12月 2013 のアーカイブ

備前軍記2

2013年12月31日

IMG_5392 P1020244この時代以前を振りえって見ます。

平安時代、矢坂山の南面は近くに吉備の穴海が迫り、葦原と山裾の開には大安寺(奈良)の荘園が吉備の中山までつながる条里として開け、この地方の中では拓かれた土地柄でした。現存する北向八幡の宮司である富山道常氏の遠い、遠いご先祖に当たる「富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)」が光孝天皇の仁和年間(平安中期885~9)に矢坂出に城を築き、富山城と名付けたことが富山家の家譜に残って(岡山市史39年度版)います。

光孝天皇(58代31世)は高齢で天皇になり短期間の在位でしたが、日本に初めて関白の職位を設て、成人天皇の補佐職としたことが有名です。(天皇が幼年の場合には従来通りの摂政と称した)富山大掾(だいじょう)重興(しげおき)の大掾(だいじょう)とは律令制の職位で、地方行政官(三等官の判官)である。当時、この地方の有力な豪族からは一歩進んだ武士クラスで、中央政権の一翼を担っていたことになる。

その後、同じ富山家の家譜によると「時の城主富山備中長頼、文明年中松田勢の攻撃を受け防御ならず城に火を放ち自害す」とあることから、応仁の乱(1467~77)まで富山氏がこの城を守っていたことになる。そうすると富山氏は築城以来今日まで約1100年も続いたことになり、吉備津彦神社の大守家などに並ぶ名門の社家となる。江戸時代、池田光政により寛文9年に現在の北向八幡宮が再興され、以東富山家が神官を続けている。

松田氏と運命をともにした人もいるようで、滅ぼされた宇喜多軍に従い松田氏と共に高松城水攻め、朝鮮進軍、関ヶ原合戦そして共に讃岐に地を下して活躍してようです。その一例が「三倉屋物語」だそうです。その当主が富山大掾の子孫と書いてあります

伝説では「ウラ」を退治のため吉備津彦命が矢坂山に陣を張って2100年目にあたります。当時は吉備の穴海に浮かぶ岩井島でした。この地は、吉備の国その奥の安芸の国への要衝であり、重要な歴史的な戦いがあり、桃太郎伝説が、生まれたのでしょう。 3年前に、玉松城命名500周年を、御津で開かれたと聞きました。鎌倉時代に入り、松田氏が、東(アズマ)の国より、備前に来られ、最初に城を築いたのが、「富山城」といわれています。大野村誌によると、1333年に松田元国が、築城したと云われていますから、命名の186年前)となります。その時、この城で「大覚大僧正」に会い、日蓮宗の布教を許し、今でも信者が多くいます。 その前は、平安時代中期に富山氏が、居城していました。その流れは、北向八幡宮の宮司様を始め、四国の富山氏と続いています。 また、今さら言うでもないことですが、大村氏は家老職で活躍されたことは有名です。また、同じ家老職で富山城主でもあった、横井出羽守(かみ)は医術にたけて村人にも薬効をほどこしたと云われています。御津の金川の玉松城に居城を移し13代、200年間備前を統治された。

巨大な富山城の縄張り IMG_1606IMG植松岩實h20.6_0001-2奈良 初詣 一宮の吉備津彦神社

2013年12月30日

年越し蕎麦

 

今年も年越しそばを30日に打ちました。

蕎麦粉は、草間から取り寄せていました。今年は、さらにそばを栽培し、石臼で引きました。10年前ころ蕎麦打ちを始めたころ西の畑で栽培し蕎麦打ち名人に来て頂き見よう見まねで打てるようになりましたが、同時に石臼で引くのに1人前1時間以上かかり翌日より腰を痛めてしまいました。でもこの時の蕎麦の味が美味しく忘れないものとなりました。   また 、そもそも家内と結婚の話があったころ、そばの成分の目に良いとされるルチンに澱粉すなわちαグルコサイドでなくβグルコサイドを酵素で結合させる研究を考えていた当時で忘れることが出来ません。βは紙のセルロースのセロビオースを基質とするため水に僅かしか溶けず不可能と云われていました。すなわち、水と油の関係の結合と云われます。

