8月 2014 のアーカイブ

備前軍記36

2014年8月31日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第36回「九州出陣」が放送された。

戦国時代、九州は世界へ聞かれた窓であった。そんな南蛮の富で栄え、九州各地に版図を広げたのが、豊後のキリシタン大名・大友宗麟だ。薩摩の島津である。島津は、九州全土を飲み込む勢いで豊前、豊後に迫った。天正14(1586)年4月宗麟は、関白・秀吉にすがった。

秀吉の名代として、官兵衛が中国の毛利勢とともに肥前に入る事にした。

よき友人でもあった蜂須賀小六がこの世を去った。

徳川家の結束はむしろ強まったと見て、44歳の妹の朝日を家康に嫁がせた。それでも家康は上洛しようとはしなかった。

元春は病を得て、隠居を理由に出陣は無理だという。

そんな中、九州への出陣が7月25日と決まった。

実の母も徳川の人質に差し出た。

官兵衛は「天下のために、その命、使っていただきたい」の言葉に、元春は思わず笑いだした。同年10月3日、官兵衛と毛利軍は、ようやく九州へ渡った。

家康が秀吉に拝謁するため、ついに大坂を訪れていた。

島津車と激突。宇留津城を攻め落としたその勢いを見て、敵は続々と寝返り始めた。

11月15日に吉川元春が、とうとう死の床に着いた。「隆景……毛利を頼んだぞ……」と

吉川元春は、眠るように息を引き取った。

このころ起きた事件

10年(1582年) 1月28日 – 天正遣欧少年使節の4人が長崎を出発

3月11日 – 甲州征伐、武田家滅亡

4月3日 – 織田信忠が恵林寺を焼き討ちし、快川紹喜ら死去

4月27日 – 羽柴秀吉、備中高松城付近で清水宗治の兵と交戦(備中高松城の戦い)。

6月2日 – 本能寺の変が起こる

6月13日 – 山崎の戦いが起こる

6月27日 – 清洲会議が行われ、織田秀信を後継者に決定する

9月23日 – 山田重直、羽衣石城を攻略。それと同時に小鴨元清の籠る岩倉城も落城する

10月15日 – 大徳寺で織田信長の葬儀が行われる

 

11年(1583年) 3月29日 – 東大寺の不開門が暴風のため倒壊

4月21日 – 賤ヶ岳の戦いが起こる

5月2日 – 織田信孝が自刃

12年(1584年) 3月24日 – 龍造寺隆信が島原で島津家久などとの戦いの末、敗死(沖田畷の戦い)

4月9日 – 小牧・長久手の戦いが起こる

6月28日 – スペイン船が平戸に初来航

13年(1585年) 3月8日 – 豊臣秀吉が大徳寺で大茶会を開く

7月11日 – 豊臣秀吉、関白となる

11月29日 – 北陸・畿内で大地震(天正地震)、越中国木舟城の崩壊で城主の前田秀継が死去、帰雲山崩壊で帰雲城埋没

14年(1586年) 6月24日 – 木曾川が大洪水

7月27日 – 島津軍が大友氏の岩屋城を攻略し、高橋紹運が自害(岩屋城の戦い)

10月4日 – 毛利輝元が小倉城を攻略

11月7日 – 正親町天皇が譲位し、後陽成天皇が践祚

11月25日 – 後陽成天皇の即位礼が行われる

10年 小早川秀秋、戦国大名(+ 慶長7年)

月日不明 – 水野忠清、江戸初期の大名(+ 正保4年)

11年 – 林羅山、江戸初期の儒学者、道春とも(+ 明暦3年)

月日不明 – 蒲生秀行、戦国期の武将、蒲生氏郷の子(+ 慶長17年)

12年 3月4日 – 脇坂安元、江戸初期の大名(+ 承応2年)

月日不明 – 松平定行、江戸初期の大名、伊予国松山藩初代藩主(+ 寛文8年)

月日不明 – 宮本武蔵、剣豪、兵法者、書画家

13年 – 松平定吉、戦国期の武将(+ 慶長8年)

月日不明 – 福島正之、戦国期の武将、福島正則の養嗣子(+ 慶長13年)

14年 – 本多忠純、下野国榎本藩初代藩主(+ 寛永8年)

– 板倉重宗、江戸初期の譜代大名、京都所司代(+ 明暦2年)

詮家の母(富山城主・津和野城主)

