10月 2012 のアーカイブ

ザイオン、ブライスキャニオン

2012年10月25日

ヒルトンを7時に離れ、ラスベガスのビル群を抜け、住宅地が続き、やがて時たま冗談のサボテンを見ながら15号線を走り、ラスベガスのあるネバダ州からアリゾナ州に一時入り、ユタ州に入ると赤い積層した山肌が見え、渓谷に入って行きました。まずザイオン国立公園のビジターセンターに寄り、「ザイオン(聖なる山)の足元は地層で言うチョコレート層。 大陸隆起活動の時代から川が削り出した典型的な渓谷。土の色を見ると岩層の違いがはっきりと解る。 足元がチョコレート層、その上ちょっと赤くなったところがバーミリオン層(約2億年前の層、火山活動が地球全般で盛んだった頃)その上の白の層は約1億年前に出来た乾燥した数百メートル層の砂漠地帯の砂浜が固まって出来た層。ザイオンの段差は落差600m~1200m、コロラド川の支流ノースフォークバージン川による侵食によって出来たもの。奥に行けば行くほど幅が狭くなりナローズと呼ばれるところの最も狭いところで2m程にもなる。」の豆知識を得ました。切り出された石で造られた赤い家が所々見えました。溪谷の中腹を走り、浸食が続く山肌、奇怪に抉られた山、巨大なアーチが形成されている山、赤白と層をなしているのが美しい山、亀裂に生えた樹木の緑も美しく、見入っていると突然トンネルに入りました。所々空気穴から見える景色が一瞬の内に過ぎてゆきます。そこを抜けると、白い山肌に縦横のクラックの入った山が続きました。昔砂浜の砂丘が隆起して雨の浸食を受けて形成さているとのことでした。

2時間ほど走りブライスキャニオン国立公園のビジターセンターに着きました。ザイオンと違って上から見下ろす景観は地球の創生以来作り出した自然の芸術作品に圧倒されました。3000mに隆起した鉄を含む石灰岩の山が、長年の降水の凍結、膨張のの繰り返しにより浸食がすすみ1本づつ違った型の赤い柱となり林立する景観となっています。Sunrise Point,Sunset Point,Insupiraition Point,Bryce Pointから見れる独特の景観は言葉で表せません。下に降りて歩いている人が居て羨ましかったですが、上がってくる元気がありませんでした。

夜はページに泊まり付近のメキシコ料理を食べました。マルガリ-タと呼ばれるカクテルはテキーラがベースに関わらずアルコールの味はあまりせずフル-ツジュースを飲んでいるようでした。テキーラはサボテンの蒸留酒でアルコール65度もあります。飲むと甘いとろ味のある口当たりの良いですが、さすがに酔いは早く来ました。ビールはレモンを添えて飲むのがメキシコ流だそうです。またここでも食べきれないほどのご馳走でした。 メキシコ料理の名前がさっぱりわかりせんので書きようがありません。

 

セレトス公園、ゴーストタウン、ラスベガス

2012年10月17日

朝の散歩

7時より近所のセアリトス公園を散歩しました。運動公園と広大な芝生、池のある岡山の総合グラウンドの広さでしょうか。芝生の青さが目立ち、園内にはバーベキュー設備もありました。池の周りにはアヒル、鴨が多く見られました。池の水の殺菌用でしょうか青い光を放つ噴水がありました。

ロスアンゼルスはほとんど降水がなく水はコロラド川に頼り、近所のサン・ガブリエル川も中央部の溝を流れるのみでした。それでも毎日スプリンクラーで散水を絶やさないようです。ガボチャンによると庭先の芝生の刈りこみがしてないと市からクレームがつくそうです。日本の個人には干渉しないのとは大違いです。

又 団地ごとに塀が廻らされている所が多く、所によっては団地によっては鍵があるそうです。ヨーロッパの城郭都市のようです。

いつの間に掃除しているのか、街、公園にゴミ一つ落ちていませんでした。

 