蕎麦種蒔きhttps://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2013/09/17/%e8%95%8e%e9%ba%a6%e7%a8%ae%e3%81%be%e3%81%8d/

50㎡にそばの種を蒔きましたが、今年は寒波が早く来て12月初めには霜で葉が萎れてしまいました。その為か、乾燥が悪く、10日以上乾燥して、叩いても実が落ちず扱いて実を取る羽目となりました。唐箕君を自作しました扇風器の風が弱く実を落すのがやっとでした。

石臼に回し棒を新作し引きました。1回転で数粒と数時間悪戦苦闘しました。孫にやらしたところ1度に大量に入れたため殻が回りに飛ぶばかりでした。

2kgのそば殻より600gの蕎麦粉を得るのがやっとでした。

参考:2009年12月30日 https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2009/12/30/%e3%81%9d%e3%81%b0%e6%89%93%e3%81%a1%e7%b4%8d%e3%82%81/

今朝、9時より取寄せていた新見の草間の蕎麦粉を400g2回と石臼で引いた蕎麦粉400gを使い3回蕎麦打ちをしました。自宅の新蕎麦は、水分の予測がつかず打ち上げました。

 夜1晩早い年越しそばと鴨鍋を全員集まり食べました(もう1人は寝ていて後で)。蕎麦を孫が大喜び食べてくれたのが嬉しかったです。自家栽培分を含め両方と平らげてくれました。それでも自家栽培分は若干の殻が歯に当りましたが。

 何時ものように柱に登って遊んでいました。

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フナ飯

2013年12月30日

DSC03473 DSC03474 DSC03478 DSC03479 DSC03483 DSC03486 DSC03491 今年もフナ飯が食べられました。

12月7日にみのるゴルフ練習場下の笹が瀬川の野山大橋に10時ごろ行くと児島湖流域フォーラムのメンバーが南で水質検査を済ませ合流しました。この当たりの水系は、狭山からが多く、一の宮から合流すぐ下手でした。座主川の影響もあるでしょう。水は少なく澄んでいて藻も少なく綺麗なように見えました。風が強く橋の下の水をバケツで汲み上げるのが大変なようでした。電導度を測るのを見ていると水温が低いこともあり通常の値とすぐには分りません。CODなど測定用サンプルを持ち帰りました。10年目の今年は、田植えの頃全国一斉に行っていた水質検査を冬場の水量の少ないこの時期に初めてしたそうです。南に下って相生橋で水質検査を済ませ新南区役所前のウレルポート灘崎着きました。

着くと2階で早速フナ飯をご馳走となり温まりました。この季節の寒フナは脂がのり、しかも別のグループが舟で児島湖に出て取ったフナを地元の主婦グループが料理して食べさせてい頂きました。年々味が向上し、フナの骨や匂いを全く感じませんでした。

フナ漁の様子のビデオを見せていただきました。

グループに分かれCODを測り、結果のコメントの発表がありました。目を引いたのは、当グループの野山大橋と相生橋の雨期と乾期の水質の差でした。雨期にはCODが相生橋で下がるのに対して、乾期では差がありませんでした。両橋の間で田植え期には本流の水量も多く、また座主川、観音寺用水、能登川用水、大野用水、西川用水と大量に希釈また藻類により汚染物質が消費される色んな要因が考えられます。全く水の流れない場所、藻が大量発生する場所など局部的要因も今後考えなければならんとなりました。