2014年8月24日

虎倉の城主伊賀久隆を直家毒殺する事(新釈備前軍記)
 伊賀左衛門尉久隆は津高郡虎倉(現御津町虎倉)の城主で、無二の宇喜多方の武将であった。
また直家の家臣に難波半次郎というものがあったが、密かに毛利家に通じ、何とか謀計をもって伊賀左衛門尉を殺害し、毛利家への手柄にしようと思っていた。
 天正六年九月のころ、半次郎は、伊賀左衛門尉が毛利家に内通しているように直家に讒言した。直家はこれを讒言とも思わず、何の調査もせず、伊賀を殺害しようと企てた。左衛門尉は、兼ねて岡山城下にも屋敷を拵え、父子交代で虎倉の城を守り、また岡山にも詰めていた。
 左衛門尉が岡山に居たとき、直家は左衛門尉を饗応するといって、左衛門尉の家来まで呼んで料理を振舞ったが、このとき左衛門尉の料理に毒が入れられていた。
 さて城を下った後、直家の料理人で、伊賀の家来に所縁のある者があって、「今日の料理には毒が入っております。急いで解毒の薬を服用されて下さりませ」と密かに告げた。
 これを聞いた左衛門尉は、
 「いま解毒剤を用いて難を免れたとて、とても生かしてはおくまい。同じ死ぬる命ならば、城に楯て籠り討ち死にするこそ本望である」
とて、急いで岡山を発し、馬を急がせて虎倉の城に戻り、子の刻(午前零時ごろ)に城に入ると、家来を集めて籠城の手配りをし、門という門をすべて差し固め、岡山の討手を待ちうけた。
 左衛門尉の嫡子与二郎は、急いで解毒剤を調えて父に進めたが、最早延引し手遅れになっていたためか、暁方になって左衛門尉はついに死んだ。
 左衛門尉が岡山を退去したと聞いた直家は、浮田源五兵衛を虎倉に遣わし、仔細を問わせるとにした。源五兵衛は足軽五十人を召し連れ虎倉に到着したが、その時にはすでに城門を差し固め、用心厳しくみえたので、源五兵衛は足軽どもを伏せ置き、わざと一人で城の木戸に近づき、直家の使者である旨を伝えた。しかし答える者はいなかったので、仕方なく岡山に帰り、伊賀籠城の旨を復命した。しかし直家は虎倉の城を攻めることもせず、そのまま暫く打ち過ぎた。
 伊賀与二郎は城に籠ると共に、毛利家へ使者を立て、左衛門尉が直家に毒殺されたことを伝え、以後は毛利家に味方することを約束し、宇喜多追討の軍を出される時は、自分か先手を仕り、父の仇を報ぜんことを申し入れた。
 与二郎はその後暫く在城したが、舅の明石飛騨が内密に、このまま在城しては身の安全は保てまいと退城を勧めたので、正月下旬虎倉の城を落ちのび、毛利の軍が備中に進出したのを機に一緒に毛利側に退いた。直家はその城を長船越中に守らせた。しかし当時越中は播州駒山の城にあったので、その城には越中の弟源五郎、越中の妹聟の石原新太郎や有年・大田原らを入れて守らせた。
  注 一説によると、直家が、伊賀左衛門尉の家来川原四郎左衛門という者を誘って左衛門尉を毒殺させたとも、また直家が川原と謀って殺させたともいう。
 毛利家資料
備中の陣地に残った隆景には、3月の辛川口の敗戦と、それにつづく4月の虎倉合戦の加茂崩れ。思い出しても反吐の出そうな屈辱の敗戦である。
 隆景は思案の末、一計を案じた。伊賀久隆謀叛の噂を広めて、直家の手で抹殺させるに如かずと考えた。ひそかに忍びの者を備前へ派遣して、宇喜多家中の様子を探らせた。すると、家中に難波半次郎という家臣がいて、直家の織田氏服属に不満を持ち、密かに誼を毛利氏に通じていた。
 9月、隆景はその半次郎に密書を送った。意を含められた半次郎は、病中の直家にお目通りを願って伊賀久隆の謀叛を告げた。直家は半次郎の進言を戯言として相手にしなかった。だが、病床に入って以来なにごとにつけ疑い深くなっている直家は、すぐさま忍びの者を入れて伊賀家中の内情を探らせれみた。すると、思いがけなくもたらされた情報は黒と出た。「まさか、そんなことが・・・」詮方なく直家は弟の忠家を呼んで相談した。「七郎兵衛よ、この始末どうつける?」「事が露顕に及んだと知れば、相手も用心して守りをかためるでありましょう。窮鼠却って猫を噛むの譬えもあります。
大事にいたらぬ前に・・・」「じゃが、相手は妹梢の婿ぞ。それに久隆の妹深雪はそなたの妻じゃ」
「大事の前の小事、やむを得ませぬ」「・・・・・・」「後悔はないのか?」「ございませぬ」「ならばそなたに委ねる。よきようにはからえ」「はは」忠家は一礼して兄の居室から退出した。
 ※森本繁氏の記述:[備前軍記]によると、このあと忠家は伊賀久隆を岡山城へ呼んで饗応にことよせ、一服盛ったとあるが、毛利側の史料にはこれとは異なった記述がある。以下、毛利側の記述による。
 MI氏ブログ
 末孫が、3回忌後、清水寺(せいすいじ)にお参りした。
この寺は、平清盛が建てたという。

最後の富山城主 浮田左京亮詮家 (津和野城主)

2014年8月23日

今年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」が放映されている。高松城水攻めの頃、浮田左京亮詮家(あきいえ)は16~36歳まで富山城主として活躍した武将であった。

 この詮家は炎上する大阪城夏の陣の時、豊臣秀頼の妻、徳川家康の孫娘千姫を救出したのは津和野城城主坂崎出羽守だ。しかし、千姫が姫路の本多忠刻に嫁ぐのを妨害しようとしたとして殺害された。

