9月 2010 のアーカイブ

「矢坂山を語る会」の発起

2010年9月25日

「矢坂山を語る会」の発起
 平成22年8月29日に矢坂本町公会堂に9人集まり、矢坂山について相談しました。その結果、「矢坂山を語る会」をつくり矢坂山の歴史、山へのふれあいの機会について話し合おうと言うことになりました。
 発起人、協賛者、行事案などを募集しています。特に、矢坂山周辺の人が参加していただいて盛り上がるとありがたいです。

「矢坂山を語る会」の発起

平成22829

 

矢坂山(大野山、野殿山、魚見山)は、大野学区、三門学区において古くより愛着をもたれている山です。山裾の町内会、特に矢坂本町、東町が熱心に山の美化活動をしています。さらに、有志の方が草刈、清掃を毎日のようにされています。

 日本城郭全集によると次のように書いてあります。

「矢坂山に城が築かれたのは、崇神天皇の十年(前88)、四道将軍の一人としてこの地方に派遣された吉備津彦命が、この山に陣を置いた時に始まると伝えられています。

 時代が下がって、平安時代中期885年に富山重興氏により矢坂山山頂に富山城が築城され、1342年に松田元喬氏、1568年に宇喜田直家氏により本格的な山城となり、さらにその弟忠家により野殿山城・大野山城・魚見山城も整備され矢坂山全山が巨大な城郭となってゆきました。しかし、1615年に一国一城令により小早川秀明氏により解体されました。」

 信憑性はともかくとして矢坂山が記録(神話)上初めて登場します。当時は吉備の穴海の岩井島であり、後の万葉集にも島として歌われています。ただ地元の言い伝えとして矢坂山頂にある巨大な石を評定岩と呼び、吉備津彦命が「ウラ」を成敗する計画を練った場所とされ、ウラに向かって矢を射たことより矢坂山と命名したと伝えられています。

大野小学校旧校舎が魚見山の麓にあったころは、月遅れの雛祭の43日には魚見山に登り岡山市街の眺望を楽しみながら弁当を食べ、尾根伝いに桜・ツツジを見て富山城跡まで行きました。この催しは、当時「山上がり」と云い各部落をあげての楽しみでした。もう一度、往時の催しを復活し、皆で旧跡を歩きませんか。

 特に、2012年の再来年は上記の記述より2100年目にあたり「矢坂山開城2100年祭」をしてはと考える次第です。

 現状は雑木林となり桜、ツツジの成長を阻害しているばかりでなくそれらの美しさも半減する景観となっています。枯れた松、競合する樹木、竹林を切ることにより美しい山となると共に、炭酸ガス吸収効果も増大し地球温暖化防止にも役立つと考えられます。さらに、切った樹木・竹を炭焼きやシイタケ栽培に利用すると資源の活用にもなります。さらに、桜、モミジ、ツツジの植えを行うことにより楽しい山が再生可能に思われます。

 もちろん山の多くの地権者の理解が重要ですが、地域住民が矢坂山にどのような夢を持ち協力実行するかにかかっています。

とりあえず、矢坂山を歴史を語り、再生するための夢を語る会を発足したいと思いますのでご賛同下さい。

 

完成間近か

2010年9月25日

完成間近か
 今年の初めから着工していた母屋の改築工事は、大工工事がほぼ終わり、漆喰塗りの内装工事をしています。
座敷はそのままの予定でしたが、外に濡れ縁をつけることになり、大きな縁先の靴脱ぎ石を移動しました。

矢坂山の城郭

2010年9月9日

矢坂山の城郭

 日本城郭全集に次のように書いてあります。

 永禄十一年(一五六八)、金川城を攻めた宇喜多直家は富山城をも陥れた。城は炎上し、城主横井土佐守は自害して果て、松田氏はここに滅んだ。

 永禄十二年、直家は富山城を修復して、ここに浮田忠家を居城させた。忠家はこの城を拡張し、野殿山城を西の出丸に、大野城を東の出丸とし、魚見山城には見張所を置いた。現在、残っている城地は忠家の時に築かれた城の縄張りである

 城壁があったどうかは書いてありませんが、もし完成していたら壮大なものだったでしょう。

 大野村誌には次のように書いてあります。

 平賀元義筆記に次の如く述べてある。『宇喜多直家岡山在城後播磨備中を手に入れし上は、御野郡富山城を本城とし、西川を二筋に分け、津島の下より分て今の用水上伊福の前より野殿ヘー筋を流し、一筋は津島川の下座主川へ落し、ザブと言う所より西へ今の矢坂の北の川筋より野殿へ流し、富山別所の山を取り入れて、大城とせん事を立てられしなり。たとい一二年籠城するとも、薪炭の憂なく、水懸りも能く究竟の城地なるべし。然る処、直家病死ありければ、秀家の代にも其の事思いけれども、朝鮮の軍の事につき延引なり、程なく家中の騒動ありて其ままさし置かれける所、関ケ原出来て、宇喜多亡びけるなり。大挙を直家思い立たれし事借しき事なり。此の城を築かん事の評議ありしを宇喜多の軍師穴田伊賀介語る』と

 現在の矢坂山を南から写し城を重ねた