諫早湾締切問題も大きな関心があります。児島湖締切は良かったと思います。

備前軍記1

2013年12月27日

来年NHK大河ドラマは黒田官兵衛が放映されます。また本日の山陽新聞夕刊で、天神山城郭の記事が載っていて備前軍記の書き出しにあたります。 この時代の歴史書として「備前軍記」を読まないではならないでしょう。宇治郷大安寺(現大安寺東町)の別邸竹裡館https://tsuboigenzaemon.wordpress.com/2013/01/08/%E4%B8%87%E6%88%90%E5%B1%B1%E6%95%A3%E7%AD%96 で土肥経平が江戸時代中期の18年かけて安永年間に完成した軍記です。備前を中心に、周囲の美作・備中・播磨を舞台として展開された戦国動乱を扱った物語です。戦国時代のまとまった歴史書が無かった時代、すなわち応仁(1467~1468)から慶長(1596~1614)までの間にところを神社仏閣に所蔵する文書・記録により、さらにまた、武家に伝わる記録類を吟味して著しています。 就実大学名誉教授の柴田一先生の「新釈備前軍記」によりますと次の書き出しから始まります。

備前国の守護並びに赤松家興廃の事  後鳥羽天皇の文治元年(一一八五)、鎌倉右大将の源頼朝が惣追捕使に任ぜられて後、諸国に守護・地頭を置いて諸国の逆乱を鎮定された。それ以前の元暦元年(一一八四)に、梶原平三景時・土肥次郎実平が、備前国に下ってきて守護になったとか、或いは佐々木三郎盛綱が備前見島の地を賜り、その同族の飽浦・加地・倉田の諸氏が移住して同地に定着したといわれるが、鎌倉時代に誰が備前の守護職であったかは明らかでない。  その後、室町将軍のはじめ、南北朝時代の文和四年(一三五五)、赤松律師則祐が備前の守護職を賜ったとき、かれ白身は播磨国の白旗城(現兵庫県赤穂郡上郡町)にあり、やがて浦上掃部助宗隆を備前の三石城(現備前市三石)に置いて備前国を治めさせた。~ 続いて一宮参拝の項で、富山城の記述がある。。日本で現在岡山城管理事務所におられる出宮氏など岡山市教育委員会の発掘調査が行われています。

赤松政則が播州に帰り備前一宮へ参詣の事 去る応仁元年(一四六七)、赤松政則は備前を制圧した時、直ちに作州へも打ち入りたいと軍議ろ開いたが、京都の形勢がそれを許さず、そのまま上洛した。しかし同六年、赤松の部将宇野人道・太甲二二郎らは作州へ乱入し、山名の軍勢と戦ったが、戦い利あらず備前に引き揚げた。  やがて、作州の山名勢が過半京都に出勤し、それを見透かした赤松の部将中村五郎左衛門は、作州の国侍を味方につけ作州の各地の城を攻め取った。京都にあってこのことを聞いた政則は、その一族の平岡民部大輔を作州に遣わし、中村五郎左衛門に協力させた。そして文明三年(一四七一)頃までに美作を制圧したので、播磨・備前・美作の三国は、おおむね昔のように赤松家の領国となった。  こうして京都の合戦も終わったので、文明九年には、政則も播州小塩(現兵庫県飾磨郡夢前町にあった置塩城のこと)に帰城し、三国の政治に当たったが、同十二年には、小塩城を発して備前に入り、備前の一宮吉備津宮に参詣した。その行列は、随兵の衣服・馬具までも美麗を尽くしてきらびやかであった。奉幣の行事も終わっての帰りみち、政則は福岡に一泊し、翌日は三石城で浦上美作守則宗の響応をうけ、そして小塩へ帰還した。  政則は侍所の所司であったが、その頃は播磨に在国したので、家臣の浦上美作守則宗が、政則に代かって在京し所司代を勤めた。そのため、備前国中の政事はすべて松田権頭元隆がひとりで取り仕切った。西備前の御野郡・津高郡・赤坂郡・上道郡は、まるで自分の所領のように扱い、年貢などは自分の城下の富山(現岡山市矢坂本町)や金川(現御津町金川)に納め、また諸寺社への所領寄進も心のままに申し付けた。そのため、当時松田の判形で所領を寄進した寄附状が今も残っている。この元隆は、文明五年(一四七三)に富山城で病死し、津島村の福隆寺に葬られた。松田氏は代々日蓮宗を尊信したため、この福隆 寺も日蓮宗に改め、元隆の法名妙善に因んでこれを寺号とし、妙善寺と改めたという。   注 一説には、妙善とは元隆の母の法名という。   実は赤松律師則祐の道号を妙善という。従って 元降や元隆の母親の法名である筈はない。或いは元隆の死去以前に、則祐のために寺号を妙善寺と改めたものか。本当のところは明らかでない。  元隆の死後は、嫡子左近将監元成か家を相続し、父の時代と同様、思うがままに備前の国政を執り、西備前一帯を領有した。その上、赤松家のもとから自立しようとする野心があったためか、これまでの居城であった富山は、西国往還に近く、また要害もよくないという理由で、居城を津高郡の金川城に移した。ここにもまた、寺を建立して妙国寺と名づけ、元成の弟の松田元満を出家させ、これを花光院と名乗らせて妙国寺の住職にすえ、いよいよ日蓮宗を尊信するようになった。