ラスベガスへ ゴーストタウン

散歩、朝食後9時にラスベガスに出発しました。車は7人乗っても楽々の幅広のワゴン車でした。最も中央の2人席でしたが。高速の15号線で北に向かいました。高速道が張り巡らされた市街地は、トヨタ、ホンダ、日産、米国車各種、韓国車と特にトヨタのレクサス高級車が目立ちました。ハイブリドのプリウスは少ないようでした。市街地を過ぎる周り中、砂漠地となりまいた。砂漠でも背の低い草が植樹したようにポツポツと生えていました。所々「冗談」と云うサボテンの一種でしょうか珍しい木が生えていました。トラクは日本の倍位の大きさでドンドン走って行きます。幹線道路だけに交通量はかなり多く、運転はガボチャン、マッチャン、その奥さんでしたが、大変気を使い疲れられたことと思います。

遠くに湖のように見える白い平原があちこちに見えました。乾燥により塩が浮き上がったのでしょうか。水が少ないところで塩類集積が起こっているようでアメリカ農業の先行きを暗くしている。

時たま並走して走る貨物列車は長いので5km、300両編成もあるとかで、前索引機3両、後ろ索引機1両のジーゼル車で、コンテナーは日本の倍の長さの2段重ねで延々と続く様は壮観でした。

2時間ほど走ったラスベガスの途中でカリコ ゴースト タウンに寄りました。1881年に銀山が見つかり、一攫千金の人が集まり、1800人にも膨れ上がり、88百万ドルの銀を産出し、1900年には掘りつくされゴーストタウン化しました。今ではテーマパークとして保存されています。当時のままの西部の街並、採掘トンネル、運搬トロッコ列車、採掘機器、選別道具など19世紀にタイムスリップした感で見答しました。眼下にトロッコ列車が走ると所には象の様に鼻を伸ばした岩がありました。西部劇のガンマンの決闘のアトラクションを見物しました。「I,m ded」が落ちでした。

ラスベガス

砂漠の中に現れたラスベガスはドンドン広大に高く拡張されています。ヒルトンのペントハウスに泊めて頂き、バス・トイレは勿論、応接室、キッチン、冷蔵庫、レンジ、乾燥機、そして寝室はダブルベッドが2台の大部屋に1人寝ました。

その前に、夕食と見物に出かけました。まずシーザーズで天井に青空を映写した外瘻を歩き、両側の高級ブランドショプの中を覗きながら奥へ進み、蝋人形によるアトラクションを見物しました。「アトランティス神話、アトランティスの王は、次の王位継承者をどちらの子供にするか迷っている。子供達はお互いに王位を獲得のために戦いそして自分の国を破壊していく。それを見た王は、アトランティスを沈める決断をする。」がストリーのようです。カジノのコ-ナーを通りましたが時間が早かったためか空席が目立ちました。日本のパチンコ屋のような騒音やたばこの煙もなく静かな雰囲気だが、一度引き込まれると抜けられない雰囲気はありました。

続いて隣のベラジオに入りました。こでも高級プランドショップが並び、さらに有名作家による装飾が艶やかに飾ってありました。特にハーロウインが近いこともあり巨大カボチャと花をレイアウトに使った展示に引き込まれました。目を堪能した後は、バイキングの夕食をたらふく食べました。事前ガボチャン夫妻が人気度を含めて調べて頂いていたようで長蛇の列に並びましたが比較的早く入れ、ビールに始まり、大きな蟹、ロ-ストビーフ、ムール貝、寿司、デザートとあらゆる物をチョイスしては食べました。満腹となり外へ出ると噴水ショーが繰り広げられていました。「息をのむ瞬間の連続。エレガント、美しさ、力と広がり。まさしく、忘れることのできない体験。」「5万平方メートルともいわれる広大な “コモ湖” の横幅いっぱいに整然と配置された 1000機を超えるハイテク噴射装置から芸術的な動きを見せる噴水が BGM に合わせ空高く舞い上がる。

噴水の高さ、水量、力強さ、動き、切り替わりの速さなど、どれをとっても天下一品で、アトラクションとしてのレベルは申し分ない。」がベラジオの人気噴水ショーとのことです。

その前のパリーズに移動しカジノを見物し、この時間となると熱中している人も多くなりました。1/2大のエッフェル塔にエレベーターで昇り、ラスベガス市街の夜景を見るとともに、先の噴水ショーを上から観覧しました。夜が深まるとともに人が押し寄せ、道は人で埋め尽くされていました。