詮家は、宇喜多直家の弟、忠家の次男だった。忠家は、備前福岡の豪商阿部禅杖の屋敷に父興家(おきいえ)に匿われていたときその娘との間にできた。その乳母は、常山城主となった戸川秀安の母だった。忠家の妻は虎倉城主伊賀左衛門尉久隆の妹深雪で、直家が沼城に移ったのち忠家に乙子城が任され間もなく詮家は生まれたと思われる。幼少のころ毛利に人質となっていた。

詮家の兄基家は、天正7年(1579年)、宇喜多が織田氏と和睦のとき登場する。そして安国寺恵瓊(えけい)を捉え戸川孫六と共に詮家も人質交換されたのではなかろうか。そして、直家が亡くなる前その命により16歳で詮家を将として作州三星城に大軍を向けた。軍議の策は内紛を起させ落城させた。そして毛利水軍が岡山城を攻めようとしたとき八浜合戦で凶弾に倒れ、弥太郎様として今でも祀れてる。また、宇喜多家7本槍として家臣団は強く結束していた。

 播州上月城戦当たりより直家は病床に伏すことが多くなり忠家が戦場に向かった。直家亡き跡、八郎は10歳で忠家が後見役を務めた。そして、天下分け目の高松城水攻めに宇喜多軍は大いに貢献した。特に忠家は永禄11年(1568年)金川城の松田を滅ぼし富山城主横井土佐を追い出し新たな城を築城した。岡山市野殿(のどの)に「城ノ内」という字(あざな)がある。「吉備温故秘録」の津高郡野殿村の条に、「野殿城、宇喜多左京亮」とあり、野殿の地名はこれによったものらしい。別項に書いた富山城と一連の関係ある遺跡で、富山城を宇喜多氏が支配するようになってから、その南麓の平地に根小屋を構えて城主の平常の居館にあてたといい、また富山城主宇喜多忠家(安心人道)がその子左京亮詮家に城を譲って、自分は今の野殿の地に屋敷を構え、これに隠棲したといい、あるいは富山城が岡山城よりも高い場所にあるので本家の宇喜多秀家がこれを喜ばず、宇喜多左京亮は富山城の建物を南麓の平地に移して住んだ、これが野殿城であるとも伝える。詮家もまたここを地盤にして活躍した。戸川秀安の妹を妻としたのもこのころであろう。天下が秀吉となると忠家・詮家ともに大阪、伏見に屋敷を構えた。大正12年(1584)の冬に忠家は叙爵後まもなく隠退し名を安心と改めた。ただ、忠家が詮家に家督を譲ったのは慶長4年(1599年)説もある。詮家が富山城主となるのに13年の開きがある。

 天正19(1591)年3月、秀吉は朝鮮出兵を企て、秀家を朝鮮派遣軍の総大将に任命した。宇喜多家は、早速新規に50艘の大船を建造し、翌年2月にはこれを旭川の河口に浮かべて乗初を行った。そして同月25日には、宇喜多勢の先手の大将浮田安心(忠家)が主力を率いて渡海した。当時秀家はまだ19歳であったので、この安心が彼の後見役として出陣したのである。そして3月1日、秀家も出船して朝鮮に渡った。文禄2年(1593)12月には1度兵をまとめて帰国したが、慶長2年(1597)3月1日、再び朝鮮出動の命によって渡海し戦闘を展開した。しかし翌3年8月秀吉が薨去したため撤兵することとなり、秀家も帰国した。詮家についても朝鮮の姫と懇ろとなり連れて帰ったと云われている。

秀吉没後の慶長4年(1599年)、当時重臣だった戸川達安・岡利勝らが、秀家の側近の中村次郎兵衛の処分を秀家に迫るも秀家はこれを拒否。中村は前田家に逃れ、戸川らが大坂の屋敷を占拠する、いわゆる宇喜多騒動が発生した。 秀家はこの騒動の首謀者を戸川達安としてその暗殺を図るが、秀家と仲が悪く対立していた宇喜多詮家(坂崎直盛)が達安をかばって大坂玉造の自邸へ立て籠もるに至り、両者は一触即発の事態となる。 宇喜多家の調停は最初、越前敦賀城主の大谷吉継と家康の家臣である榊原康政が請け負ったが、康政は伏見在番の任期が終わっても居残り調停を続け、結果国許での政務が滞ることになった。そのことで家康より叱責をうけ、康政は国許へ帰ることとなる。秀家・戸川らの対立は解消されず、吉継も手を引かざるをえなくなり、結果徳川家康が裁断したため内乱は回避された。戸川らは他家にて預かり・蟄居処分となる。 この騒動で戸川・岡ら直家以来の優秀な家臣団や一門衆の多くが宇喜多家を退去することとなり、宇喜多家の軍事的・政治的衰退につながった。

 家康が上杉景勝を討ったとき、秀家の名代として奥州に赴き、また直ちに関ヶ原合戦において東軍に従って軍功があったので、石見国津和野(現島根県津和野市)の城主に封ぜられ3万石の地を賜い、浮田(宇喜多)姓を改め坂崎出羽守と称した。16年間で行った事業とは、