図、本日の山陽新聞夕刊 岡山県内中世城跡im_0001-2

方谷塾 「山田方谷人間論」

2013年12月11日

岡山方谷塾ビジネススクールレジメより転載

山田方谷人間学

~方谷の根ツコ・『陽明学』が現代に語りかけているもの~

平成25年12月7日(土)              小野晋也

Ⅰ. 方谷が、150年の時を超えて、今の私たちに教え伝えているもの

山田方谷の歌『でっかい夢だぜ』

詞・曲 小野晋也

一、山田方谷 でっかい夢だぜ

国を治めて 天下開くと

ピンチが来ても チャンスになっても

心動かすことなく

一本道をひたすら信じ 貫いた志

そうさ 遠い昔 この故郷で 生きた人

そうさ 力強く 夢に生き抜いた人

二、山田方谷 自在な知恵だぜ

雲に住む飛龍と 呼ばれた男

困った人や 苦しむ人が

社会のどこかにいると

雲の中から姿を見せて すぐに問題解決

そうさ 遠い昔 この故郷を 変えた人

そうさ 良知ふるって 夢を追いかけた人

三.山田方谷 誠の人だぜ

座右の言葉は 至誠側但(そくだつ)

力や金でも 何ともならず

答えの出せないことに

立ち向かったは心の力 すごい人間力さ

そうさ 遠い昔 この故郷を 産んだ人

そうさ 響く心で 夢を動かした人

Ⅱ.ならば、方谷が自らの根ツコとした『陽明学』とは何か。

①王陽明は、なぜ、儒学に新しい解釈を生み出したのか。

 王陽明(1472~1529)が生きた時代‥明(1368~1644)の中期の混乱期

 ⇒既成の知識や慣習に縛られた「朱子学」への疑問

 ⇒陽明は、自分が真に頼るべきもめは何かと考え続ける

 ⇒最終的に、頼るべきは、自分自身の『心』だと悟る(竜場の悟り)