人間のあらゆる欲望を満たす増殖する街がラスベガスの印象でした。

行くも帰るも天国か地獄

2012年10月14日

ロサンゼルスの南加岡山県人会慰霊碑の裏面に書いてあった明治2年に渡米した高梁藩士に興味があり、山田方谷探訪会の下調べのため高梁を訪れる機会がありこの点について聞きました。

 板倉勝静は、幕末の高梁籓藩主であり幕府老中であった。幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで敗れ、朝敵となり、勝静の警備隊約150名が松山に帰されることとなる。ところが玉島まで逃れたところ、備前籓に捉えられ、その隊長の熊田恰は一人責任を取って袖木本家の西爽邸で切腹することとなる。慶応4年1月22日(1868年)のことである。この時の血飛沫は天井まで達し今でも残っている。それにより部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願が認められ、部下は高梁藩に返され、玉島・高梁は戦火から免れ、玉島の羽黒神社境内、及び高梁の八重籬神社境内に熊田神社として祀られている。

一方板倉勝静は、松平定信の孫(8代将軍徳川吉宗から数えれば玄孫にあたる)に生まれ、幕府(徳川家)を見捨てることは出来なかった。大阪より徳川慶喜と共に江戸に帰った後、日光、宇都宮を流転し、榎本に促されて一先ず函館へ向かう事となる。勝静ら三家の家臣は大江丸に乗り組み大島圭介以下3,000の人数もそれぞれ分乗して蝦夷の地の鷲木沖に到着し上陸した。榎本らは勝静を鷲木に残し五陵郭を本営として蝦夷政府を樹立した。山田方谷らはこの勝静の状況を知り、満州ないし西洋亡命を画策した。西郷熊三郎ら4名が赴き勝静と協議した。洋行の決心した勝静であったが、三島中洲らが用意した2000両をエドワード・7スネル(武器商人)が持ち逃げしてしまった。渡航費がなくなり松山に連れて帰ることとしたが、英国船の定員の関係で依田織衛ら8名は蝦夷地に残り、辻七郎左衛門ら6名が従った。東京に着いても洋行の金を探しているうち、官兵に捕えられ、自訴状を書かされ、謹慎とされた。山田方谷は勿論、門弟の努力により明治8年に高梁に戻ることとなった。

 板倉勝静、山田方谷、藩士が海外まで目を向けていたことはわかるが、高梁藩士が函館で戦った事実はなく、同行した士は少なく、渡米に成功して記録は今の所見つからない。

しかし、児玉先生によると新選組の船に乗せてもらって函館に渡った藩士がいるとのことでした。

ロスアゼルス市街見物

2012年10月12日

朝食をご馳走になり、9時よりロスアンゼルス市内を案内頂きました。南カルホルニア岡山県人会の慰霊碑の裏には、「岡山県より米国への足跡は1869年 明治2年5月 函館戦争に敗れ 老中板倉勝静備中松山藩主警護の藩士ら64名は郷地無く 軍商人に従いオレゴン州オンタリオに入り農園と鉄道に就労した 後年 近親者の呼寄せ 移住 留学等の定住により今日に至る 南加岡山県人会は1904年に創立 同胞の親睦 融和 発展に努め多くの指導者を輩出し 日系社会の礎を築いた功績は多大かつ岡山県人の誇りで有る 茲に先覚者の偉業を称え幾多の苦難を偲び満腔の敬意と感謝をこめ 先亡の各緒霊に謹んで追悼の誠を捧げ創立100周年を記念し慰霊碑を建立する 2004年1月 南加岡山県人会 会長 吉本輝雄」と記してありました。高梁市史にはこの記録は無いが、板倉勝静が藩士とともに函館まで追いやられ、藩主自身が欧米ないし満州に渡ことを画策していたようです。藩主は明治政府に帰順し備中松山に帰り山田方谷に会っています。公式には日本より北米大陸への移住は1884年となっていますのでそれより15年早いことになります。

続いてリトル東京を散策しました。赤い櫓に大社が載っているのが目じるしで、日本料理店が並んでいました。そこから見える高層に州庁舎には日本の国会議事堂そっくりでした。ディスカバリー事故で無くなった鬼塚宇宙飛行士の記念碑があり、離米の前日シャトルが飛行機に乗ってロスアンゼルス空港に着き、科学博物に陸送のため街路樹をきるなど準備していました。