 一、津和野城の大改築

 一、城下の町の形成と整備                                                                                         

 一、防火用水路の開発と整備

 一、産業開発、特に石見半紙の原料である椿の植え付けなどである。

その後元和元年(1612)大坂落城のとき、大樹院(秀忠の娘で秀頼の正室、後に本多忠則の正室)を城中から奪い取って将軍家に送り届けた。この功により1万石を加増され4万石を領した。しかし、大樹院を奪って将軍家に差し出したとき、この姫君を出羽守に下さると仰せがあったにもかかわらず、姫君は本多中務大輔忠刻のもとに嫁すことになった。これを聞いて出羽守は激怒した。世上には婚礼のとき姫君の御輿を奪い取ろうと企てている、という噂さまで流れた。徳川家は、親友の柳生宗矩を自刃の説得に当たらせ、一方、出羽守の家臣をそそのかし、出羽守を討ってその首級を差し出させたが、出羽守の死は発狂として片付けられ、坂崎家は断絶した。将軍家は、出羽守を討って首級を差し出した家来の不忠をも憎み、これも成敗したという。なお、出羽守の弟を感応院といったが、かれは邑久郡大賀島(現邑久町大賀島)の住職を勤め、寛永末年まで生きていたという。

備前軍記35

2014年8月22日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第33回「傷だらけの魂」は、関白となった秀吉は、「豊臣」の姓に改め、信長の「天下布武」に対し、「天下惣無事」を掲げた。

東の徳川は北条と手を結んで守りを固め、薩摩の島津は九州の覇権をねらっていた。

利休(宗易)の茶室で、官兵衛は、「四国平定に続き、ご苦労なことでございますな。」 

茶をたてながら皮肉を口にしたのは、道糞の名を改めた道薫だ。

前年に四万石に加増されたばかりの官兵衛は、恩賞を自ら断った。

秀吉は、「官兵衛は常に先を読む。油断ならぬ」と。

茶々だけは、道薫に有岡城の話を聞きたいと。道薫が呼ばれ、官兵衛や右近、利休、三成ら側近も同席する中、道薫は、謀反を起こした理由、生き恥をさらしてひとり生きながらえているわけを淡々と語った。「私は乱世が生んだ化け物でございます」「殿下、天下惣無事など絵そらごとにございます。この乱世が終わることなどありませぬ」「ここには化け物しかおらぬ。

激高した秀吉が、太刀を手に立ち上がる。官兵衛殿が、道薫殿を救った。やがて道薫には所払いの沙汰がくだった。

道薫が大坂を出ていく前に、息子の又兵衛と引き合わせた。又兵衛の遊薫を描いた戯画は腹を抱えて笑っているが、その顔はどこか悲しげで、なぜか涙を流していた。岩佐又兵衛、別名、浮世又兵衛と呼ばれる絵師となり、その名を後世に残した。道薫こと荒木村重は翌年、堺でその生涯を閉じた。

官兵衛は洗礼の儀式を受け、洗礼名を「シメオン」と言った。

天正14(1586)年正月、大坂城に黄金の茶室をつくり、天下にあまねく威光を示す秀吉と天下が静まることのみを望む官兵衛とかすかな亀裂に生れてきた。

☆浮田忠家 大西泰正著

 天正12年(1584)の冬、というから茶会とほとんど同時期になろうが、忠家は他の家老衆とともに叙爵されて出羽守の官途を得たと、『備前軍記』は伝えている。他は富川達安(秀安の子)が肥後守、長船貞親は越中守、岡家利は豊前守、明石景親は飛騨守、遅れて天正十六年(1588)には花房正成が志摩守に任ぜられたらしい。なお、家老でもない正成の叙任は、直家が信長に帰順した折、秀吉への使者を務めたのを契機として以来、秀吉の知己を得ていたからという(『備前軍記』)。

 陪臣の叙任は、毛利氏の場合、『お湯殿の上の日記』および『萩藩閥閲録』によると天正16年7月の徳田元清などが初見であり、 『備前軍記』のいう忠家らの任官およびその年代に証跡が出て来れば、豊臣政権下における宇喜多氏厚遇の一端を示す出来事になろう。

 天正15年(1587)4月5日、九州豊後の大友宗滴(宗麟)が大坂城に伺候した。薩摩島津氏の北上に対し救済を求める上坂であった。

 宗滴は、この時の様子を翌4月6目付の書状に事細かに記しているが、大広間における秀吉との対面時、その同席者に秀家および忠家が確認出来る。

(史料)「大友宗滴書状(写)」抜粋

関白様ハ上の九間の主居に角かけて御座、敷居を隔候、其次ニ御舎弟口相殿御座候、美濃守御事、其次羽柴八郎、是ハ宇喜多直家息候、其次細川兵部入道、其次長谷川仮名 □、おくけの親父候、其次宇喜多直家舎弟宇喜多忠家、是も仮名ハ不存口口  」、客居之方ニハ宗滴、其次前田又左衛門、其次安固寺西堂、其次宮内卿法印、其次利休居士