 ⇒この「心即理」の考えを足場にして、「万物一体の仁」に至る考えを打ち立てる

②『陽明学』の基本的な教え(エッセンス)は何か。

・第1エッセンス…「心即理」・「心即理」真理は心に宿るなりこれぞ陽明根源思想

・第2エッセンス…「知行合-」・知と行を分<るは人を分かつなり人は本来全一独尊

・第3エッセンス…「事上磨錬」・人間を磨<は事の上にあり一切万事を師と心得て

・第4エッセンス…「修己治人」・我と人本来ひとつのものなれば己修めて人修むなり

・第5エッセンス…「抜本塞源」・本を抜き源塞げ問題はその本源にて解決すべし

・第6エッセンス…「格物致知」・格物と致知とが車の両輪となり雄々しく進め平天下へと

・第7エッセンス…「万物一体の仁」・天地の一切包みて和合するそれが万物一体の仁

Ⅲ.山田方谷は、なぜ、この陽明学に心引かれたのか

 山田方谷(1805~1877)が生きた時代‥江戸時代末期から明治新政府が樹立される時期

 ⇒江戸時代の考え方や慣習が通用しなくなってきた時代

 ⇒方谷も、さまざまな問題を考え続ける中で、自分が頼るべき思想は何かと模索する

 ⇒朱子学の限界を痛感する中で、陽明学にその拠り所を求めた

 ⇒その方谷の陽明学に立脚した思想は、「山田方谷が教える7つの人生原理」を参照

IV.変化の時代に、「本物」になるために大切な勉強とは何か。

im_0002-21,「何のために学ぶのか」心を整理する。

2,「計画づくりを習慣化」する。

3.「1日に1パーセントの成長」を決意する。

4.「3人の尊敬する人」を胸に抱き,毎日「三省」する。

5,「坂の上の雲」の基本的考え方で,自分を励まし続ける。

VI.結び~「大きな人の歩いた道を」(方谷生誕200年記念シンポでの歌)

一、私は大きな人影を見た

歴史の通りの街角にいて

一歩一歩大地踏みしめ歩いた人の姿を見た

苦しいことも非にしいことも超えて

嵐の道を歩いた人よ

狂おしい時代に高くそびえた人の姿

その強さあなたは大きな人だと私は思う

二、夢果てることもあったのでしょう

孤独な時もあったのでしょう

弱い気持ち戸惑う心

だけどそんな素振目り見せず

遠いかなたに果てない夢を見つめ

信じた道を歩いた人よ

何故ゆえにあなたは重き荷を背負ったのか

何故ゆえにあなたは威しい道を選んだのか

三、気付いてみればさざれた道を

歩き始める人がいる

かすかな光に照らされながら

立ち上がる人が生まれている

愛と勇気の炎を高く掲げ

時代のかなたを歩いた人よ

人生の輝きを今に教えてくれた人

追いかけて歩きたいあなたが生きたその道を

矢坂山・大野学区におけるESD(循環型社会)

2013年12月3日

ESDとは、文部科学省によると持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)の頭文字を取ったものです。
 地球規模の環境破壊や、エネルギーや水などの資源保全が問題化されている現代において、人類が現在の生活レベルを維持しつつ、次世代も含む全ての人々により質の高い生活をもたらすことができる状態での開発を目指すことが重要な課題となっています。

矢坂山は江戸時代まで採石が禁止されていましたが、明治になり御影石、万成石、竜王石として岡山のブランド石として東京のビルに大正時代多く使われました。

昭和35年ごろより、家庭では化石燃料、家電の普及により間伐、落ち葉の燃料は使われなくなり、荒廃状態となっています。

一方河川は農業用水、舟による運搬路でしたが、大川は市街地からの汚染により埋め立てられ、現在の川でも下水道の普及により汚染は低減いたとは云え、藻の異常発生が起こっています。笹ヶ瀬川・児島湖も同様な状況にあります。

 地球温暖化による異常気象、輸入化石燃料にたよる現状から脱皮するためにもESDの啓蒙が必要です。この意味で矢坂山、大野学区について如何なる具体策があるか考察しました。

 冬場は間伐・下草・落ち葉を麓に降ろし、小型ボイラー発電燃料とし、夏場は、河川の藻を集めメタン発酵ガスを同様に使います。下図は、(株)神戸製鋼所の例です。小型発電ボイラー

運搬は、小型キャタピラー運搬車などによります。

藻の回収は、回収機の開発が必要です。

山の地権者は、飼料米の様に若干の収入が期待できます。

作業者にも所得が期待できます。

 参考「身近なバイオマスエネルギー」