12月 2012 のアーカイブ

魚見山初日の出/法事古墳の下見

2012年12月31日

P1050144 P1050142 P1050137 P1050135 P1050130 IMG_1561初日の出は昨年同様見れるか当日の楽しみです。
元の大野小学校のコミュニティーハウスより登りました。急傾斜ではではありますが最短コースで、矢坂山山頂が130mに対し80mほどで大野学区、市街地が身近に眺望できます。コウノ岩手前のコンクリート壁に梯子が掛けてありますが、それを避け東の岩の間を登りました。そこで弁当を食べ休憩して視界を遮る下枝を切りました。
日の出は操山の南の尾根に7時10分に上がります。6時30分にまだ暗いですが集まってゆっくり登ると十分間に合います。昨年は曇っていて日の出が見えないかあきらめかけたところ、山の上の雲の間に一瞬でしたが初日の出をおがめました。わづかなことですが感激の一瞬でした。
尾根を伝ってすべり山を通り大安寺駅へ降りる道をたどりました。途中ツツジが咲くのを待ちわびていました。手入れが良くされていて笹もかなり少なくなっていました。太陽を遮るカクレミノの幼木を多少切りました。途中、東に50mほど入った法事古墳に寄りました。操山の沢田大塚古墳より少し小さいですが、矢坂山で唯一円墳状態が保存されています。周りにはツツジがありシーズンが楽しみです。
麓に降りる直前に道を間違えたのか大安寺駅の筋に出てしまいました。この道のほうが舗装してありなだらかでした。習慣と案内版で稲荷そばを上がってしまいますがこの道のほうが楽そうでした。

年末剪定

2012年12月29日

P1050110 P1050111 P1050115 P1050117 やっと年末の植木・果樹の選定が終わりました。
12月に入り取りかかったため、例年と違い風があり寒さも厳しく選定作業が遅れました。
難題は10m近くあるアクラの選定で2段梯子を枝に掛け変えるのを手伝ってもらわないと移動できなかったことです。枝を伝って剪定していたのがなつかしいです。
西条柿の大木は枝を登り、柄の長い鋸でなんとかやりました。高くて取り難いため切り下げないとなりません。
操山の沢田では柿の選定は年明けに本格的に行うようです。梅・桃は花を楽しんでから剪定が良いのですが、2度手間となるし、温かくなると遊びが忙しくなります。
今年はサザンカ始め椿に毛虫が大発生して葉が食い荒らされました。特に白椿は葉全くなくなり蕾のみとなりました。枯れはしないですがどんな花が楽しめるでしょうか。
柚子、酢橘はアマコにやられ何本か枯れてしまい1本のみとなっています。これも真っ黒に煤が付き、病気になっているようです。
例年暮に松の選定もしますが、夏剪定をしたおかげで樹形を保っています。

「山田方谷の足跡を辿る」DVD完成

2012年12月14日

山田方谷の足跡を辿る

幕末に高梁藩の財政改革を行い、幕府・新政府に影響を与えた山田方谷の足跡を辿って母の実家の新見市大佐、先祖の真庭市中津井、生誕地中井町、活躍地の高梁市を10月13日に岡山歴史研究会70名が探訪しました。日本・世界の財政不況に指針を与える理念があります。観光的にも楽しいビデオにまとめDVDにし、You Tubeにも公開しました。
https://www.youtube.com/watch?v=7qIvQZVDU-g&feature=youtu.be」で視聴できます。

操山の探訪会下調

2012年12月14日

P1050064 P1050053 P1050046 P1050034 P1050021-3 P1050004 P1040989 P1040984 P1040970 P1040959 P1040949 P1040940 P1040935 P10409271月12日に操山の歴史探訪するため、登山ルート、時間配分の下見に同行しました。案内は操山ボランティアガイドのNさんで4人でした。小生は里山センター迄で登ったことがありませんでした。

9時にセンターに集合し、麓の恩徳寺を訪れました。備前の最上稲荷でもあり、池田藩主が舟遊びの途中に立ち寄っていました。会陽も行われていましたが、今では2月に火渡りが盛大に行われています。縁起によると天平勝寶2年 行基菩提みずから等身大の薬師如来きざみて以て創建す。高野山真言宗、総本山は高野山金剛峯寺です。本堂の裏にある稲荷はピラミッドに上がるような階段の上にあります。

中腹の明善寺城跡を訪れました。百閒川、半田山、楢津が眺望出来ました。宇喜多直家が亀山(沼)城を本城としていた当時、毛利・三村軍と壮絶な合戦が行われました。日本で初めて鉄砲隊が登場しました。結果的に毛利軍を撃破し、岡山城を本城とし信長・秀吉軍の最前線となります。馬場と呼ばれる広場がありました。

萩の塚古墳を通り、操山山頂の旗振古墳に着きました。ここは江戸時代大阪の米相場を知らせていました。近くの休憩所で昼食をし、児島湾、岡南部を眺望しました。津山より団体が来られていました。

三畳岩展望台からは西大寺辺りも眺望出来ました。八畳岩古墳には下に同様の大きさの古墳がありました。円墳の形がよく残った沢田裏山古墳、内部の玄室が二つに分かれた珍しい二又古墳を見ました。

ここで道に迷って一度沢田集落に降りました。池田家に嫁に来た千姫の孫の勝姫に同行してきた家臣の子孫が多く住んでします。内部に地蔵が三体祀ってある大塚古墳、柿畑の中にある円墳、柿の下古墳の横を通り、石鉄山古墳を過ぎ、恩徳寺が祀っている高倉山(石坂)磐座を見ました。近くの八大竜王磐座、北斗信仰の妙見大明神磐座の説明を聞きました。岡山県で四番目の大きさの前方後円墳の金蔵山古墳に着きました。玄室は盗掘、調査されていますが、全体は良く保存されています。

柿の下古墳の降りてきた午後3時ごろ見学を終了しました。45分のビデオに編集しました。

備中松山城と山田方谷

2012年12月9日

P1040875 P1040884 P1040885 P1040889幕末の財政改革を行った「山田方谷の足跡を辿る」のビデオを作成していて、備中松山城の良い写真が無いことに気づき急遽登ってきました。
ひと月前であれば、紅葉の報道されていましたが、残念ながら散りさって落ち葉があるのみでした。中腹まで車であがり、700m、片道20分の登城道を上がりました。天守閣目前の岩盤の崩落の危険があるとのことで京都大学によりひずみ計を設置して調査されていました。同様の調査はマチュペチュでも行っている書いてありましいた。巨岩に大木が根を張り岩の亀裂が進行しているようです。笠子トンネルの天井ボルト脱落は予知でき妥当な点検を行えば回避できたはずです。見て見ぬ振りをしていたとしか考えられません。粗悪な土建が行われた付けが回ってきそうです。40年前幹線関門トンネルに新技術の施工の指導に行き、ふぐをご馳走になったことがりましたが、構造物として役割をはたしているか気になる所です。
本丸で天守閣周りを撮影した後、300円の入場料を払わず門より天守閣を撮影させてもらいました。この中には、歴代城主の紹介があるとともに中世の剣が多く展示してあります。平清盛が振りかざしている剣です。歴史を感じる展示物です。