 九関の上段の間に秀吉が首座し、敷居を隔てて豊臣英長・宇喜多秀家・細川幽斎・長谷川秀一・宇喜多忠家が詰め、客座には大友宗滴・前田利家・安固寺恵瓊・松井友閑・千利休が並んだという。

 同日、秀長が「内々々儀者宗易(利休)、公儀之半者宰相(秀長)存侠、御為二悪敷事ハ、不可有之候、弥可申談」と洩らしたことも、宗滴は右の手紙に書き留めている。これが後世、利休の権勢を伝える好材料となったこのだが、注目したいのは忠家の同席である。この時点では、秀家は忠家の介添えをいまだ頼らざるを得なかったと思われる。

 ならば、その存在が甥の秀家に由来し帰結するという事情があったにせよ、忠家を初期豊臣政権における有力者の一人と数えることも無理ではないだろう。

 のちに覇権をうかがう徳川家康は降ったばかりだし、同様に毛利輝元も枢機には遠く、石田三成は軽輩に過ぎなかったことを考えれば、当時の政権運営は、(全くではなかろうが)ここに列席した人々が担っていたともいえるだろう。(続)

備前軍記34

2014年8月17日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第32回「さらば、父よ!」は、秀吉が、織田信雄、そして徳川家康に待ったを掛けられた。天正12.(1584)年3月、秀吉軍は、家康と信雄の連合軍と「小牧・長久手」激突敗れた。
官兵衛は秀吉から播磨宍粟郡四万石を与えられ、山崎城を居城としていた。
秀吉は家康には幾度となく上洛を促したが、梨のつぶてにいかっていた。
徳川軍は、三河衆の結束の強さだ。徳川家は譜代の家臣が多く、かたい絆で結ばれている。吉軍は、まだ秀吉に心から従っていない者たちの寄せ集めだ。勝ち目はないと官兵衛は理路整然と説いた。
長政は官兵衛に言われたとおり、じかに領民の話を聞こうとしたが、父を侮られ、 カッとして太刀に手をかけた。 後日、善助は領民の求めを聞き入れ、道の普請の日限を延ばし、さらに堤がいかに大事であるか説き明か皆得心した。
官兵衛は長政を厳しく諌め、長政は、潔く己の非を認めた。
やがて四国攻めが始まったが、長宗我部元親は秀吉の大軍に降伏、秀吉が出陣するまでもなく、戦いはふた月あまりで終わった。そのさなかの7月11日、秀吉はついに関白となった。
すっかり静かになった播磨では、職隆が眠るように息を引き取った。
☆新釈備中兵乱記加原耕作 編著によると、蜂須賀彦右衛門尉と黒田宮兵衛尉が備中へ分地を請け取りに参られたため、高橋川切りに宍戸隆家と中島元行が確認して渡した事
天正十年十月、上方筋の兵乱が鎮まったので、安国寺が決めていた通り、蜂須賀彦右衛門尉と黒田宮兵衛尉へ備中国高橋川切りに宍戸備前と中島大炊助より引き渡した。清水・中島両家の在城は宇喜多秀家へ遣わされたので、生き残った者たちを連れて住みなれた故郷を立ち退き、備中国川部村(注I)へ暫く在住していた。吉川治部少輔が帰国する時、秀吉卿が備中の仕置を頼みたいといって黒田宮兵衛を差し添えられた。官兵衛は秀吉卿の上意して中島大炊助と清水源三郎へ、 「秀吉卿が両人を召し出され、先知を下されるので上京するように」と申し渡された。中島大炊助と清水源三郎は、「有難い上意ではあるが、数代に渡って毛利家に随い、大変懇意にして貰っており、信長公から味方すれば備中・備後を与えると言われた時にもその上意に随わなかった。今後とも毛利家の元に居たいと思っており、秀吉卿へお許し下さるよう官兵衛殿から宜しくお執り成しをお願いしたい」と申し上げ、上京しなかった。その後、安国寺が上京する時、輝元卿は、「中島人炊助と清水源三郎は秀吉公に召し出されたが、お請けしなかった。恐れ多いことであと仰せられて、大炊助と清水源三郎にそれぞれ二百人扶持を下され、両人は川部村にそのまま在住していた。
園井村の古城主伊勢新左衛門貞春の先祖は、小松内大臣平重盛十七代の後胤伊勢駿河守であった。駿河守は、備中国園井村へやって来て戦功を立てて六百貫の地を知行し、後月郡江原の高越山に居城を築いて禅宗を信仰し、長谷山法泉寺を造営された。伊勢新九郎長氏は、子供の時武芸に励んで家を興し、父母の名を後代に顕わそうと備中国吉備津大明神に願をかけ、三十七日参詣した。満願の夜、夢に神が現れて、「今から東国へ行き給え。御剣を遣わそう」と言われ、有難く思い参道を下っていたところ、鳥居の辺で旅人に出合った。旅人は、 「私共は路銀がなく難儀をしています。この刀をお買い上げ下さい」
と言った。長氏は夢で神が遣わそうと言われた刀がこれであると心の中で祈念し、刀を買い取り、三度礼拝して頂戴した。それから武者修行を思い立った。数度にわたって戦功を挙げ、その後今川五郎氏親の妻が長氏の伯母であったため駿河国へ下り、今川の大守を頼み扶持を貰った。長氏は、度量の広い人物と見込まれて、伊豆国を押えるため興国寺城番大将となった。延徳年中(1489~1492)に堀越城主足利茶々丸殿を攻め取り、城主となった。その後、相模国小田原城を乗っ取り、姓名を北条早雲瑞公と改め、関八州の大守となられた。この時、駿河国の摺袈裟が奇特の多いのを聞き及ばれ、重宝な物であるといって故郷である備中国の菩提寺長谷山法泉寺へ寄進された。早雲が子供の時に、備中本の子村圧15)の泉山に居城を築こうとされた縄張りの跡は今に残っている。この家は馬の鞍骨を打つことが巧みで、数代にわたって名人が出た。諸家でこれを重宝している。尼子伊子守義久を退治されるため、毛利家が出雲へ出陣された時、伊勢又五郎はそのお供をし、富田城でたびたび戦い、高名を立て、討死したともいう。後年、小田原辺から僧侶が来て摺袈裟を所望し。
このため、長谷山法泉寺へ地元の僧を遣わして、摺袈裟のことを尋ねさせたところ、寺僧はそれを知らなかったが、その時寺僧の夢に堂の二階に皿・盆・経箱が現れ、その中に摺袈裟があった。摺袈裟の奇特は今に多く、貴重な宝物となっている。