ハリウッドを歩き、チャイニーズ・シアター前の俳優の手形、足形、サインを見て一喜一憂しました。山の上にある「HOLLWOOD」の看板が目える所を含めて人の波でした。

午後は高級住宅街のビバリーヒルズを通り、マリリンモウローが安置されている墓所を訪れ、UCLA(カルフォルニア大学ロサンゼルス校)の医学部棟が林立する町並みを見ました。

サンタモニカの浜辺の桟橋を歩き、その広大で長い砂浜にビックリしました。観光客が大勢で、泳いでいる人で賑っていました。ちなみに温度は32度と日差しは暑いですが湿度が低く乾燥しているため汗を余りかきませんでした。

夕暮れとなりガボチャン宅で自慢のバベキューをご馳走になりました。その肉の大きさにビックリです。厚さ5cm、1.5ポンド(約700g)の牛ステーキ7切れを手際よく焼く姿は胴に入ったものです。ときたま火炎が上がり驚嘆しました。大きさに驚き食べられるか心配しましたが、美味しさに平らげてしまいました。

ロスアンゼルス訪問

2012年10月11日

岡山駅西口に4名12時集合しバスで関西空港に向かい、そこよりANA羽田まで飛び、羽田国際空港よりロスアンゼルスに現地時間午後6時ごろ着きました。途中待ち合わせ時間には、ラウンジでコーヒーなど無料で飲み時間を過ごしました。ごんた寿司で北海道丼を食べ搭乗しました。機内食はまずサンドイッチの軽食を食べ、到着直前にアナゴ丼、うどんの付いた弁当で満足しました。飲物が再々セレクトできました。中でもフランスワインの小ボトルは、白と赤がありどちらを選ぶか悩むところです。共に美味しいですが、赤ワインは飲みすぎると悪酔いすることは同行のM氏と同意見でした。その理由として、それはポリフェノールを含み抗酸化機能などで美容飲料としても女性に愛飲されています。ここで着目したいのは、含まれるタンニンです。少し渋みがあります。柿渋としても使われています。タンパクと結合し、酵素の機能を阻害します。澱粉加水分解酵素すなわち腸などでブドウ糖に分解吸収する酵素も活性を阻害します。そのため悪酔いの原因にもなりますが、糖尿病、肥満の人は糖類の吸収を遅らせる為適度なら良いはずです。

ロスアンゼルス空港までガボチャンが向かえに来て下さり、45分ほど走りセアリトスの豪邸の前には星条旗と日の丸を掲げ歓待していただきました。奥様の手作りの握りずしなど盛りだくさん料理をご馳走になり、酒を飲みながら夜半まで語りました。

ちなみに、セアリトス市は、カリフォルニア州にあり、ロサンゼルス市とオレンジ郡の真ん中にあって、カリフォルニア州の重要な商業・工業の十字路の役割を果たしています。また、ロサンゼルス市の中心部から40分の距離にありますが、豊かな緑に囲まれた大変清潔な公園都市です。
人口は約53,000人で、全米で最も多様な少数民族系市民の集まる都市ですが、異なった民族と文化的背景を持つ市民が仲良く暮らす模範的な都市でもあります。民族の割合は、白人40パーセント、その他の少数民族が60パーセントの構成です。

獅子舞 北向八幡宮秋祭

2012年10月9日

各地で秋祭りが行われています。矢坂山の北側手の矢坂東町に鎮座する北向八幡宮では矢坂茶屋部落先祖伝来の獅子頭による獅子舞が秋の例祭の当日に奉納された後、各戸の悪魔退散を祈願して、町内有志が獅子舞をして回っています。戦時中中断していました。その間、耳は削げ、左顎は外れ、舌も無くなり修理もされないままに放置されていました。昭和55年に江戸中期から末期にかけてのすぐれた作品の獅子頭が高梁市中井町津々上田春山氏(備中神楽面師)に修理して、大切に保存されています。(矢坂茶屋山林組合箱書より)

北向八幡宮は平安時代中期に矢坂山頂に富山城を築城した富山家が代々宮司を務めています。この日も祈願、獅子舞を奉納した後、茶屋町内の90軒を玄関ないし座敷で悪魔退散を祈願して回りました。古くは子供たちが舞っていたそうですが子供が少なくなり維持できなくなり、今では老齢者が頑張って喜ばれています。