。
快風丸の母港は玉島だったのでしょうか。この船の運命もおもしろいです。
2 あきちゃんさん
[削除] 2013年04月20日 06時40分
野崎のさん
川田甕江の廻船問屋だったとは話が面白くなりそうですね。
圓通寺の近くの玉島市民交流センター内に玉島歴史民俗海洋資料室あるそうで近く行って見ようと思っています。
快風丸は3年程度運行した後、岡山藩に没収されました。
3 木村のマーチャンさん
[削除] 2013年04月27日 12時16分
七五三太は、快風丸を購入して、2年後に密出国をしているのですね。
結果的にみて、七五三太が川田甕江に巡り会えたことは、本当に幸運であったと思います。
山田方谷は、川田甕江の能力を的確に見抜く目もあったのですね。
4 あきちゃんさん
[削除] 2013年04月28日 08時18分
木村のマーチャン
人の巡り合いは面白いですね。特に幕末から夜明けの時代はチャンスが多かだようですね。
川田甕江の生い立ちが廻船業の生家に着目し、方谷が高梁藩の物産を江戸、函館まで販路を直接取引で財を得ようとしたは明らかです。