マッチャンさん

北条早雲の祖先と備中が関係あったとは面白いですね、黒田官兵衛もいろいろ流れ流れておりますが昔でも結構広範囲に行き来していたものですね。

あきちゃんさん

マッチャンさん、
岡山では北条早雲が井原の出身と云われています。関東では伊豆の何処かと定かでなかったようです。連携して大河ドラマの運動がありこれも楽しみです。
官兵衛は、宇喜多直家と福岡備前で会っていて旧知の仲かという説があります。詮家誕生地調査のため妙興寺に行きました。高原家の立派な墓地も多いのですね。Y氏の墓地は見つかりませんでしたが。

野崎のさん

井原鉄道に「早雲の里荏原」という駅が、井原の手前にありますね。北条早雲はそのあたりで生まれたのでしょうね。
注1の川部村は川辺宿の付近のことでしょうか。
御著の「浮田左京亮詮家」一応最後まで拝見いたしました。またお目にかかりまして、お渡しできたらと思います。こちらからご連絡させていただきます。漢数字をアラビア数字に直しただけの状態ですが。

あきちゃんさん

野崎のさん、
仕事の序に高越山城にも行って来ました。綺麗な史跡公園として整備されていました。
河辺村は今の吉備郡真備町町尾崎となっていまいた。旧山陽道の河辺宿で吉備真備の故郷当たりですね。
「浮田左京亮詮家」は、資料集としては一応完成と見ていますす。ただ、常山城主戸川の母が忠家の乳母でありその辺りの資料を入れるべきか、また、忠家、戸川秀安の誕生日が共に不確かで悩んでいます。

 

 

 

 

 

 

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台風11号近況

2014年8月11日

P1020271 P1020272 P1020275 P1020276 P1020279 P1020281 P1020283 P1020285 P1020289大型台風11号が高知県に10日上陸し、備前、笠岡でも避難勧告が出て、10万に近くに影響が出ている。久米地域では昨年土嚢を積で、大変なことがあった。特に笹が瀬川西側の嵩上げ工事が行われた。北長瀬でも排水ポンプ設置され監視室が設けられた。
今朝、裏の道路も冠水することなくホットした。笹が瀬川東側を一宮浄化センターより下ると桜本樋門の水位計を見ると氾濫注意2.2mに対して1.4mと余裕があった。
北長瀬排水ポンプ場では2名が出て、パソコンで監視状況が全て表示されていた。監視盤の説明によると樋門外の水位が44cmで笹が瀬川側が41cmで3cmの排水余力があり、1基ポンプ運転していた。激しい時は白石橋が浸かるのではないかと思われるほど水位が上がったのを見たことがあった。
高潮と重なると通常より1m近く水位が上がり、児島湖堤防の樋門を開けられず、笹が瀬川、倉敷川・足守川の水位が上がり、冠水する場所が出る。また、岡山市街地の野殿排水場が止められると特に北長瀬本町の一部道路、住宅が冠水する。西側の久米地区は昨年は土嚢を積んだりしたが今年はその姿は見られなかった。池田藩が西側土手を低くしていると遺恨に思われてきた。
地元住民古桟は危々意識を持っているが、薄れてきている。最も過去の歴史を見ると旭川が決壊して笹が瀬川まで越流して大野地区が被害を受けたことが記録に残っている。
市街地の水田が無くなりアスファルト化されて保・貯水量が少なくなり怖い状況が進行している。

備前軍記33

2014年8月9日

天正10(1582)年6月27日。織田家の行く末を決めるため、正面に信長の甲冑が飾られた主殿で「清洲会議」が開かれた。

柴田勝家は、三男・信孝を跡継ぎに推しが、口で秀吉に勝てるわけがない。秀吉がかつぎ出したのは、信忠の子で信長の嫡孫・3歳の三法師だ。清洲会議の結果、秀吉は光秀の旧領・丹波のほかに、山城、河内を手に入れたが、長浜を勝家に譲ることとなった。勝家は秀吉に対抗するため、信長の妹・お市と祝言をあげた。

10月15日秀吉は京の大徳寺において、信長の葬儀を強行した。三法師は甥が手放さないので、喪主は秀吉の養子である信長の四男・秀勝が務めた。一方で、諸大名に同心を募る書状を送り、足利義昭と毛利から色よい返事を受け取っていた。

早速官兵衛が小六とともに備後へ赴き、義昭に謁見した。長政に、宴席で縁談が持ちあがり、蜂須賀小六の娘糸が羽柴家の養女として嫁ぐことになった。

十二月、越前の勝家が雪で動けないとき秀吉は兵を挙げ、まず長浜を奪い返した。。

官兵衛は秀吉の茶頭・千宗易(のちの利休)の手引きで、坊主頭の茶人1-今は道糞と名乗る、荒木村重であった。天下の魔力に誰もが捕らわれる。秀吉とて逃れられぬと道糞は皮肉な笑みを浮べた。

2月雪が解け勝家軍が出陣し、賤ヶ岳で秀吉軍と激突した。勝家は北庄城に退いたのち、お市を道連れに腹を切って、城は炎に包まれた。三成が、浅井三姉妹、姫の1人茶々のちの淀殿である。

☆新釈備前軍記を離れ、浮田左京亮詮家を追ってみる。

津和野町史によると、忠家は天正の(1573~)始め頃から岡山城の支城としての富山城の城主となったが、暫く経て直盛(当時左京亮知家)に城知共に譲って、自分は大坂に住んだ。よって直盛は父に代って富山城主として宗家の老臣の一人として秀家を輔けることになる。({※天正12年(1584)10月15目、建造申の大坂城に移ったばかりの秀吉は茶会を催したが、今井宗久および津田宗及(天王寺屋)の記録によれば、ここに忠家が列している。

(史料)『今井宗久茶湯日記抜言』

同十月十五日朝ヨリ終日 秀吉様於御座敷御茶湯有、

御茶堂 宗易・宗久・宗及仕候ナリ、 御人数

宗薫 休夢 友閑 幽斎 紹安 宗安 宗二 宗無 宗甫

宗音 藤田平右衛門 宇喜田忠家 佐久間盛春 高辻右近 芝

山源内 今井隼人 古田左介 松井新介 中川忠言 細井新介

牧村長兵衛 圓乗坊 樋口石見 徳雲軒薬院宇喜多騒動、剃髪して隠居(安心)詮家富山城を継ぐ}

こうして直盛は宇喜多家老臣六人に列らぶが、慶長3年(1598)の『宇喜多中納言秀家々士分限』(『史上の吉備』収載)によって、その位置・兵力について家老6人の比較を表にして次に示したい。明石掃部 23,100石、戸川肥後守 25,600石、長船吉兵衛 24,800石、宇喜多左京亮 24,079石、岡越前守利季 23,330石、花房志摩守 14,850石、合計 145,759石

すなわち直盛は家老6大の平均知行高を持っているが、従えている与力においてはその平均9、818石(611人)を遥かに下っている。

次に慶長5年(1600)春、直盛が宇喜多家を去る直前と考えられる『浮出家分限侍帳』(『続群書類従』所載)によって、当時の家臣団をみておきたい。これは後に津和野入城後の家臣団編成に際して重要な参考となるべきものと思う。(○印は直盛と共に宇喜多家を立退き、更に津和野城に従ってきたことを確認したもので編者が附した。)

○浮田左京亮 高2万4千79石1斗

組頭旗奉行兼

○浮田 織部  新知 5百石、 ○田中藤次郎 百5十石、○足立又兵衛     百3十石、福田八六 9十石、高見伝兵衛 百石、 山内与右衛門 5十石、青沼次郎兵衛    同、金光伝右衛門 同、○坪和源太 同、金光次郎右衛門 同、国朱惣右衛門 同、      津島次郎三郎 3十石、竹島又一郎 同、吉松利兵衛 同、鴨 十兵衛 同、竹内源左衛門  同、人見孫右衛門 同、福田甚左衛門 同、児仁井又七 同、 横田三郎兵衛 同、     草部七郎兵衛 4十石、虫明十左衛門 2十石、杉本与三郎 同、 国朱三郎左術門 同、      小手六郎右衛門 十石、○松法師 3百石、鉄砲衆4十人 8百石、都合2万6千5百19石1斗、内千石 無役引、 残而2万5千5百19石1斗

右の編成についていえることは、500~300石を番頭とし、150~100石を組頭、100~50石を馬廻、40石以下を鉄砲衆などの馬廻格とみるべきか。いずれにしても直盛は宇喜多家を出て関ヶ原役に参加するまで、僅かの間にどれだけの兵力を持ち得たであろうか。屈指の戦功を挙げたことからも相当の兵力を整えたことと考えるが詳細は判らない。

備前軍記32

2014年8月2日

NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」第30回「中国人返し」は、天正10(1582)年6月7日。 備中から姫路まで約80キロメートルの道のりを官兵衛がシンガリを務め、秀吉の軍勢はわずか一日で走破した。家臣は城内に留めた。八万五千石の金銀と蔵の米を家臣に与えた。

6月9日、官兵衛は評定を開いた。明後日に兵庫まで来たことを知れば、摂津の大名はことごとく、我中川清秀、高山右近や池田恒興も味方する。6月9日早朝、2万の軍は姫路を出陣。

足利義昭は、毛利から見限られていた。光秀は、公家に500貫の銀を献上していた。

6月10日光秀は秀吉の使者・井上九郎右衛門の伝言を聞き青ざめた。

6月11日尼崎の秀吉の本陣に摂津の大名、信長の三男・織田信孝も帰参した。

六月十三日午後四時、京の南の山崎の地で羽柴軍は4万対する明智軍は1万3千、すでに勝敗は決まっていた。「本能寺の変」から、わずか11日後光秀は、山中で落ち武者狩りにあい、あっけなくその生涯を閉じた。

☆新釈備前軍記 備中高松の城攻め並びに所々城攻めの事3

一説によると、秀吉は備中引き揚げのとき、辛川村で病気にかかって重態であると披露し、なお辛川村に逗留している形に取り繕い、秀吉自身は側近の人数だけを率い、雑兵に紛れて釣の渡を越え、馬に打ち乗り播州まで駆け通して帰陣した。炎天の時とて馬が途中で斃れたので、家来の馬に乗り替えて宇根まで引きとり、岡山へは使者を送り、「今日岡山へ立ち寄るべきところ、急用ができて立ち寄ることができず、直ちに帰国してしまった。詳細は後便で申しあげる」と伝えさせたという。しかしこれは虚説である。このとき秀吉が岡山城に入り八郎が目見得したことは、戸川助七郎覚え書にみえているから間違いない。また一説に、六月七日に吉井川を越す予定であったが、大風雨のため川が増水して越すことができず、八日に沼を発足したという。

野殿の太然寺に安置する八宝珠金神尊は、その昔、備中高松城の鬼門除けの為、城内の艮(うしとら)の方角に祀られていたと伝えられる。しかるに秀吉は京都へ引き返すに当たり、世俗に言われた金神尊の神罰を、主君信長の死と共にこれを恐れ驚き、水攻めによって無惨に荒らされた金神堂を再建するため、京都への道中、当太然寺に立ち寄り、当時の住職日尭上人にその再建勧請を託されたとされている。時に日尭上人は快くこれを受け、法華勧請を施し法華経の守護神とするべく当太然寺本堂の艮(うしとら)の方角の位置に祀ったのである。

津和野町史によると、後に千姫事件を起こす浮田左京亮詮家(あきいえ)は、幼時、人質として芸州毛利家にあったが、直家が織田方に翻ると毛別輝元の恩赦によって帰国した。そして、作州の三星城合戦で初陣を飾り、柳生宗矩と並ぶ若き武将であった。詮家の父は忠家で、宇喜多直家の実弟で若いときから兄を扶けて度々戦場に臨み活躍した勇士であります。四万石を与えられて、宇喜多家の筆頭家老となり、富山城主となる。妻は、戸川達安の妹君であった。

『真説歴史の道第8号』(2010)p.10によると、天正10年(1582)6月5日、秀吉は摂津茨木城(大阪府茨木市)の城主で明智光秀に近い中川清秀に対して返書を送っている。それによれば、野殿で貴下の書状を読んだが、成り行きまかせで5日のうちには沼城まで行く予定であると記しており、同時に、ただ今京都より下った者の確かな話によれば、

『上様ならびに殿様いづれも御別儀なく御切り抜けなされ候。膳所が崎へ御退きなされ候。と述べている。つまり、上様(信長)も殿様(信忠)も無事に難を切り抜け、近江膳所(滋賀県大津市)まで逃れているということであり、続けて福富平左衛門が比類ない働きをした、めでたい、自分も早く帰城すると記している。

渡辺大門2013年によると、実際の行程は、 ほかの一次史料と照らし合わせて検討すれば、秀吉の行軍日程は次のようになる。

①       6月4日、備中高松城から野殿(岡山市北区)へ到着(「梅林寺文書」)。

②       6月5日、沼城(岡山市東区)へ到着(「梅林寺文書」)。

③       6月6日、姫路城へ到着(「松井家譜」所収文書)。

④       6月9日、姫路城を出発。

この行軍でも厳しいのは事実であるが、一次史料で裏付けられるたしかな行程である。

現代行軍速度は、1分間で、(1)徒歩兵 (a)途歩 約86m、(b)駈歩 約145m、(2)乗馬兵 (a)常歩 100m、(b)速歩 200m、(c)駈歩 300m。

この速度は大部隊になるにつれて遅くなるほか、兵種連合の場合は速度の遅い部隊を基準とするから、通常1kmを行進するのに13分間を要し、休憩時間を合算し、1kmにつき約15分間を標準とする。 ただし自動車中隊およびこれに準じる部隊の速度は1時間約12kmが標準である。 行軍1日の行程は普通の情況の諸兵連合の大部隊では昼夜約24kmを標準とする。